1999年12月15日水曜日

佐藤正明『映像メディアの世紀』(日経BP社)

 

・ビデオについては腹立たしい思い出がある。下の息子が生まれたときに、僕の両親が出たばかりのソニーのベータムービーをプレゼントしてくれた。孫を映して送れというということだった。めずらしもん好きの僕は、二人の息子をせっせと撮った。1981年だったと思う。当然ビデオレコーダーもベータを買った。

・品質には不満はなかった。持ち運びは楽ではなかったが、従来の機種に比べたら雲泥の差があった。けれども、ビデオは徐々にVHSが体勢になり、買い換えの時期にはベータは消えてなくなっていた。2台目のカメラを8ミリ、レコーダーをVHSにせざるをえなくなる。互換性はもちろんないから、必要なものは全部ダビングしなければならなくなった。

・これが教訓になったせいか、レコードからCDに乗り換えるのはずっと後になった。けれども、マッキントッシュを見たときには、日本語がうまく使えないとか、PCとは互換性がないという批判や悪口があったにもかかわらず、100万円以上の金をはたいてアメリカからの並行輸入品を一式買ってしまった。おかげで、ずいぶん楽しい世界を知ることができたが、互換性のないこの道具にまつわる悩みはビデオ以上だった。

・佐藤正明の『映像メディアの世紀』はVHSを開発したビクターの高野鎭雄の物語である。高野は、テレビの開発者として有名な高柳健次郎がいた浜松高等工業(静岡大学)の出身だが、彼が入ったときには高柳はすでに退官していた。それが、就職したビクターで偶然再会する。高柳の役目は当然、テレビの商品化で彼は同時にビデオの開発も目論んでいた。ビデオは業務用から始まり内外のメーカーが様々な方式を開発するが、家庭用に焦点が合うのは 70年代に入ってからで、その主導権争いをしたのは、ソニーのベータとビクターのVHSだった。高野はそのVHS開発の責任者になった。

・この本を読んでいると、新技術の開発と普及、そして規格統一といった動向が、技術というよりは、陣地獲得の戦術合戦であることがよくわかる。高野は技術者である以上にすぐれた戦略家だった。ビクターは松下の傘下にあって、その意向を気にしつつ、また独自性も出さなければならない苦しい状況にあった。かたやソニーには技術とアイデアに絶対的な自信を持つ先進的な企業というイメージが定着していた。松下を味方につけ、その他の家電メーカーを結集させるにはどうしたらいいか。高野は一人知恵を絞り、企業との交渉や連絡に奔走する。

・国内メーカーの多くを味方につけたVHSはアメリカを松下が、そしてヨーロッパをビクターが制圧する。ベータとVHSの試作機第1号が1972年で、勝負に決着がついたのは1988年。その年ソニーはプライドを捨ててVHSを自社製造し始めた。ビクターの勝利だが、『映像メディアの世紀』は一企業の成功よりもっと大きな野心、つまり統一規格を作ることに懸命だった高野鎭雄を描き出す。600ページを越える壮大な物語で、僕は例によって新幹線にも持ち込んで一気に読んでしまった。

・家電や自動車など、20 世紀の後半はこと技術については間違いなく日本の時代だった。そこで働く人たちの生き生きした姿は、この本にはもちろん、ほかにもいくつものノンフィクションの作品になって描き出されている。僕はそんな話が好きだが、いつも同時に感じるのは、その世界のほとんどが男たちだけによって作られること、あるいはハードの話で終わっていて、ソフト面への応用となると、外国の話ばかりになってしまうということである。

・高野鎭雄はビデオの世界規格を達成したが、彼には家でビデオを楽しむ時間がなかったし、あったとしてもそうする気もなかった。ビデオに捧げた人生はまた、家にはほとんど戻らない20年の生活だった。ビデオ・カメラで子どもを撮り、マッキントッシュでニュースレターを作ったぼくの20年とはずいぶん違う生き方だなと思った。

・もちろん、ハードを開発することと、その新しい道具を使ってソフトを開拓することはまったく別の世界だし、それらを買って楽しむ世界もまた違ったものである。けれども、日本がハードばかりに突出したいびつな国であることも間違いない。ハードからソフトへの転換。それはたぶん、企業戦士が仕事から生活へ目を向けること、女たちがもっともっと仕事の第一線に参加すること、あるいは若い世代がベンチャー・ビジネスに野心を持つことといった変化を土台にしなければ可能性も見えてこないにちがいない。ハードの開発はもちろん大事だし、おもしろいことを否定する気もない。けれども、ぼくは日本人は、もっともっと、それを使って何かを作りだすこと、あるいは生活を楽しくすることに関心を向けるべきだと思う。

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