・そんな思いは多くの教員に共有されていて、何とか学生に本を読ませようとそれぞれ工夫をしているのだが、なかなかうまくいかない。で、学部の教員が集まって「コミュニケーション」に関連する書籍を集めた「ブックガイド」を作ろうということになった。一冊を見開き2ページほどで紹介するもので全部で100冊ほど、僕はその中の四冊を受け持った。どれも出版されてから、年月のたった、いわば古典と言われるものばかりだった。
・D.リースマンの『孤独な群衆』は大学生の時に買って読んだ本である。個々人ではなく一つの社会に生きる人たちに共通して見られる性格(社会的性格)を「近代」を中心に「前近代」「現代」と分けて、その違いを詳説した内容は、読んだ当時も目から鱗といった感じだったが、今でも必要な概念だと思って、講義でも話題にし続けている。
・現代人に共通した「社会的性格」をリースマンは「他人指向型」と名づけた。自分の良心や信念に従って行動するのではなく、他人の言動に注意を向け、他人の反応に自覚的になる。そんな特徴は、リースマンが指摘した時代以上に、現代では顕著になっている。その一番の理由はパソコンやケータイ、そしてインターネットといった情報機器の発達とそれに頼る人の増加だが、僕は最近の分析よりははるかにおもしろいし有益だと思っている。もっとも日本人にとっては「内部指向型」の時期はほとんどなかったから、「伝統指向型」から「他人指向型」への変化ということになる。
・その『孤独な群衆』が最近復刊されていることを知って、買い直すことにした。上下二冊本になって、それぞれ3300円と高額で学生に買えとはとても言えないが、図書館で借りて読んで欲しいと思う。トッド・ギトリンが解説していて、僕はこの文章だけでも、買い直す価値があったと思っている。
・D.ヘブディジの『サブカルチャー』はカルチュラル・スタディーズ初期の代表作と言えるものだ。70年代にイギリスで台頭したパンクやレゲエは、労働者階級や植民地からの移民の中から生まれた若者文化だった。70年代のイギリスは、英国病と言われて不況にあえいでいたが、パンクとレゲエは一方では、社会の最下層で争う関係でありながら、他方では音楽的に影響しあってもいた。
・社会に対する不満や反抗の叫びとして生まれる「サブカルチャー」は時に、大きな支持を得て、世界的な広がりを見せることがある。二つの音楽はその好例だが、それはまた路地裏の悪魔が大通りの天使に変身する過程でもある。音楽を社会や政治、そして経済の関係から読み解くことのおもしろさを教えてくれる一冊である。
・J.メイロウィッツの『場所感の喪失』は、以前にこのコラムで取り上げたことがある。メディアを送り手の側からでなく、受け手の側からとらえるとすれば、どうしたらいいか。ケータイやパソコンの利用が普及した現在では、当たり前の視点だが、それらが登場する以前の時代には、気づきにくい発想だった。メイロウィッツはそれをマクルーハンとゴフマンを統合することで試みた。
・テレビはまるで目の前にいる人と直接対面しているかのようにして視聴する。だから活字メディアとは受け取り方が違ってくるし、今自分がいる場所の実感が怪しくもなってくる。ケータイやパソコンは、そんな無場所感を桁違いに増殖させるメディアだが、今では、そんな感覚も当たり前になって、誰も不思議だと思わない。だからこそ、原点に立ち返って考え直すために読む価値がある本である。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。