2018年7月2日月曜日

<続>ジャック・ロンドンを読んでいる

 

『白い牙』(新潮文庫)
『犬物語』(スイッチ・パブリッシング)
アーヴィング・ストーン『馬に乗った水夫』(ハヤカワ文庫)

jacklondon3.jpg・ジャック・ロンドンの代表作は、日本では『白い牙』だろう。オオカミが主人公で、人間との関わりが物語になっている。犬の血が混じった雌オオカミが子どもを生む。そのオオカミが人間につかまり、闘犬にされたり、そり犬にされたりする。しかし主人公はそのオオカミだから、物語はオオカミの視点で進行する。ここでは人間もまた、オオカミと同じ動物の一種に過ぎない。むしろ勇敢さや気高さを持ったオオカミに比べて、登場する人間の多くは、ずるがしこく冷血で、信用できない者たちばかりだ。舞台はアラスカという極寒の地で、そこに集まるのはゴールド・ラッシュに心を奪われた者たちばかりなのである。
・だからオオカミは決して人間に心を許さないが、例外的に信頼できる男が現れる。オオカミとしての野生の血と、少しだけまじった犬の血が、さまざまな人間に対する微妙な距離感をつくりだす。このオオカミはその意味で自我を持ち、自分の判断に従って、自分の生き方をきめる存在だ。人間よりもはるかに高潔で、しかも思慮深い。

jacklondon6.jpg・『犬物語』はいくつかの作品を集めたもので、『火を熾す』と同様、柴田元幸が選んで訳し直したものである。その中で中心になるのは「野生の呼び声」と名のついたロンドンの動物文学の代表作とを言えるものである。この作品に登場するのはオオカミではなく、生まれた時から人に飼われていた犬である。セントバーナードとシェパードの血を継ぐ主人公が盗まれ、ゴールドラッシュに湧くアラスカに送られる。犬はそこから、オオカミに接触することで、やがて野性に目覚めていくことになる。
・この作品でも主要なテーマは野生の血と飼い慣らされた血の間に生まれる葛藤とせめぎ合いということになる。訳者が指摘しているように、ロンドンにとってオオカミは理想の自我を体現する存在であり、犬は飼い慣らされたものである。その間で揺れ動く主人公は、まさに作者であるジャック・ロンドンの生き様そのものだったようである。

jacklondon7.jpg・『馬に乗った水夫』はアーヴィング・ストーンによるジャック・ロンドンの伝記である。それを読むと、野生や自由に対する憧れと、名声や金へのこだわりとの間で大きく揺れ動き、生き急いだロンドンの人生がよくわかる。幼い頃から家計を助けるために働き、学校には馴染めないが図書館で本をよむことには夢中なる。冒険を好み、船に乗って大海に出て、アラスカに行って犬ぞりに乗る。そんな経験を元に小説家になり、稼いだ金をまた冒険や大農場に使う。そして家族はもちろん、多くの人をもてなすためにも金を稼ぎ、散財する。あるいは資本主義社会が出来上がりつつあるアメリカ社会を批判して、社会主義にもとづく世界を打ち立てることにも力を尽くす。彼はまた20世紀の初めに、アメリカにマルクス主義を根づかせることに奔走した人でもあったようだ。
・ジャック・ロンドンは40歳の時に自殺をしている。動物文学やプロレタリア文学の祖とも言われるが、それ以外にも残した作品は多い。それはいくつもの冒険を実践し、アメリカ社会への批判の目を持ち続けたからこそ書けたものだが、この伝記を読むと、書くことが彼にとって必要な金を手に入れるためのやむにやまれぬ活動であったことがよくわかる。彼の作品はほかにもたくさん翻訳されていて、さらには、まだまだ訳されていないものが数多くあるようだ。さて、もっと読もうかどうしようか。しばらく間をおいてから決めようと思っている。

2018年6月25日月曜日

ロジャー・ウォーターズとスティング

 

waters2.jpg・ピンク・フロイドのライブをYouTubeで見て、同時にロジャー・ウォーターズのライブもたくさんあることに気づいた。両者は長いこと対立していて、ウォーターズは彼が脱退した後のピンク・フロイドを認めなかった。和解して一緒に行ったライブもあって、時系列に沿って楽しんだ。そんな時、たまたまロジャー・ウォーターズの「ザ・ウォール・ライブ」をWowowで見た。このライブは2010年から13年まで行われ、450万人を動員したと言われている。
・この作品はたんなるライブのドキュメントではない。ライブの間に自分の生い立ちから現在までの歴史をたどり、その時々の自分を思い返している。ただし主人公はピンク・フロイドという名のミュージシャンである。ロジャーズは父が第二次大戦で死んだことで、父親不在で大人になった。しかし彼の祖父もまた第一次大戦で戦死していたから、父親自身も父親なしで育った。「ウォール(壁)」には、そんな自身の歴史に追い被さった戦争や、現在の世界における紛争や張り巡らされた壁に対する批判が、強く主張されている。ステージの仕掛けの大がかりさとも相まって、圧倒されながら見た。

waters1.jpg・ロジャー・ウォーターズはまた昨年、"Is This the Life We Really Want"という名のアルバムを出している。「これが本当に欲しかった生(活)なのか」というタイトルが気になって買うことにした。中には同名の曲もあって、そこでは今の世界の不条理をストレートにあげつらって批判している。このアルバムを作るきっかけになったのは、トランプ大統領の就任だったようで、歌が始まる前にCNNを批判するトランプの演説が挿入されている。紛争、難民、殺戮、貧困、環境破壊、貪欲な億万長者、フェイク、そして人々の無関心。こんな現状に対する怒りで溢れたようなアルバムになっている。
・彼は日本のことは知らないだろう。しかし、薄汚い嘘にまみれた政治や、しょうもないスキャンダルにうつつを抜かすメディアに対して、同じように糾弾したくなった。ジャケットは検閲が入って黒く塗りつぶされているが、財務省が最初に出してきた文書そのままだ。「働かせ改悪」や「カジノ法案」が、本当に私達が欲したものなのか。残念ながら、今の日本には、こんなストレートに批判するミュージシャンはいない。

sting5.jpg・スティングの新作はレゲエだ。しかし一人ではなく、シャギーという名のレゲエ・ミュージシャンとのコラボレーションである。知らなかったが、シャギーはボブ・マーリー以後のレゲエを代表するスーパー・スターだという。アルバム・タイトルの44/876は、国際電話をかける時のイギリスとジャマイカの国番号だ。ちなみに日本は81である。もっとも二人はニューヨークに住んでいて、シャギーは10代に移住しているし、スティングは「ニューヨークのイングリッシュマン」である。
・レゲエはダンス・ミュージックという色彩が強いが、一方でボブ・マーリーがそうであったように、政治や社会に対する反抗や批判といった姿勢も貫かれている。このアルバムにも、子どもの頃憧れたアメリカとはずい分違ってしまった現状を批判する歌がある。あるいは貧困と犯罪、夜勤仕事などが物語として歌われている。しかし、また同時に、自由の女神の国、新しい文化が生まれ続けてきた国であることも歌っている。

・アメリカが希望と悪夢を合わせ持った両義的な国であることは、ロックが生まれた60年代からずっと変わらない特徴だった。しかし今は、夢ではなく悪夢をもたらす国のように思えてならない。米朝会談で日本が巻き込まれる戦争は回避されたが、トランプの気まぐれで、どうなるかわからない。レゲエを聴くと、ほんの少しだけほっとする。 

2018年6月18日月曜日

自転車、車、山歩き

 

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・昨年の12月に新車に乗り換えて、半年で12000kmを超えた。通勤がなくなったのによく走っている。四国遍路で3000km走ったのが大きいが、それ以外にも京都に二回行ったから、半分近くはそのためだということになる。京都に行ったのは99歳になる叔母の具合が悪くなったこと、その叔母の介護をしていた従兄弟が急な病気になったこと、そして叔母が亡くなったからだった。京都に住んでいた頃は、子供達にとってはおばあちゃんだったから、いろいろな思い出がある。気丈な人で100歳を過ぎても生きるのではと思っていただけに、残念だった。

forest150-2.jpg・その叔母が亡くなって、ゴールデン・ウィーク明けに焼香に行った時に、高野山に寄って四国遍路結願のお礼参りをした。奥の院に行く道には歴史上の人物や企業のお墓が並んでいて、金や力に近い空海を見た思いがして、霊験あらたかにはほど遠かった。対照的に途中でたまたま寄った室生寺は、女高野という別名があって、奥の院で納経したのだが、700の石段はきつかったし、山深い感じは高野山よりずっとよかった。高野山では宿坊に泊まったが、宿泊客のほとんどは外国人で、朝のお勤めや一緒の朝食に、なんか変?という感じがした。

forest150-3.jpg・自転車は5月になって、月の半分ほど走っている。立て続けにパンクをしたから、タイヤも交換した。そうすると、今迄より数分早く走れるようになって、河口湖も西湖も、今迄の最速タイムに近い時間で走れるようになった。もちろん、温かくなったことや風がなかったことも影響しているのだが、タイヤの違いもあるのだと思う。今まで、何かを交換して、走りが全然違うといったコメントはあまり信用しなかったが、確かにそんなこともあるな、と改めて思った。それにしてもロードバイクのタイヤ交換はなかなか難しい。これまでにも失敗して交換中にパンクをしてしまったこともあったが、今度も、チューブが噛んでいたのか、走っていてごつごつ感があって、一晩経ったら空気が抜けてしまっていた。

forest150-4.jpg・山歩きというほどではないが、パートナーと一緒にあちこち歩いてもいる。室生寺の700段は、そうとは知らずに一緒に登ったのだが、彼女には相当ハードだった。そのほかに、去年も登った西湖の紅葉台に行き、篭坂峠の矢筈山にも2度行った。山椒バラが目当てで、一回目はまだ蕾だったから二週間後にまた行ったのだが、今度は散りかけだった。矢筈山は富士山が目の前で、一回目の時には雲間から富士山が顔を出し、愛鷹山から駿河湾、そして伊豆半島まで一望できた。もっとも眼下の須走には自衛隊の富士学校と東富士演習場があって、大砲の音が絶えず聞こえてきた。ウグイスやホトトギス、あるいはカッコーの鳴き声が聞こえてくるのに、興ざめのドカーンだった。

forest150-5.jpg・八ヶ岳の白駒の池は八千穂高原から蓼科に抜けるメルヘン街道の麦草峠の近くにある。八ヶ岳連峰の中で一カ所だけ2000mを超える所まで車で行ける場所だ。八ヶ岳に登るにも便利だが、白駒の池周辺も最近では人気の所になっている。深い原生林にびっしり苔が生えていて、岩だらけの道を高見石まで登ると眼下に白駒の池があって、周囲360度のパノラマの世界が見渡せる。休日には大渋滞するほどだが、平日でも、駐車場から池までのコースは人で混雑していた。

・梅雨入りしてから天候が不順になった。去年は空梅雨だったから、自転車も山歩きもせっせとやったが、今年はどうか。7月の末から白神山地に行く予定にしている。それまでに梅雨明けしてくれるといいのだが、どうだろうか。

2018年6月11日月曜日

寄る年波

 

・仕事を辞めて、毎日が日曜日の暮らしになりました。体力が落ちぬよう、贅肉がつかぬよう、自転車に乗り、家のメインテナンスや庭仕事、そしてもちろん家事にも精出しています。あちこち出かけて長時間のドライブなども、まだまだ大丈夫と自信を持っています。しかし、寄る年波というほかはない、体の変調に悩まされ始めてもいます。

・毎年の健康診断で、聴力が落ちていることを指摘されたのは数年前でした。確かに、声の小さな学生の話が聞き取りにくいと感じ始めたのもその頃でした。その症状は確実に進んでいて、最近ではテレビのボリュームを一つ二つ上げたくなることが多くなりました。ところがパートナーの耳は良く聞こえるようですから、僕が上げれば彼女が下げるといったことになって、諍いの原因になっています。もちろん、まだ補聴器を必要にするほどではないのですが、聞こえにくくなっていくのは避けられないでしょう。

・耳については別の症状を最近経験しました。夜寝ていて寝返りをうった際に、ベッドが斜めに傾いていくような感覚に襲われました。慌てて反対の側に寝返ると、やっぱり同じようにベッドが傾いて、驚いて目を覚ましてしまいました。寝ていて頭を左右にふると、自分だけでなく、世界も傾いてしまう。さっそくネットで調べると、「頭位めまい症」で、高齢者に多い症状のようでした。耳の奥には耳石という頭部の傾きを感知するものがあるのですが、老化によって耳石の一部がはがれ落ちることがあるようです。

・「頭位めまい症」は、リンパ液で満たされた三半規管の中で、頭を動かした後でも、はがれた石がまだ動いておきる症状です。直すにははがれた石を取る必要があるのですが、頭を左右に振って寝返り運動をくり返せば、細かくなったり溶けたりしてなくなるとありました。さっそく試したところ症状は出なくなりました。気圧に対して敏感であるなど、三半規管は以前から丈夫ではないので、これからも気をつけなければならない箇所だと思いました。

・また、これも昨年あたりから自覚するようになったことですが、寒い日に自転車を走らせていて、手や足にかゆみを感じるようになりました。そのうちに歩いていても痒くなることがあって、赤い湿疹が出るようになりました。体のほてりがなくなれば、かゆみも湿疹も消えてしまいます。これもネットで調べると「温熱蕁麻疹」だとありました。体が温まった時に外気との温度差に皮膚が過敏に反応して起きるようです。風呂に入っても出る症状のようですが、これはまだ大丈夫です。

・抵抗力がなくなって敏感になっているといえば、山芋をおろした時にも、手が痒くなるようになりました。まったく大丈夫だったので、すぐ手を洗うこともしなかったのですが、すり下ろしながら頻繁に手を洗うようになりました。花粉症とも無縁だったのですが、最近目がしょぼしょぼするようにもなりました。我が家は森のなかにあって、杉や檜、あるいは松の花粉で、車が黄色くなるほどです。今迄はなんともなかったのですが、これからひどくなったら、ここには住めなくなってしまいます。

・最後に頻尿。膀胱にしっかりたまるということが減って、すぐに尿意をもよおすようになりました。家にいる時はどうということはないですが、外に出かけたら、いつでもトイレを探して、早めに済ますよう気をつけるようになりました。何しろ、ちょっともよおすと、すぐにがまんできない気になってしまうことがあるからです。放尿する時も、力が入らない感じになりましたし、残尿にはいつも気をつけなければなりません。

・このようなことが続いて、寄る年波には勝てないなあ、とつくづく実感しています。逆らって何とかという気持ちがないわけではないですが、それこそ年寄りの冷や水になるのが落ちでしょう。老化現象は一時的なものではなく、これからずっとつきあわなければいけないものですし、もっともっと、いろいろ出てくるものだと思います。その意味では、やっと出発点に立って歩き始めたと言えるかもしれません。

2018年6月4日月曜日

スポーツにまつわる不可解なこと

 

nitidai.jpg・日大アメフト部の騒ぎは森友・加計問題とそっくりだ。なのに日大ばかりが攻められている。しらを切り続ける安倍首相には、メディアは相変わらず遠慮をしているのに、日大には手厳しい。権力を持っている者が、恋々として地位にしがみついている。下の者はことの善し悪しを判断せず、唯々諾々とそれにしたがうのみ。両者は双子のように酷似している。ただ違うのは、タックルした学生の潔い会見だ。安部に仕える政治家や官僚からは、自己の良心に従って発言する者などは、出そうにない。アメフトの関東学連という第三者機関が監督やコーチを裁いたことも、森友問題を不起訴にした検察とは大違いだ。もちろん、メディアの弱い者いじめもいい加減にしろと言いたくなる。とは言え、日大が、学長よりは理事長が実権を握っていて、教員よりは職員や体育会の方が力が強いことを、改めて知らされた。こんな大学に勤めなくて良かったとつくづく思う。

honda1.jpg・スポーツにまつわるおかしな出来事は、ほかにもいくつもある。もうすぐサッカーのワールド・カップが始まるが、監督のハリル・ホジッチが更迭された。その理由は最近の敗戦ではなく、代表選手との間でコミュニケーション不足があったというものだった。選手の中には疑義を呈する者もいて、一体、誰との間にコミュニケーションが不足していたのかはっきりしないままの解任だった。監督批判をサッカー協会に直訴したのは、代表から外されがちだったベテランだったともいわれている。あるいは有名選手を外したのでは、代表試合の中継の視聴率が下がってしまうといった、メディアやスポンサーの圧力なども聞こえてきた。なるほど、名のあるベテランがそろって代表に選ばれて、成長著しい若手が外された。ブラジルでさんざんだったビッグ3だか4に今度もまた頼るのだから、これでは興ざめで、応援する気にもなれない。

ichiro1.jpg・イチロー選手が選手登録から外れて、今年はプレイできなくなった。ただし解雇ではなく生涯契約をして、来年以降は選手登録が出来るという。今年もチームに帯同して、練習には参加してロッカーも持てるが、ベンチには入れないようだ。イチローはこの契約に感謝しているが、今ひとつよくわからない。事実上の引退で、来年開幕戦を日本でやるから、その時の目玉にするつもりだとも言われている。レギュラーが故障してキャンプ中に契約したけれども、その選手が戻ってきて空きがなくなった。とは言っても、即解雇は出来ないから、それらしく格好だけつけた。そんなものではないかと思う。五十歳まで現役でという希望はどこにいったのだろうか。

iniesta.jpg・ヴィッセル神戸がバルセロナのイニエスタを獲得した。「すごい、楽しみだ」という声がメディアには溢れている。しかしこれもしっくりこない。年俸が32億円だというが、これは神戸の全選手の年俸を上回っている。しかも彼のバルセロナでの年俸は10億円だったというから、破格というほかはない。さらに、イニエスタはゲームメーカーであってストライカーではない。味方の選手を使って点を取らせることには秀でているが、それに対応できるメッシやスアレスのような選手が神戸にいるわけではない。宝の持ち腐れがいいところだろう。もっとも神戸の親会社は楽天だから、広告費と思えば高くないのかもしれない。何しろ楽天はバルセロナのユニフォームに「RAKUTEN」とつけるのに四年間で260億円も払っているのである。

tochinosin.jpg・最後は大相撲。貴乃花問題でうんざりするほどメディアを賑わしていたのに、弟子の暴力事件が発覚した途端に沈静化してしまった。横綱の引退まで引き起こしながら、あれは一体何だったのかと思う。土俵に女を上がらせないといった態度についても、その説明には釈然としないものがある。日本の国技、伝統、あるいは神事だからなどといった理由をあげるが、相撲は本来興業であって、見世物に近いものだった。スポーツとして近代化させるために、国や神や伝統を借りたのだから、今度は男女同権や性差をなくすという現代的な流れに対応するのが賢明だろうと思う。こんな不祥事が続いて、僕は大相撲を見なくなった。ただし前から好きだった栃ノ心が急に力をつけて大関になった。その一番だけはネットでチェックしている。

ohtani1.jpg・こんな不祥事や不可解な事が続発する昨今のスポーツだが、それだけに余計に大谷選手の活躍と彼の野球に対する姿勢が救いになる。開幕時の華やかな活躍に比べると落ちついてきているが、その実力は見ていても頼もしく思う。ニューヨークでは激しいブーイングを受け、さっぱり打てなかったし、登板も回避したが、メッキがはげたわけではないし、大事に使われていることが改めてわかった。浮かれたメディアに惑わされることなく、充実したシーズンを過ごして欲しいと思う。何しろ分業が当たり前になったメジャー・リーグに登場した、投げて、撃って、走れるオール・ラウンドでツー・ウェイのプレイヤーなのだから。

2018年5月28日月曜日

最近見た映画

 

『モリのいる場所』
『ラッキー』
『ペンタゴン・ペーパーズ』
『ウィンストン・チャーチル』

・ここのところよく映画館に出かけている。もっぱら甲府で、メジャーな映画は「東宝シネマ」、マイナーなものは「シアターセントラルB館」だ。いつ行っても見ている客は僕等以外に数人だったのだが、『モリのいる場所』は珍しく20名以上いて、笑い声や話し声が聞こえた。

mori1.jpg・『モリのいる場所』は画家の熊谷守一のたった一日の生活を描いたものだ。演じるのは山崎努でその妻役は樹木希林。老夫婦の一日は朝食で始まり、昼食を挟んで夕食で終わるが、出入りする人の数は多い。出版社の編集者、カメラマン、若い画家たち、そして旅館の看板を書いてもらいに来た人などだ。そんな忙しいやりとりの中でモリはお構いなく、毎日の日課をこなす。
・彼が出かける場所は庭のあちこちで、そこで蟻や蝶やメダカを飽きもせず眺めている。彼はもう30年以上、家から出たことがないという。そんな大事な庭が近くに立った高層マンションで陽があたらなくなってしまう。家の塀にはマンション反対を訴える張り紙がいくつも並んでいる。しかし、夕御飯は、その現場で働く人たちを呼んでのにぎやかなすき焼きパーティだった。
・熊谷守一は文化勲章を辞退している。映画にはこれ以上来客が増えては困ると電話で断るシーンがある。盛りだくさんの話題を、小宇宙を巡るモリの日課と対照させて一日の物語にした。話としてはおもしろい。そんな感想を持った。

lucky.jpg・『ラッキー』は『パリ・テキサス』でトラビス役を演じたハリー・ディーン・スタントンが死ぬ一年前に撮った映画である。90歳を超えた老人が主人公である点で『モリのいる場所』と似ているし、毎日する事が同じだというのも共通していた。ただし、ラッキーは一人暮らしで、一日の大半を出かけて過ごしている。朝昼晩、同じ所に出かけて、顔なじみの人とおきまりのやりとりをする。家に帰って一人になってする事は、自分の人生を振り返ることと、もうすぐやってくる「死」について考える事だ。
・ラッキーはヘビースモーカーでしょっちゅうたばこを吸っている。やせ衰えた風貌は明らかに癌に犯されたもので、スタントン自身もこの映画を撮った一年後に肺がんで死んでいる。映画にはスタントン自身の体験にもとづく話も描かれていて、ラッキーはスタントン自身のように思えてきた。まさに遺作と呼べるものだろう。

pentagon.jpg ・『ペンタゴン・ペーパーズ』は、ベトナム戦争についての最高機密文書を巡る政府とメディアの戦いを描いている。監督はスピルバーグで、メディアとの戦いに明け暮れるトランプ大統領の存在に危機感を持って作られたようだ。この機密文書はベトナム戦争とトンキン湾事件に関して作られた政府報告書だった。その執筆者の一人であるダニエル・エルズバーグが全文をコピーしてニューヨーク・タイムズに渡した。
・ただし、映画の舞台はワシントン・ポストで女社主役のメリル・ストリープと編集主幹役のトム・ハンクスで、社運と報道の自由をかけた政府との戦いが描かれている。ワシントン・ポストはこの戦いに勝利した後、「ウォーターゲート事件」を暴露してニクソン大統領を辞任に追い込む働きもした。トランプを追い詰めて止めさせよ、というスピルバーグのメディアに対する叱咤激励のメッセージのように感じたが、日本のメディアの弱腰さを思い知らされる内容でもあった。

Churchill.jpg・『ウィンストン・チャーチル』の原題は"Darkest Hour"でチャーチルの名はない。『ペンタゴン・ペーパーズ』の原題も"The Post"で機密文書ではない。題名はその作品をもっとも良く表象するものだが、原題のままでは日本人には何の映画かよくわからないだろうと思う。原題と邦題の違いは時に奇妙な感じをもってしまうこともあるが、この二作は賢明な名づけだと思った。
・台頭するヒトラーのドイツがフランスに攻め込んで、加勢するイギリス軍が苦境に立たされている。イギリス議会はその苦難に対処するためにヒトラーに批判的なチャーチルを首相に選んだ。徹底抗戦を主張するチャーチルと、あくまで和平交渉で解決すべきだとする勢力とのせめぎ合いがこの映画の主題になっている。
・この映画では日本人のメイクアップ・アーティストがアカデミーを受賞した。しかし僕にはチャーチル役はフルシチョフのように見えた。また、映画を見ながら、カズオ・イシグロの『日の名残』の執事が、和平交渉派の貴族政治家に仕えたことなども思い出した。そのせいか、チャーチルを英雄視した国威発揚映画のように感じられた。

・最近、テレビやパソコンでも映画をよく見るようになった。暇になったおかげで、今のところ「毎日が日曜日」を満喫している。それにつけても、「働かせ改革」は企業の側に立ったひどい法案だと思う。

2018年5月21日月曜日

ジャック・ロンドンを読んでいる

 

『どん底の人びと』(岩波文庫)
『ジャック・ロンドン放浪記』(小学館)
『火を熾す』(スイッチ・パブリッシング)

jacklondon1.jpg・ジャック・ロンドンを最初に読んだのは『どん底の人びと』だった。20世紀初めのロンドンのイースト・エンドに入り込んで、そこで労働者や浮浪者と生活を共にする。陰りが見えたとは言え、大英帝国の首都にかくもひどい貧民窟があるということを、若いアメリカ人が体験的にレポートしたものだった。僕はこの本を2006年に取りあげている。バーバラ・エーレンライクの『ニッケル・アンド・ダイムド』(東洋経済新報社)を書評した時に、「下層の暮らしをルポする手法」と題して、ジョージ・オーウェルの『パリ・ロンドンどん底生活』(晶文社)と一緒に紹介した。オーウェルの体験的なエッセイは70年代に読んで、ずい分影響を受けたが、オーウェルにとって手本になったのがロンドンの『どん底の人びと』だったことは、それまで知らなかった。で、ジャック・ロンドンの外の作品に興味を持ったのだが、数冊買っただけで、読まずに放っておいて、ほとんど忘れてしまっていた。

・次にジャック・ロンドンを思い出したのは、柴田元幸が翻訳した『火を熾す』を見つけた時だった。彼はアメリカ人の作家で一番好きなポール・オースターのほとんどの作品を訳していたから、ぜひ読んでみたいと思って購入したが、すぐに読まないうちに忘れてしまっていた。実はそれ以前に『白い牙』や『ジャック・ロンドン幻想短編傑作集』も買ってあったのである。で、まとめて読むことにした。

jacklondon2.jpg・ジャック・ロンドンはサンフランシスコの下町に生まれ、貧しい家を助けて幼い頃から仕事をしたり泥棒をしたりして成長した。アザラシ狩り船の水夫をしたり、ホーボーになってアメリカ北部やカナダを放浪した。『ジャック・ロンドン放浪記』は、鉄道をただ乗りし、物乞いをし、盗みまでやったその仕方を詳細に書いている。あるいはホーボーであるという理由だけで収監された刑務所での生活についても、その描写は具体的だ。
・ホーボーは鉄道をただ乗りして旅する人だ。冒険心に溢れ、自由に憧れる多くの若者たちを虜にした。その姿はウッディ・ガスリーを初めとしたフォーク・シンガーに歌われ、映画でもくり返し描かれてきた。この本は、そのホーボーを描いた初めての作品で、ヒーローにするきっかけになったものだと言われている。青年時代の一時期を放浪者として過ごすのは、50年代のビートニクや60年代のヒッピーといった若者文化にも受け継がれ、文学や音樂、あるいは映画などに描かれるアメリカ文化の特徴にもなった。その意味で、ジャック・ロンドンは重要な作家だと改めて思った。

jacklondon4.jpg ・ジャック・ロンドンはまた多くの小説を書いている。『火を熾す』は短編集だが、そこに描かれる世界はどれも、極限状況における人の有り様といったものだ。極寒のアラスカを犬と歩き、徐々に衰弱して死んでいく者。食べるものもない貧しいボクサーが、それでも金を稼ぐためにリングに上がる話。群がるサメに臆せずロブスターをとり続けるハワイの少年の話。透明人間になることを競う二人の友達の間で、そのエスカレートに戸惑いながらつきあう少年の話。あるいは、メキシコの革命軍に資金を提供する若者もまた、賞金稼ぎのボクサーで、打たれても撃たれても倒れず、強い相手を打ちのめす話等々である。
・どの物語も、その状況がすぐ想像できて、引き込まれてしまう。極限状況の中で、人や動物、そして自然現象と命をかけて戦う。その描き方もまた、訳者が書くように、剛速球投手の投げる球そのものである。

つづく