2000年3月8日水曜日

Stereophonics"Word gets around" "Performance and cocktail"


stereophonics1.jpeg・今年のグラミー賞の主役はサンタナだった。クラプトンにディランとここ数年は大御所ばかりが目立っている。僕にとってはなじみがある人たちで悪いことではないが、逆に言えば、新人や若手に元気がないのである。というよりは新しい波が全然やってこない。実際、僕はRadio Head以来、新しいミュージシャンに興味を感じていない。ロックは20世紀の音楽で終わるのかもしれない。そんな気持ちになってしまう。ところが久しぶりに「あー、いいな」と思うバンドに出会った。Stereophonics。最初に2枚目の"Performance and cocktail"を買ったが、気に入って、すぐにデビュー・アルバムの"Word gets around"も手に入れた。で、毎日必ず一回は聴いている。
・きっかけはゼミの学生の報告だった。イギリスのウェールズの音楽について、その社会背景を中心に論文を書きたい。そんな内容の中で紹介されたのが、このバンドだった。イギリスのロックと言えば、リバプールやロンドンがあるイングランド、それにアイルランド、あるいは最近ではスコットランドも注目されている。しかし、ウェールズは仲間外れで大したミュージシャンは出ていない。そんな認識だったが、そんなことはないという話だった。「へぇ、そうなの」と思い、タワー・レコードで見かけた際にそれほど期待もしないままに半信半疑で買ってみた。

stereophonics2.jpeg・ライナーノートによれば、Stereophonicsのデビューは1997年である。ところが日本での発売は契約の関係で1年も遅れたらしい。しかし、すでに日本にきてコンサートもやったようだ。「ステレオフォニックスが描写する世界には、些細な噂がうずまく小さな町があり、行き過ぎる人々、男と女、セックス、老人、アルコール、皮肉、ぬぐえない過去、不幸にもいまだに少年のままの『青年』、閉ざされた明日などが微妙に関わり合いながら現れては消えていく。嫌というほど見慣れた風景に隠された、そんな感情の物語。」たとえば、"Local boy in the photograph"は鉄道に飛び込み自殺をした少年の話のようだ。


友達たちは土手に花を添えて、写真に映った少年の最後の姿について、何時間も酒を飲みながら話をする。彼は23のままで、最後に彼の服が見つかった場所を、今も列車が通り過ぎていく。

・あるいは、"Last of the big time drinkers"は週末に酒を飲むことにのみ生き甲斐を見いだしている。

工場での一日が終わったら10分きっかりで、のどの渇いた犬のように酒を飲み始める。週末は何も食べないし、寝もしない。..............俺は仕事のために生きているんじゃない。週末を楽しく過ごすために働いている。

・ウェールズはイギリス本島の南西部にある。炭坑と工場。去年ラグビーのワールド・カップが開かれた。もうずいぶん前にジョージ・オーウェルの小説や評論を読んで、土地の雰囲気や労働者階級の人々の暮らしや気質に関心を持ったが、それ以上のことは知らないし、行ったこともない。しかし、 Stereophonicsの歌には、オーウェルが半世紀以上も前に描写したのと奇妙に重なりあう光景が感じられた。アイルランドやスコットランドとはまた違う、イギリスのもう一つの顔。階級の問題と、近代化の遅れ、伝統的な生活や人間関係とアメリカ文化の影。それはリチャード・ホガートが『読み書き能力の効用』(晶文社)で警告したイギリスの労働者階級文化の崩壊とアメリカ化という問題とも重なり合う。
・ロックはアイデンティティの音楽である。僕はこの点をくり返し力説しているが、それは自分の置かれた状況、つまり外の世界と、それに対する自分自身、つまり内の世界への強い関心から生まれる音楽であることを意味している。ヴィジュアル系などといって内面を問わない音楽ばかりが流行る日本の音楽状況を目の当たりにしていると、ロックの変質ばかりが目立つが、それは決して世界的に一様の傾向ではない。そんなことを本家のブリティッシュ・ロックから感じられるのはとてもうれしい気がする。

2000年3月1日水曜日

火に夢中 G.バシュラール『火の精神分析』せりか書房

  • もう何度も書いたが、昨年の夏からたき火のおもしろさを満喫して、冬からは薪ストーブ。薪割りは大変だが、火というのは、じっと見ていても飽きることがない。その不思議さに改めて夢中になっている。で、ちょっと考えてみたいと思って本を探したが、これが意外に少ない。しかし、ガストン・バシュラールの『火の精神分析』(せりか書房)はおもしろかった。
  • 人間にとって「火」の支配は生きていく上で必要不可欠のことだった。つまり、いつでも火をおこせるようにするための工夫を知らなければならない。たとえば、木と木を擦るやり方。細い棒を厚い板に押しつけて、両手で挟んでくるくると回す。板にできた穴と棒の擦れるところが熱くなってやがて煙が出て発火。バシュラールはその行為がセックスの比喩として、多くの文化の中に語り継がれてきていると言う。発火の瞬間はエクスタシー。うん、なるほどと、その類似を考えてしまった。棒を穴に当てて最初は優しく、そして徐々に激しく擦る。熱くなって発火。その瞬間に訪れる快楽。火への関心は性的なそれ。もうすでに若くはない今の僕にとっては、現実よりはイマジネーションとして納得できることといった方がいいのだが..........。もっとも、火は今では簡単に手に入る。マッチ、ライター、あるいはチャッカマン。火興し自体の省略は、セックスの手軽さ、あるいは不毛さを意味するのだろうか。世の中にセックスがこれほど反乱する時代はかつてなかったのに、男の子たちの何たる頼りなさ、覇気のなさ。そして屈折した心が起こす性的な事件や犯罪。
  • バシュラールは、たき火やストーブを支配することがヨーロッパではずっと父親の仕事であったと言う。火をつけるのは簡単になったとしても、その火を激しく燃えさせて、なおかつ安全な状態のままに制御する技術は簡単ではない。子供たちの尊敬を得る父親の証というわけである。しかし現在では、火は台所で使われ、スイッチやボタンで簡単に調節できる。担当するのは主に母親だ。そのような火の変容は男の強さ、そして父親の権威の喪失を意味するのだろうか。そう言えば、キャンプに行くと父親は喜々としてたき火をし、バーベキュウを取り仕切る。あるいは宴会の鍋奉行などといったこともある。それは、失われてしまった栄光へのノスタルジーなのかもしれない。
  • 息子が大学受験のために朝早く満員電車に乗って、おやじの臭いにムカついたと言った。僕はそのことばを聞いてキレてしまって、怒鳴りとばした。しかし、親や大人に対して若者たちが敬意を払う、そのよりどころがなくなっているのは事実だろう。父親やおじさん達は、その自信のなさをものわかりの良さで取り繕うとするから、余計に軽視される。とは言え、大人にしか、親にしかできないことへの憧れと敬意。それはどこからどんなふうにして見つけだすことができるのだろうか。火を眺めながら考えても、何も思いあたらない。
  • 残念ながら僕はもうすぐ子供たちとは別れて暮らし始める。子供にとってどんな父親だったか。何を伝え、教えることができたか。ずいぶんがんばったと思うが、まるで自信がない。田舎暮らしをもう10年早く始められていたら、たき火や薪割りやストーブなどを一緒にできたのにと、つくづく感じてしまう。もっとも子どもたちは、うるさいおやじからやっと解放されて、のびのびできると喜んでいるのだが........。
  • 横道にそれたが、今回のテーマは火である。ストーブはアメリカ製だが、つくづくうまくできていると思った。簡単に火はつくし、燃え尽きても、炭が残っていれば、薪を放りこむだけでいい。何より窓が大きくて、中の炎がよく見える。ものすごい火力でも、鉄の箱がそれをがっちり閉じこめる。暖かくなったらとろ火にして、ちょろちょろと立ち上る炎を見る。本当に何時間も飽きずに眺めている。山のような薪が翌朝にはわずかな灰になってしまう。大木でも燃やしてしまったら、ゴミ袋一つほどの灰。もののはかなさを感じるが、逆に言えば、木は水と空気と養分から、大木へと成長していくのである。僕だって死んで火葬されれば、小さな骨壺におさまる残骸でしかないが、子どもの成長は思い返せばあっという間の出来事だった。命の誕生と成長、それに死。ぼーっと火を見ながらの想像は新鮮な思いつきや意外な展開をして、まるで夢の世界のようでもある。
    京都最後の晩、つまり引っ越し前夜にアップロード
  • 2000年2月23日水曜日

    最近見た映画

     ・例年だと、定期試験に続いて入試の監督と緊張と退屈が入り交じったつらい時間を過ごしていたのだが、今年は入試業務からは解放された。というか、秋と暮れに面接を担当したことで勤めは果たしたとされた。大学のやり方の違いだが、去年まで勤めていた大学では、原則としてすべての入試に全員が参加という決まりだった。それが東経大では分担でおこなわれている。どう考えたって、これの方が合理的だ。できれば、教授会ももっと簡素化して欲しいと思うのだが、どういうわけか、この点に関しては無意味な手続きや儀式が多すぎる。一長一短、なかなかうまくいかないものである。
    ・それはともかく、残り少なくなった京都での生活をゆっくり過ごすことができた。で、カウチポテトで映画三昧。Wowow、BS2、ハイビジョンと、探していくと次々とおもしろそうな映画をやっている。
    ・ まず『女と女と井戸の中』(The Well)。オーストラリアの農場に父親と住む中年女性が若い女の子を家に住まわせる。音楽や踊り、あるいは衣装。単調な生活が一変する。不機嫌だった父親が死ぬと、小さな小屋を残して農場を売却してしまう。大金が転がり込んで、二人はヨーロッパ旅行に想いをはせる。ハネムーンのようなひとときだが、泥棒が入って金がなくなる。ところが偶然、その泥棒を車でひき殺してしまう。死体を井戸に。金はない。人は殺した。落ち込む中年女性。金をもって家から出る娘でラスト・シーン。行ったことはないがオーストラリアの一風景を見た気がした。
    ・ 『沈黙のジェラシー』(HUSH)は息子を溺愛する姑のジェシカ・ラングが嫁のグウィネス・パルトロウをいびりだそうとする話。お腹にいる孫を自分のものにしようと画策するさまは鬼婆のようですごかった。しかし、母親とのつながりよりは妻を選んだ男の心理描写はいかにも単純で、ジェシカの恐ろしい演技だけが目立った映画だった。
    ・ ハリウッド映画はお金がかかっていて映像は迫力があるが、相変わらず何でも「愛」で片づけてしまう。そんな映画が『シティ・オブ・エンジェル』と『遙かなる大地へ』。前者はV.ヴェンダースの『ベルリン天使の歌』の焼き直しで、ニコラス・ケイジとメグ・ライアン。公開時にいろいろ批判されたが、オリジナルに比べてずいぶん薄っぺらだなと思った。天使が女医に恋して人間になるが、女医がトラックに轢かれて死んでしまう。残されたケイジは人間としての喜びや悲しみ、痛み、それに何より愛を知った喜びの尊さを訴えて終わる。しかし、アホみたいと感じてしまうしかない話のように思った。
    ・ 『遙かなる大地へ』はアイルランドからアメリカに移住した若者がオクラホマに自分の土地を見つける話である。出演はトム・クルーズとニコール・キッドマン。美男美女で実際の夫婦。これもやっぱり愛のドラマだった。アメリカへの移住と夢を求めた西部や西海岸への移動は、実際にはとんでもない苦難の道で、僕はそのことを『オレゴンへの道』で知った。大陸を移動するためには当然、食料や水などの確保に多額の金がいる。病気や事故、喧嘩、あるいは賊に襲われるといったこともある。僕は主演の二人よりは、簡単に死んでいくちょい役の人たちの人生の方が気になった。
    ・『レディ・バード、レディ・バード』はイギリス映画で次々と生んだ子どもを福祉施設に取られてしまう女の話。彼女は父親に性的虐待を受けたという幼児体験を持つ。父親の違う4人の子どもをもうけたが、男の暴力とみずからの母親としての能力をなさを理由に子どもを取り上げられてしまう。その後パラグアイから亡命してきた男と知り合い、子どもを生むが、それもまた取られてしまう。それによってますます荒れる女。映画は、親子の愛を奪う社会の制度を疑うが、しかし、子どもにとっては、実母か里親か、どちらが幸せになるかはわからない。愛こそはすべてといったハリウッド映画とは違って、愛ゆえに泥沼におちていくプロセスがよく描かれていると思った。
    ・月並みだが、やっぱり地味な映画の方がいろいろ考えさせられる。見ていてしんどくなるが、しかし、親子の問題が原因の殺伐とした事件が多発する最近の風潮と重ね合わせると、愛を謳歌して納得などという話にはつきあえない気がしてきてしまう。
    ・地味な映画といえば、親子の愛をテーマにしたものをもう一つ。『推手』はコンピュータの専門家になった中国系アメリカ人が白人の女性と家庭を作り、父親を台湾から呼ぶという話である。父親のアメリカに対する、そして奥さんの中国に対するカルチャー・ショック。家族を大事にする中国的な伝統と、個人主義のアメリカ。そのズレをめぐって食い違いや諍いがおこる。互いが努力して、そのためによけいに溝を広げてしまう。そんな関係の描写が見事だった。
    ・1年のうちでこんなふうにして映画をつづけて見るのは何度もない。のんびりしたが、寝転がってばかりいたせいか、またぎっくり腰になってしまった。やれやれ........。

    2000年2月16日水曜日

    インターネット・ビジネスって何?

     

  • 「Yahoo Japan」の株が1億円を超えたと聞いてびっくりした。株は買ったことがないからわからないが、もともとは500円か1000円のもので、公開時でも数百万円だったのではないだろうか。新聞ではバブル値だと批評されているが、それどころではない数字だと思う。Yahooはインターネットをやる人にとってはなじみがあっても、誰もが知っている名前ではないし、年商だってまだまだ小さなものだ。
  • 僕はHPを3年前にYahooに登録した。その時「社会学」の欄に載っていたサイトは5つほどで検索ページとして役にたつようなものではなかった。少しずつ増えて、最近では「社会学」が18項目に細分化されて、ぼくのHPが載っている「メディアと情報」には35ほどが紹介されている。にぎやかになり始めたとは思うが、それが億単位の株価として評価されるとはとても考えられない。一瞬買っとけばよかったな、と思ったが、公開時に買う気になるはずもない状況だったのも間違いない。
  • こんなに評価されるのは、インターネットが将来のビジネスとして期待されているかららしい。その象徴としてのYahooなのである。確かにアメリカでは、スーパーやデパートが危機感を持つほどに盛んになり始めているようだ。実際僕は3年ほど前から洋書やCDはAmazon. comで買っている。今はそれだけだが、パソコンや家電製品など、どこで買っても同じメーカー品の購入は、わざわざ量販店に出向くよりは便利かもしれない。あるいは、商品カタログで好みのものが探せるということであれば、何かを探して世界中のサイトをネット・ショッピングといったこともやるだろう。
  • それによって、現実の世界から店がなくなっていくとしたら、それはデパートやスーパー・マーケットの出現時以上に大きな変化になるに違いない。けれども日本では、まだまだひよこはもちろんタマゴの状態ですらない。飛行機のチケットをインターネットで予約すれば何%か安くなるサービスが始まるらしいが、これも将来を見越した目玉サービスにすぎない。DMは確かにうんざりするほど増えているが、僕のところに来るものの半分以上はアメリカからで、内容も大半はお金儲けの誘いやHサイトからといったものが多い。
  • 先日アスキーが作っている「e-sekai」というサイトからリンク許可を求めるメールが来た。オープンしたのは1999年9月で内容は次のようなものである。
    (株)アスキーイーシーが提供するサイト「e-sekai」とは、「www検索」「コンテンツ」「オンラインショッピング」などを提供する統合ポータルサイトを目指すものです。 「コンテンツ」部分は、「パソコン」「本」「音楽」「クルマ」「映画」「スポーツ」「ホビー」「旅行」など、チャンネルと呼ばれるカテゴリーに分かれており、そのチャンネル内には、「厳選ホームページ」というチャンネルテーマに即した定番Webページのリンク集があります。今回のリンクのお願いは、その「厳選HP」コーナーからのリンクです。
  • このメールには英文もあって、なぜかそっちだけにオンライン・ショッピングの項目がすでに100万件を超えていることや、来春までには1日100万件のアクセス数を目指していることが書いてあった。「Yahoo Japan」を超える検索サイトを作り上げようというなら日本語でももっと高らかに宣言したらいいのにと思ったが、日本人的な反応を気にしたのだろうか。とは言え、僕はアスキーが出す雑誌は、毎月「Mac Power」を買っていて、何かと便利に講読しているから、断らないことにした。
  • オンライン・ショッピングにはこのような検索サイトの充実は欠かせない。何より信用性の基準になるページになって欲しいと思う。詐欺まがいの勧誘やいかがわしい誘惑はもちろんだが、現実に人と対面し、商品に触れることのないビジネスには、カードによる引き落としということも含めて、確実さが求められてくる。
  • それにしても、このような動きをするのがなぜ、雑誌社なんだろうかと思う。大手のデパートやスーパーは何をしているのだろうか?コンビニをオンライン・ショッピングの新しい発信基地にといったプランはあるようだが、うかうかしていると恐竜のようにあっという間に絶滅してしまうかもしれない。もう一つ気に入らないのは、いつまでたっても安くならない接続料金。テレビを見るのと同じ感覚で使えるようにならなければ、ゆっくりネット・ショッピングなどという気にはならないはずで、NTTは将来のビッグ・ビジネスの可能性を妨げていることに気がつかないのだろうか。
  • 2000年2月9日水曜日

    ポール・オースター『リヴァイアサン』新潮社

     

    ・爆死した男のニュースに触れてピーターは、被害者が友人のサックスであることを確信する。それが物語のはじまりである。二人は作家で、ニューヨークの酒場で出会った。それぞれの仕事、夫婦や家庭の問題、そして互いの関係をたどりながら、ピーターは、サックスがアメリカ各地にある自由の女神像を爆発して回るようになった理由とプロセスを追い、そのことをひとつの物語として書いた。小説内小説という形式だが、「リヴァイアサン」はサックスが自ら書いた作品の題名でもある。それは言ってみれば、小説内小説内小説で、ピーターはそれをもとにサックスの物語を作り上げる。『リヴァイアサン』は形式的にも、人物やその関係も複雑だが、読んでいて考えることが多い作品である。

    ・サックスはベトナム戦争への徴兵を拒否して刑務所に入れられた経歴を持つ。服役中に小説を書きはじめた。妻のファーニーは美術を専攻する学生で、結婚したのは逮捕される1年前だった。ピーターはその時偶然、コロンビア大学の美学史の講義で彼女を見かけ、興味を覚える。だから、サックスに出会って彼女に再会したときには、心が乱れてしまう。ピーターはディーリアと結婚していてディヴィッドという子どもがいたが、二人の関係はいいものではなかった。

    ・ファーニーとサックスとの間には子どもがいない。それがファーニーの心をさいなむが、サックスもまた、そんな彼女の自罰的な心を和らげようとして苦悩する。だめな女と自覚するファーニーの前で、もっとだめな男を演じようとするサックス。ファニーはピーターに近づき、サックスもまた別の女性を誘惑する。欲望と自制、愛情と嫉妬、そして何より強いのは信頼することへの忠誠。サックスは執筆を理由に一人暮らしをはじめ、やがて失踪する。ファニーはもちろんピーターにも強い喪失感が残るが、しかし、閉塞感もなくなる。


    僕は出ていく、などと宣言して彼女につらい思いをさせる必要はない。ジレンマ的な状況を捏造することによって、ファーニーの方から彼を捨てて出ていくように仕向けるのだ。彼女が自分を自分で救うように持っていくのだ。彼はファーニーがみずからを守り、彼女自身の人生を救う手助けをするのだ。


    ・サックスはある時ヒッチハイクをして、森の中で立ち往生した車を見つける。そこにいた男はいきなり銃を撃ってくる。サックスはとっさにバットで応対して男を殴り殺してしまう。男の名前はリード・ディマジオ。車の中には大金があった。サックスはその金をサンフランシスコに住むディマジオの家族に渡す。別れた妻の名はリリアン、娘はマリア。そこでまた、彼は奇妙な同居をはじめる。

    ・リリアンの家に閉ざされたままの部屋があって、中に入ったサックスはディマジオという男に興味を持ちはじめる。ディマジオはあるアナキストを主題にした博士論文を書いていて、ベトナム戦争を体験して以来、政治運動に関わっていた。サックスはディマジオが自由の女神を破壊して回わっていることを知り、その志を継ぐ決意をする。中途半端な生き方をしてごまかしてきた自分を恥じて、自分の命をディマジオに捧げることにしたのだ。彼は今まで感じたことのない強い幸福感と、自分が自由になったという自覚を持つ。


    すべての人間の弱さ、もろさを受け入れておきながら、いざ自分のこととなるとサックスは完璧さを追求し、どんな些細な行為においてもほとんど超人的な厳しさをおのれに課した。結果として生じたのは、失望だった。人間としての自分の欠陥を思い知って愕然とし、そのせいでますます厳格な要求を自分に課すに至り、その結果、いっそう息苦しい失望感が募るばかりだった。あれでもう少し自分を愛するすべを学んでいたら、周囲にあれほどの不幸を作り出す力も持たずに済んだだろう。


    ・ 理想主義が陥るジレンマ、と言ってしまえばそれまでかもしれない。自罰的でありながら、裏には強い自愛があり、結果として、自分を滅ぼすだけでなく、他人をも不幸に陥れてしまう。しかも、例えばサックスの理想主義のように、それは必ず他者との関係を通して現実化する。訳者の柴田元幸はあとがきで「現実と理想との隔たりに人間の悲惨があり、現実から理想に向かおうとする意思に人間の栄光がある」と書いている。滑稽さと邪悪さ、成熟と腐敗。現実と理想を巡る栄光と悲惨の物語。それはもちろん、フィクションの世界にとどまるものではなく、僕らの現実のなかに転がっている。

    2000年2月2日水曜日

    冬の富士

     



    今年は暖冬だと思っていたら、1月の中旬すぎから寒くなり始めた。富士山もやっと冬らしい姿になった。最低気温が-12度なんていう日もあったが、湖面が凍結するということはない。ただし、早朝の路面は凍っている。河口湖の北側にある御坂山系の尾根には樹氷が連なっていてとてもきれいだ。(下中写真)


    久しぶりに訪ねた我が家も雪の中。バルコニーには20cmほどの雪が積もり、屋根からは太い氷柱(つらら)が何本も下がっていた。で、面白がって何年ぶりかで雪かきをした。そうしたら、数日後にまた雪。たまにだから楽しかったが、一冬で何べんもでは大変だ。楽しみだが大変だとわかったことがもう一つ。薪ストーブは趣があって冬の必需品。けれども、薪の消費量はものすごい。幸い、倒木は周辺にごろごろしているから、当分不自由はないが、薪割りには相当の時間とエネルギーを使わなければならない。準備をしていないこの冬は、晴れた日の昼間のほとんどを、倒木を探して、運んで、チェーンソウで切って、斧で割ることに費やしている。端切れは雪の中での焚き火に。

    もう一つ、予定外は車。11万km走ったレガシーが夏休み以降調子が悪く、買い換えることにした。これは、その最後の姿。この後、新しい車と交換した。愛着があったけど仕方がない。事故もなく、本当にご苦労さんでした。

    2000年1月26日水曜日

    忌野清志郎『冬の十字架』、頭脳警察『1972-1991』


    kiyosiro.jpeg・「君が代」がさしたる反対もなく法制化された。小学校や中学校、そして高校の入学や卒業の時期には、必ずあちこちで「君が代」ボイコットの運動があったのに、この様変わりには驚くばかりである。猛烈な反発をおそれて自民党が出したくとも出せなかった法案や制度改革があっさり現実化してしまう。みんながおとなしくなったのか、あるいは無関心になったのか、とにかくいやな風潮である。
    ・「君が代斉唱」なんて場には出たくないな、と思っていたら、忌野清志郎が「君が代」をパンク風にアレンジして新譜として売り出すというニュースがあった。「おもしろいな」と興味を持ったが、すぐに、レコード会社が発売中止の決定をした。反響の大きさに、怖くなって自粛してしまったのである。日本の音楽産業の事なかれ主義は救いがたいほどだが、忌野清志郎はそのアルバムを自主発売した。なかなかやる。まだまだ悪たれ小僧のような素直な精神を持っていると思った。
    ・残念ながら、肝心の「君が代」は今ひとつの感じだった。しかしそれはやっぱり曲やことばのつまらなさのせいで、がんばってパンクにしようとしてもカッポレになってしまうほかはない歌なのだ。やっぱり、「君が代」は歌いたくないなと、再認識。
    ・このアルバムのタイトルは「冬の十字架」。ジャケットには青いシャツ、黄色いパンツ、金色のシューズ、それに赤い羽根のショールを肩にかけた清志郎がちゃぶ台に肘をついて座っている。部屋の感じからいって30年ほど昔のようだが、もちろん、本人は間違いなく現在の姿だ。で、なかなかおもしろい歌が入っている。たとえば、


    川のほとりで 自殺を考えた / だけど怖いから、やめた
    俺はだめな奴だ もう死んでるんだ
    腐った心の持ち主 誰にも会わせる顔がない
    クズクズクズクズ人間のクズ / クズクズクズクズ人間のクズ
    クズクズクズクズ人間のクズ / クズクズクズクズ俺のことさ 「人間のクズ」

    ・東京に来て気づいたことの一つに電車への飛び込み自殺の多さがある。関西では滅多に聞かないニュースだが、東京ではしょっちゅうあって、しかもJR中央線が多い。つい最近も阿佐ヶ谷駅で朝の出勤時だった。僕の勤める大学は国分寺駅下車だから、授業時間に支障が出ることもしばしばある。今のような試験中だと、日程変更をしなければならないが、去年は予備日にまた飛び込みがあって、対応に苦労したそうである。
    ・それはともかく、自殺を考えたとしても、思いとどまるのがふつうの人の感覚で、クズと自分を責めても、怖いからやめたというのが勇気ある判断であることは間違いない。忌野清志郎もそれが言いたくてこの歌を作っている。そんな気がした。あるいは、東京では人間関係は希薄で、引き留める役割が不在なのかもしれない。この歌はそのための声のようにも感じた。
    ・そのほかにも「シワヨセ」が48年働いたことがない俺のところにやってきた、と歌う「来たれ21世紀」や若い人たちを挑発するような「俺がロックンロール」、あるいは妙に切ない「心のボーナス」など、おもしろい歌は多い。本当に数少ない、今を歌うことができる日本のロック・シンガーだと思う。

    zuno.jpeg・もう一つ、一緒に買った頭脳警察の『1972-1991』。題名の通りBESTアルバムである。ラディカルなメッセージで伝説的な扱いを受けているバンドだが、改めて聞くと、やっぱりことばは勇ましく、サウンドはまっすぐで、期待通りに懐かしさを感じた。
    ・ロックは「路地裏の悪魔」として登場し「メインストリートの天使」に変身すると言ったのはイギリスの社会学者ディック・ヘブディジだが、頭脳警察は路地裏の悪魔と言うほどではないが、悪たれ小僧であることに徹したバンドだと言えるかもしれない。そのストイックさが魅力であることはもちろんだが、それがまた彼らを小さな存在にする原因にもなった。そこに行くと、忌野清志郎には客の期待に応えるショーマンシップがあって、ヴィジュアル系の先祖みたいないい加減さもあるが、それがかえってまた、現在に対する彼の誠実な態度と対照的で、スケールの大きさを感じさせたりもする。
    ・忌野清志郎は3月に武道館で30周年記念のコンサートをやる。ディランに遅れること10年。ずっと歌い続けていたという点では、日本では彼がやっぱり一番なのかもしれない。