・ボブ・ディランには公式のアルバムの他に数多くの海賊版がある。出所の怪しさや音源の悪さにもかかわらず、貴重なもの、あるいは幻のレコードなどとして珍重されたものが少なくない。そんな海賊版の数々が公式に発売されるようになって、僕もそのすべてを購入してきたが、今回の"Bob Dylan Live 1975"は、そのブートレグ(海賊版)シリーズの5作目である。
・ディランはデビューして半世紀近くになる。華々しく活動した時期と沈潜した時期を何度も繰りかえしてきているが、1975年は、その何度目かの活動期。「ローリング・サンダー・レビュー」と名づけたコンサート・ツアーを全米で行った。移動はグレイハウンドを改造した大型バスで、乗りこんだのは、ディランの他にジョーン・バエズ、ジャック・エリオット、ロジャー・マッギン、それにアレン・ギンズバークなどで、途中参加者はベッド・ミドラー、ジョニ・ミッチェル、それにモハメド・アリ………。
・場所によっては何の予告もなしにいきなりコンサート、といった時もあったようだ。ひさしぶりに活動を再開したディランが次にどこに登場するか。会場に集まった人たちの興奮ぶりは想像に難くないが、まさに旅回りの音楽一座といった趣向で行われたコンサートは、なによりステージに上がる人たちが心の底から楽しんでいる。そのライブの様子は、同じブートレグ・シリーズで出されている1966年のロンドン公演(ロイヤル・アルバート・ホール)の殺伐とした様子とはまったく対照的である。
・このアルバムには例によって写真の豊富な50頁を超える冊子がついていて、ツアーの様子を再現する文章もついている。けれども僕は、アルバムを聴いているうちに、このツアーを追いかけた『ディランが街にやってきた ローリング・サンダー航海日誌』(サンリオ、1978年)を読み直したくなってしまった。書いたのはサム・シェパード。当時は若手の劇作家で、ツアーの出発直前に記録映画を作るために電話で呼び出されたのだ。この本は、そんな突然の誘いに対する彼の驚きと戸惑いと興奮の気持から始まっている。シェパードはカリフォルニアからコンサートの始まるニューヨークまでアムトラックを乗り継いで辿りつく。
・コンサートが行われたのはアメリカの北東部、マサチュセッツ、ニュー・ハンプシャー、コネチカット、そしてメイン州。ジャック・ケルアクの墓を訪ね、そこで歌い、ルービン・カーターの保釈を訴え、「ハリケーン」を歌う。今あらためてコンサートのライブを聴き、本を読みなおすと、このツアーの意図がよりはっきりしてくる。
・ディランとその一行はこのツアーで自分たちのルーツを辿り直している。フォークソング、ビートニク、公民権運動、あるいはもっとさかのぼって、清教徒やソローを。自分の出自、アメリカの由来を見つめ直す。それは60年代の喧噪が沈静化して、あらためて詩作や音楽づくりをしはじめたディランの視線の向けどころであるし、ツアーに参加した人たちが共感したところだったのだと思う。
・しかしまた、彼は現実にも目を向ける。元ヘビー級世界チャンピオンのボクサーで殺人罪で投獄されているルービン・カーターの保釈を求めること。ディランは事件のあらましを歌にした「ハリケーン」をつくり社会の目を向けさせ、その歌を熱っぽく歌う。このアルバムのなかでも、珍しく歌う前に曲の説明をするディランがいる。20年も投獄されたルービン・カーターは、翌76年の3月に再審を認められ保釈された。
・ディランはこのあと78年にはじめて日本にやってきた。長年のアイドルとはじめて遭遇した僕の興奮は今思い出してもかなりのものだが、アルバムを聴きながら、そんな僕の70年代や60年代までも思い返してしまった。ちなみにこのホームページのタイトル『珈琲をもう一杯』もディランが75年に出したアルバム"Desire"におさめられた"One
More Cup of Coffee"から借用したものだ。75年はディランが一番生き生きしていた時で、 "Bob Dylan Live
1975"を聴くと、そのことがよくわかる。
真っ赤な炎が耳に突き刺さって高く転がり
強力な罠が燃え上がる道路に炎とともに跳ねる
思想を地図として
「すぐに、崖っぷちで会うさ」と僕は言った
熱くなった額の下には誇り
あー、その時の僕はずっと老けていて
今の方がずっと若い "My Back Pages"
・うん、まったくそのとおり。で、今でもディランは若い。他のミュージシャンの誰よりも。 (03/06/16)