2004年5月25日火曜日

Lou Reed"Animal Serenade",Patti Smith"trampin'"

 

・ ルー・リードの"Animal Serenade"は久しぶりのライブ盤だ。2003年6月で、場所はロサンジェルス。しかし、歌われている曲はほとんどニューヨークに関連している。静かに、じっくりと歌われていて、明るく陽気なロスの聴衆には受けない気がするが、リードと客とのやりとりもおもしろくて、彼の充実した気持ちが伝わってくる。2枚組みでたっぷり2時間のライブ盤だが、僕はくりかえし何度も聴いている。

・アンディ・ウォホルのことを歌った"Small Town"から始まって、ヴェルヴェット・アンダーグラウンド時代の曲、ビートニクの詩人ウィリアム・バロウズにまつわる歌、ニューヨークの風景や人の様子を描いたもの、そしてエドガー・アラン・ポーをテーマにした 前作の"The Raven"。まるで、自分の足取りや心の軌跡を辿るように構成されたステージで、彼のアルバムを全部聴きなおしてみたい気になってしまった。

・"Small Town"はアンディ・ウォホルの故郷であるピッツバーグを歌っている。ピカソともミケランジェロとも無関係な町。そんな町とそこに住む自分から逃れたくても逃れられなくて神経衰弱になってしまったウォホルの歌だが、リードは歌いながら客席に「ここはスモール・タウンか?」とくりかえし聞いている。聴衆の反応は圧倒的に「ノー」。何しろロサンジェルスなのだからあたりまえだが、その後で、彼は「この町を離れなきゃって思うだろう」とくりかえし、「離れろ!」とくりかえす。続けて歌った曲と合わせて、若い聴衆に対して皮肉な目と叱咤激励したい気がないまぜになっているようで、笑ってしまった。
reed5.jpeg


金持ちの息子は父親が死ぬことを待ち望んでいる
貧しい奴はただ飲んで泣くだけ
で、おれはというとまったく無関心
運のいい男は得てして何もしないが
恵まれないヤツがしばしば、何事かをし始めるものだ
"Men of Good Fortune"

・ニューヨークの風景や人模様を歌う曲を聞いていると、知らない場所や知らない人なのに、その景色や有様がまるで一枚の絵を見るように浮かんでくる。豊かさと貧しさ、虚飾とゴミ、若さと老い、喧噪と沈黙………。特に"Dirty BLVD"はいい。あるいは、そこにリード自身が登場する歌。

夜のハドソン川の畔に立っている
向こう岸に見えるのはジャージー
ネオンライトがコーラの名前を綴っている
タイムズスクエアのどんな広告塔よりも大きく
君の名前が光り輝いて踊ってもいいはずじゃないか
(Tell It to Your Heart")

・ 歌う詩人といえばもう一人。パティ・スミスの"trampin'"は久しぶりに出たニュー・アルバムだ。前作の"LAND"はベスト・アルバムで、デビュー以来の総括といった内容だったから、今度のアルバムは2000年に出た"Gan Ho"以来ということになる。静かな歌と激しい歌、自分を見つめる詩と政治に向けたメッセージが混在していて、パティの世界は健在だ。
patti4.jpeg


太陽に向かって散歩をしても、けっしてたどりつけない
円を描くような夢を追いかけても、けっしてつかまえられない
左に左に左に踏み出し、右に右に右に踏み出す
心の心の一歩のために、手がかりを探し続ける
(Stride of the Mind)

チグリスとユーフラテス川の土手
メソポタミアには深い無関心が漂っている
足下の大地に穴をあけて地球の血を絞り出す
小さな宝石のブレスレットのために石油を一滴
涙を流しながらルビーを差し出す
まさにアラビアの悪夢 (Radio Baghdad)

2004年5月18日火曜日

風景が緑に変わった

 

・去年と違って今年は春が早かったが、5月になると、まるで夏のような陽気になった。だから森の植物の活動は早く、勢いも去年とはまったく違っている。近くを散歩して見つけるのは、もうおなじみの花や木ばかりだが、去年の印象が薄かっただけに、今年はまたあらためて新鮮に感じられる。


forest33-2.jpegforest33-6.jpegforest33-4.jpeg

 ↑左から、富士紅空木(うつぎ)、山ツツジ、サルスベリ
 ↓上段左から、藤、都忘れ、すずらん、下段左たらの芽、右タンポポ


forest33-1.jpegforest33-12.jpegforest33-10.jpeg

forest33-7.jpegforest33-3.jpeg


・この時期にはまた、薪にする木を探さなければならないのだが、3月に西湖の湖岸で見つけた後、連休前に河口湖でも見つけた。西湖は道路工事、河口湖は造成による伐採だ。これで、次の冬の分は確保できた。
・連休後に、二カ所から家の木を切ったので持って帰ってくれないかという連絡がはいった。二件とも東京の三多摩で、大学の帰りに車に積んで運んだ。東京から木を運ぶのはおかしなものだが、どちらも落ち葉が近所迷惑になるからという理由だった。落ち葉や虫を嫌ったのでは、東京からはますます緑がなくなってしまう。ガーデニング・ブームで気に入った木を植える家が増えているとはいえ、狭い庭では大木になったら手入れもままならなくなってしまう。引き受けた木は、それなりに存在感があったのかもしれないが、わが家に運んで材木置き場に積んだら、ほんのわずか。燃やしたら一週間がやっとといった程度のものだった。


forest33-8.jpegforest33-9.jpegforest33-11.jpeg


himenezumi1.jpeg・屋根裏のムササビは健在だが、別荘の住人が犬や猫を連れてくると、落ち着かなくなる。夜な夜な台所にやってくるヒメネズミは最近見かけない。森の食べ物が豊富になったのかもしれない。もっとも、昼日中に庭で見かけた。日なたのせいか灰色が濃い。目がカワイイのだが、残念ながら後ろ姿だけ。

・暖かくなって、日中は外に出てベランダで過ごしはじめた。野鳥の鳴き声がにぎやかなのだが、シャッター・チャンスをつかまえるのは難しい。

2004年5月11日火曜日

月尾嘉男がカヤックでホーン岬に行った


月尾嘉男はテレビにも良く出るコンピュータ研究家だが、NHKのハイビジョンで、カヤックを使ってホーン岬に挑戦した記録を見た。ホーン岬は南米の最南端にあって、海の難所として知られている。陸路でいけるところまで行って、あとはカヤックというわけだが、その距離は尋常ではない。島から島、海峡から海峡へというルートだから潮の流れも早いし、天候が急変する。


彼は東大を定年前にやめて、独自の活動をしている。その一つにカヌーやカヤックを使って、日本の河川や海岸の環境破壊や汚染の状況を観察するという試みがある。今回の冒険はいわばその延長にあるわけだが、とても一人で冒険できるようなコースではない。番組ではプロのカヌーイストが3人つき、ドキュメントを制作するスタッフが乗る船が伴走した。一ヶ月以上の時間、何人ものスタッフ、それ相当の資材や食糧。カヤックでホーン岬にたどりつく行程はもちろんおもしろかったが、見ていて感じたのは、一人の冒険とそれを記録することに費やされる時間や労力や費用の大きさの方だった。


これはたぶん、意地悪な見方だと思う。60歳を過ぎた人が冒険に挑戦する。それがコンピュータや環境問題を研究する学者であれば、興味深い試みであることは間違いない。何しろ彼は、日頃から日本の海岸や河川をカヤックを使って観察しているのだから。コンピュータ化と自然破壊、人口の増加と食糧危機、豊かさや便利さの追求と地球の破滅。月尾嘉男は今、そのことについて最も精力的に活動し発言する人でもある。


しかし、僕が意地悪な見方をしてしまった理由もたぶん、そこにあったのだと思う。彼が『縮小文明の展望』(東京大学出版会)で提唱するのは「生活水準の向上→経済活動の拡大→資源消費の増大→環境問題の拡大」という現在の図式を「生活水準の向上→経済活動の拡大→資源消費の減少→環境問題の緩和」という図式に変えることである。ここには具体的には、コンピュータなどの最新技術はどのようにしたら、資源の浪費ではなく、節約に使えるのか、食べずに捨てられる食糧を減らすためにすべきことは何か、また、エネルギーの効率の悪い使われ方はどのようにしたら是正できるか、といった無数の課題がある。


さまざまなデータを駆使して彼が描きだす現代文明の異常さには説得力がある。地球の誕生から現在までを1年間(地球時計)に換算すると、最初の人類が登場するのは大晦日の12月31日で、現在の人間の直系の祖先が現れるのは23時58分頃になるそうである。その1年間の最後の2分間に起きたこと自体が地球にとっては異常なことだが、産業革命以後に人類がしてきたことはさらに異常で、地球時計ではわずか数秒の

時間だという。人口の爆発、資源の枯渇、環境の破壊、多くの動植物種の死滅………。
もちろん、その数秒間で、人間はかつてないほどの豊かさや便利さを手にし、知識や芸術や娯楽を享受してきた。しかし、その破綻が目の前にやってきていることは明らかで、大きな転換をはからなければ、地球に未来はない。このような指摘なのだが、いったいどうしたら、そのような危機は回避できるのか。それは数値的に見れば、途方もないものである。たとえば温暖化を食い止めるために炭酸ガスの総排出量を減らすためには、一人当たりの量を1900年頃の水準に戻す必要があるという。


生活水準を変えず、しかも経済活動を拡大させながら、エネルギーの消費や環境の破壊を100年前の数値に低下させる。こんなことは絶対不可能なことだと思う。月尾嘉男が鳴らす警鐘はきわめて深刻なものだが、それに対する対応策はまた、何とも些細な例の連続で、また抽象的でありすぎたり、技術の進歩に頼りすぎていたりもする。


大がかりな冒険をテレビ番組の制作として行う。それがオールで漕ぐ一人乗りのカヤックでというのは、何ともエネルギーの無駄づかいではないのか。マゼラン海峡の雄大さや厳しさを映し出し、波や潮の流れと格闘するさまを見ていて、僕はそんなことばかりを考えてしまったのだが、それはまた『縮小文明の展望』を読みながら感じたちぐはぐさと同じものでもある。

2004年5月4日火曜日

布施克彦『24時間戦いました』ちくま新書

 

・日本は世界のなかでもとびきり豊かな国で、平均寿命もダントツだ。しかし、老後の生活の見通しはというと、はなはだ心許ない。定年まで働けるのか、年金はもらえるのか。とりわけ不安に感じるのは、その数が多い団塊の世代だろう。
・日本が経済的に頂点に達したのは八十年代で、団塊の世代はその屋台骨を支える役割を果たしてきた。ところがバブル期後の不況の時代になると、真っ先にリストラの対象になり、定年が間近に迫った今、年金問題に遭遇している。戦後の食糧難の時代に生まれ、受験戦争と大学紛争をくぐり抜けた世代はまた、その老後の生活においても生存競争を強いられるのだろうか。
・本書は、団塊の世代に属する著者が提案する退職後の人生設計である。著者は鉄鋼貿易を担当する商社マンとしてアジア、アフリカ、そしてヨーロッパで働き続けてきた。で、五十代半ばに退職。現在はNPOのスタッフとして活動し、文筆や大学での講師として働いている。
・団塊の世代は戦後の象徴的な存在として、これまでにもさまざまに取りざたされてきた。話題には事欠かない世代だが、その分、批判されることも多い。自己主張が強い、過度の思い入れや感情移入、数にものをいわせて存在を誇示しすぎる、自分の生き様の自慢話………。だから、上の世代からは厄介者扱いされ、下からは煙たがられてきた。
・この本は、そんな団塊の世代の特徴を良くも悪くも丸出しにしている。24時間働きづめの人生であったことを感慨深くふりかえり、にもかかわらず将来の生活が不安であることを嘆く。危機意識をつのらせているが、その批判の矛先は上の世代の失政に向き、下の世代のやる気のなさや遊び指向に向く。
・著者が力説するのは、ただ一点。どうせ頼りにならないのだから、あてにするな、である。定年が迫っている今から、老後の人生設計を真剣に考えること。必要なのはお金、時間の使い道、そして人間関係。生活苦に喘いだり、生きる目的をなくしたり、引き籠もってしまわないためにはどうするか。著者の結論はやっぱり、そのためには戦いしかないというものだ。
・確かにそういう面はあるのだと思う。年金はあてにならないし、子どもに負担もかけられない。企業戦士が鎧(背広)を脱いだら、いったい何が残るのか。定年退職の時期が迫っているだけに、問題は切実だろう。この本で提案されていることは、いかにも団塊の世代が言いそうな夢にあふれているけれども、それだけに、実現は難しい。いわく、田舎に行って農業をやろう、海外に出てボランティア活動をしようなどである。
・24時間働きづめだった人に見えなかった世界は、何より自分の足もとだったはずである。家庭生活を奥さんや子どもたちとどれだけシェアできたのか。自分の姿が彼女や彼たちにはどう映っていたのか。残念ながらこの本には、そんな話題はまったく出てこない。だからこそ、団塊の世代の将来は大変なのだと思うのだが………。

(この書評は『賃金実務』4月号に掲載したものです)

2004年4月27日火曜日

ウィルス、ジャンク、新研究室

 一時減少したジャンク・メールが、最近また多くなった。拒否のできないもの、返送や転送でやってくるものが多いから、受けとると同時に中身をあけずにまとめて削除している。同じもののくりかえしがほとんどだし、ウィルス・メールもたくさんあって、うっかりあけるわけにはいかない。ウィルス・メールの量には何度か波があって、多い日には数十通、ジャンク・メールも合わせると150を超えるような日もある。「サーバーからも削除」して「ゴミ箱に移動」、さらに「ゴミ箱をからにする」。こんな作業を日に何度もやらなければならない。


こんな状態だから、題名が英語やアルファベットのものはまったく中身を確認しないで捨ててしまっている。ひょっとするとおもしろいメールがあるのかもしれないが、いちいち確認する気にもならない。とはいえ、ジャンク・メールの増加とは反比例して、パーソナルなメールが海外から来ることは少なくなっていた。留学生からの相談も全くなくなったし、僕が持っているレコードを譲ってくれといった依頼もなくなっていた。そういえば、国内の他大学の学生からのメールもめっきり減った。卒論を作成する秋から暮れにかけては毎年何通も相談が舞いこんでいたのだがここ数年は、それもほとんどなくなった。

国内、海外を問わす、レポートを書くための文献探しなどは、ほかにあてにできるサイトがいくつもできたからなのかもしれない。ゼミの学生だけで手一杯なのに、とぶつぶつ言いながら相談に乗っていたのに、何も来ないと何となくさみしい。そんな気もしないではないが、院生がどんどん溜まってきて、今年は博論作成予定者が前期で1名、後期で3名、修論作成予定者が3名もいる。それに学部の4年生が10名。秋から暮れにかけていったいどういう状況になるか、などと想像しただけでぞっとしてしまう。

また研究室の引っ越しをした。東経大に来てから3つめの部屋。引っ越しは面倒だが、広くなることと、眺めが良くなることが魅力だった。最初に入った部屋から次に1.5倍になり、そして2倍になった。ずいぶんゆったりできる。部屋の真ん中に書架を置いて、二つに区切ったから、ゼミや院の授業もやりやすくなった。建物自体も変わって、今度の研究棟は傾斜地に建っている。ちょうど目の高さに森があって、夜には府中の町の夜景がきれいだ。遠くには富士山も一望できる。引っ越し時には、ちょうど窓いっぱいに桜が満開だった。これまでの部屋ではブラインドを落としっぱなしにしていたが、今度は部屋にいるときにはあげて、窓も開けるようにしている。今は風がさわやかで気持ちがいい。


管財課の人たちと何人かの院生にはずいぶんしんどい作業をしてもらった。本や書類がリンゴ箱で100箱、それに机や戸棚、テーブル、たくさんの椅子。さらには何台ものパソコンを運んでもらった。引っ越し先の研究棟は、どういうわけかエレベーターが各階の中間にあってきわめて使いにくい。しかも間の悪いことに定期点検にぶつかってしまった。

話をメールにもどそう。今、もっとも利用しているのは、学内でのやりとりだ。教務課(院)や学務課(学部)、教員同士、そして学生。レポートやレジュメはもうほとんどメールでの提出になった。大学には各教員に配られる必要な書類や届いた手紙などを投函するメール・ボックスがある。大学に出校するとまず、この棚を確認して書類や手紙を持ちかえるが、ネットのメールもほとんどこれと同じ役目をする場になってきた。そのような意味でいえば、メールはますます閉じた世界で使用されるものになったといえるかもしれない。

ところが、一方でジャンク・メールやウィルス・メールの山である。メールは郵便とは違って、不特定少数の人からパーソナルな便りがやってくる。そこがおもしろかったのだが、外からやってくるのはビジネスを意図したジャンクメールといたずら目的のウィルス・メールばかり。だからメールをチェックする楽しみはだんだん失せてしまってきている。不特定少数の人たちとの新しいコミュニケーション・ツール。メールにはこんな可能性を持ったのだが、それは普及期の一時的な現象に過ぎなかったのかもしれない。だんだんそんな感じがしてきている。

もっとも、『日本のポピュラー文化を学ぶ人のために(仮題)』(世界思想社)を作成中で、執筆者相互のやりとりをする掲示板を作ったから、その確認や書き込みが忙しくなりそうだ。これは一般に公開していないが、おもしろい話題や本の宣伝になりそうなことは紹介しようと思っている。

2004年4月20日火曜日

身内と世間、イラクの人質事件について

 

・イラクで誘拐された3人が帰ってきた。命があってよかったと思う。事件の一報がはいってから解放されるまでの経過については、事件そのものはもちろん、それを伝えるメディアのやり方、3人の家族や友人たちの態度や発言、小泉首相や政府関係者の対応の仕方、そしてもちろん、さまざまな人の声などなど、ずいぶん興味深いものがあった。
・事件が伝えられるとすぐに、家族や友人たちがテレビに出はじめた。東京の北海道事務所に置かれた会見場からの中継が各局からひっきりなしに放送された。わずか2日で自衛隊の撤退を求める署名が15万人分も集まった。特に興味深かったのは、3人の親や兄弟の発言だった。「自衛隊はまともなことをしていない。小泉さんは決断すべきだ」「弟は生半可の気持でイラクへ行ったのではない」「撤退を考えない、というのでは助かる見込みがない」。

・こういった発言に対しては、それを支持する以上に、反対する声が多かったようだ。大きな状況を考えない家族のエゴ。勝手な行動をしたのだから、殺されても仕方がない。高遠さんのHPには批判や中傷が集中して、掲示板は1時間で閉鎖されたそうだ。家族の家にも相当数の中傷電話がかかったようで、こういうときに湧き出る匿名の誹謗中傷というのは、インターネットや携帯の普及で、ますます強いものになっているようだ。
・しかし、僕が何よりすごいと思ったのは、メディアに積極的に出て発言する家族や友人たちの行動だった。テレビの取材に応じて、日本の国内に対してというよりは、イラクに向けて、あるいは世界中に向けて、自分の子どもや姉や弟が、イラクでこれまで何をしてきたのか、今回、何をしに行こうとしたのかを訴え、家族や友人がどれほど心配しているかを伝えた。そうすると、そのニュースはまたたく間にイラクに届き、アルジャジーラやそのほかの放送局が取り上げ、また欧米のメディアでも放送された。「娘はイラクを愛していました。娘を解放してください」。おそらく、このような声は映像とともに、誘拐犯にも届いたはずである。

・自衛隊を撤退させないと早々と宣言した政府も、もちろん、積極的に対応した。しかし、官房長官の会見はいつでも、「情報収集につとめている」ばかりで、具体的なものはほとんどなかった。人質を解放するというニュースが報じられたときにも、その理由は3人がイラクのために活動している人たちであること、家族が心配していることであって、政府が交渉した結果ではないことが明らかになった。
・人質が解放されたのは1週間後で、その間、政府がどう動いたのかはいまだによくわからない。犯人を説得して解放に一役買ったのは、イスラム教スンニー派の聖職者クバイシ師で、彼の姿は3人の解放の瞬間はもちろん、フランス人ジャーナリストの解放の場にも現れている。その彼が日本政府に対して不快感をあらわにした。「われわれの努力を日本人の多くが評価してくれている。しかし、日本政府はそうではないようだ。」
・ところが、大臣や自民党、公明党の議員、あるいは外務省の官僚たちは、そんな外交交渉のまずさは棚に上げて、人質にされた人たちの自己責任ばかりを強調して、かかった費用を請求すべきだといった発言を噴出させた。善意の気持ではあっても迷惑な行為、イラク支援は自衛隊の仕事で、もはや民間人の手を出すことではない、といった主張だ。しかし、これは何ともおかしな発言である。

・高遠さんは自衛隊がイラクに行くずっと前からバクダッドのストリート・チルドレンの世話をしていて、今回もその資金を調達するために一時的に日本に帰ってきたにすぎない。彼女はもちろん、自衛隊の支援など望んでいないし、自衛隊がしていることは比較的治安の安定しているサモアで医療と給水の活動をしているだけなのである。高遠さんがやらなければ、バクダッドのストリート・チルドレンの面倒は誰が見るのだろうか。彼女の活動はすでに「善意」などということばでは説明できないものになっているはずなのである。
・あるいはフリー・ジャーナリストの郡山さんも活動を続けるためにイラクに残りたいと考えていた。彼らのような人たちがすべてイラクから退去してしまったら、いったい誰が、イラクの状況を世界に伝えるのだろうか。彼や彼女たちは、危険を十分承知した上で、それでも活動を続けたいと考えている。それに対して、控えた方がいいのではないかと進言することはともかく、無謀だとか自己責任をとらせてやれといった言い方には、了見の狭さを感じざるを得ない。

・このような批判が噴出していることについて、アメリカのパウエル国務長官は、ヒーローである彼らに、日本人は敬意を払うべきだ、という発言をした。これが日本の政府に自衛隊の派遣を要請した当事者の意見であることを考慮すれば、個人の行動に対する考え方の違いはいっそうはっきりする。
・解放された3人を迎えに家族がドバイに迎えに行った。「迷惑をかけたことをお詫びし、心配してくれた人たちにお礼を言えと言ってやります。」日本に戻る前に、政治家や政府の役人はもちろん、無数の人たちに反感を持たれないように、あいさつの準備をというわけだ。これはもちろん、家族の人たちが、自分の発言に対するさまざまな反応から学んだことでもある。日本人の社会は相変わらず「世間」という村社会。お上には従順で、お世話になりましたと素直に感謝をする。そういう態度をとらなければ、たちまち批判の的にされてしまうか、あるいは村八分だ。
・「身内」は「世間」に対する隠れ家だが、「世間」に立ち向かって盾になるほどの強さはない。だから家族は「世間」に対して誠意を込めてお詫びし、感謝するわけだが、今回の事件と被害者家族の行動の仕方には、今までとは違う「身内」のあり方を垣間見た気がした。「身内」が結束して「世間」に訴える。その「世間」とは狭い日本の社会だが、他方でその声はイラクはもちろん、世界中に届き、そしてまた日本の「世間」に帰ってくる。ここからはっきり映し出されるのは、閉鎖的で、横並び的で、しかもお上に従順なきわめて特殊な関係である。たとえば外務省の幹部は「特殊な環境にいて、世間の感覚がまだ分かっていないのではないか」と冷ややかに言い放ったそうである。「世間」が日本に限定された狭い感覚であることを自覚した上での発言なのだろうか。

2004年4月13日火曜日

"Gracias A La Vida"

 

・ 「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」(人生よありがとう)を作ったのはビオレータ・パラ。チリを代表するシンガー・ソング・ライターで1967年に自殺をしている。チリ民謡の研究者として、歌手として、また多くの歌をつくった人として名高いが、何より取りざたされるのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」の作者ということだ。
violeta1.jpeg


人生よありがとう こんなにたくさん私にくれて
人生は私に笑いをくれた 涙をくくれた
こうして私はしあわせと不幸を見分ける
私の歌を形づくる二つのものを
私の歌は同時にあなた方の歌
私個人の歌であるとともにみんなの歌
人生よありがとう(濱田滋郎訳)

hara1.jpeg・パラの作った「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は歌詞のとおり、チリの人々にとって忘れられない歌になる。1970年にチリにはじめて社会主義のアジェンデ政権が誕生したとき、多くのミュージシャンがそれを支援する運動をした。それは「新しい歌(ヌエバ・カンシオン)」運動と呼ばれた。その代表はパラの歌に共鳴して歌い始めたビクトル・ハラで、チェ・ゲバラを歌った「姿現すもの」や「耕す者への祈り」といった歌をつくって、社会や政治の変革に音楽が力をもつことを実践した。ちょうど、アメリカやヨーロッパ、そして日本にプロテスト・フォークやロック音楽の嵐が吹き荒れていた頃だ。
・しかし、アジェンデ政権は軍事クーデターによって倒される。1973年9月11日(ニューヨークの惨事と同じ日)。鉱山の国有化や大農場の解体といった改革に反対する勢力の巻き返しによるものだが、裏で糸を引いていたのはアメリカのニクソン大統領だと言われている。チリは銅の輸出国だが、アメリカが備蓄していた銅を大量に放出して価格を暴落させたためにチリの経済が破綻したからだ。アジェンデ大統領が殺害され、ピノチェトを大統領にした軍事政権が成立する。
・軍事政権はアジェンデ政権を支えた勢力を激しく弾圧して、多くの人々を殺害したが、その中にはビクトル・ハラもいた。殺されていく人、それを見守る人、そして投獄された人たちが口にしたのは「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」だった。(八木啓代『禁じられた歌-ビクトル・ハラはなぜ死んだか』晶文社)
・NHKのBSが2003年9月に「世紀を刻んだ歌 人生よありがとう」を放送した。ビオレータ・パラ、ビクトル・ハラ、ピノチェト軍事政権下での弾圧を「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」を中心にして追いかけていて、なかなか見ごたえがあった。抵抗運動をして生きながらえた人、家族や友人を失った人たちが、「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」をどんな思いで歌ったか。で、さっそくCDを集めたのだが、パラの歌はシンプルで、当時の時代状況と重ねあわせて聴くと、あらためて、素朴な歌い方がもつ訴える力を感じざるを得ない。

sosa1.jpeg・番組では、この歌をその後に歌いついでいった人たちも紹介していた。そのなかでメルセデス・ソーサという歌手が気になったのだが、CDを聴いてその歌唱力のすごさに圧倒された。アルゼンチンの歌手だが、アンデス山脈の麓に生まれインディオの血を受け継いでいる。1935年生まれというからもう70歳近くになる。僕が買ったのは、1991年に出されたものと、2003年に出されたもので、どちらもブエノスアイレスでのライブ盤だ。「グラシアス・ア・ラ、ヴィダ」は91年のCDで歌われている。軍事政権下の圧制に苦しんだのはアルゼンチンでも同じだが、2003年のライブに入っている「いつの日か来る歌」は、迫害を受けながら抵抗したビクトル・エレディアの作だそうだ。
sosa2.jpeg


軽い歌を私にひとつください
パンをひとかけら
その日その日の闘いを
だってこの人生がなくて生きていくのは
わたしにはできないことだから(高場将美訳)

・アジェンデ政権と軍事クーデターについては、五木寛之が『戒厳令の夜』( 新潮社、1976年)を書いている。福岡から始まって内戦のスペイン、占領下のパリ、そして戒厳令下のチリと展開する壮大な物語で、ピカソやカザルスなど美術や音楽を話題にして読む者を引っ張り込んでしまう小説で、僕は今でもこれが彼の最高傑作だと思っている。ちなみにこの小説は映画化されていて樋口可南子のデビュー作で、同志社大学のキャンパスが映し出されてもいて、今でも印象深い映画の一つになっている。