・「コミュニティ」についての本を何冊も読んでいるのに、バウマンの『コミュニティ』を読んで改めて、‘目から鱗’という感じを味わった。「コミュニティ」がまさに壊れるときに、アイデンティティが生まれる」という一文に出会ったからだ。これはジョック・ヤングからの引用だが、バウマンは続けて次のように書いている。
アイデンティティは、「単なる代用品」であることを否定しなければならない。つまり自らが取って代わることになる、当のコミュニティの亡霊を眼前に呼び出さなければならない。アイデンティティはコミュニティの墓場で芽吹くが、この死者の復活を約束することで繁茂するのである。(p.26)
・こんな指摘は、社会学を勉強し始めた頃に最初に習ったことである。たとえばテンニースの「ゲマインシャフト」と「ゲゼルシャフト」やマッキーバーの「コミュニティ」と「アソシエーション」といった概念だ。なのに今さら、感心してしまったのは、「コミュニティ」ということばの氾濫とその概念の多様さで、訳がわからなくなってしまっていたからで、まさに一言、原点に戻れといわれた気がした。
・本来の意味での「コミュニティ」は、近代化の過程で葬り去られてしまった。それは個人にとっては何より、「社会的な自由」として積極的に受けとめられたが、しかし一方で、人びとは個人的な安心を感じられる場や関係が必要であることにも気づかされる。それを引きうけたのは近代的な家族であり、生活の場であらたにできる近隣関係、働く場としての「企業(工場)」、そして「国民国家」という枠組みで、要するに、ホッブスボウムの言う「想像の共同体」のことだ。
・こういった新しい枠組みのでき方はもちろん、国によって多様だ。ヨーロッパでは数百年の時を経ているし、移民国家としてのアメリカには、バウマンの言う「コミュニティ」はなかった。バウマンはある人の解放には別の人の抑圧がともなったと言い、多くの人は「堅苦しい古いルーティン(習慣に支配された、コミュニティ的な相互行為のネットワーク)から力ずくで引っ張り出され、(仕事に支配された、工場のフロアの)堅苦しいルーティンに押し込まれ」て「大衆」と呼ばれるようになったと言う。その貧困と劣悪な生活環境が見直されるのは、ヨーロッパでも20世紀の前半のことだし、本格的な改善がはじまるのは第二次大戦後のことだ。
・国家や企業が個人の「アイデンティティ」や経済の基盤を保証し、家族や近隣関係によって安心した生活ができるようになる。20世紀の後半は、その範囲を先進国であれば社会の下層やマイノリティにまで広げることが課題とされたし、後進国の経済的発展にも援助が行われた。まさに、古いコミュニティの墓場に新しいコミュニティと自立した個人のアイデンティティを徹底して実現させる試みだったのである。この流れはもちろん現在進行形だが、一方で、そこから離脱する新たな流れも強くなってきた。
・リチャード・セネットの『不安な経済/漂流する個人』(大月書店)が注目するのは、働く場所にもたらされた構造的な変化で、彼はそれを、「組織への「帰属心」の低下、労働者間のインフォーマルな相互信頼の消滅。組織についての知識の減少」という三つの損失としてとらえている。自分の存在価値を確認するよりどころは第一に自分がする仕事と、それを行う場や関係においてだろう。それが自分にとって流動的なもので稀薄なものに感じられるようになれば、それは「アイデンティティ」を保証するものではなくなってしまう。セネットが見定めるのは現代のアメリカの状況だが、このような傾向は日本にもあてはまる。というより、何より企業人間、職場の人間関係を大事にしてきた日本人の「アイデンティティ」にとっては、この変化はアメリカ人よりずっと大きく深刻だと言えるかもしれない。しかもわたしたち日本人は、古いコミュニティの代わりに作るべき、近隣関係のコミュニティに無関心できたし、欧米型の個人がもつべき確固とした「アイデンティティ」確立にも消極的だった。
・こういった流れを深く憂慮するセネットとちがって、バウマンの論調はもっと悲観的で突き放したものになっている。彼が指摘するのは新たに生まれつつある、恵まれた者たちが作るシェルターとしての「コミュニティ」と「ゲットー」への分断だ。「恐怖の対象としてのよそ者、異邦人、場違いな者」を排除して、限りなく同質な人たちだけで作る隔離された「コミュニティ」。バウマンはそれもまた自発的な「ゲットー」だと言う。本物の「ゲットー」はそこに閉じ込められた者が自由に外に出られない場所だ。それに対して「自発的なゲットー」は、外部の者の立ち入りを拒み、何より安全性を確保したうえで、自分たちの出入りは自由にする。
・見田宗介の『社会学入門』(岩波新書)には、人間関係のあり方、他者関係のとらえ方を二つにわける発想が紹介されている。つまり、他者を「生きるということの意味の感覚と、あらゆる歓びと感動の源泉」として見ることと、「人間にとって生きるということの不幸と制約の、ほとんどの形態の源泉」と考えることの二つである。見田が言うように、この二つのとらえ方は本来的には対立的ではなく相補的なものだ。人は完全に自立した存在ではないし、また完全に他者に依存して生きるわけでもない。また、人間関係は信頼でき親密さを前提につきあえるものと、極力排除してしまいたいものに分けられるわけでもない。同質な者同士の安心で安定した関係には退屈や束縛の感覚が伴うし、異質な人間たちの異質性に触れることには、不安や不審を超えた新鮮さや自由の感覚がもたらされる。
・バウマンは、「自由の名の下に犠牲となる安心は、他者の安心であることが多く、安心の名の下に犠牲となる自由は、他者の自由であることが多い。」と言う。社会の近代化の過程には、そこが顕著になる時代と是正される時期がくりかえしてあらわれる。他人を不自由にしても、もっと私に自由を、他人を不安にさせても、もっと私に安心を。こういう発想が露骨な時代における「コミュニティ」とは何なのか。とても軽はずみには使えないことばであることを再認識した。