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"X'mas Bell and Candle" by Yoko Hasegawa
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・ビデオについては腹立たしい思い出がある。下の息子が生まれたときに、僕の両親が出たばかりのソニーのベータムービーをプレゼントしてくれた。孫を映して送れというということだった。めずらしもん好きの僕は、二人の息子をせっせと撮った。1981年だったと思う。当然ビデオレコーダーもベータを買った。
・品質には不満はなかった。持ち運びは楽ではなかったが、従来の機種に比べたら雲泥の差があった。けれども、ビデオは徐々にVHSが体勢になり、買い換えの時期にはベータは消えてなくなっていた。2台目のカメラを8ミリ、レコーダーをVHSにせざるをえなくなる。互換性はもちろんないから、必要なものは全部ダビングしなければならなくなった。
・これが教訓になったせいか、レコードからCDに乗り換えるのはずっと後になった。けれども、マッキントッシュを見たときには、日本語がうまく使えないとか、PCとは互換性がないという批判や悪口があったにもかかわらず、100万円以上の金をはたいてアメリカからの並行輸入品を一式買ってしまった。おかげで、ずいぶん楽しい世界を知ることができたが、互換性のないこの道具にまつわる悩みはビデオ以上だった。
・佐藤正明の『映像メディアの世紀』はVHSを開発したビクターの高野鎭雄の物語である。高野は、テレビの開発者として有名な高柳健次郎がいた浜松高等工業(静岡大学)の出身だが、彼が入ったときには高柳はすでに退官していた。それが、就職したビクターで偶然再会する。高柳の役目は当然、テレビの商品化で彼は同時にビデオの開発も目論んでいた。ビデオは業務用から始まり内外のメーカーが様々な方式を開発するが、家庭用に焦点が合うのは 70年代に入ってからで、その主導権争いをしたのは、ソニーのベータとビクターのVHSだった。高野はそのVHS開発の責任者になった。
・この本を読んでいると、新技術の開発と普及、そして規格統一といった動向が、技術というよりは、陣地獲得の戦術合戦であることがよくわかる。高野は技術者である以上にすぐれた戦略家だった。ビクターは松下の傘下にあって、その意向を気にしつつ、また独自性も出さなければならない苦しい状況にあった。かたやソニーには技術とアイデアに絶対的な自信を持つ先進的な企業というイメージが定着していた。松下を味方につけ、その他の家電メーカーを結集させるにはどうしたらいいか。高野は一人知恵を絞り、企業との交渉や連絡に奔走する。
・国内メーカーの多くを味方につけたVHSはアメリカを松下が、そしてヨーロッパをビクターが制圧する。ベータとVHSの試作機第1号が1972年で、勝負に決着がついたのは1988年。その年ソニーはプライドを捨ててVHSを自社製造し始めた。ビクターの勝利だが、『映像メディアの世紀』は一企業の成功よりもっと大きな野心、つまり統一規格を作ることに懸命だった高野鎭雄を描き出す。600ページを越える壮大な物語で、僕は例によって新幹線にも持ち込んで一気に読んでしまった。
・家電や自動車など、20 世紀の後半はこと技術については間違いなく日本の時代だった。そこで働く人たちの生き生きした姿は、この本にはもちろん、ほかにもいくつものノンフィクションの作品になって描き出されている。僕はそんな話が好きだが、いつも同時に感じるのは、その世界のほとんどが男たちだけによって作られること、あるいはハードの話で終わっていて、ソフト面への応用となると、外国の話ばかりになってしまうということである。
・高野鎭雄はビデオの世界規格を達成したが、彼には家でビデオを楽しむ時間がなかったし、あったとしてもそうする気もなかった。ビデオに捧げた人生はまた、家にはほとんど戻らない20年の生活だった。ビデオ・カメラで子どもを撮り、マッキントッシュでニュースレターを作ったぼくの20年とはずいぶん違う生き方だなと思った。
・もちろん、ハードを開発することと、その新しい道具を使ってソフトを開拓することはまったく別の世界だし、それらを買って楽しむ世界もまた違ったものである。けれども、日本がハードばかりに突出したいびつな国であることも間違いない。ハードからソフトへの転換。それはたぶん、企業戦士が仕事から生活へ目を向けること、女たちがもっともっと仕事の第一線に参加すること、あるいは若い世代がベンチャー・ビジネスに野心を持つことといった変化を土台にしなければ可能性も見えてこないにちがいない。ハードの開発はもちろん大事だし、おもしろいことを否定する気もない。けれども、ぼくは日本人は、もっともっと、それを使って何かを作りだすこと、あるいは生活を楽しくすることに関心を向けるべきだと思う。
・ここのところ、日本やアジアのポップやロックについての本をいくつか読んだ。おかげで、関心が欧米からアジアに向いている傾向や理由がよくわかった。たとえば『21世紀のロック』(陣野俊史編著、青弓社)。ほとんどの章はこの種の本にありがちな、わかる人にしかわからないというレトリックで、今ひとつだったが、一つだけ視野の広がりをもたらしてくれる章があった。小倉虫太郎の「越境する音楽」。中国と台湾の民主化と、同時期に現れたロックを中心にするポップ・カルチャーを紹介したものである。
・中国の天安門事件と台湾の民主化運動が新しい文化的な流れを生んだことは知っていた。たとえば中国のロックでは崔健、台湾では『非情城市』などの映画。「越境する音楽」には、二つの民主化運動の経緯とロック音楽の登場の様子が詳しく書かれていて、とても興味深かった。筆者は1990年から4年間、台湾に滞在していたようだ。
・忘れてならないのは、単なる流行歌に終わらない実験的な音楽を作っていたグループによって、台湾語のポピュラーソングがラディカルな社会批評の手段となり、なおかつ、中華圏においてはじめてと言っていい、音と言葉の結びつきにかかわる新たな実験の領野を開くことになったということである。そのグループの名前は「黒名単工作室」、直訳すれば「ブラックリストに載った者たちによる実験室」というパンチのきいたものだった。pp.204-205
・松村洋の『アジアうた街道』は雑誌に連載したエッセイを集めたものだが、中国はもちろん、タイやマレーシアやイランやインド、そしてインドネシア、あるいは沖縄や在日のなかに新しく生まれた音楽を紹介していて、ここでも、聴いてみたいミュージシャンを何人も教えられた。その多くが日本でもコンサートをやっていることなどを知ると、今さらながらに、ぼくのアンテナが太平洋の向こうばかりに向けられていたことを思い知らされる。
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たとえば沖縄のラテン・バンド「ディアマンテス」。ボーカルのアルベルト城間はペルー生まれの沖縄三世で、東京では相手にされずに、沖縄で音楽活動をはじめた。他にも、在日コリアンを中心に結成された「東京ビビンパクラブ」、タイの社会派ロックバンド「カラバオ」、マレーシアのザイナル・アビディン........。
・松村洋は、日本にいながらにして手に入る世界中の歌と、欧米以外の外国(人)に関心を向けない日本人の対照を指摘する。テクストとしての一つの歌と、一人のミュージシャン。そこから、彼や彼女が背負うさまざまなコンテクストへと向けるまなざしの大切さを主張する。まだまだぼくには知らない世界が多い、とつくづく感じてしまった。さっそくまたCDを探しに行こうと思う。
・アーヴィング・ゴ(ッ)フマンは、ぼくにとって特別の社会学者だ。彼の本に出会わなければ、全然違うテーマを考えていただろう。と言うよりは研究者になっていなかったかもしれない。それだけ強い影響を受けた人だった。
・ゴフマンは人びとのコミュニケーションを対面的な状況に限定して考えた。人と人が出会っているとき、そこでは何が行われているのか?そのありふれた場面を独特の用語を使って微細に描写した。「気取り」「謙そん」「嘘」「冗談」あるいは「面子」や「体面」。日常の生活は演劇的要素に満ちていて、しかも、人びとはそれを隠蔽しようとする。大人社会の偽善さに嫌悪感をもっていたぼくには、「ほら見ろ、やっぱり」という思いがした。「社会学は現実の暴露だ」と言ったのはピーター・バーガーだが、そのことを実感として理解させてくれたのはゴフマンだった。
・ぼくは30代に二つのテーマをもった。一つは、男女(夫婦)や親子、友人・知人・同僚といった直接的な人間関係、もう一つは、メディアを使った個人的な関係。前者は『私のシンプル・ライフ』、後者は『メディアのミクロ社会学』(ともに筑摩書房)という形になった。そのどちらも、理論的な土台に据えたのはゴフマンである。しかし、それ以降少しずつ、彼はぼくにとって遠い存在になっていった。周辺でもあまり話題にならなくなった。死んでしまって新しい著作が出なくなったせいかもしれないし、また、社会が演劇的な要素で満ち満ちてしまって、説得力をなくしてしまったのかもしれない。40代のぼくの関心もパソコンとポピュラー音楽になった。
・しかし、この本を見かけたとき、読んでみたいという気持ちを強く感じた。決して懐かしさばかりではない。何となく中途半端で放ってしまっていたテーマが最近気になり始めてもいたからだ。で、読み始めるとすぐに「ゴフマンの著作は自伝である」という文章に出会った。ぼくは『私のシンプル・ライフ』を自分の経験を材料にして書いたが、下敷きにしたゴフマンの本には、彼の素顔らしいものはほとんど出ていない。そのことにほとんど気づきもしなかったし、違和感ももたなかった。彼の書いたものの中には、あたかもぼく自身や周囲の人間が登場しているかのように感じられた。
・ヴァンカンは自伝である理由として「ゴッフマンは『社会構造の中で彼が占めていた位置を作品の中で数限りなく再現している』と仮定することができる」と書いている。ゴフマンはその仕事を通して、日常生活の中で自己を演出することに懸命になる人びとの仮面を剥がしただけでなく、その登場人物にいつも自分自身を配役していたというわけだ。おもしろい見方だと思って一気に読んだが、最後が次のような指摘で終わっていることにはあらためて、やっぱりそうかという気がした。
比較にはややもすれば不当な単純化の危険がつきものである。それは間違いないことだ。 しかしわれわれはゴッフマンにアメリカ社会学の一種のウッディ・アレンを見ずにはいられ ない。似たような体つき、民族的な出自も社会的出自も同じで(あるところまで)自伝的な 諸作品。いずれも多作で、作風は独創的、知的でしかも自分の属する世界を超えて多くの人 びとに受け容れられている。両者ともに深刻に悲愴である。P.134
・この本の後半は著者によるゴフマンのインタビューになっている。死の2年前に行われたものだ。その語り口は、彼の文章に感じられるのとは違って、きわめて正直で誠実なものである。しかし、ぼくはそれを意外な一面としては感じなかった。日常生活を正直な目で見て、誠実に描写する。ゴフマンの世界の信憑性は、何よりそこから生まれているのだから。
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