1999年9月1日水曜日

河口湖で過ごした夏休み



  • 来年の3月から住む河口湖の家で、夏休みの間だけ生活をした。気温はめったに30度をこえないし、朝晩は肌寒い感じさえする、とても過ごしやすいところだった。別荘での避暑生活というのがどういうものかをはじめて経験した。ただ、しばらく過ごしては京都や東京に行くことをくり返したから、その時に感じた暑さはまた、経験したことのないすさまじいものだった。何しろひどいときには気温差が10度もあって、すぐにでももどりたくなってしまった。

  • お客さんもずいぶん訪ねてきた。東経大の学生、追手門学院大学の卒業生、元同僚、友人・知人たち、両親、弟と義兄のそれぞれの家族、高校生の息子とその友達。最後は追手門のゼミ合宿。家は赤松林のなかにあって、庭には大きなブナ(?)の木が2本ある。その葉が生い茂って日光を遮っているから、バルコニーでの読書は気持ちがいい。夕方からは毎日焚き火で、枯れ枝はいくらでもあった。


  • その焚き火だが、火の前では、ちょっと気分が変わって、おもしろい話ができて、夜が更けるのも忘れるほどだった。シャンパンにワイン、それにビール。煙で燻された干物や肉やトウモロコシはうっすら薫製の香りと味がしたから、飲んで食べて喋って笑っての毎晩だった。

  • もちろん引っ越し前だから、不便のところもたくさんあった。新聞は毎朝コンビニまで自転車で買いに行ったし、調達した古い14インチのテレビは見えるチャンネルが限られていた。メールもAOLは山梨県には接続ポイントがなくて八王子に繋がねばならなかった。しかし、当たり前だが、新聞もテレビもインターネットも、どうしても必要なものだというわけではかならずしもない。そんなことを久しぶりに感じた。

  • そのかわりに味わったのはきわめて健康的な生活。朝は日の出とともに目を覚まして、散歩や時には長いサイクリング。河口湖1周も1時間半もあればできた。週末は別だが、周辺には、ほとんど信号のない道路、急な山坂道がたくさんある。車はもちろんだが、ついついバイクを走らせたくなってしまう。そんなわけで、仕事をする気になったわけではないが、午前中の時間の長さをあらためて実感した。実際に引っ越しをして、日常生活が始まったらどうなるかわからないが、「ライフスタイル」を変えて人生の転機にしたいという思いは実現しそうな気がした。

  • 残念ながら来年の春までは、めったに来られそうにないから、秋や冬を味わうのは1年後ということになる。周囲の人たちは、冬の寒さを考えると住む気にはならないと言う。そうかもしれないが、それもまたいいじゃないかと、僕はたかをくくっている。居間には薪と灯油のストーブが並んでいて、家の中では真冬でもTシャツで過ごせるのだから。
  • 1999年8月25日水曜日

    郭英男(Difang)Cicle of Life

     


    difang1.jpeg・何年か前にテレビで聴いて気になった歌があった。米が不作で外米を強制的に食べさせられた年があって、その翌年に「ニュースステーション」が米作の特集をした。その時のテーマ曲。誰の歌かわからず探しようもなかったのだが、同じテレビ朝日の「車窓」という番組が台湾の鉄道をやったときに偶然聴くことができた。
    ・その歌を歌うのは郭英男、台湾先住民の一部族「アミス」に属し、そこに伝わる伝承歌を歌い継ぐ人である。手に入れたCDには確かに聞き覚えのある曲が入っていた。「老人飲酒歌」という題名で、長老が集まって豊年祭の儀式をはじめる前に歌う歌と説明されている。郭英男は1921年生まれというから現在78歳、まさに「アミス」の長老である。
    ・僕はテレビではじめて聴いたときに、歌っているのは沖縄の喜納昌吉ではないかと思った。もちろん彼が出したアルバムには見つからなかったが、あらためて郭英男のCDを聴いて沖縄の音楽との共通性を感じた。声の肌理(きめ)、節回し、残念ながらアレンジは妙にイージー・リスニング風だが、それでも、あらためて、その地理的な近さを確認した。


    difang2.jpeg 彼らが台湾に上陸したのは既に1万年以上も前のことである。南方より彼らを運んだはずの黒潮はフィリピン東方に発しほぼ5ノットの速さで台湾、そして日本列島にそって北上する。………このような先住民のなかで、もっとも歌と踊りに秀でた部族がDifangたちアミスである。

    ・文字を持たないアミスにとって、部族の歴史や知恵、生きる世界を物語り、伝承するのは歌である。収録されている歌にはそれぞれ「訪問歌」「階層歌」「恋愛歌」「労働歌」「悲しみの歌」「タニシ拾いの歌」「契りの歌」「友人歌」「収穫の歌」「老人飲酒歌」といった名前がついていて、部族の人びとにとっては単なる歌以上の意味をもっているものである。言葉のわからない僕には理解しようがないが、サウンドとして聞こえてくるものには、なじみ深さと新鮮さが混在した印象をもった。
    ・沖縄、アイヌ、ハワイ、あるいはポリネシア、そしてもちろんフィリピンやマレーシアやインドネシア。そんな太平洋の島々を黒潮に乗って移動した人びとの歌。それはたぶん僕の血のなかにも流れているはずのもの。テレビではじめて聴いたときにもった関心はたぶん、そこから来たものなのだろう。
    ・なお、郭英男のホームページもあるので、関心のある人は彼の写真をクリックして訪れてほしいと思う。

    1999年8月18日水曜日

    Woodstock Live 99

     

    ・「ウッドストック99’」をWowow で見た。7月23日から3日間、ニューヨーク郊外の空軍基地ローマで開催されたものだが、Wowowがそのほとんどを8月7日から12日にかけて放送した。ぼくはもちろんすべてにつきあったわけではないが、おおよその雰囲気はわかった。新聞では、火をつけて暴徒と化した聴衆に、30年前の「愛の祭典」との落差を見るものが多かったが、いかにもとってつけたような解釈だと思った。
    ・そもそも「ウッドストック99’」はどんな趣旨で催されたのか。たとえば、30年前に登場したミュージシャンがほとんど出ていなかったし、このコンサートに政治や社会に関する何らかのメッセージが掲げられたわけでもなかった。夏には恒例になった大野外コンサートのなかでも、とりわけ規模が大きいもの。ぼくは最初からそんなつもりで開催の話を聞いたし、実際にコンサートの模様を見ても、出演者にも聴衆にも、それ以上の思い入れがあったようには見えなかった。何しろ、演じる者も聴く者も、その大半はウッドストック以後に生まれた人たちばかりなのだから、何かつながりをつけようとすること自体が不自然なのだ。

    ・見ていて特に目立ったのが「裸」。ステージから遠く離れたところにいくつもの小さなステージ(?)があって、そこに乗った女の子が男たちにそそのかされてブラジャーをはずし、パンティを脱ぎ、場合によっては足を広げてお尻を振る。ストリップ・ショウそのものの光景があって、テレビではモザイクつきだが、その様子を頻繁に映していた。裸になっているのはそればかりではない。ステージに近いところでは、女の子が男の子に肩車をされて、やっぱりブラジャーをはずしている。群衆の上を滑るクラウド・サーフィンをする男の子や女の子たちも上半身はほとんど裸で、女の子はどさくさに紛れてオッパイをつかまれたりしている。「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」のメンバーは一人素っ裸で登場し、時折ギターの脇からオチンチンを見せていたが、そんな彼も見るに見かねたのか「オッパイが近くに見えるからって勝手にさわるな!女の象徴なんだからもっと大切にしろ!」といったことを言っていて、ぼくは笑ってしまった。彼らのパフォーマンスの途中から、焚き火が手に負えなくなって消防車が出動ということになったが、主催者が落ち着くようにアナウンスした後で「レッド・ホット・チリ・ペッパーズ」がやったアンコール曲は「ファイアー」だった。これでは、火は消えるはずはない。

    ・この30年のあいだにロックのサウンドはずいぶん変わったが、それ以上にメディアなどのテクノロジーの革新はめざましい。何しろ、アメリカでのコンサートがほとんど時間差なしに、しかもその全体を見ることができるのだから。ずいぶん手軽になったが、それだけ、感激も、思い入れもなくなった。ただあるのは、その気になって楽しむこと。サウンドシステムの進化は言うまでもないが、場内には大きなテレビモニターがあって、ステージの様子は遠く離れた人にも手に取るように分かる。カメラが聴衆に向けられると、彼や彼女たちは「クラウド・サーフィン」や「肩車」をしてパフォーマンスをする。その呼び物が「オッパイ」の露出というわけである。
    ・30年前のフェスティバルに出演したミュージシャンが聴衆の印象を聞かれて、「明るくて、元気だし、未来があると思った」と答えていた。ずいぶんおめでたい感想である。「コンサート」という場だから、誰もが明るく楽しく振る舞っている。「状況」をそれなりに楽しむすべは最近の若い人たちの得意技である。だからといって、彼や彼女が未来を明るいものと感じているとは言えない。むしろ、日常の不安やストレスを忘れるために、つかの間だけでもスカッとするためにロックで盛り上がる。その落差こそ、30年前にはなかった感覚のように思った。

    ・8月21日に岐阜県で「フォーク・ジャンボリー」が開かれるそうである。日本のウッドストック「中津川フォーク・ジャンボリー」の再現で、こちらは当時の出演者が主体のようだ。どこかのTVが中継してくれたら見ると思うが、懐メロ大会だけにはしてほしくないなと心配している。「ノスタルジー」以外に伝えるものがないのなら、ぼくには張り切ったオッパイの方がまだ見ていて楽しい気がするからだ。

    1999年8月11日水曜日

    F.キットラー『グラモフォン・フィルム・タイプライター』筑摩書房

     

    ・ 久しぶりに読み応えのある本に出会った。450頁で5800円。値段もいいが重みもある。けれども僕は、この本をもって新幹線を2往復した。それほど読みたい気にさせた本だった。

    ・『グラモフォン・フィルム・タイプライター』、つまりこの本はレコードと映画とタイプライターについての本である。レコードと映画はともかく、タイプライターは今までほとんど注目されることはなかったから、本を見つけたときには新鮮な感じがした。

    ・ワープロが日本で使われはじめたとき、手書き文字の良さと比較した批判や、鉛筆やペンで紙に書くこととはまったくちがうやり方に、文体はもちろん、思考の仕方までかわってしまうと危惧する意見が多く出た。字が下手で筆圧が強い僕には、そんな話は耳にも入らなかったし、文語体の硬い文章がなくなれば、もっともっと読みやすい文章が現れるだろうと思った。

    ・この本を読むと、そんな議論が一世紀も前にタイプライターの登場とともに行われていたことがわかる。書くことを独占していた男たちの多くは、この新しい道具になじむことには消極的で、キイボードに慣れた女性たちが秘書などとして職を得るきっかけになったようだ。一世紀という時間を経て、日本ではパソコンが同じような仕事内容の変化をもたらしている。パソコンとは何より「タイプ文化」なのであった。


    何とも皮肉な話だが、基本的には男性ばかりであった19世紀の帳簿係、事務員、作家の助手たちが、苦しい訓練を経て修行した彼らの手書き文字にあまりに誇りを抱いていたので、レミントンの侵略を七年の間うかうかと見過ごしてしまった。


    ・おもしろい話は他にもたくさんある。目の悪かったニーチェが1882年にタイプライターで詩を書いたこと、89年に出版されたコナン・ドイルの『アイデンティティの事件』では、シャーロック・フォームズがタイプライターのトリックを見破っていることなど。あるいは、精神分析学をはじめた S.フロイトが明らかにした「無意識」が、フォノグラフに出会うことで発見されたという話などは、まさに、目から鱗という感じで読んでしまった。


    精神分析家は、自分の耳にいわば魔法をかけて、それをあらかじめ技術的な道具にかえておかなければならない。他者の無意識がもたらす情報をふたたび抑圧したり、選別してしまったりしかねない。………そうした患者たちを見る医師はだが、理解しようとすることによってこの無意味を何らかの意味に戻してしまってはいけない。


    ・フォノグラフは音をそのまま記録する。決して取捨選択したり、意味づけたりはしない。フロイトは1895年にいち早く電話を診療所に置いたそうだ。他人の心を解釈なしにそのまま表出させること、フロイトはそのような方法の可能性を電話にも見つけている。「無意識の振動は電話のような装置によってしか、これを伝えることができない。」彼はその無意識のありかを心ではなく「心的装置」と呼んだ。


    ・ビートルズのレコードはアビー・ロードにあるEMIのスタジオで作られたが、その装置はドイツ軍から没収した磁気テープをもとに作られたテープレコーダーだった。そのほか、ヒトラーが演説のために作らせた音響システムとロックコンサートでのそれとの類似性、あるいは、ハイファイ・システムと戦闘機や潜水艦の関係などなど......。メディアの世紀が世界大戦の世紀であったこともまた、この本は確認させてくれる。

    1999年8月4日水曜日

    富田英典・藤村正之編『みんなぼっちの世界』恒星社厚生閣

     

    ・「みんなぼっち」とは聞き慣れないことばだ。この本を手にしての第一印象はそんな感じだったが、どんな意味だろうかと、ちょっと興味も持った。


    じめじめした人間関係は嫌いだけど、ひとりぼっちになるのも嫌だ。ありのままの自分でいいという思いと、得体の知れない他人とつきあう際の不安との間の葛藤を処理するのが、<みんなぼっち>という形式だと言えよう。


    ・最近の若い世代の人たちの自己感覚、人間関係の特徴である。確かにそうだ。たとえば、僕がつきあう学生たちの中には、放っておけば、たがいに親しくなる努力をしない。しないと言うよりは、どうしていいかわからないように見える人たちが目立つ。意見を言ったり議論をしたりするのも苦手のようだ。号令をかけたり、強制したりしなければ、いつまでも<ひとりぼっち>のままでいる。

    ・ところが他方で、彼らは、頻繁に携帯電話でどこかの誰かと連絡を取り合っている。HPの掲示板なども好きだし、コンパなど場を設定すれば、盛り上げるように努力する。ここでは<みんな>になることに賢明なのだ。<ひとりぼっち>でいることと<みんな>であることのジレンマ。それは今にはじまった自己感覚や人間関係の特徴ではないが、その性格には確かに今までとは違うわかりにくいものがある。

    ・<ひとりぼっち>になることは、自分が自分であることの確認のために欠かせない。他人とは違う私、つまり「アイデンティティ」の獲得には、それを遮る他者を乗り越えること、あるいは逃げることが必要になる。<ひとりぼっち>には単に物理的に一人になることばかりでなく、他人との違いを公言することも含まれる。

    ・けれども、現代の若者には、自分を遮る他者はいない。物わかりのいい親、少ない兄弟姉妹。親戚や近所の口うるさいおばさんや、怖いおじさんの消滅。限りなく広く浅くなる友達づきあい。「困難をバネにアイデンティティを獲得する方法」が閉ざされていれば、関心の中心は自然と排他的な形で自分自身へ向かうことになる。けれども、他者の評価のない自己確認はまた、きわめてうつろなものにしかならないから、関心の矛先はまた、他人にも向かわざるを得なくなる。そこで………。


    自分の生き方が危うい均衡の上にかろうじて成り立っていることがわかっている時、しばしば人は、なおさら強固にその部分を防衛しようとする。現代の若者たちにも、他者への強い関心をもち、かつ自分の生き方が不確かであるからこそ、互いのあいだにプライバシーを保護するための距離を厳格に取ろうとするのではないだろうか。

    ・この本には、親しい友達づきあいのような情緒的人間関係(第一次的)と公的な場での役割的人間関係(第二次的)のあいだに、いわば 1.5次空間と呼ばれるような関係が指摘されている。それはパソコン通信やテレクラ、ダイヤルQ2といったメディアによって成り立つ場だが、携帯もふくめて、現実に顔をつきあわす場、あるいはその場の脚色、そしてメディアによるつながりが、それぞれどういう特徴を持つのか考える上で面白い視点だと思った。

    ・賛成できる視点をもう一つ。「アイデンティティ」というと他人とは違う確固としたもの、個性的なものと考えがちだが、その形成期である「青年期」を「19世紀から20世紀初頭にかけて生成し、20世紀後半に終焉をむかえている現象形態」とするところ。21世紀には人はどんな自己感覚と人間関係を基盤に生きていくのだろうか?僕は強い自己主張に慣れた世代の一人だから、そんな想像はおもしろくもあり、また恐ろしくもあるように感じる。

    1999年7月28日水曜日

    メールを通じて届いたミニコミなど


  • 最近安直な相談をしてくるメールが相次いでいる。たとえば、レポートの課題について、どんな本を読んだらいいのかわからない、といったもの。これは文面から授業を聞いていないことがありありで、受け取った方としては、それこそ「ムカ」ついてしまう。もちろんどこの誰かも書いてない。HPがこんな学生を助ける道具になってはかなわないから、僕は返事を出さないことにしている。本当は叱ってやりたいところだが、よその学校の生徒をそんなところまで面倒見る気はない。
  • これほどひどくはないにしても、とにかく、ごくごく初歩的な相談が多い。図書館でちょっと調べたらわかること、大きな本屋さんの棚をひとめぐりしたら見つかりそうなことを、恥ずかしげもなく聞いてくる。この人たちには、受け取る者がどう思うか想像する力がないのだろうか。まったく失礼な話だが、たぶん、そんなふうに指摘されてもピンと来ないに違いない。
  • もちろん、楽しくなるメールもある。
  • 一つはアラニス・モリセットのHPを作っている吉本さんから。HPに載せた僕のコンサート・レビューを読んでメールをくれたのである。彼女のHPのタイトルは「Alanis World」。一見したら、彼女がどれだけアラニスを好きかということがよくわかる。興味のある人にはぜひ訪ねてほしいと思う。あと、トム・ウェイツのレビューを読んで、本を紹介してくれた人もいたし、『ピンク・フロイド 幻燈の迷宮』(八幡書店)の著者である今井壮之助さんから、文献リストの中に入れて下さいというメールをいただいた。こういうメールがもっとあるといいなと思う。
  • もう一つは『雨 花 石』(yu-hua-shi)というミニコミを出版している竹本さんから。ミニコミには個人や小集団のメディアとして長い歴史があって、僕はそれをテーマに調べたり考えたりしたことがある。60年代や70年代のにぎやかさを頂点にして衰退し、ホームページの出現によってその役割を終えたようにも感じていたが、今でも、その有効性を評価して作っている人がいることをあらためて知らされた。
  • 『雨 花 石』は投稿誌のようだ。月間で11号まで出ている。年間購読料は3000円だが、5000円に値上げするようだ。カラーのページもあって、内容も盛りだくさん。商業雑誌と違ってミニコミには広告収入はほとんど期待できないから、けっして高くはないと思う。今月号の特集は「どんなふうになってたい?!」
    27さいで再び学生になった。なんでそうなったかは自分でもよくわからないが、とにかくそうなった。授業料や生活費をかせぎ出しつつ授業に出る。授業ではギャルたちと机を並べる。ギャルたちの笑いさざめく声………。ギャルは素敵だ!!
  • 僕が所属する学部でも今年から大学院を新設した。何人もの社会人が入学してきたが、僕のところにも、高校の先生が一人勉強に来ている。先生の仕事がすんでからの学生生活。しんどそうだが、楽しそうだ。現役の学生よりもはるかに勉強もして、生き生きした感じがする。「どんなふうになりたいか」という気持ちは、若い人だけの専売特許ではない。
  • 投稿には長いものも短いものもある。「爬虫類観察日記」「走りの遺伝子」(バイク乗りのツーリング劇場)「朝日池総合農場」(大地を感じる農場のページ)「飛行機写真家日記」「予備校教師で悪かったな」。活字に手書き、マンガやイラスト、写真等々………。その多様さと登場人物の多さから、このミニコミが人びとのつながりやコミュニケーションの場になっていることがよくわかる。
  • この雑誌にはHPの日記や掲示板、あるいはチャットのような雰囲気が感じられる。HPのような雑誌なら、HPの方が簡単で安上がりなのにと思ってしまうが、竹本さんはデジタルではなくアナログの雑誌が持つ魅力を信じている。『雨 花 石』を手にすると、そんな気持ちが伝わってくる気がする。関心のある人は掲示板によるやりとりも行われているようだから、訪問したらいいと思う。
  • 1999年7月22日木曜日

    Soul Flower Union "Ghost Hits93-96" ,"asyl ching dong" "marginal moon"


    sfu1.jpeg・Soul Flower Union(SFU)というバンドの存在は、去年京都の大学で「ポピュラー音楽とメディア」をテーマに講義をしたときに、学生から教えられた。講義の後で、僕が話題にしたU2のコンサートに高校生の時に行きましたとか、京大の西部講堂の話などをしたが、彼はレポートにSFUを日本で最高のロック・バンドだと書いた。僕はその学生のレポートに興味を持って、ぜひ聴いてみたいと思った。
    ・忙しくて忘れていたが、数ヶ月前に梅田のTower Recordに行った折りに思い出して探してみるとCDが何枚も出ていて、どれを買ったらいいのか迷ってしまった。で、とりあえずはBEST盤など3枚を買うことにした。
    ・聴いての第一印象は喜納昌吉によく似ているなという感じ、それにチンドン屋と民謡と、明治の演歌、ちょっとアイリッシュの雰囲気もあって、雑然としてると思った。しかし、言葉を聞いているとなかなかおもしろい。最近流行の横文字混じりでほとんど無意味な歌詞の歌とは違うなと感じた。『満月の夕』とか『復興節』などには、阪神大震災を連想させることばがあって、特に気になった。


    sfu3.jpeg 風が吹く 港の方から 焼けあとを包むようにおどす風
    悲しくてすべてを笑う 乾く冬の夕
    ヤサホーヤ うたがきこえる 眠らずに朝まで踊る
    ヤサホーヤ 焚火を囲む 吐く息の白さが踊る
    解き放て いのちで笑え 満月の夕

    ・『ソウル・フラワー・ユニオン、国境を動揺させるロックンロール』(東琢磨編、ブルース・インターアクションズ)には、彼らが神戸の被災地を回ってコンサートをやるようになった経緯やその様子が詳しく書かれている。それを読むと、彼らが依って立つ場所や作るサウンドの意味がよくわかる。

    sfu2.jpeg というのも彼らが頻繁に演奏することになった特に被害が深刻な長田などの地域は、神戸の中でも沖縄出身者、在日コリアンなどが多く住むメルティング・ポットだった。そこに住む人々の故郷を思う気持ちを演奏でくんでいこうとするうちに、楽器の編成にも音楽性にも現場のリアリティを反映する形でさまざまな民族性がミックスされたのである。p.22

    ・ミックスされたのは民族性だけではない。ロックは現在でも基本的には若者の音楽だが、被災地で聴くのはお年寄りや子供たち。当然昔懐かしい曲や、童謡がリクエストされる。彼らを励ますためには自分たちの音楽の自己主張ではなく、聴きたいものをやらなければならないから、回を重ねるごとに SFUの音楽は変化をせざるを得なかった。

    sfu4.jpeg・SFUは「ニューエスト・モデル」と「メスカリン・ドライブ」という二つのバンドが合体してできた。しかし、神戸の被災地を回る際にメンバーの都合や楽器編成の必要などで、「SFモノノケ・サミット」として活動し、CDも作っている。そのような緩やかなまとまりがまた、サウンドの土台になっている。
    ・バンドのリーダー的存在である中川敬は音楽のテーマをについて「日本人である自分たちにとって地に足のついた音楽とは何か」と言う。それは、日常を生きる人々の集まりから生まれる。世代も出身地も民族も違う人々が雑多に行き交うストリート、SFUのロックはそこからエネルギーをもらい方向性を与えられた音楽に他ならない。彼らにとっての日本のロックは、閉塞した世界に安住するJポップとは違って、日本にこだわりながら、異質なものとの交流や影響の可能性に開かれている。