2000年8月28日月曜日

鈴木慎一郎『レゲエ・トレイン』青土社 R.ウォリス、C.マルム『小さな人々の大きな音楽』現代企画室

 

  • 音楽を素材や解き口にして、一つの社会や文化を知る。そんな試みが少しずつ形になってきている。以前にこの欄で取り上げた鈴木裕之の『ストリートの歌』(世界思想社 )はその一つだが、それに続くようにして新しい本が出た。鈴木慎一郎著『レゲエ・トレイン』(青土社 )である。タイトルの通り、この本がテーマにしているのはカリブ海の小国、ジャマイカである。
  • ジャマイカといえば、まず思いつくのはレゲエ。おそらくこのようにいう人は多いはずだ。レゲエはボブ・マーリーが世界的に有名にし、確立させたロック音楽の1ジャンルで、たとえば国を代表するサッカー・チームが「レゲエ・ボーイズ」と呼ばれたりする。 陽気なリズムがダンスには欠かせないものになっているから、おそらく若い世代でレゲエを知らない人はいないに違いない。けれども、ジャマイカがどんな国かということについては、レゲエとは裏腹にほとんど誰も知らない。『レゲエ・トレイン』はその落差を埋めてくれる好著である。
  • 著者が問いかけているのは、一つはレゲエという音楽の根にある「ラスタファ」という思想。つまりアフリカ回帰の願望である。そこにはジャマイカ人の大半が奴隷としてアフリカから連れてこられた人びとの子孫だという背景がある。このような考え方はもちろん、レゲエとともに生まれたものではなく、1930年代に一つの社会宗教運動として興っている。
  • レゲエはだから一方では、イギリスから独立した後も少数の白人に支配される不当な国、貧しい社会であって、こんなところではなく、本来の地アフリカに帰って生きるべきだと歌う。しかし、レゲエの歌には、他方で、ジャマイカのあらゆるものに対する想い、愛を表明したものも多い。こんな指摘をする著者はその意識の二重性を次のように解釈している。
    ジャマイカの黒人系は、近代市民社会の普遍的な人間としてどこかの国民になりたい、そしてその国民主体になりたい、という欲望と、それから黒人にかんする否定的なイメージ。つまり「ジャマイカでは黒人は国民の完全主体にはなり得ないのだ」というエリート社会からのイメージとの、二重性において自己意識をもったのです。
  • この本の中でおもしろかったのはレゲエの歌に古くからのことわざが多く使われているとする指摘である。レゲエはジャマイカ固有の音楽ではなく、伝統的なものに、アメリカやイギリス、それにもちろんカリブ海の近隣の影響が混じり合って生まれた。しかも、ボブ・マーリーによってイギリス経由で世界に広まったこの音楽は、それぞれの国で多様な変容の仕方をしている。しかし、そういう状況になってもレゲエの歌詞には、ジャマイカに言い伝えられ、人びとの口に今も上ることわざが多い。著者はそれをレゲエが今も共同性に根ざしたものであることの証拠だという。レゲエはジャマイカ人にとっても「集合的な経験」としての濃さを失っていないというわけだ。
  • もう一冊『小さな人々の大きな音楽』。これを書いたR.ウォリスとC.マルムはスェーデン人で、このタイトルの小さな人々とは、アメリカやイギリス、それに日本などの音楽大国とは違う、経済力も技術力も小さな国に住む人々のことを指している。そのような国力の差にかかわりなく、どんな社会のどんな文化にも音楽はあって、20世紀の時代には、それが大国で生まれた音楽産業や新しいメディアの影響を受けた。台風のように押し寄せる大国の新しい音楽によって吹き飛ばされる伝統的な音楽。あるいは、したたかに取り込み変容しながらも、独自な展開を見せる音楽。そのような多様な状況を、国ごとに追いかけた内容になっている。
  • 本国での出版は1984年で翻訳されたのは1996年だが、つい最近見つけた。当然、ここでふれられている音楽状況は80年代のはじめまでだが、90年代になって大きな問題となる著作権などにも多くのページが割かれていて、興味深い。音楽小国はどこも90%以上が海賊版といった状態だが、それでも、乏しい外貨が著作権という名目で流出してしまう。そのかき集められたお金がは、いうまでもなく、ほんの一握りのミュージシャンとメジャーの音楽企業に流れ込む。資本主義の鉄則といってしまえばそれまでだが、事細かな事例の紹介はとても興味深い。もちろん、このような状況はインターネットの時代である現在では、もっともっと複雑なものになっているだろう。知りたいが、ぼくにはとても調べる気力もエネルギーも時間もない。
  • 2000年8月21日月曜日

    ジャンク・メールにつられて


  • 最近特にというわけではないが、ジャンク・メールがよくやってくる。大半はお金儲けかアダルト・サイト。新ビジネスの誘いとか、投資の勧め、あるいは掘り出し物の宣伝などといったメールにはまったく関心がないから、即削除することにしている。本当はメールを開く気もしないのだが、最近はなかなか凝っていて、題名に「渡辺と申します」などとついていて、一見しただけではどんな内容なのかわからない場合が少なくない。たとえば………
    同姓のよしみで、突然のメールの送信お許しください。□ ■ クラブと申します。当クラブは、今の日本の預金金利の低さに、ガマンできない人達が集まってつくられた自主運営の情報交換会です。『目的を持ってお金を貯めている』 方、『将来お金が絶対に必要』な方に、ごく一部の資産家の持つ『貯蓄術』を、ただ一心にお伝えしたく、失礼を覚悟で ご連絡申し上げました。
  • インチキくささ丸出しだが、詐欺まがいの商法に引っかかったというニュースは後を絶たないから、こんな誘いでも、ついついその気になる人がいるのかもしれない。そういえば、勧誘はメールだけでなく、研究室の電話にもよくかかってくる。こちらはもう本当にむかっとしてしまうから、「あんたどこにかけてるのかわかってるの?今授業中だよ!」と言うことにしている。
  • けれども、アダルト・サイトにはちょっと興味をそそられる。だから時には、サイトを訪ねることもある。そうするとたいがい、それなりの写真が数枚あって、「これ以上ご覧になりたい方は。ぜひ会員に」といったメッセージが書いてある。会費は電話料に加算かカードによる払込。実は危ないことが一度あった。
  • 専用ソフトのダウンロードボタンがあって、何の気なしに押したら、ダウンロードをはじめて、即解凍、終わったら、自動で接続を始めた。慌てて、接続中止にしようとしても、何度も同じ動作を繰り返す。仕方がないから、パソコンを強制終了して、立ち上げなおし、TCP/IPをチェックする。すると、今まで使っていたプロバイダーの設定はすべて消されてしまっていて、怪しい接続先は消去ができない。で、システム・フォルダを開いて、それらしいファイルをすべてゴミ箱に捨てて、もう一回再起動。やっと元に戻ってほっとしたが、そのあくどさにあきれた。
  • 身に覚えのない多額の電話料金を請求された話もよく耳にする。上に紹介したケースなら、そんなことにもなりかねないだろうと思った。インターネットは手軽だが、落とし穴もあちこちに巧妙に仕掛けられている。そしてパソコンに詳しくない人なら、自分が穴に落ちたことすら気づかない。
  • もっとも、アダルト・サイトが全部、このような怖いところだとは限らない。最近では週刊誌にも「ヘア」は珍しくないが、日本のサイトではハードコアはもちろん、性器の露出も禁止されている。しかし、外国のサイトのものなら、そんな日本の法律は関係ない。しかもインターネットには国境がないから、何でも自由に簡単に見ることができる。大学でも、これはなんとかしなければ、という意見も出るが、僕は英語の勉強にもなるのだから、多少の冒険はいいのではないかと思っている。
  • これはジャンクではないが、もうひとつ意外なメールを紹介しよう。「コーパスご提供のお願い」というもので、何のことかわからなかったので開けてみた。依頼主は「マイクロソフト社」。
    現在マイクロソフト社では自然言語の解析を行い、今後の製品開発に役立てるためのデータ (コーパス)を集積すべく、あらゆる分野(固い言葉から日常の言葉まで)で使用される日本語文章のサンプルをご提供いただける協力者の方を探しております。
  • コーパスとは「言語情報のかたまりで、通常はセンテンスごとに切り離したデータ」のことのようだ。つまり、僕がHPに載せた文章を日本語の材料として使いたいということのようである。依頼書を読むと謝礼も出るという。僕はマック派だからビル・ゲイツは好きではないが、日本語の解析に役立つなら協力しようかと思って、承諾の返信を出した。
  • 言うまでもないが、HPのデータは、誰でも見ることができる。見るということは、受信したパソコンにデータが全部ダウンロードされるということだ。いったんダウンロードされたデータは盗作や無断借用ならいざしらず、解析材料にするぐらいならいちいち使用許可を取る必要もないだろうに、と僕は思った。しかし、インターネットの時代を先導するマイクロソフト社だから、逐一契約をするというのは当たり前かなとも感じた。何しろソフト会社にとって最大の敵は製品を無断コピーさる人たちなのだから………。
  • そんなわけで、僕の文章がやがてマイクロソフトの製品に生かされることになるのかもしれない。そう考えると、自信を持って「正しい」とはとても言えない僕の書く日本語が材料になっていいのだろうか、と心配になってきた。と書いているこの文章も、マイクロソフトにコーパスとして利用されることになるのである。
  • 2000年8月14日月曜日

    オリンピックのテレビはどうしようかな?

     

  • 千葉すず選手は結局オリンピック代表になれなかった。スポーツ仲裁裁判所(CAS)の裁定は、選考過程は公正だが基準が不明確というもので、いかにも「仲裁」と名のついた機関の決定内容だと思った。オリンピックで彼女の笑顔や突っ張ったときの口をとがらした顔が見られないのは残念で、ぼくは水泳を見る気がしなくなった。フジヤマのトビウオも権力者として居座る姿は醜い。選手は黙って従えばいい。そんな古い考えが通用しないことを肝に銘じるべきである。
  • どうもここ数年、スポーツ界を中心に同じパターンがくりかえされている。サッカーの釜本とトルシエ、あるいはプロ選手のオリンピック派遣を巡る巨人オーナーの発言と古田選手の不出場。スポーツがどんどん国際的になって、選手が視野を世界に広げれば、当然、意識や考え方も変わってくる。それを自覚せずに日本式の古い慣習や考え方を当たり前のことと続けている。組織のトップにいる人たちは、もう全然世の流れについていけてないのに、そのことに気づいてすらいない。情けない状況だが、若い人たちが次々と反旗を翻して自覚させる他はない。千葉すずの行動はそんな意味ではきわめて重要なものだと思った。
  • マスコミはおしなべて千葉選手に好意的である。そこから、スポーツ組織の体質の古さを批判する。オリンピックの選考基準が曖昧であることは陸上の女子マラソンでも話題になったが、それをアメリカのたった一回の予選会と比較して対照させる。しかし、体質的にはマスコミも同じであることを自己反省することなどはしない。野茂や中田や伊良部がマスコミとどれほどのけんかをして、今どんな認識を持っているかということに、自覚的なジャーナリストなどほとんどいないのが現状なのだ。
  • ぼくは野茂や伊良部のメジャー・リーグ進出以来、日本のプロ野球には関心がなくなって、今ではほとんどテレビ観戦もしないし、新聞の記事も読まなくなったが、トルシエ騒ぎでJリーグに対する興味もかなり薄れてしまった。こういう話をすると「だけど選手には罪はないし、がんばっているから見てやらなきゃ」といった応えが返ってくる。どうもそれもまた、きわめて日本人的な発想のように思えて、説得力を感じない。何より、こういった発想がマスコミ、とりわけテレビのスポーツ・ニュースのコメントには溢れていて、それにもまたうんざりしてしまうのだ。
  • 巨人が独走をはじめて、ペナントの興味は薄れかけている。あれだけの補強をすればそうなるのは当たり前で、今年はおもしろくならないことは最初からわかりきっていたはずだが、ニュースは巨人の話題探しに終始してきた。それはこれまでの視聴率に依存する保守的な体質以外の何ものでもない。
  • ぼくは今年もメジャー・リーグを追いかけているが、残念ながら佐々木をのぞいてはいいニュースを聞かないし、中継を見ていても悔しい気分になることが多い。野茂や吉井も調子は悪くなかったのに見方の援護が少なくて勝てないでいる。鈴木がずいぶん成長したが、彼も同様に勝ち星に恵まれない。伊良部は早々故障してしまった。おまけに、あの頑丈な野茂まで故障者リスト入りである。だから、新聞もテレビもメジャー・リーグのことをあまり話題にしない。
  • 野茂と言えば、今年はずいぶん苦労している。先日見た試合ではフォームが変わっているのにびっくりした。球種も増やそうとしているようだ。手を痛めたのは、そんなことが原因かもしれない。彼はいまだにインタビューを通訳を介してやっている。アメリカになじめていないようにも思えるが、メジャーで生き抜くために孤軍奮闘していることはひしひしと伝わってくる。中田だってローマに移籍したあとは思うように試合にでられない。しかし、どっちにしたって、頼りになるのは自分一人で、評価されるのは今現在の実力でしかない。
  • というわけで、何人かのスポーツ選手の動向は気になって、インターネットで追いかけているが、テレビでのスポーツ観戦はまったく楽しくない。甲子園はもう何年も前から嘘っぱちの青春物語にうんざりしている。オリンピックも陸上、サッカー、水泳、野球と興味を半減させるニュースばかり続いていて、開始が待ちどうしいなどということは全くない。せめて、野茂の故障が治って、またマウンドでの雄志を見ることができたらいいのだが………。
  • 2000年8月8日火曜日

    HANABI! はなび!! 花火!!!

    8月5日の夜に河口湖で湖上祭があった。戦後すぐにはじまった花火大会で、五つの湖がそれぞれ1日ずつ花火大会をして、最終日が河口湖。子供の頃に何度か見に来た覚えがある。夏の一大イベントで、湖畔道路は昼間から大渋滞した。

    ここのところ日中はさすがに暑く、30度を超えることもある。しかし、午後になると必ず夕立があって、後はめっきり涼しくなる。納涼というにはちょっと肌寒い感じの花火だ。しかし、湖畔に行くと、車も人も一杯で、花火が打ち上がるたびに、にぎやかにかけ声をあげている。

    間近で花火大会を見たのは久しぶりだ。去年までは京都の山崎にある我が家から、宇治川の花火を見ていたが、それは小さくて、音も聞こえてこないほど遠かった。京都の大文字の日には城陽でも花火大会があって両方楽しめたが、これもやっぱり小さくてかわいいものだった。

    河口湖の花火は南岸のホテルや旅館が隣接する場所から打ち上げられる。それをぼくは対岸から見た。近すぎると首がくたびれたり、火薬の臭いに気分が悪くなったり、音に負けてしまったりするから、ちょうど良い距離だったようだ。


    見せ場は湖に向かって飛んだ花火。これは半円上に光って、失敗したのかと心配してしまった。それからナイアガラ。見ているところからはちょうど河口湖大橋がシルエットで映った。橋の上は車の行列だった。あまり暑い思いをしていないが、やっぱり夏だな、と思う瞬間。しかし、終わった頃には足が冷えてしまった。

    2000年8月1日火曜日

    Neil Young "Silver and Gold",Eric Clapton "Riding with the King",Lou Reed "Ecstasy"

     

    ・元気な中年ロッカーの新作が相次いでいる。まずはニール・ヤング。久しぶりのアコースティックで、昔をふりかえるような内容である。「君にまた会えて良かった」と歌う一曲目。デビューしたときのバンド「バッファロー・スプリングフィールド」についての歌では、バンドがだめになった理由を思い返し、誰が悪かったわけでもないと言っている。突っ張りのやんちゃ坊主たち。

    ・今では楽しみのために歌うことができる、と言うとおり、このアルバムには何の気負いも、気取りもない。歌いたいときに歌い、つくりたいときに歌をつくって、出したいときにアルバムを出す。頭はだいぶ薄くなって、からだは重たくなったが、ヤングの声は名前の通り、昔のままでみずみずしい。ヤングというよりはボーイ・ソプラノ。しかし、その声からは、ナーバスな感じが消えて、落ち着きやゆとりが生まれている。クレイジー・ホースとやるロックこそニール・ヤングだと思う人には物足りないかもしれない。でも、ぼくは彼のアコースティックな歌が好きだ。特に今はそう思う。

    ・ふりかえると言えばクラプトンのアルバムも同じだ。ただし彼は、ロックンロールの生みの親であるB.B.キングと歌っている。ジャケットにはオープン・カーを運転するクラプトンと後ろの座席でくつろぐキングがいる。かたわらにはそれぞれ愛用のエレキ・ギター。何か冗談でも言い合っているのか、二人とも笑っている。本当に楽しそうだ。裏には30年以上前に一緒に並んでギターを弾いている写真。当然二人とも若い。

    ・「スロー・ハンド」と呼ばれるクラプトンのギターはロックを象徴するようなサウンドを聴かせてきたが、キングは彼の少年時代からのヒーローだった。だから、30年以上前の写真に写っているクラプトンの表情は真剣そのものだ。クラプトンはいつかキングと一緒にアルバムをつくろうとずっと夢見てきた。彼の笑顔はその夢が叶った喜びの表情なのかもしれない。
    ・もちろん、B.B.キングを敬愛するロック・ミュージシャンは多い。ぼくが10年ほど前に出かけたU2のコンサートは、キングとのジョイントだった。ステージではボノがいかにも楽しそうにキングとデュエットをしていて、ぼくはそのシーンを今でもよく覚えている。

    ・20世紀の後半は「ロック音楽の時代」といってもいいと思うが、そのきっかけを作ったのはB.B.キングとマディー・ウォーターズ。この二人がいなければ自分もいなかった。成功したロックミュージシャンには、そんな気持ちが共有されている。半世紀を経て、ロックも歴史になった。この先の行方を見定めるためにも、過去を振り返って見る必要がある。クラプトンのアルバムには、そんなメッセージが読める気がした。もちろん、二人の歌はノリが良くて楽しい。ロックの原点と、そして今。

    ・ルー・リードのニュー・アルバムは「エクスタシー」。ジャケットには目を閉じたそんな顔が連続的に5枚。エクスタシーとはいえ、セックスではなくドラッグでもない、気持ちよく歌っているときの表情のようだ。
    ・もっとも、歌の内容は恋人たちの出会いと別れ、夢と悪夢、共感と欺瞞といったもので、彼のつぶやくことばはいつもながら、シニカルで、しかも優しい。

    彼女が愛って何と呼んだらいいって聞いた
    そうだな、家族じゃないな
    性欲でもない
    わかってるだろうけど、結婚なんかじゃ断じてない
    結局は信頼ってことだろう
    しいて言えば、愛は時間だ(Turning Time Around)

    ・この歌を聴きながら、ぼくはG.ジンメルの「誠実(トロイエ)」ということばを思い出した。

    心には、それを一般にある道へと導いた衝撃がすぎ去った後にも、なおひとたびとられた道を固執する持続力があり、誠実をこのような心の持続と呼ぶことができる。(『社会学の根本問題』岩波文庫)

    ・愛が一時の衝動であることはよく言われている。だから恋愛と結婚は別といった割り切り方がされたりする。しかし、愛とは、そのような衝動が消えた後に残る一人の相手、一つの対象、一本の道にこだわる気持ち。心の持続。3人のロック・ミュージシャンから伝わってくるのは、何よりロックに対するこの気持ち、「誠実(トロイエ)」である。ぼくも全く共感!!

    2000年7月24日月曜日

    伐採と薪割り

    工房をつくるために、庭の赤松と唐松と杉を10数本伐採した。といってももちろん、ぼくがやったのではない。専門の人が3人がかりで、ブルドーザーまで使ったのである。伐採は当然ながら、倒す方向が一番問題になる。川に向かってということになったが、樅の木がじゃまになる。まずそれを移してということになった。あいたところからブルドーザーが進入。雑草はあっという間になぎ倒されて、すっかり見通しが良くなった。


    で、一本一本伐採。ブルドーザーが幹を押さえつけて方向を定める。チェーンソーが動き始めると、20m以上もある大木が数秒でなぎ倒されてしまう。あまりのあっけなさに、拍子抜け。1時間もたつと庭には太陽がさして、今までとは違う雰囲気。部屋の中まで明るくなった。チェーンソーをもっていたのは70歳を過ぎたおじいちゃんで、始める前と終わった後に丁寧に道具の手入れをしていた。使いっぱなしのぼくの道具が気になってしまった。 この土地は昔から森だと思っていたのだが、管理人さんが、戦前には農地だったといった。放置された後に赤松や唐松、欅や杉が自生したのだそうだ。そうすると、この鬱蒼とした森もおよそ半世紀ほど。ぼくと同じ年齢ということになる。松の成長の早さに改めてびっくり。とはいえ、生きている木を倒すのは殺生をしているようで何となく後ろめたい気もした。せめて大事にして、冬の暖房に使うことで供養にしよう、などと全く自分勝手な納得の仕方。

    伐採した木は3mほどに切って、ブルドーザーで山積みにしてもらった。二山の木材は全部で50本以上。とりあえず動かしやすい細いものから、電動のチェーンソーで30cmほどに切って斧で割りはじめた。蚊がいるし、材木の皮で傷つくから、長袖で作業をした。涼しいとはいえ、5分とたたないうちに汗びっしょり。春先までとはずいぶん違う。

    午前中からはじめたのだが1時間ほどで中断して、また夕方再開。5本ほどをやっと割り終えたのがごらんの通りの量。山のように積んで、その成果に一人にんまり。全部割るのは大変だが、しかし一回分がこれだけの量になるとすると、積み上げる場所にも苦労しそうだ。家の周囲だけではとても間に合いそうにない。
    などと考えながら、全く逆の心配もした。それで、いったいどのくらいもつのだろうか。まさか1年ということはないだろうと思うが、ひょっとしたら、使い切ってしまうのかもしれない。薪ストーブで一冬すごそうと思ったら、いったいどのくらいの森が必要なのだろうか。全然予測がつかないのは何とも頼りない。

    工房が建った後で、当然、何本かの木を植えるつもりでいる。雰囲気からいったら断然白樺だが、それは伐採する木ではない。では松や杉を植えるかというと、薪にできるまでには、少なくとも10年はかかるし、第一、見栄えが良くない。一挙に豊富になったとはいえ、ストーブを使い続けるためには、毎年山のような材木がいる。だから倒木を見つけたら、やっぱりこまめに運んで来るよう心がけなければならない。


    周辺には育ちすぎて危険になった松がかなりあるようだ。ペンション村が中心になってつくっている自治会では、その伐採も検討されている。我が家の薪の供給源にはなると思うが、森と一緒に生活するのは、いろいろと難しいことが多い。薪割りと積み上げた満足感、それに新しい庭の風景を想像しながら、思いはあちこちにうろうろ、ふらふら………。我ながらつくづく、自分勝手だと思う。

    2000年7月17日月曜日

    多木浩二『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』他

     

    ・大学院の授業でベンヤミンの『複製技術時代の芸術作品』を読んだ。メディアについての基礎文献にふれるためのもので、ぼくにとっては何回目かの通読だが、やっぱりおもしろかった。これほどメディアの変容が激しい時代であっても、中身が陳腐化することがない。だからこそ、目先の新しさを追う新刊本に惑わされて、大事な古典ともいえる本を見逃さないでほしい。学生たちにつたえたいことは何よりそこにあったが、たまたま多木浩二の『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』がでて、また新しい読み方を教えられた気がした。

    ・『複製技術時代の芸術作品』でおさえるべきことは近代化によって生じた芸術の「礼拝的価値」から「展示的価値」への変化。そして複製技術の登場によって引き起こされた芸術がもつ一回性、唯一性の根拠となる「アウラの消滅」。さらに、そこから展望される「文化の民主化」の可能性といった点だった。しかし、多木浩二は、ベンヤミンがここで見ていたのは、アウラを喪失した芸術が「史上初めて巨大な遊戯空間に生きる場を見いだす過程」だという。写真とそれに続く映画は、人間を疎外する技術に代わってあらわれた第2の技術。それは人間を解放する可能性をもった遊戯空間をつくりだす。

    ・もっとも、大衆の人気を獲得しはじめた映画は、すぐに大衆によってではなく映画資本、さらにはファシズムによってコントロールされるようになる。スター崇拝と観客礼賛。それは大衆が真に望むものではなく、望んでいると思いこまされるものでしかない。だから、そこでは相変わらず人びとは技術に操られたままでしかない。そうではなくて、技術を使って大衆が自らを解放する道の可能性………。

    ・ベンヤミンが見ていたのは絶望のなかのほんの一筋の光明だが、写真や映画はベンヤミンが期待した世界を実現したのだろうか。そうともいえるし、そうではないともいえる。その曖昧な展開をベンヤミン自身も、見通していたが、何よりそこがベンヤミンの洞察力のすごさで、多木浩二が力説しているところである。

    ・『ベンヤミン「複製技術時代の芸術作品」精読』を読んで、彼の別の本も再読したくなった。まず『ヌード写真』。裸、それも女性のそれは絵画の時代から一つのテーマだった。当然写真の時代になってもそれは変わらない。と言うよりは、ますます強調されるようになった。写真の始まりはダゲレオタイプだが、もちろん、その発明と同時にヌードは登場する。しかし、その写真は公にはされない。あくまで個人の秘蔵物として珍重される。多木は、それを公に普及した個人や家族の肖像写真と対にして考えるべきものだという。近代社会のなかでは性は結婚した男女がつくるプライベートな世界、つまり家族のなかに閉じこめられる。そしてさらに、家族のなかでもまるで存在しないものであるかのように扱われる。しかし、それが、なくてはならないこと、少なくとも男にとってはやらずには我慢ができない行為であることはいうまでもない。多木はヌード写真が生まれ、珍重された裏には、こんな社会の構造があるという。

    ・ヌード写真は、男の性的欲望が描き出す世界。だから写真に映っているのが陰毛や性器を露出した女ばかりになるのは当然である。ヌード写真は男がする視姦行為にほかならなかったからである。そして、20世紀の後半になると、そんな写真が雑誌のピンナップや広告、映画、さらに日本では、テレビでも溢れ出すことになる。それは性や性表現の自由の実現なのだろうか。多木は、そのような写真が相変わらず男による視姦行為の対象であること、性的欲望を物的欲望に転換するための手段として使われていることをあげて、一面では、ダゲレオタイプの時代から性の感覚に変化は見られないのだという。

    ・しかし、他方では、このような写真の氾濫はそれを限りなく無意味化、無力化する。限りなく無限に近い力が、同時に限りなくゼロに近い空虚なものでしかない世界。写真はまさにそのような現代社会の特質の象徴である。

    ・『ヌード写真』はヌード写真を材料にして、社会や政治や経済について考えた本である。ぼくはこのような視点に共感するが、それは多木浩二のもう一つの著書である『スポーツを考える』でも変わらない。スポーツはナショナリズムの高揚手段としてくりかえし使われるづけてきたが、逆にまた、国境や人種の壁を真っ先に破る働きもしてきた。あるいは、アマチュアリズムに顕著なように商業主義に対する拒絶感をもつ一方で、資本の論理によって盛衰をくりかえしてもきている。スポーツを対象にするおもしろさや大切さが、このような視野をもつことにあるのは明らかだが、スポーツの専門家にはまた、芸術同様、どうしようもなく欠落したものであることもまちがいない。