・エコということばはでたらめな使い方をされて、すでにその意味を失っている。しかし、そうであればこそ、また、勝手に使えるわけで、「エコポイント」には、もう反エコの策略以外にはなにもないと言わざるをえない。何しろ、停滞した消費意欲を喚起させるために、まだ使えるものを捨てて環境に配慮したものに買いかえろというのである。その象徴は自動車だろう。
・たとえば僕の乗っている車はもうすぐ10年になる。走行距離は21万5千キロを超えたところで、誰に話しても驚かれたり、感心されたりする。後ろの座席を倒して薪にする木を運んだりするから、内部も汚れや傷が目立っている。当然、ディーラーのセールスマンには買いかえを勧められる。「排出ガス性能・燃費性能に優れた環境に与える影響の少ないニューモデル」にされた方が、税金も安くなるし、ガソリンも安くてすむし、何よりエコに協力できるというわけだ。しかし、無視することにしている。まだまだ元気に走っているのだから、買いかえる必要など感じない。調子が悪くなったら検討する。環境や経済面から言えば、そう考えるのが真っ当だと思うからだ。
・もちろん、去年のようにガソリンの高騰が再燃して、それが常態化すれば、燃費のいい車に買いかえるのも選択のひとつにはなるだろう。けれども、1Lで200円近くにもなった値段も今は120円程度で落ちついている。それに、高騰以降、僕は燃費を考えた運転を心がけるようになって、リッターあたり1〜2キロも余計に走れるようになっている。一時は高速道路を走っていて、同じようにスピードを落とした車が増えたと感じた。ところが、最近はまた、元通りでかっ飛ばしていく車をよく見かける。
・まさに喉元過ぎれば熱さを忘れるだが、その象徴は土日の高速道路だろう。1000円でどこまでも乗り放題というのは、いったいどういうポリシーをもとにした発想なのだろうか。遠くまで行けて儲けたと思う心理は、エコとどう折りあいをつけるのだろうか。第一に、燃費が倍に向上したからと言って、その分、無駄づかいしたのでは、何の意味もないはずで、エコが浪費を正当化する隠れ蓑になっていることの好例と言わざるをえない。
・戦後のマイホーム・ブームによって建てられた家の多くは20年から30年程度の寿命で、作っては壊されてきた。それを100年とか200
年持つようなものにするといた政策が、やっぱり家の建て替え需要を喚起させようとしている。もっともらしい発想だが、これも新たな浪費にしかならないだろう。家はしっかり造れば、確かに長持ちする。しかし、そのためには、日頃のメンテナンスが必要で、それは結構面倒で煩わしいことなのである。
・僕の家はログハウスで、建てられてから20年近く経過している。ログハウスは年輪の数だけもつと言われているから、おそらく100年は大丈夫だろう。しかし、そのためには、まめに点検して、補修を怠ってはいけないのである。たとえば、引っ越して10年になるが、数年前に、ログの外側を防腐、防カビ剤入りの塗料で塗り直したし、ログの間にできる隙間にも、見つけるたびにシーリングを施してきた。屋根にたまった木の葉落としや薪ストーブの煙突掃除で傾斜のきつい屋根にも登らなければならない。もちろん、どれも業者に頼めばやってくれることだ。しかし、その度にびっくりするほどの額を請求される。
・庭に面したバルコニーや玄関のポーチに木の腐りやガタが目立つようになった。で、新しい木に変え、塗装し直すことにした。バルコニーの柵に使ったのは、BS放送の受信を邪魔しているために切り倒した栗の木だ。長さに合わせてチェーンソウで切り、皮を剥ぐと、真っ白い木肌があらわれた。それを柵に取りつけて、焦げ茶色に塗った。もちろん、塗装はバルコニーとポーチ全てに施した。何日もかかる面倒な作業だから、おもしろがってやらなければ憂鬱になってしまう。と言ってほおっておけば、もっと大がかりな補修をしなければならなくなる。
・ファーストではなくスローな生活。というと何かおしゃれな気分を感じたりもする。けれどもそれは、面倒とか煩わしいとかいう気持ちを楽しみに変える意識変革を必要とする。ちょっと故障したり古くさくなったらすぐに買いかえる。どうせ長持ちしないんだから、メインテナンスなんて考えなくていい。本気でエコを考えるなら、そう言う発想を生活のなか、消費という行動、そして何より生産の部分で根本的に見直す必要がある。その気がないなら、エコなんてことばを軽はずみに使うべきではない。と思うのだが、こんなことばも簡単につかい捨てられるから、もう繰りかえすのもうんざりする気になっている。