1999年12月22日水曜日

Merry X'mas




  • とにかく忙しい1年間でした。移動人間と化し、新幹線と車で3万kmを走破。何とか無事に二つの大学での勤めを済ませました。こんな生活はもうこりごりですが、おもしろい経験でもありました。東京と大阪の学生と同時につきあったこと。新幹線で見た人間模様と車窓の風景。それに、河口湖で過ごした夏休み。来年は、腰を落ち着けて、自分の仕事をやりたいと思います。

  • 追手門で受け持った4年生のゼミは、例年になくまとまりがあって、3月の三田と8月の河口湖と、二度の合宿をやりました。で、『林檎白書』第9号の完成。論文発表会もコンパも年内に済ませて、一応さよならです。ただ一つ気になるのは、院生の丁さん。修論は今年は無理なようです。

  • 東京経済大学ではゼミを三つ受け持ちました。まじめな学生が多かったように思いましたが、同時に、自発的にではなくやらされているという感じもしました。来年は、東経大の学生の書いた卒業論文とつきあうことになります。おもしろいものがたくさん出てくることを願います。



  • "X'mas Bell and Candle" by Yoko Hasegawa

    1999年12月15日水曜日

    佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

     

    ・ビデオについては腹立たしい思い出がある。下の息子が生まれたときに、僕の両親が出たばかりのソニーのベータムービーをプレゼントしてくれた。孫を映して送れというということだった。めずらしもん好きの僕は、二人の息子をせっせと撮った。1981年だったと思う。当然ビデオレコーダーもベータを買った。

    ・品質には不満はなかった。持ち運びは楽ではなかったが、従来の機種に比べたら雲泥の差があった。けれども、ビデオは徐々にVHSが体勢になり、買い換えの時期にはベータは消えてなくなっていた。2台目のカメラを8ミリ、レコーダーをVHSにせざるをえなくなる。互換性はもちろんないから、必要なものは全部ダビングしなければならなくなった。

    ・これが教訓になったせいか、レコードからCDに乗り換えるのはずっと後になった。けれども、マッキントッシュを見たときには、日本語がうまく使えないとか、PCとは互換性がないという批判や悪口があったにもかかわらず、100万円以上の金をはたいてアメリカからの並行輸入品を一式買ってしまった。おかげで、ずいぶん楽しい世界を知ることができたが、互換性のないこの道具にまつわる悩みはビデオ以上だった。

    ・佐藤正明の『映像メディアの世紀』はVHSを開発したビクターの高野鎭雄の物語である。高野は、テレビの開発者として有名な高柳健次郎がいた浜松高等工業(静岡大学)の出身だが、彼が入ったときには高柳はすでに退官していた。それが、就職したビクターで偶然再会する。高柳の役目は当然、テレビの商品化で彼は同時にビデオの開発も目論んでいた。ビデオは業務用から始まり内外のメーカーが様々な方式を開発するが、家庭用に焦点が合うのは 70年代に入ってからで、その主導権争いをしたのは、ソニーのベータとビクターのVHSだった。高野はそのVHS開発の責任者になった。

    ・この本を読んでいると、新技術の開発と普及、そして規格統一といった動向が、技術というよりは、陣地獲得の戦術合戦であることがよくわかる。高野は技術者である以上にすぐれた戦略家だった。ビクターは松下の傘下にあって、その意向を気にしつつ、また独自性も出さなければならない苦しい状況にあった。かたやソニーには技術とアイデアに絶対的な自信を持つ先進的な企業というイメージが定着していた。松下を味方につけ、その他の家電メーカーを結集させるにはどうしたらいいか。高野は一人知恵を絞り、企業との交渉や連絡に奔走する。

    ・国内メーカーの多くを味方につけたVHSはアメリカを松下が、そしてヨーロッパをビクターが制圧する。ベータとVHSの試作機第1号が1972年で、勝負に決着がついたのは1988年。その年ソニーはプライドを捨ててVHSを自社製造し始めた。ビクターの勝利だが、『映像メディアの世紀』は一企業の成功よりもっと大きな野心、つまり統一規格を作ることに懸命だった高野鎭雄を描き出す。600ページを越える壮大な物語で、僕は例によって新幹線にも持ち込んで一気に読んでしまった。

    ・家電や自動車など、20 世紀の後半はこと技術については間違いなく日本の時代だった。そこで働く人たちの生き生きした姿は、この本にはもちろん、ほかにもいくつものノンフィクションの作品になって描き出されている。僕はそんな話が好きだが、いつも同時に感じるのは、その世界のほとんどが男たちだけによって作られること、あるいはハードの話で終わっていて、ソフト面への応用となると、外国の話ばかりになってしまうということである。

    ・高野鎭雄はビデオの世界規格を達成したが、彼には家でビデオを楽しむ時間がなかったし、あったとしてもそうする気もなかった。ビデオに捧げた人生はまた、家にはほとんど戻らない20年の生活だった。ビデオ・カメラで子どもを撮り、マッキントッシュでニュースレターを作ったぼくの20年とはずいぶん違う生き方だなと思った。

    ・もちろん、ハードを開発することと、その新しい道具を使ってソフトを開拓することはまったく別の世界だし、それらを買って楽しむ世界もまた違ったものである。けれども、日本がハードばかりに突出したいびつな国であることも間違いない。ハードからソフトへの転換。それはたぶん、企業戦士が仕事から生活へ目を向けること、女たちがもっともっと仕事の第一線に参加すること、あるいは若い世代がベンチャー・ビジネスに野心を持つことといった変化を土台にしなければ可能性も見えてこないにちがいない。ハードの開発はもちろん大事だし、おもしろいことを否定する気もない。けれども、ぼくは日本人は、もっともっと、それを使って何かを作りだすこと、あるいは生活を楽しくすることに関心を向けるべきだと思う。

    1999年12月7日火曜日

    黒名単工作室『揺籃曲』


    rock21.jpeg・ここのところ、日本やアジアのポップやロックについての本をいくつか読んだ。おかげで、関心が欧米からアジアに向いている傾向や理由がよくわかった。たとえば『21世紀のロック』(陣野俊史編著、青弓社)。ほとんどの章はこの種の本にありがちな、わかる人にしかわからないというレトリックで、今ひとつだったが、一つだけ視野の広がりをもたらしてくれる章があった。小倉虫太郎の「越境する音楽」。中国と台湾の民主化と、同時期に現れたロックを中心にするポップ・カルチャーを紹介したものである。
    ・中国の天安門事件と台湾の民主化運動が新しい文化的な流れを生んだことは知っていた。たとえば中国のロックでは崔健、台湾では『非情城市』などの映画。「越境する音楽」には、二つの民主化運動の経緯とロック音楽の登場の様子が詳しく書かれていて、とても興味深かった。筆者は1990年から4年間、台湾に滞在していたようだ。


    blacklist.jpeg・忘れてならないのは、単なる流行歌に終わらない実験的な音楽を作っていたグループによって、台湾語のポピュラーソングがラディカルな社会批評の手段となり、なおかつ、中華圏においてはじめてと言っていい、音と言葉の結びつきにかかわる新たな実験の領野を開くことになったということである。そのグループの名前は「黒名単工作室」、直訳すれば「ブラックリストに載った者たちによる実験室」というパンチのきいたものだった。pp.204-205

    ・ぼくは興味を感じてさっそく探したが、残念ながら、ここで紹介されていた『抓狂歌』は見つからなかった。しかし、手に入れた1996年に発表された『揺籃曲』からも、たとえば、プログレがあったかと思うと、郭英男のような台湾先住民族風のもの、あるいは、歌謡曲とさまざまで、ことばも中国語や英語などがまじっていた。英語で歌われている「新聞時間」(News Time)には、戦争に巻き込まれる若い人たちの苦悩や世界の警察を自認するアメリカへの批判、嘘に満ちた世界への否というメッセージが率直に表されている。サウンドも含めて、中国の崔健や黒豹とはまた違う独特の世界を作り上げていておもしろいと思った。

    asia1.jpeg・松村洋の『アジアうた街道』は雑誌に連載したエッセイを集めたものだが、中国はもちろん、タイやマレーシアやイランやインド、そしてインドネシア、あるいは沖縄や在日のなかに新しく生まれた音楽を紹介していて、ここでも、聴いてみたいミュージシャンを何人も教えられた。その多くが日本でもコンサートをやっていることなどを知ると、今さらながらに、ぼくのアンテナが太平洋の向こうばかりに向けられていたことを思い知らされる。
    ・ たとえば沖縄のラテン・バンド「ディアマンテス」。ボーカルのアルベルト城間はペルー生まれの沖縄三世で、東京では相手にされずに、沖縄で音楽活動をはじめた。他にも、在日コリアンを中心に結成された「東京ビビンパクラブ」、タイの社会派ロックバンド「カラバオ」、マレーシアのザイナル・アビディン........。
    ・松村洋は、日本にいながらにして手に入る世界中の歌と、欧米以外の外国(人)に関心を向けない日本人の対照を指摘する。テクストとしての一つの歌と、一人のミュージシャン。そこから、彼や彼女が背負うさまざまなコンテクストへと向けるまなざしの大切さを主張する。まだまだぼくには知らない世界が多い、とつくづく感じてしまった。さっそくまたCDを探しに行こうと思う。

    1999年12月1日水曜日

    イーヴ・ヴァンカン『アーヴィング・ゴッフマン』せりか書房

     

    ・アーヴィング・ゴ(ッ)フマンは、ぼくにとって特別の社会学者だ。彼の本に出会わなければ、全然違うテーマを考えていただろう。と言うよりは研究者になっていなかったかもしれない。それだけ強い影響を受けた人だった。
    ・ゴフマンは人びとのコミュニケーションを対面的な状況に限定して考えた。人と人が出会っているとき、そこでは何が行われているのか?そのありふれた場面を独特の用語を使って微細に描写した。「気取り」「謙そん」「嘘」「冗談」あるいは「面子」や「体面」。日常の生活は演劇的要素に満ちていて、しかも、人びとはそれを隠蔽しようとする。大人社会の偽善さに嫌悪感をもっていたぼくには、「ほら見ろ、やっぱり」という思いがした。「社会学は現実の暴露だ」と言ったのはピーター・バーガーだが、そのことを実感として理解させてくれたのはゴフマンだった。

    ・ぼくは30代に二つのテーマをもった。一つは、男女(夫婦)や親子、友人・知人・同僚といった直接的な人間関係、もう一つは、メディアを使った個人的な関係。前者は『私のシンプル・ライフ』、後者は『メディアのミクロ社会学』(ともに筑摩書房)という形になった。そのどちらも、理論的な土台に据えたのはゴフマンである。しかし、それ以降少しずつ、彼はぼくにとって遠い存在になっていった。周辺でもあまり話題にならなくなった。死んでしまって新しい著作が出なくなったせいかもしれないし、また、社会が演劇的な要素で満ち満ちてしまって、説得力をなくしてしまったのかもしれない。40代のぼくの関心もパソコンとポピュラー音楽になった。
    ・しかし、この本を見かけたとき、読んでみたいという気持ちを強く感じた。決して懐かしさばかりではない。何となく中途半端で放ってしまっていたテーマが最近気になり始めてもいたからだ。で、読み始めるとすぐに「ゴフマンの著作は自伝である」という文章に出会った。ぼくは『私のシンプル・ライフ』を自分の経験を材料にして書いたが、下敷きにしたゴフマンの本には、彼の素顔らしいものはほとんど出ていない。そのことにほとんど気づきもしなかったし、違和感ももたなかった。彼の書いたものの中には、あたかもぼく自身や周囲の人間が登場しているかのように感じられた。

    ・ヴァンカンは自伝である理由として「ゴッフマンは『社会構造の中で彼が占めていた位置を作品の中で数限りなく再現している』と仮定することができる」と書いている。ゴフマンはその仕事を通して、日常生活の中で自己を演出することに懸命になる人びとの仮面を剥がしただけでなく、その登場人物にいつも自分自身を配役していたというわけだ。おもしろい見方だと思って一気に読んだが、最後が次のような指摘で終わっていることにはあらためて、やっぱりそうかという気がした。

     比較にはややもすれば不当な単純化の危険がつきものである。それは間違いないことだ。 しかしわれわれはゴッフマンにアメリカ社会学の一種のウッディ・アレンを見ずにはいられ ない。似たような体つき、民族的な出自も社会的出自も同じで(あるところまで)自伝的な 諸作品。いずれも多作で、作風は独創的、知的でしかも自分の属する世界を超えて多くの人 びとに受け容れられている。両者ともに深刻に悲愴である。P.134

    ・この本の後半は著者によるゴフマンのインタビューになっている。死の2年前に行われたものだ。その語り口は、彼の文章に感じられるのとは違って、きわめて正直で誠実なものである。しかし、ぼくはそれを意外な一面としては感じなかった。日常生活を正直な目で見て、誠実に描写する。ゴフマンの世界の信憑性は、何よりそこから生まれているのだから。

    1999年11月24日水曜日

    オフ・シーズンの野球とベースボール

  • メジャー・リーグもプロ野球も終わって、何となくつまらない時期。しかし、今年はオフの話題がなかなかおもしろい。とりわけ、フリーエージェントは興味津々である。野茂はどこへ行くか、佐々木はと思っていたら、工藤までがメジャーに接触した。イチローがもう一年と我慢したのは残念だが、日本のプレイヤーがメジャーを目標にし始めているのは間違いない。この傾向は、たぶんこれから加速度的に強くなると思う。
  • R.ホワイティングの「日出づる国の奴隷野球」が話題になっている。日本ではワルのイメージが強いダン野村と野茂の話が中心で、読んでいて痛快という気分を味わった。日本ではなぜ代理人交渉が認められないのか、フリーエージェントがなぜもっと短期間に設定されないのか。そう思う選手は少なくないだろう。しかし、各球団は話題にする気もないようだし、選手会の姿勢もいたって弱腰だ。なぜ、契約交渉という専門的な知識やテクニックが必要な行為を選手がやらなければならないのだろうか。その不当さはあらゆるスポーツで常識化しているのに、プロ野球だけが知らん顔をしている。監督と選手が直接会って、「真心」などという言葉が出てくるのは、僕には苦笑せずにいられない。野茂とダンは日本のプロ野球以外では当たり前の主張をしたにすぎないのである。
  • 野球は今、ベースボールとして世界的になりつつある。いつまでも鎖国状態でいられるわけはないのだが、各球団、とりわけ巨人とそのオーナーだけは、そのような認識が全く欠如しているようだ。オリンピックに対して消極的なのは、その好例だろう。しかし、さらに悪いのは日本のスポーツ・ジャーナリズム。球団べったりで、極めて保守的、批判精神とか将来へのビジョンなどはまるでない。ただただ、巨人と阪神、長島と野村で見出しが作れればそれで安心といった姿勢なのである。
  • BSで赤瀬川隼がメジャーの球団を訪れる番組を見た。目新しい視点はなかったが、基本的なところをおさえたおもしろい内容だった。野球はフィールド・スポーツ、つまり野原でやるものである。緑の芝生、これはアメリカではマイナーでも、リトル・リーグでも変わらない場面設定だ。けれども、日本の球場には、内野に芝生がない。外野も秋になれば枯れるところが多い。何より人工芝の球場ばかりになったのが気にいらない。サッカーの舞台がJリーグや国際試合のポピュラー化で様変わりしたのに、日本の球場は変わらない、というよりは悪くなっている。芝生は一つの文化だが、閉じた世界のままにしようとする発想をしている限りは、気づくことができないのかもしれない。
  • 赤瀬川は火の玉投手といわれたインディアンスのボブ・フェラーを訪ね、一緒にキャッチボールをした。もう 80歳を越えているが、彼の名前を知っている人は少なくない。歴史はオーナーではなく選手が作る。当たり前のことだが、日本ではやっぱり、ごく一部のスターを除けば、ほとんど忘れ去られている。報酬の高騰もあって、競争ばかりが目につくが、選手の相互の助け合いや後々のための改革の主張など、見習うべきは、野球そのもの以外にも少なくないのである。
  • BSでは、今年の野茂に焦点を当てた番組もあった。いつもながらの話しぶりだが、自信とプライド、と同時に自分の実力や体調を冷静に見る姿勢など、今さらながら感心してしまった。メッツの監督バレンタインが、野茂の肘が完全になおって、来年はもっとよくなると予言していた。
  • アメリカ人のファンはゲーム自体を楽しむことがうまいと言われている。集団の応援ばかりに熱中する日本人と対照されるところだ。それは選手にとってもうれしい態度だろう。しかし、メジャー・リーグのファンはまた、自分がGMであるかのように選手を評価しもする。ニューヨーク・タイムズのHPにはメッツとヤンキースのフォーラムがあって、そこでは年がら年中、こいつはいらないから、あいつとトレードをしてなどとやっている。もちろん去年は野茂に対する声は厳しくて、その気短さ、近視眼的な発想にうんざりした。バレンタインは今年も野茂がいたらもっと楽に勝っていたのにと思ったのかもしれない。野茂だって、ワールド・シリーズに出る可能性のあるチームから出されるのは、悔しかったようだ。
  • 最近のフォーラムでも、やっぱり、出したい選手、欲しい選手談義が花ざかりだ。しかし、野茂を戻せとは誰も言わない。たぶん、いらないと言った手前、欲しいと口には出せないのだろう。必ずしもいいとは思わないが、ファンとチームの距離の近さもまた、日本とはずいぶん違う特徴である。
  • 1999年11月16日火曜日

    「恋愛小説家」"As good as it gets"

     

  • とにかく今年は映画を見る機会がない、というよりは余裕がない。だから、テレビは結構見ているのに、Wowowで見るものをあらかじめチェックしてといったこともしなくなった。で、思い出したように番組欄を調べたら、見たいものがいくつかあった。「恋愛小説家」はその一つである。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハント主演で監督は「愛と追憶の日々」のジェームズ・L.ブルックス。この映画は「タイタニック」がアカデミー賞を総なめにした年に、主演の男優と女優賞を横取りにして、デカプリオ人気に肩すかしを食らわした。日本では「タイタニック」に隠れてほとんど話題にならなかっただけに、よけいに見たいと思っていた映画の一つだった。
  • ニコルソンが演じる小説家のメルヴィンは極端な潔癖性で動物嫌い、そしてなにより人間不信の毒舌家である。住んでいるのはマンハッタンの高級アパート。隣人とは口をきくのも嫌で、食事をするのは決まったレストランの決まったテーブルで、しかも注文を取るのも決まったウェイトレス。もちろん食べるものも決まっていつも同じもの。しかしそのウェイトレスに対しても、積極的にかかわろうとするわけではない。彼にとっては、かろうじて接触を許容できる相手というにすぎない。作家である主人公が人との関わりに積極的になるのはワープロに向かって恋愛小説を書くときだけである。
  • そんなメルヴィンが否応なしに隣人のゲイの画家と関わらざるを得なくなり、嫌いな犬とを世話するはめになる。ウェイトレスが店を休むと家まで行って、君がいないと食事ができないと懇願するようになる。けれども彼女にとって彼は決して印象のいい相手ではない。と言うよりは口が悪くて偏屈な嫌な客にすぎないから、家まで来たりしたことをひどい言葉でののしる。彼女には病気がちの男の子がいた。
  • フィクションの中では男女の恋物語を自由自在に操ることができるが、現実になると、相手をむかっとさせたり、うんざりさせたり、傷つけたりすることばしか吐けない。読者として女性ファンを虜にすることはできても、現実の、目の前にいる女性にはまるでだめ。すでに60歳を過ぎているはずの、男や女の心理を知り尽くしているはずの男が見せる、まるで初恋を経験する純情な少年のような一面。そのニコルソンの演技は、笑わずにはいられないがまた、何とも切なくなってくる。
  • 都会では、何か一つ才能があれば、あるいは仕事さえあれば、人とはつきあわなくたって生きていける。生身の人間は思うようにはならないし、信用もできないが、それに代わるフィクションや疑似現実的な世界でなら、親しさも、恋愛感情も経験することができる。そんな意識は若い世代にはごく自然なものとして現れているが、中年以上の世代だって例外ではない。そしてやっぱりどこかに欠落感や孤独感を抱えている。
  • メルヴィンはゲイの画家の犬をしぶしぶ預かってはじめて、その犬を返した後にあいた心の穴に気づく。あるいはいつも行く店にいつものウェイトレスがいないことであらためて、自分の居場所が消えてることを思い知らされる。
  • その欠落感や孤独感は、現在の人間が持つ共有意識で、少なくともある程度都市化したところなら、住んでる場所を問わないもの。この映画を見ながら思ったのは何よりそんなことだった。ある日突然、安住の場であるはずの職場や家庭が消えてなくなったら、僕らは、その欠落感や孤独感をどうやって埋めていくのだろうか?
  • 1999年11月9日火曜日

    秋の風景




  • 夏休みを河口湖で過ごしたあとも、毎月一回4〜5日ほど訪れている。今年はいつまでも暖かいが、それでも、来るたびに陽の光や空気や景色が変わっていくのがわかる。で、11月の初旬はと言うと、山の上だけだが、ご覧のような見事な紅葉だった。場所は太宰治の「富士には月見草が似合う」で有名な御坂峠の茶屋のあたり。今は河口湖と御坂の間は長いトンネルで一走りだが、昔はカーブの多い細い道を越えなければならなかった。残念ながらこの日は富士山が隠れていたが、紅葉の向こうに湖という風景はやっぱり美しかった。




  • 家のログと屋根の隙間にミツバチが巣を作っていた。たまたま見たテレビで、野生の日本ミツバチだということを知って、8月から気になってよく見ていたのだが、飽きないのは巣を襲うスズメバチとの闘いだった。からだの小ささを何匹もで力を合わせてカバーする。そのチームワークの見事さに口を上げていつまでも見とれていた。
  • そのミツバチが何匹も家の中で死んでいた。どこかに中に入る道でもあるのだろうが、探してもよくわからなかった。夏に比べたら、ほんのわずかになったが、ハチはまだ飛び回っている。穴をふさごうか、来年もまた見物しようか、迷っている。

  • ハチに代わってやってきたのがかわいいお客様。伊藤家のヒビキ君はまだ8カ月でもうすぐハイハイをしはじめるところだ。これからがやんちゃな盛りで、目が離せないが、また這った、立った、歩いた、喋ったとかわいい時でもある。
  • ぼくは久しぶりに彼をだっこして「高い高い!」をやったために、二の腕が筋肉痛になり、笑顔に応えて、不断使わない顔の筋肉を使ったためか、帰ったあとはぐったり疲れてしまった。

  • 疲れたと言えば薪割り。ストーブに使う薪はやっぱり自力で調達と意気込んで、チェーンソウも買ったのだが、赤松や杉の倒木はとてつもなく重い。それを30cmほどに切って、今度は鉈でまっぷたつ。これがまたなかなか大変で、節のあるやつはなかなか割れてくれない。朝から始めて気がついたらもうお昼、などという日を、結局は毎日過ごしてしまった。ところが、苦労してつくった薪も、いざ燃やしてみると、一晩で一山も使ってしまう。上に写っている薪の山もせいぜい4日分といったところで、来年住み始めたらやっぱり灯油ということになるのかな、と思うと、ストーブや鉈やチェーンソウが恨めしくなる。
  • 火と言えば、カミさんは七輪を使った陶芸に夢中だった。七輪に炭を詰めてその上に陶器を置く。上からアルミ箔や一斗缶で覆いをして、ドライヤーで風を送る。そうすると、土が見る見る真っ赤に焼けてくる。それを新聞紙にくるんで還元。焚き火の灰をまぶすと、ところどころガラス質になっていたりして、なかなかのものだった。ちなみに七輪は1200円で調達したものである。



  • あとは付近の散歩。ぼくは毎朝、新聞を湖畔のコンビニまで買いに行ったのだが、いつも霧がかかっていて、霜も降りていた。しかし、太陽が高くなり始めると霧も晴れて雲一つない青空。パラグライダーが気持ちよさそうに舞っていた。稲刈りの済んだ田んぼ、近隣の集落には火の見梯子(?)と半鐘、そして樅の木になった赤い実。ぼくは子どもの頃に食べたことを思い出して、たまらなく懐かしかった。
  • 次に行くときはもう初冬、今度はどんな風と陽の光と風景が待っているのだろうか。