・夏休みになったらヘンリー・D.ソローの本を読みながら、森の中であれこれ気ままに考えてみたい。そんなふうに思っていたが、できなかった。本を読むよりは動き回っていることが多かったし、客もあった。バルコニーに座って木漏れ日の下での読書、という格好いい空想も、工房の建築工事や雷雨続きで、一度も実現しなかった。
・要するに、ソローの世界に入り損ねたのだが、気にはなっていたから、枕元に置いて、寝る前の時間を『ウォルデン』の読書に当てた。しかし数ページと進まないうちにいつでも睡魔におそわれた。だからいまだに、500ページほどの文庫を読み終えられないでいる。
・とは言え、この本は一気に読むようなものではない気もする。数ページ読んでは立ち止まり、ソローの発想を心に留めて反芻する。そうしながら夢の中………。そんな読み方がかえって、ゆっくり考える機会を作りだす。何しろこの本は1世紀以上も前に書かれたものであり、その時間の経過を埋めながら読まなければ、とても今の世界にあてはめることはできないからだ。しかし、中にはまさに核心をついた現代批判と言えるようなことばもある。たとえば、次のような文章。
ぼくらはメインからテキサスまで電信を開通しようとおおわらわだが、しかしメインもテキサスも、おそらくは通信に価するほどの情報を持ち合わせてはいまい。どちらの地域も、たとえば耳の不自由な名流婦人に紹介してほしいと熱望しながら、いざ面会がかない、彼女のらっぱ型補聴器のいっぽうの先端を手渡されると、言うべきことを持ち合わせない人と同様の苦境にある。知恵あることを語るより、口早に語ることのほうが主な目的とでも言わんばかりだ。(74p.)
・1世紀前の世界では電信、そして電話が敷設されはじめていた。つまり最初のIT革命である。ソローはそれを使っていったいどんな情報がやりとりされるのかと言う。本当に必要な情報ではなく、また本当に大事なコミュニケーションでもない、ただただ急ぐこと、あるいはつながることだけに対する脅迫観念と、それを実現していることでもつ安心感。それは何よりインターネットと携帯電話に向けられるべき批判でもある。
望遠鏡や顕微鏡ごしに世界を眺めるが、おのれの肉眼で見ることはない。化学は勉強しても、おのれのパンの作られるすべを知らず、いくら機械学を学んでも、パンを手に入れる手だては分からない。海王星の新しい衛星を発見しても、おのれの目の塵は見えず、おのれ自身がどういう無軌道な無法者の衛星であるかも見破られない。………自分で掘り出し、溶解した鉱石から自分用のジャックナイフを、そのために必要な本を読破して作った青年と、そのひまに大学の冶金学の講義に通い、父親からロジャーズ製の小刀をもらった青年と、いったい一ヶ月たったらどちらが大きく成長しただろう。(73p.
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・こんな一文に出会うとまったく耳が痛い気がしてくる。僕らは自分では何一つできなくなってしまっているくせに、ほしいもの、やりたいことに対する欲望ばかりが膨れあがっている。もちろん、問題は複雑で、ソローの指摘を鵜呑みにして社会批判をしたり、自己反省をしても、何かが変わるというものでもない。けれども、時流に乗り遅れまいと流れに身を任せてばかりでは、自分のいる場所を落ち着いて見定めることは難しい。世を捨てるというのではなく、世間から離れて一人になることで生まれるあらゆるものに対する距離感。
・ソローはボストンのコンコードに住んでいたが、そこから数マイルほど離れたウォルデン湖のほとりに小さな小屋を建てて数ヶ月暮らした。『ウォルデン』はその時の経験の記録である。この本を読むと、ソローがけっして「孤高の人」とか「文明を拒絶した生き方をした人」でないことがよく分かる。彼は最新の技術に常に注目し、それに翻弄される人びとに警鐘を鳴らした。
・ぼくはとてもソローのような高潔な人間にはなれそうにない。けれども、彼のとった姿勢をちょっとだけ引き受けて、自分の経験の中で再現のまねごとぐらいはできるかもしれない。ソローが生きた時代から100年たった世界を、ソローの目と感性と思考を頼りに見つめ直してみたい。このコラムを思い立ったのはそんな意図からだった。どこまで続くか分からないが、しばらくはソローの本につきあってみようと思う。