ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ。つまり「ジャマイカでは黒人は国民の完全主体にはなり得ないのだ」というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもったのです。
ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ。つまり「ジャマイカでは黒人は国民の完全主体にはなり得ないのだ」というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもったのです。
同姓のよしみで、突然のメールの送信お許しください。□ ■ クラブと申します。当クラブは、今の日本の預金金利の低さに、ガマンできない人達が集まってつくられた自主運営の情報交換会です。『目的を持ってお金を貯めている』 方、『将来お金が絶対に必要』な方に、ごく一部の資産家の持つ『貯蓄術』を、ただ一心にお伝えしたく、失礼を覚悟で ご連絡申し上げました。
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・元気な中年ロッカーの新作が相次いでいる。まずはニール・ヤング。久しぶりのアコースティックで、昔をふりかえるような内容である。「君にまた会えて良かった」と歌う一曲目。デビューしたときのバンド「バッファロー・スプリングフィールド」についての歌では、バンドがだめになった理由を思い返し、誰が悪かったわけでもないと言っている。突っ張りのやんちゃ坊主たち。
・今では楽しみのために歌うことができる、と言うとおり、このアルバムには何の気負いも、気取りもない。歌いたいときに歌い、つくりたいときに歌をつくって、出したいときにアルバムを出す。頭はだいぶ薄くなって、からだは重たくなったが、ヤングの声は名前の通り、昔のままでみずみずしい。ヤングというよりはボーイ・ソプラノ。しかし、その声からは、ナーバスな感じが消えて、落ち着きやゆとりが生まれている。クレイジー・ホースとやるロックこそニール・ヤングだと思う人には物足りないかもしれない。でも、ぼくは彼のアコースティックな歌が好きだ。特に今はそう思う。
・ふりかえると言えばクラプトンのアルバムも同じだ。ただし彼は、ロックンロールの生みの親であるB.B.キングと歌っている。ジャケットにはオープン・カーを運転するクラプトンと後ろの座席でくつろぐキングがいる。かたわらにはそれぞれ愛用のエレキ・ギター。何か冗談でも言い合っているのか、二人とも笑っている。本当に楽しそうだ。裏には30年以上前に一緒に並んでギターを弾いている写真。当然二人とも若い。
・「スロー・ハンド」と呼ばれるクラプトンのギターはロックを象徴するようなサウンドを聴かせてきたが、キングは彼の少年時代からのヒーローだった。だから、30年以上前の写真に写っているクラプトンの表情は真剣そのものだ。クラプトンはいつかキングと一緒にアルバムをつくろうとずっと夢見てきた。彼の笑顔はその夢が叶った喜びの表情なのかもしれない。
・もちろん、B.B.キングを敬愛するロック・ミュージシャンは多い。ぼくが10年ほど前に出かけたU2のコンサートは、キングとのジョイントだった。ステージではボノがいかにも楽しそうにキングとデュエットをしていて、ぼくはそのシーンを今でもよく覚えている。
・20世紀の後半は「ロック音楽の時代」といってもいいと思うが、そのきっかけを作ったのはB.B.キングとマディー・ウォーターズ。この二人がいなければ自分もいなかった。成功したロックミュージシャンには、そんな気持ちが共有されている。半世紀を経て、ロックも歴史になった。この先の行方を見定めるためにも、過去を振り返って見る必要がある。クラプトンのアルバムには、そんなメッセージが読める気がした。もちろん、二人の歌はノリが良くて楽しい。ロックの原点と、そして今。
・ルー・リードのニュー・アルバムは「エクスタシー」。ジャケットには目を閉じたそんな顔が連続的に5枚。エクスタシーとはいえ、セックスではなくドラッグでもない、気持ちよく歌っているときの表情のようだ。
・もっとも、歌の内容は恋人たちの出会いと別れ、夢と悪夢、共感と欺瞞といったもので、彼のつぶやくことばはいつもながら、シニカルで、しかも優しい。
彼女が愛って何と呼んだらいいって聞いた
そうだな、家族じゃないな
性欲でもない
わかってるだろうけど、結婚なんかじゃ断じてない
結局は信頼ってことだろう
しいて言えば、愛は時間だ(Turning Time Around)
・この歌を聴きながら、ぼくはG.ジンメルの「誠実(トロイエ)」ということばを思い出した。
心には、それを一般にある道へと導いた衝撃がすぎ去った後にも、なおひとたびとられた道を固執する持続力があり、誠実をこのような心の持続と呼ぶことができる。(『社会学の根本問題』岩波文庫)
・愛が一時の衝動であることはよく言われている。だから恋愛と結婚は別といった割り切り方がされたりする。しかし、愛とは、そのような衝動が消えた後に残る一人の相手、一つの対象、一本の道にこだわる気持ち。心の持続。3人のロック・ミュージシャンから伝わってくるのは、何よりロックに対するこの気持ち、「誠実(トロイエ)」である。ぼくも全く共感!!
・工房をつくるために、庭の赤松と唐松と杉を10数本伐採した。といってももちろん、ぼくがやったのではない。専門の人が3人がかりで、ブルドーザーまで使ったのである。伐採は当然ながら、倒す方向が一番問題になる。川に向かってということになったが、樅の木がじゃまになる。まずそれを移してということになった。あいたところからブルドーザーが進入。雑草はあっという間になぎ倒されて、すっかり見通しが良くなった。
・で、一本一本伐採。ブルドーザーが幹を押さえつけて方向を定める。チェーンソーが動き始めると、20m以上もある大木が数秒でなぎ倒されてしまう。あまりのあっけなさに、拍子抜け。1時間もたつと庭には太陽がさして、今までとは違う雰囲気。部屋の中まで明るくなった。チェーンソーをもっていたのは70歳を過ぎたおじいちゃんで、始める前と終わった後に丁寧に道具の手入れをしていた。使いっぱなしのぼくの道具が気になってしまった。
・この土地は昔から森だと思っていたのだが、管理人さんが、戦前には農地だったといった。放置された後に赤松や唐松、欅や杉が自生したのだそうだ。そうすると、この鬱蒼とした森もおよそ半世紀ほど。ぼくと同じ年齢ということになる。松の成長の早さに改めてびっくり。とはいえ、生きている木を倒すのは殺生をしているようで何となく後ろめたい気もした。せめて大事にして、冬の暖房に使うことで供養にしよう、などと全く自分勝手な納得の仕方。
・伐採した木は3mほどに切って、ブルドーザーで山積みにしてもらった。二山の木材は全部で50本以上。とりあえず動かしやすい細いものから、電動のチェーンソーで30cmほどに切って斧で割りはじめた。蚊がいるし、材木の皮で傷つくから、長袖で作業をした。涼しいとはいえ、5分とたたないうちに汗びっしょり。春先までとはずいぶん違う。
・午前中からはじめたのだが1時間ほどで中断して、また夕方再開。5本ほどをやっと割り終えたのがごらんの通りの量。山のように積んで、その成果に一人にんまり。全部割るのは大変だが、しかし一回分がこれだけの量になるとすると、積み上げる場所にも苦労しそうだ。家の周囲だけではとても間に合いそうにない。
・などと考えながら、全く逆の心配もした。それで、いったいどのくらいもつのだろうか。まさか1年ということはないだろうと思うが、ひょっとしたら、使い切ってしまうのかもしれない。薪ストーブで一冬すごそうと思ったら、いったいどのくらいの森が必要なのだろうか。全然予測がつかないのは何とも頼りない。
・工房が建った後で、当然、何本かの木を植えるつもりでいる。雰囲気からいったら断然白樺だが、それは伐採する木ではない。では松や杉を植えるかというと、薪にできるまでには、少なくとも10年はかかるし、第一、見栄えが良くない。一挙に豊富になったとはいえ、ストーブを使い続けるためには、毎年山のような材木がいる。だから倒木を見つけたら、やっぱりこまめに運んで来るよう心がけなければならない。
・周辺には育ちすぎて危険になった松がかなりあるようだ。ペンション村が中心になってつくっている自治会では、その伐採も検討されている。我が家の薪の供給源にはなると思うが、森と一緒に生活するのは、いろいろと難しいことが多い。薪割りと積み上げた満足感、それに新しい庭の風景を想像しながら、思いはあちこちにうろうろ、ふらふら………。我ながらつくづく、自分勝手だと思う。
・大学院の授業でベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を読んだ。メディアについての基礎文献にふれるためのもので、ぼくにとっては何回目かの通読だが、やっぱりおもしろかった。これほどメディアの変容が激しい時代であっても、中身が陳腐化することがない。だからこそ、目先の新しさを追う新刊本に惑わされて、大事な古典ともいえる本を見逃さないでほしい。学生たちにつたえたいことは何よりそこにあったが、たまたま多木浩二の『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』がでて、また新しい読み方を教えられた気がした。
・『複製技術時代の芸術作品』でおさえるべきことは近代化によって生じた芸術の「礼拝的価値」から「展示的価値」への変化。そして複製技術の登場によって引き起こされた芸術がもつ一回性、唯一性の根拠となる「アウラの消滅」。さらに、そこから展望される「文化の民主化」の可能性といった点だった。しかし、多木浩二は、ベンヤミンがここで見ていたのは、アウラを喪失した芸術が「史上初めて巨大な遊戯空間に生きる場を見いだす過程」だという。写真とそれに続く映画は、人間を疎外する技術に代わってあらわれた第2の技術。それは人間を解放する可能性をもった遊戯空間をつくりだす。
・もっとも、大衆の人気を獲得しはじめた映画は、すぐに大衆によってではなく映画資本、さらにはファシズムによってコントロールされるようになる。スター崇拝と観客礼賛。それは大衆が真に望むものではなく、望んでいると思いこまされるものでしかない。だから、そこでは相変わらず人びとは技術に操られたままでしかない。そうではなくて、技術を使って大衆が自らを解放する道の可能性………。
・ベンヤミンが見ていたのは絶望のなかのほんの一筋の光明だが、写真や映画はベンヤミンが期待した世界を実現したのだろうか。そうともいえるし、そうではないともいえる。その曖昧な展開をベンヤミン自身も、見通していたが、何よりそこがベンヤミンの洞察力のすごさで、多木浩二が力説しているところである。
・『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を読んで、彼の別の本も再読したくなった。まず『ヌード写真』。裸、それも女性のそれは絵画の時代から一つのテーマだった。当然写真の時代になってもそれは変わらない。と言うよりは、ますます強調されるようになった。写真の始まりはダゲレオタイプだが、もちろん、その発明と同時にヌードは登場する。しかし、その写真は公にはされない。あくまで個人の秘蔵物として珍重される。多木は、それを公に普及した個人や家族の肖像写真と対にして考えるべきものだという。近代社会のなかでは性は結婚した男女がつくるプライベートな世界、つまり家族のなかに閉じこめられる。そしてさらに、家族のなかでもまるで存在しないものであるかのように扱われる。しかし、それが、なくてはならないこと、少なくとも男にとってはやらずには我慢ができない行為であることはいうまでもない。多木はヌード写真が生まれ、珍重された裏には、こんな社会の構造があるという。
・ヌード写真は、男の性的欲望が描き出す世界。だから写真に映っているのが陰毛や性器を露出した女ばかりになるのは当然である。ヌード写真は男がする視姦行為にほかならなかったからである。そして、20世紀の後半になると、そんな写真が雑誌のピンナップや広告、映画、さらに日本では、テレビでも溢れ出すことになる。それは性や性表現の自由の実現なのだろうか。多木は、そのような写真が相変わらず男による視姦行為の対象であること、性的欲望を物的欲望に転換するための手段として使われていることをあげて、一面では、ダゲレオタイプの時代から性の感覚に変化は見られないのだという。
・しかし、他方では、このような写真の氾濫はそれを限りなく無意味化、無力化する。限りなく無限に近い力が、同時に限りなくゼロに近い空虚なものでしかない世界。写真はまさにそのような現代社会の特質の象徴である。
・『ヌード写真』はヌード写真を材料にして、社会や政治や経済について考えた本である。ぼくはこのような視点に共感するが、それは多木浩二のもう一つの著書である『スポーツを考える』でも変わらない。スポーツはナショナリズムの高揚手段としてくりかえし使われるづけてきたが、逆にまた、国境や人種の壁を真っ先に破る働きもしてきた。あるいは、アマチュアリズムに顕著なように商業主義に対する拒絶感をもつ一方で、資本の論理によって盛衰をくりかえしてもきている。スポーツを対象にするおもしろさや大切さが、このような視野をもつことにあるのは明らかだが、スポーツの専門家にはまた、芸術同様、どうしようもなく欠落したものであることもまちがいない。