2002年10月7日月曜日

村上春樹『海辺のカフカ』(新潮社)

 

・今度の物語の登場人物は15歳の少年「田村カフカ」、字の読めないナカタ老人、私設図書館の館長の佐伯さんと館員の大島さん、トラック運転手の星野さん。舞台になるのは東京中野区野方、戦時中の山梨県のどこか、それから四国の高松とそこまでの旅程。さらには高知に行く途中にある深い森。

・例によって話は二つの世界を順繰りに追うことで進む。家出をする15歳の少年。戦時中に何かの原因で記憶を失うナカタさん。少年は父と二人暮らし。母は姉を連れて4歳の時に家を出た。彼には捨てられた記憶が鮮明に残っている、母親に愛されて育つという思い出の喪失。父親には何の愛情も感じない。ナカタさんは字が読めない。生活保護を受けていて、中野区から一歩も出ないで生きてきた。しかし彼は猫と話ができる。

・この、まるで関係のない二人が、何かに導かれるように高松に向かう。少年は小さな私設図書館にたどりつき。そこで佐伯さんという女性と出会う。彼女は15歳で大恋愛をしたが、相手は東京に行き大学紛争に巻きこまれて、不当な殺され方をしている。愛の対象の喪失。少年は彼女に惹かれ、彼女に母親を見つける。そして霊のように、あるいは無意識の世界から飛び出してきた虚像のようにして彼の前に出現する15歳の彼女に夢中になる。

・ナカタさんは猫探しをしてジョニーウォーカーに会う。猫を殺して心臓を食べる男。彼は自殺願望をもっていて、ナカタさんの手を借りて自殺を図る。ナカタさんが彼を刺し殺したとき、少年は突然意識を失う。気づいたときにはシャツにべっとりと血がついている。そしてナカタさんには人を刺した痕跡は何も残らない。ナカタさんは突然、西に向かって旅をはじめなければと感じる。ヒッチハイクをして、富士川SAで名古屋に住む星野さんという長距離トラックの運転手と出会う。そこから、二人の珍道中が始まる。

・まったく繋がりの感じられない二つの世界、二人の人物の話のトーンは、少年の部分はいつも通りのものだ。しかし、ナカタさんについてはだいぶ違っている。少年の時に記憶を喪失し、文字を失い、家族からも距離をおかれ、ほとんど生活実感のない時を過ごしてきた人物だが、また奇妙にユーモラスな一面を持つ。猫と話をする。敬語を使い、人間とのあいだにほとんど区別をしない。彼に出会う人たちはそこに興味をもち、また惹かれていって、いろいろ手助けをする。トラック運転手の星野さんは結局、物語の最後までナカタさんとつきあい、彼の死を看取り、彼に代わって物語を完結させる。漫画のような世界だが、また奇妙にリアリティがある。

・ジョニー・ウォーカーはウィスキーのラベルの人物だ。彼は猫をさらい、殺して、まだ動いている心臓を食べる。頭を切り落として冷蔵庫で保管。もう一つの世界では彼は少年の父親で著名な彫刻家。ジョニー・ウォーカーはいわばメタファーなのだが、父親そのものよりもはるかに生き生きしている。

・話にエネルギーを持ち込む人物がもう一人。高松で星野さんを呼び止めてポンビキをするカーネル・サンダース。星野さんはとびきりの女の子を紹介されてすっかり満足するが、カーネル・サンダースはまた異世界への扉となる石のありかも教えてくれる。彼もまた誰か、あるいは何かのメタファーなのだが、実体の方ははっきりしない。

・物語を紹介していると、それだけで終わってしまいそうだが、ものすごくよくできている。ストーリー・テラーとしての村上春樹の本領発揮。『世界の終わりとハードボイルド・ワンダーランド』『ねじまき鳥クロニクル』以来の長編だが、読んでいて先の世界が楽しみという気持を久しぶりに味わった。彼の作品はほとんど読んでいるが、『ねじまき鳥』は1994年だから、面白いと思ったのは8年ぶりということになる。

・この物語のテーマは「喪失」と「メタファー」。登場人物のすべてが、心のなかに、あるいは記憶のなかに「喪失感」もっている。その空白部分を埋めるために、それぞれの人物が関わりあう。そして登場人物はまたたがいに、誰かのメタファーとして描きだされている。関係がないのはおそらく、星野さんひとりだけだろう。ナカタさんは少年のメタファーなのかもしれないし、佐伯さんのメタファーなのかもしれない。そして佐伯さんは少年の母親のメタファー。あるいは少年の方が佐伯さんが恋した青年のメタファーなのだろうか。もう一つ、この物語には、ギリシャ神話の「オイディップス」のメタファーという意味あいもある。

・おそらく、もう少したつと、『海辺のカフカ』の謎解きがにぎやかになるだろう。そうしたい衝動を誘発する作品。きっとこれは傑作ナノダと思う。

2002年9月30日月曜日

栗と茸とコスモス

 

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・今年の夏は暑かったが、秋になると雨の日が多くて、肌寒い感じのする日もあった。そうなると、あたりにはコスモスの花が目立ちはじめる。湖畔に、休耕田に、あぜ道に、道路端に………きれいだが、それだけに、日当たりが悪くて全滅だったわが家のコスモスがうらめしい。もちろん、向日葵も同じだ。今年は3連休がつづいたが、休みになると天気が崩れる周期がくりかえされている。それでも、湖畔は人で一杯。ぼくは集中講義などで東京に行かざるをえなかったが、がら空きの中央高速の上りとは対照的に、下りはべったりと数珠繋ぎだった。
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・集中講義の帰りに修論を控えた院生をわが家に連れてきた。中間発表前の点検をしたのだが、何とも心もとない状況で、どんより雲って雨の降る天候そのものの気分だった。で、元気づけに薪割りをやらせたが、ご覧のとおりのへっぴり腰。栗拾い、栗むき、そして栗ご飯。茸もいろいろ出ているのだが、これはあたると恐いからご馳走しないことにした。

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・コスモスの他にも花はつぎつぎと咲いている。月見草、アザミ、赤つめ草、野生のラン(ほととぎす)。けれども、ススキがめだち、紅葉も色づきはじめたから、そろそろ花の季節も終わりに近づきつつある。最低気温が10度を切るようになって、夜は灯油のストーブが必要になった。富士山にも初冠雪の知らせ。河口湖では、夏の終わりは冬の始まりでもある。



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2002年9月23日月曜日

やっぱり野茂が一番!


・今年の野茂は本当にすごい。投げたら負ける気がしないし、実際に負けない。終盤にきての毎試合の好投には賞賛をこえて尊敬の念をおぼえてしまう。それにしても動じない、あの強心臓は驚きだ。

・今年野茂は古巣のドジャースに復帰したが、同時に石井も入ってきた。その前半戦で石井は出ると勝ちの好調さ、幸運さで、一方の野茂は好投しても報われない試合が続いた。一時はもうすぐ10勝の石井と2勝5敗の野茂という開き。例によって野茂はマスコミに対してぶっきらぼうだから、話題はもっぱら石井。イチロー、新庄とあわせて、野茂はすっかり影に隠れてしまっていた。ところが、そんなことに無頓着なところが彼のすごさで、5月後半から成績は好転しはじめた。それ以降14勝1敗(9月22日現在)で、チームの完全なエースになっている。

・ところがである、例によってNHKの中継はイチロー中心。マリナーズが負け続きでプレイ・オフ進出の可能性がなくなってからも、消化試合を律儀に中継している。一方、ジャイアンツとの熾烈な争いを展開しているドジャースの試合は、石井が打球を頭に受けて戦線離脱をしたから、野茂が出る試合以外は無視されたままだ。こういう融通性のなさにはいまさらながらにあきれてしまう。

・日本人の出場する試合中心という方針だから仕方がないのかもしれない。けれども、それならばなぜ、今年大化けして13勝もあげた大家の投げる試合を中継しないのか、吉井だってローテーションでがんばっているじゃないか。ニュースでも「今日のイチローは何打数何安打で打率は〜」と毎日やっているが、勝敗の結果は無視といったことがよくある。NHKは本当にメジャー・リーグのおもしろさを日本人に広める気があるのか、疑ってしまう。

・野茂はもうすぐメジャーで100勝をあげる。日本での成績とあわせて200勝投手になるのは時間の問題で、たぶん来シーズンには実現するだろう。三振の数と合わせて、こんなすごいピッチャーがいることに、なぜメディアやスポーツ・ジャーナリズムは敬意を払わないのだろうと思う。何より野茂は日本のスポーツ界を変えた革命家なのである。そのすごさがわからないのは、たぶん、スポーツの世界に起きた大きな変化に心底気づいていないからだ。

・おなじことはサッカーにもいえる。中田の話題がめっきり減って、今は稲本と中村ばかり。新らしもん好きで飽きやすい性格は救いがたい。中田はインタビューをイタリア語でしかしないようだ。独自のHP開設もふくめて、日本のメディアを無視する姿勢は徹底している。野茂のぶっきらぼうさも、あれは一つの批判的態度なのかもしれない。そんなふうに言いたくなるほど、メディアは内向きで、しかもミーハー志向だ。スポーツ選手の評価は記録の積み重ねが第一。勝利、三振、打点、ホームラン、安打、打率、あるいは得点にアシスト。目先の関心に振り回されていては、選手がかわいそうだし、失礼だろう。

・石井が頭に打球を受けた試合は見なかったが、あらためてスポーツの怖さを感じた。彼にとっての今シーズンはこれでおしまいかもしれないが、日本でお山の大将だったから、活躍もスランプも、そしてケガもふくめて、ずいぶんいい経験をしただろうと思う。ところで、野茂は近鉄時代にやっぱり頭に打球を受け、陥没骨折をした経験があったそうだ。で、8日後にはマウンドに登ったというから、その怪物ぶりにはあきれてしまう。ドジャースのチームメイトも彼のタフさには驚き、敬服していて、「ウォリアー」とか「馬車馬」と呼んでいる。体調の維持を第一に考えての生活という自覚も徹底している。だから、エースというだけでなく、チーム・リーダーとしても頼りにされているようだ。

・そんなわけで、プレイ・オフ、そしてワールド・シリーズと野茂がくりかえしいう目標が今年こそ叶うように、と最近はインターネットでドジャースの動向を追いかけて一喜一憂したり、ファンサイトをのぞいたりしている。野茂の投げる試合はビデオにしっかり撮って、いい場面をくりかえし見てにんまり。8年目の野茂マニアはもうすっかり病膏肓だ。 (2002.09.23)

2002年9月16日月曜日

夏休みに読んだ本、読み残した本

講談社選書メチエ<br> 身体の零度―何が近代を成立させたか・何の予定もなく、たまたま見つけた本を、ただ楽しみだけのために読んでみたい。「読書の快楽」。ぼくの夏休みにしたいことの一つ。だが、一度も実現していない。夏休みはまとまった時間がとれるから、どうしても仕事のための読書の時間になってしまう。読むというよりは読まされる気分。読みたいではなく、読まなければの気持が強いから、楽しいというより、苦痛が先に立つ。今年もそんな感じで休みが終わろうとしている。

・今年の宿題は二つ。一つは翻訳で、これは同じところをくりかえし読む読書だ。何度も読んでいると、訳した文章に何の違和感ももたなくなる。ところが、人から指摘されて、原文と照らし合わせると、何?というおかしな訳になっていることに気がつく。たしかにわかりにくい、意味が通じない。で、いったん直すと、その前後も気になるから、時間はどんどん過ぎていってしまう。そんなことをやっていると、関係ない本が無性に読みたくなる。しかし、今年はもう一つの宿題があるから、一つに厭きても、またもう一つのねばならない読書をしなければならなかった。

・実は池井望さんと平野秀秋さんから「肉体論」で本を出すから君も書けと命令されているのだ。君の担当は「アドヴァタイジング・メディアとしての肉体」。そういわれれば、断るわけにはいかない。といって、あらかじめ問題意識があったわけではないから、「さぁ、何を書こうか」と考え、めぼしい本を探してそれを読むことからはじめることになった。キイワードは「セクシャリティ」か、と思って数冊を用意して、ぼちぼちと読みはじめた。

・まずは歴史から。『挑発する肉体』(H.P.デュル、法政大学出版局)『性の歴史I,II,III』(M.フーコー、新潮社)『文明化の過程』(N.エリアス、法政大学出版局)『フランス革命と身体』(D.ウートラム、平凡社)………。どれもヨーロッパの歴史で、近代化の過程で変容した体やそれに関わる生活習慣、あるいは行動パターンと近代化(のイデオロギー)との関係についてふれている。清潔感の誕生や性にたいする禁欲的な意識の意味などそれぞれ面白い。しかし、まだすべてを読み終えたわけではないが、書こうとするものには直接役にたちそうもない。

・N.O.ブラウンの『ラヴズ・ボディ』(みすず書房)はもう20年以上前に原文で読みはじめて、難しくてやめた本だ。フロイト派の哲学者で60年代にはW.ライヒの『性と文化の革命』とあわせて、よくとりあげられていた。どちらも抑圧された性意識の解放を提唱する本だが、ライヒの方が行動的で、ブラウンは性を思索する。

・ところがある。彼によれば、文化は、体を加工し、そこに意味づけをすることと切り離せない。現代は、その文化的に強制される身体加工の呪縛が解けた時代で、それを「身体の零度」と名づけている。「自然な体」。しかしその自然はまた、テクノロジーや科学と密接に関係せざるを得ないし、文化的意味を捨象した身体加工は一種の流行として復活している。この本を読んでやっと、こんなところで書けそうかな、という気がちょっとだけした。しかし、まだまだ漠然としている。

・アンソニー・シノットの『ボディ・ソシアル』は、面白そうだと思って買ったまま積んどいた本だ。「社会的身体と物理的身体との対立」。最近は健康に対して誰もが自覚的だ。運動をしなさい、歩きなさい、不規則な時間の過ごし方はやめなさい、バランスのある栄養を摂りなさい、と周囲の人もメディアもうるさくいう。ぼくも子どもに、ちゃんと食べてるかなどと、ついつい言ってしまう。しかし、健康志向もやっぱり社会的身体が求める理想からくるもので、それが本当に物理的身体にいいのかどうかわからない。第一、物理的身体にとって「いい」とはどういうことなのか。この本を読みながらそんなことを考えた。

・精神と肉体、内面と外見。その分離が曖昧になったり、前者の優位性が薄れているのが現在の傾向で、人はますます容貌や姿形で、その人間性を判断したり、されたりするようになってきた。だからこそ、「アドバタイジングとしての肉体」か。と考えたら、ちょっと方向が見えてきた気がした。

・ところで、日本ではもっぱら、この手の話は「身体論」と名づけられていて、けっして「肉体論」とは言わない。英語ではどちらも「ボディ」なのだが、どうしてか。「身体論」の方が格好いいということなのか。しかし、ぼくは「身体」と聞くと「身体検査」「身体測定」を連想してしまう。「肉体」の方が、ずっと興味をそそりそうなのだが、その興味をそそる肝心の部分、つまり「セクシャリティ」を避けて通ろうとするためなのかもしれない。インテリの抑制だとしたら、もったいない話だ。

2002年9月9日月曜日

夏休み回顧

 

forest19-1.jpeg・回顧というのはちょっと大げさかなと思う。特にどこかに行ったわけではない。夏休みのほとんどを自宅で過ごした。そのあいだに何か特別なことをしたわけでもない。しいてあげれば翻訳の仕上げだが、これはまだ終わっていない。実は2版の改訂版が9月1日に発売になるとAmazon comに載って、それを待って仕上げをと思って中断したのだが、結局誤報だとわかって慌てて再開したりしたのだ。もう夏休みもあとわずかだし、終わりにしたいと思って、ここ数日はがんばっている。
forest19-7.jpeg・その他に何をやったかなーと考えると、ほとんど何も出てこない。といって毎日惚けていたわけでもない。外出したのは数日で、あとはほとんど家にいた。もちろん客は数組あったから、暇だったわけでもない。何もしなかったわけでもないのに、何をやったか記憶にない。今年の夏休みはそんな感じで終わろうとしている。

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・東京からは、暑くて何もする気にならない、という話が聞こえてきた。河口湖も例年になく暑かった。日中は2階の書斎にはとてもいられないほどだったし、夜も窓を開け放して寝る日があった。去年までとはずいぶん違うと感じた。けれども、おかげで冷麺に素麺、それに蕎麦を満喫した。つまり、冷たいものを食べたいなと思うほどには暑かったということだ。冷蔵庫の製氷はわが家では夏でも無用の機能だったが、今年は重宝に使った。
・丹精込めて育てた向日葵とコスモスは過保護がたたってか寂しいかぎりの成長に終わった。この二つの植物は何より日差し。一日中太陽にさえ当たれば、あとは何もいらない。そのことがよくわかった。家のまわりの森のなかでは、どんなに手を入れても育たない。来年もう一度、日当たりの良い場所を選んで挑戦したいが、肝心の種をまたふきんから調達してこなければならない。


forest19-4.jpegforest19-3.jpeg・やり残したことといえば富士登山。パートナーの膝の状態が良くなくて、これはまた来年以降に持ち越し。何しろ下り坂をちょっとでも歩くと膝が痛くなるのだから、それを直さなければとても無理。そのかわりに下の息子が来たときに五合目まで車で行って御中道(おちゅうどう)をちょっとだけ歩いた。五合目には富士山をぐるっと一回りする歩道がある。いまは西側の大沢崩れで道は寸断されてしまっているが、以前は登山とは違うもう一つの富士山の楽しみ方の一つだった。
・雲がかかって下も上も見にくかったが、時折のぞく山頂や本栖湖や精進湖はきれいだった。麓に流れるように続く樹海の緑と空の青、それに真っ白な雲、時折かかる霧。爽快感をたっぷり味わった。

forest19-5.jpeg・夏休みの間にしておこうと思ったことがもう一つ。薪の確保も思うほどでなはなかった。周辺を車やバイクで走ったときには伐採した木ばかりを探しているのだが、これがなかなか見つからない。あっても重すぎたりながすぎたりして車に積めなかったりする。チェーンソーを持ちだして切り刻むのは大げさで、のこぎりを使うのだが、ちょっと太いと一つ切ったらもう腕がなまってしまう。若い客がきたらさあ、行くぞ、とはりきるのだが、都会育ちの若者は今ひとつ力にならない。
・9月の声を聞いたら急に忙しくなってきた。スポーツ社会学会からは査読の依頼がきたし、マスコミ学会では反対に何人もの人に査読のお願いをしなければならなくなった。院の集中講義の準備もしなければならない。気持と体を仕事モードに変えなければならないのだが、そう考えると憂鬱になって胃が重たくなってくる。毎年のことだが、この時期は本当にメランコリーの秋だ。

2002年9月2日月曜日

Bruce Springsteen"The Rising"

 

・ブルース・スプリングスティーンが新しいアルバムを出した。Eストリート・バンドとは18年ぶりのスタジオ録音だそうである。だからといって、待望のという感じがしないのは、この間にコンサート盤やらベスト盤といくつも出したせいだろう。しかし、ギターの弾き語りだけだった"the ghost of tom joad"に感心して以来、ろくなものは出していないと思っていたから、ひさしぶりに聴いてみたいという気になった。
# もっとも、彼の歌を聴いて、やっぱりいいなー、と思ったことが、去年あった。ニューヨークの惨劇のあとにテレビで中継された「A Tribute to Heroes」で歌った曲。'My city of ruin"は、あの事件についてではないが、あのときの街の様子、人々の心に通じる感じがして、いいい歌だと思った。


bruce1.jpeg 冷たい黒い地面に 赤い血だまり
そして雨が降る
教会の扉が風にあいて オルガンが聞こえてくる
だが、集会は終わった
廃墟の街、 ぼくの街 "My city of ruin"

・ニュージャージー出身のスプリングスティーンは、地元での救援活動をやりながら、このアルバム"The Rising"をつくったようだ。だから、それとわかる直接的な描写をした歌もある。

空が落ちてきた 血の筋をつけて
君がぼくを呼ぶ声が聞こえたが
それっきり君は煙の中に消えてしまった
階段を上り、火の中へ "In to the fire"

どんなふうに感じたか覚えていない
街の新聞に載った自分の記事を読むとは思わなかった
赤茶けた煙の中で、勇敢な若者の人生がどう変えられたかだって
ダーリン、キスをして
ぼくは何者でもないのに "Nothing man"


・素直な描写がドキュメント・フィルムのように状況をリアルに描きだすようだ。これは彼の持ち味だし、アメリカのフォーク・ソングの伝統でもある。何か心を揺さぶるような社会的出来事に出会って、そのことを歌にする。このアルバムは、その典型のように思う。人を激励し、鼓舞することが得意なスプリングスティーンの人柄は、間違えると報復に突き進んだアメリカ人の発想と共鳴してしまう怖さをもつ。このアルバムも、そのように聴かれる危険を感じるが、そうではない一面も、たしかにある。彼が見つめているのは、ニューヨークであの出来事にさまざまな形で遭遇した人たちのそれぞれの素顔なのである。
・肝心のEストリート・バンドとの18年ぶりの共演だが、なつかしさも新鮮さもあまり感じない。といって、けっして悪いというのではない。もう何の違和感もなく、すーっと入ってしまって18年ぶりなどという広告の文句が奇異に聞こえるほどなのだ。歌がどんどん生まれてきて、それをほとんど凝ることなくそのまま音にした。そんな感じに仕上がっている。アルバムは商品だから広告するのは当然だが、内容とは無関係に18年ぶりの共演を売り物にしようというのは、何とも貧弱な発想だ。売りたいと思ったら、まず自分でも中身をじっくり聴いて味わう。レコード会社の人間にはそんな気持は皆無なのだろうか。ともあれ、これが今年のベスト・アルバム。来年のグラミーもこれで決まりかな、と思った。

2002年8月26日月曜日

携帯の怪

・相変わらず、AOLへのジャンク・メールはひどい。ほとんどがアメリカからのもので、アドレスの変更をするか、AOLをやめてしまうかどうか迷っている。対照的に大学宛のメールには怪しいものは少なくなった。携帯メールにはアドレスの工夫が功を奏したのかへんなメールはまったく来ない。前回も書いたが、ほとんど用なしでほったらかしてあるから、オフ・モードのままで何日もといったことがしょっちゅうある。必要になるのはだれかと会う約束をしたときとか、パートナーと出かけたときにする居場所の確認。あるいは子どもとの時折のやりとりぐらいだ。ぼくにとっては、そんな存在感のない携帯だが、ちょっと前にとんでもないめにあった。

・パートナーと二人で遠距離ドライブをしていた時のことである。彼女の携帯がアダムス・ファミリーの音楽を鳴らした。ところが、電話に出るともう切れている。例によってワン切りかと思ったが、電話番号を見てびっくり。何とわが家からかかってきているのだ。いったいどういうことか。二人で考えこんでしまった。いま、わが家には誰もいないはずで、そこからかかってくるということは、誰かが侵入したということ。しかし、たとえそうだとしても、彼女の携帯番号を知っていなければ電話は鳴らない。そうすると、「留守電にしてきたから、それをチェックすれば『お急ぎの方は………へ』で番号がわかる」と彼女。彼女はもうすっかり、泥棒に入られたと思いこんでしまっている。「どこから入ったんだろう」「鍵はかけたし、窓はどこも二重ガラスで、そう簡単には割れないはず」そんな彼女のことばを聞きながら、はっと気がついた。「あなたねぇ、電話に留守電中の転送をセットしているんじゃないの。」ところが「絶対そんなことはない」と彼女。「じゃー、なぜ泥棒がわざわざ、携帯に電話をしてくるの?」「近所にいるかどうか、確かめてるんじゃない?」「………」

・時間はちょうどお昼。実はアダムス・ファミリーが鳴るまでは、昼飯何を食べようかという話をしていたのだ。とにかくぼくは空腹だ。で、車を停めてラーメン屋に入った。ぼくは冷やしラーメンを注文してがつがつと食べたが、彼女はちっとも箸がすすまない。温かいラーメンだから、麺がどんどんのびてしまう。もったいないからそののびた麺を、ぼくが食べた。「近所のKさんに見に行ってもらうわ。」彼女は携帯で、Kさんにことの次第を話す。しばらくすると、Kさんから別に変わった様子はないという連絡が来る。窓から中を見ても、人がいる気配はなかったようだ。「でもどこかに隠れているのかもしれないし、外からは見えないところにいるのかもしれない。」不安は少しも解消されない。で、ドライブは取りやめて、急遽帰ることにした。

・宿泊予定を携帯でキャンセルし、Kさんにも「帰る」という連絡を入れる。泥棒が入ったとしたら、何を盗るか。現金はないし、モノは持っていかないだろう。そうすると心配になるのは預金通帳。「ハンコは一緒?」とぼくが聞くと、「そうだ」と彼女。そういう話になると、また新たな心配で頭は一杯になる。で、連絡して、引きだしをストップしてもらう手続きをする。もちろん携帯だが、あちこちとたらい回しにされる。車は高速道路を突っ走っているから、途中でつながらなくなってしまったりもする。ため息、イライラ。何回も電話して、やっと手続き完了。やれやれ………。

・都内の渋滞に巻きこまれたり、道を間違えてうろうろしたりして、やっとわが家に戻ったときは、もう暗くなっていた。ぼくは車に入れてある登山用のステッキ、彼女は折り畳み傘を手に持って玄関の扉を開けて中に入る。明かりをつけて用心深く中へ………。居間にもキッチンにも風呂場にもいない。ゲストルーム、2階の書斎、それから寝室とすべてを確認して、誰も侵入していないことを確信した。特に荒らされた様子もない。やっと、ほっと一息。

・留守電になっている電話を確認すると、携帯にかかってきた時間に一件入っていた。やっぱり転送のセットをしていたのか、と思ったが、パートナーは記憶にないという。翌日にNTTで調べてもらうと、転送以外には考えられないという。マニュアルをみながら確認すると、転送のセットがしてあった。やれやれ………。

・電話に限らず、いろいろ便利な機能がついていて、これはいい、おもしろいとセッとしてみることが多い。覚えていれば、どうということのない機能だが、いったん忘れてしまうと、とんでもない不安を呼び込んでしまう。歳のせいか、最近、二人とも物忘れが激しい。何かを思いついて居間から2階の書斎に行く。階段を上がりながら、何をしに来たのか迷ってしまう。書斎を見回して下に戻る。すぐには思い出せない。で、しばらくすると、ハッと思い出す。そんなことが日常的だから、特に必要でもない便利な機能はセッとしないこと。それが今回の珍事件の教訓である。

・携帯について奇妙なケースをもう一つ。これもドライブ中のことだ。運転しているぼくの携帯が珍しく鳴った。運転中だからとパートナーに渡したのだが、どうしたらいいのかわからないからと何もしない。もう長時間の運転でくたびれていたこともあって、ぼくはかっとして口喧嘩になった。それで家につくまで二人は無言。着いてから携帯をチェックすると、何とパートナーからの電話だった。「あなたからだよ」「どうして?」パートナーの携帯もチェックすると、同じ時間に発信した記録が残っている。二人が車に同乗していて、一方がもう一方に電話をした。受けた携帯は確かに鳴ったし、記録にもそう残っている。しかし、実際には、そんな電話はしていない。この怪の理由はいまだに突きとめられていない。

・ぼくにとってやっぱり携帯は、無用の長物、というよりはやっかいなものでしかない。そんなことを再確認した二つの事件だった。