・ジョン・プラインがコロナ・ウィルスで死んだ。感染して症状が重いことは知っていたが、死の知らせはやっぱりショックだった。入院していることを知ってから、持っているCDやYouTubeで彼の歌を聴き、インタビューなども聞きながら、回復して欲しいと願っていたが、残念だった。73歳。僕より二つ上だった。
・ジョン・プラインは日本ではあまり知られていない。ウィキペディアも日本語版には載っていない。しかし彼は今年のグラミー賞で生涯功労賞を受けているし、1991年の"The Missing Years"と2005年の"Fair & Square"で、グラミーの"Best Contemporary Folk Album"を受賞している。18枚のアルバムを出して9枚が同賞などにノミネートされているから、その実力の程は飛び抜けていたと言っていい。
・とは言え、彼は地味なミュージシャンだった。格好もつけず、驕りもせず、隠し事もしない。「つねに自然体。一人の自由な姿勢をくずさない。そして、時代の気温を親しい旋律にとどめて、ひとの体温をもつ言葉をもった歌をつくる。ほんとうに大事なものは何でもないものだ。かざらない日常の言いまわしで、なかなか言葉にならないものを歌にする。」長田弘が『アメリカの心の歌』(岩波新書)で書いた評ほどプラインを言い当てたものはない。僕はこれを読んで、それまでは興味を持たなかった多くのミュージシャンを聴くようになったが、プラインもその一人だった。ちなみに、僕はこのホームページを1996年から続けているが、最初に書いたのは、この長田弘の『アメリカの歌』だった。
・プラインは1998年と2013年に二度の癌手術をしている。しかし少しの中断期間はあっても、コンスタントに音楽活動はしていて、2016年 "For Better, or Worse" 、2018年 "The Tree of Forgiveness"とアルバムを出して、健在ぶりを示していた。僕はこの2枚とも、このコラムで取り上げている。亡くなったと聞いてまず聴いたのは、遺作になったアルバムの最後に収められた「僕が天国に行く時」 という曲だった。神様と握手をして、ギターをもってロックンロールをやる。酒を飲み、かわいい娘とキスをし、ショウ・ビジネスを始める。そんな歌のように今ごろは天国に着いて、この歌を実現させているのかもしれない。
・このアルバムには、すでに死んでしまった音楽仲間を歌ったものもある。そう言えばウィリー・ネルソンの最新作の "Last Man Standing"(最後の生き残り) も、すでに死んだミュージシャンをあげて、次は誰かと歌っていた。そんな気持ちは僕も同じなのかもしれない。最近このコラムで取り上げた中にも、難病に苦しむジョニ・ミッチェルのことや、引退を宣言したジョーン・バエズなどがあった。そのバエズはプラインがコロナに感染したことを聞いて、彼を励ますためにYouTubeで"Hello in There"を歌っていた。4月に来て、ライブハウスで数多くのコンサートをこなす予定だったボブ・ディランの来日も中止になった。感染したと伝えられたジャクソン・ブラウンは軽症のようだが、どうしたのだろうか。なお、ジョン・プラインの死を追悼してブランディ・カーライルも"Hello in There"を歌っている。
・プラインが感染したのは、ひょっとしたら小さな会場でのライブだったのかもしれない。最近でもそんなところでライブをやっていたようだ。日本でもライブハウスが感染のクラスターになって、行ってはいけないところの代表に上げられている。確かに密閉された空間に大勢の人が集まって、一緒に歌ったり、掛け声をかけたりするから、感染しやすい場所であることは間違いない。二度も癌の手術をしたという自分の体調を考えれば、感染を恐れて自重したらよかったのにと言いたくなるが、彼はやっぱり歌いたかったのだろうと思う。何しろ、天国に行っても歌うぞと宣言していたのだから、本望だと納得するほかはないのかもしれない。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。