・マイケル・ジャクソンが死んだ。享年50歳。一世を風靡したミュージシャンの悲しい末路。ニュースを聞いて、こんなことばが、これほどあてはまるケースはないと思った。僕は彼の音楽にはほとんど興味がなかった。だからレコードもCDも一枚も持っていない。しかし、彼が登場したことで変わった音楽状況には、以前から強い関心をもってきた。あるいは、富と名声を得たスターが辿る道筋としても、きわめて興味深いと思っていた。
・マイケル・ジャクソンは1966年に4人の兄たちと作った「ジャクソン5」でデビューしている。まだ8歳だったから、かわいらしさで人気者になったが、ミュージシャンとしての本格的なデビューは78年以降である。音楽そのものだけでなく、踊るミュージシャンとして、ミュージック・ビデオの隆盛を象徴する人物になった。最大のヒット作である『スリラー』は、80年代だけで5900万枚を売ったと言われている。
・マイケル・ジャクソンの登場以前と以後で大きく変容したことがいくつかある。その第一は、彼がかつてないほどに白人をファンにしたことだろう。肌の色と音楽の違いという垣根は、公民権運動や音楽的な交流によって、60年代の後半から崩れ始めていた。それが彼の出現によって吹き飛んだのだ。もちろん、ここには彼個人の力というよりは、そうなるべき時代の趨勢といった要素のほうが大きい。そのことはスポーツ界に起こった同様の現象見れば明らかだ。バスケットボールではマジック・ジョンソンやマイケル・ジョーダンといったスーパー・スターが出現したし、野球ではハンク・アーロンがベイブ・ルースのホームラン記録を破った。肌の色とは関係なしにいいものはいいし、強い者は強い。そんな当たり前のことが受けいれられはじめた時代で、マイケルはその象徴的存在になったのだ。
・アフリカで起こった深刻な饑餓という状況に対して立ちあがったボブ・ゲルドフの声にいち早く呼応したのもマイケルだった。彼はアメリカでの動きをリードして「USA for Africa」という名のプロジェクトを立ち上げ、アルバム『ウィー・アー・ザ・ワールド』を制作した。1985年にロンドンとフィラデルフィアで同時開催された「ライブ・エイド」は世界中に同時中継される一大イベントになり、音楽が政治や社会に対して働きかける即効性のある手段であることが見直されたのである。ただし、その後もこの種の活動に力を注いだゲルドフと違って、マイケルには目立った活動はない。
・3番目は、音楽の売り上げに果たす映像の役割の大きさを実証したことだ。音楽専門のケーブル・テレビのMTVが放送を開始したのは 1981年で、それはちょうどマイケルの最初のビッグ・ヒットとなったアルバム「オフ・ザ・ウォール」と重なっている。それによってミュージシャンは音づくりやライブでの演奏だけでなく、情宣用のビデオにも時間とエネルギーをさく必要に迫られるようになった。そのことを音楽軽視として批判する声は強く、たとえばそんな状況を揶揄したダイアー・ストレイツの「マネー・フォー・ナッシング」が大ヒットしてもいる。音楽性か金か。そんな論争の中で、音楽の産業化に対する批判の矛先がマイケルに向くことも少なくなかった。
・マイケル・ジャクソンに向けられた批判はもうひとつ、聴くものであった音楽を踊るものに変えたという点だ。それは、白人の中で生まれたロックには、歌われることばや演奏される音そのものへの集中的な聴取を求める傾向があって、からだで聴く黒人のR&Bなどと一線を画していたという歴史的違いに大きな原因があった。ただし、音楽を踊るためのものに変え、巨大なビジネスにする力になったミュージシャンは、他にもマドンナがいる。で、彼女の歌には踊らせる力と同時に、社会に対する痛烈な批判や反発が同居した。そんな性格は、黒人の中から新しく生まれたラップにも特徴的だが、マイケル・ジャクソンの音楽には稀薄だった。
・マイケル・ジャクソンは黒人だが、90年代以降になると、登場するたびに色が白くなり、だんご鼻が細く高くなっていった。少年に対する性的虐待の疑惑で訴えられたこと、ディズニーランド好きで、自らの住まいをお伽の国にして「ネバー・ランド」と命名したこと。そして稼いだ巨額のお金を湯水のように使う放蕩三昧の生活など、21世紀になってからは、その奇妙な変貌ぶりや奇行ばかりが話題になった。マドンナのしたたかな生き方に比べると、その脆さが一層際立ってくる。エルビス・プレスリー、ジョン・レノン、そしてマイケル・ジャクソン。現代のポピュラー音楽を作った巨人が、またもう一人他界した。