1998年2月13日金曜日

『フル・モンティ』(1997)

 ぼくは大学の教員だから、わりと好き勝手なことやっていても、とやかく言われることはあまりない。ほとんど自由業のようなつもりでいるのだが、給料をもらって生計を立てているサラリーマンであることに変わりはない。だとすると、失業の危険だって常につきまとうはずである。最近の証券会社や銀行の倒産はもちろんだが、18歳人口の減少で大学が冬の時代を迎えることはずいぶん前から言われてきた。


ぼくは能天気にも、こんなことをほとんど他人事のように考えてきた。そして、最近になって急に、否応なしに現実味をもって感じさせられるようになった。大学の生き残りのために考えさせられたり働かされたりすることが増えてきたが、それにもかかわらず受験生は確実に減りつづけている。


で、ときどき、失業したら、ぼくには一体何ができるんだろう?どこが雇ってくれるんだろうなどと考える。もちろん考えはじめてすぐわかるのは、その可能性の少なさである。ぞっとして、二度と考えたくはないと思ってしまう。間違っても、『フル・モンティ』の登場人物たちのような目には遭いたくはない。この映画を見ての第一印象はそれだった。


"Full Monty" とは全裸という意味のスラングである。この映画はつまり、男たちがストリップをやる話なのだ。イギリスのシェフィールドはマンチェスターやリバプールに近い鉄鋼の町。登場人物たちはそこの鉄工所に勤めていたのだが、半年前に解雇されてしまっている。金がない、借金はある。時間を持て余す毎日、パートでなら職もないことはないが、今さらそんな仕事をする気にもならない。子供に威厳を示せない父親、そして離婚の危機。当然、パート仕事をする女たちの方が金回りがよくて勢いもある。


町にやってきた男たちのストリップ・ショーに女たちが嬌声をあげる。男たちはますますいじけるが、主人公のガズはこれで金儲けをと考える。メンバーはインポテンツのデブと気位の高い上司、自殺し損なったマザコンに、巨根だけが自慢のリズム音痴、それに薬中毒の初老の黒人。


話はしごく単純、それなりに深刻で切実なのだが、思わず笑ってしまう。笑いながら、他人事ではすまされない。火の消えた鉄工所での踊りの練習が見つかって、全員が警察に捕まってしまう。ラジカセで音楽の担当をしていたのはガズの9歳になる息子だった。新聞が鉄鋼野郎のストリップと大きく報じる。新聞の回収にまわったって焼け石に水。彼らは一躍町の話題になる。そして、最初で最後の一回だけの、スッポンポンのストリップ・ショー。これはまさに、中年過ぎの男たちのアイデンティティをかけた戦いの物語なのである。


最近、イギリス映画がおもしろい。例えば『トレイン・スポッティング』や『イングリッシュ・ペイシャント』。『トレイン・スポッティング』はやっぱり、職がなくてぶらぶらしている男たちの話だった。ロバート・カーライルは両方に出演しているが、登場人物は全体にもう一世代若かった。いわば、アイデンティティを持てない状況に置かれた若者たちの生態といったところ。そして『フル・モンティ』はアイデンティティの再構築を迫られた男たちの生き様である。


一人前の人間であるためには、誰もが他人から認められ、信頼される何者かにならなければならない。そのための機会や選択の幅は増えたが、競争は激しいし、確立したと思っても、実際、その基盤は恐ろしく頼りない。だからいつだって、やり直す状況に置かれる危険性はある。そんな時代がやってきたことは、たぶん間違いない。『フル・モンティ』はそんな時代に遭遇した男たちのやけっぱちの抵抗なのである。

1998年2月6日金曜日

Bob Dylan "Time Out of Mind" グラミー賞「最優秀アルバム賞」

 

  • このアルバムの1曲目の"Love Sick"は「俺は歩いてる」で始まる。歩いていてくれて本当によかったと思う。病気で入院というニュースを聞いた時に、続いてディランもか、と考えてしまったからだ。実際去年は、たくさんの人が死んだ。いくら息子がデビューして人気者になったとはいえ、まだまだ歌を聞きたい。そんな気持ちで1年を過ごした。そして去年の暮れにタワー・レコードでこのアルバムを見つけた。7年ぶりの新曲と書いてある。ぼくはうれしくなって、一刻も早く聞いてみたいと思った。
  • で、音はシンプルだがなかなかいい。深く沈み込むような声、静かだが、けっして弱々しくはない。ディランの存在感は健在だ。いくつかの歌詞に「歩いている」ということばがくり返し出てくる。このアルバムのキー・ワードかもしれない。
      夏の夜を歩いている
      ジュークボックスが低く鳴る
      昨日は、すべてがあまりに速く過ぎて
      今日は、すべてがあまりに遅く動いている
      Standing In The Dooway
  • 先日ディランのページを作っている西村さんという方からリンクしたいというメールが届いた。簡単に了解したが、後でそのページ「How To Follow Bob Dylan」を見てびっくりした。現在のディランの動向が手に取るようにわかるし、彼に関する最近の情報やレビューなどのリンク先も豊富だ。さっそく、ここから歌詞を載せているページを探して"Time Out of Mind"の歌詞を手に入れた。
  • ディランのコンサートは、今年は1月13日に始まっていて2カ月間で23回が予定されている。ものすごく精力的だ。途中、ニュー・ヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでは5日間、そしてボストンで2日間、ヴァン・モリソンとのジョイントが行われたようだ。いい組み合わせだな、と思うと、行けないことがたまらなく悔しくなってきた。それに続く26日のコンサートが風邪でキャンセルになったようだ。ディランはやろうとしたがドクター・ストップがかかったようだ。
  • ディランはなぜこんなにコンサートにこだわるのだろう。そんな気がしないわけではない。死に急ぐことはないじゃないか、と言いたくもなってしまう。しかし、たとえばポール・ウィリアムズが『ボブ・ディラン1-2』(菅野ヘッケル訳,音楽の友社,1992年)に描き出したように、彼はコンサートをアルバムの再現とは考えないし、また一つ一つのコンサートを、それぞれ別の存在として考えている。だから曲目の違いはもちろん、歌い方やアレンジまでもが変えられてしまう。その一回限りのパフォーマンスと聞き手との出会いにかけている。その姿勢は、もうすぐ歌いはじめて40年になる彼のなかで一番はっきりしたものだ。
  • それなら、ディランは今の聞き手に何を期待しているのだろうか。ポール・ウィリアムズは「批判的な気持を持たない大聴衆を前にして、すでに征服をすませた英雄である自分が、自身にはすでに過去のものになったアウトサイダー精神をどのように歌って表現するかという挑戦。この挑戦は一貫してツアーの底流にあり、最後までなくなることがなかった。」と書いている。
  • もぬけの殻になったナツメロではなく、その精神を歌いつづけること。それが伝わる可能性はと考えたら、ほとんど絶望的になってしまうような試みだが、ディランにはそんな計算は無意味なことのようだ。「俺は歩いている。昨日も、今日も、そして明日も.......歩き続けている」
  • 1998年2月1日日曜日

    D.ハルバースタム『ザ・フィフティーズ』上下(新潮社)


    ・50 年代というのは若い世代の主張が激しかった60年代に比べて、話題になることが少ない。けれども、考えてみれば60年代の若者たちを育てたのは、50年代なのである。だから、60年代がなぜあのような時代だったのか知りたければ、むしろ、50年代を調べる方が近道なのかもしれない。
    ・D.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』を読んで、再認識させられたことがいくつかある。戦後育ちのぼくにとってアメリカは最初から豊かな国だった。最初からということは、ぼくにとってはずっと昔からということを意味していた。自動車、カラー・テレビ、大型冷蔵庫、ハンバーガー、コーラ、高速道路に大きなスーパー・マーケット、あるいはホリデイ・イン..........。
    # ところが、この本を読むと、そういった現在でもアメリカのイメージを代表するもののほとんどが、50年代に生まれたことがよくわかる。例えば、マクドナルドのハンバーガーはロサンジェルスに近いサンバナディーノに1940年に開店した店が出発点になっている。店は繁盛したが、これを全国チェーンにしたのは、マクドナルド兄弟から1954年にフランチャイズ・エージェントを引き受けたレイ・クロックだった。そしてケンタッキー・フライド・チキンやさまざまなファミリー・レストランのチェーン店が生まれる。
    ・アメリカは40年代に全国の高速道路網を整備した。そこにいち早く着目して、全国チェーンのモーテル「ホリデイ・イン」を作ったのはケモンズ・ウィルソンである。あるいは、郊外に新興住宅(レヴィット・タウン)を量産したビル・レヴィット、ディスカウント・ショップ「コーヴェッツ」をニューヨークではじめたユージン・ファーコフ。そのアイデアを借りて作られたオモチャのチェーン店「トイザラス」。
    ・50年代を象徴するのは他にもたくさんある。テレビの普及と映画の変容、あるいは、LPやドーナツ盤によって生まれた新しい音楽市場。マーロン・ブランド、ジェームズ・ディーン、マリリン・モンロー、エルビス・プレスリー、そして「アイ・ラブ・ルーシー」のルシル・ポール.............。もちろんタレントやスターの出現は芸能界に限らず、政治、経済、社会のあらゆる分野から出現する。というよりは、注目される人、されたい人はタレント的な才能をもたなければならなくなった。
    ・ハルバースタムはアメリカの豊かさを大衆化した時代が50年代であることを詳細に展開する。それは、一方で水爆や冷戦といった緊張をはらみつつも、個々の人にさまざまな欲望を自覚させ、それが実現可能だと思わせはじめた時代だった。郊外にもったマイ・ホームとテレビ、買い物はスーパー、自動車をつかった高速道路の旅。宿泊はどこでも安心なモーテル。大事に育てられる子供、魅力的な妻や懸命な母になろうとする女性たち。キンゼー・レポートとピル、『プレイ・ボーイ』の創刊。
    ・けれども、その豊かさの大衆化が、また、さまざまな不満や批判を自覚させる原因になる。60年代の若者の反乱の出発点がすでに、ディーンの映画やプレスリーのロックンロールに見つけられるように、フェミニズムや黒人(アフリカ系アメリカ人)による公民権運動の出発点も50年代にある。もちろん、ヴェトナム戦争が米ソの対立する冷戦構造から生まれたものであったことはいうまでもない。
    ・このように見ると、もうすぐ20世紀が終わろうとしている現在について考えようとするときにまず見つめなければいけないのは、50年代という時代であるような気がする。

    1998年1月25日日曜日

    世間体とゴミ



  •  京都西山奥
       京都の洛西ニュー・タウンから西山に登る細い道がある。花の寺や善峰寺など観光名所もあるが、亀岡や高槻につながる知る人ぞ知るといった山道である。市内が一望できる絶好のスポットもあって、ぼくもバイクや車で時折出かけるが、季節ごとに趣のある景色を見せてくれるお気に入りのルートである。しかし、その道をちょうど登り切ったあたりの平らな土地に、ものすごいゴミの山ができている。2カ所に別れて車が10台ほど、そのほか簡易の公衆トイレ、風呂、それにモーターボートまであった。実際こんな光景は、ちょっと山の中をドライブしたら、すぐに見かけるものである。
       井上忠司の『世間体の構造』(NHK出版)には村と村の境目にゴミの山ができる習慣が古くからあって、それが顔見知りの他人の目を気にする日本人独特の風習であることが書かれている。環境問題に自覚的になって、ゴミの選別にやかましい自治体が増えているが、「世間とは顔見知りだけの狭い世界なり」といった日本人の感覚は、まだまだ健在である。それは例えば、道路のグリーンベルトに散乱する空き缶などをみてもわかる。さすがに町中でのタバコの吸いがらのポイ捨ては減ったが、人の目が及ばないところ、自分が匿名のままでいられるところでは、ついつい昔の癖が出てしまうようだ。


  • 1998年1月19日月曜日

    『ザ・ファン』(1996) 監督:トニー・スコット、主演:ロバート・デ・ニーロ 、ピーター・エイブラハムズ(原作)早川書房

  • 最近はすっかり、映画をテレビ、それも衛星放送で見る習慣がついてしまった。だから新しい映画は、大体1年遅れで見ることになる。ビデオをレンタルする気にもならないのは不精の極みのような気もする。が、それでも不都合はないのだから、便利になったことを感謝すべきだろう。映画レビューが時期はずれになるのはちょっと気がかりだが、別に最新の映画情報のつもりではないから、さして問題だとも思わない。
  • とは言え『ザ・ファン』はずっと気になっていた。テーマである「ファン」に関心があったからだ。で、原作はちょっと前に読んだ。原作と映画の違いはよく議論されるところだが、デ・ニーロを想像しながら読んだせいか、映画を見てほとんど違和感を感じることはなかった。ただ、舞台がシカゴからサンフランシスコに変わり、チームが「ホワイト・ソックス」から「ジャイアンツ」に変わっただけのことである。原作でも、自分勝手の「ファン」の恐ろしさは感じられた。しかし、映画でのデ・ニーロの演技は、それ以上だった。彼は時に演技が過剰になりすぎて、食傷気味になる(最近では『フランケンシュタイン』)が、今回は彼以外にはできない役のように感じられた。
  • 他球団から超高額の年俸でスラッガーがひいきチームにやってきた。しかもその選手は地元の出身である。主人公のギルは今年こそ、おもしろい試合が見られると期待する。彼は妻とも離婚して、息子ともめったに会うことができない。ナイフの会社のセールスをやっているが、成績が悪く、父が創業者であるにもかかわらず、解雇寸前のところにいる。で、目下の関心は野球だけ。ところが、その期待したレイバーンは極度の不振。つけるべき背番号11をチーム・メートのプリモがゆずらない。原因はそこにあるのかもしれない。しかもそのプリモは絶好調。ギルは背番号の交渉に自分が一役買おうと考える。
  • ギルはプリモを殺し、レイバーンの調子は戻る。ギルはレイバーンに感謝してもらいたいと思う。しかし、レイバーンはファンなんて勝手なヤツはクソくらえだという。ギルは許せないと思う。そしてレイバーンの息子を誘拐。映画としてはぞっとするほどおもしろかった。けれども、ファンのイメージがこんなふうにして強調されるのは危ないな、とも思った。
  • ファンについては、社会学でも、最近よく研究されるようになった。学生の関心も高くて、例えばぼくのゼミでは去年、バレーボールの追っかけ、ロックのグルーピーをテーマに論文を書いた学生がいたし、今年は宝塚ファンをテーマにした論文があった。あるいは小説やマンガや映画とその作者をテーマにする場合も多い。そのすべてに共通しているのは、自分自身がファンだという自覚である。好きな対象、自分自身がそうであるファンについて考えるから、当然批判めいたことが書かれないという不満はあるが、何かのファンになること、ファンであることの積極的な意味を力説するという点ではどれも説得力があった。
  • ファンについての社会学的研究も、かつてのような病理現象的な扱いから、ごく普通の人にとってのアイデンティティ形成の一要素、というものに変わってきている。例えば、有名なのはマドンナとそのファンがもつ「ウォナビー」(私もなりたい)という意識だろう。これは、もちろん、自分もスターになりたいといったものではない。むしろマドンナのように男に従うことなく積極的にいきる女になりたいという意識である。
  • ファンとはけっして、スターを盲目的に愛し、同一化し、あげくは自分とスターとの違いを見失なってしまうといった存在ばかりではない。自分が自分である、あるいは自分らしい自分を捜す。そのために誰かのファンになる。そんな傾向の方が、現実的には圧倒的に多数派を占めているはずである。『ザ・ファン』は「ストーカー」といった話題とともに、そんな現実を不必要に歪ませる結果をもたらしかねない。この映画に夢中になりながら、一方では、そんなこわさも感じてしまった。
  • 1998年1月12日月曜日

    "The Bridge School Concerts"

     

  • 「ブリッジ・スクール」はサンフランシスコのヒルズボローにある、ことばやからだに重度の障害を持つ子どもたちのための学校だ。そしてこの学校を支援するために1986年から毎年一回、秋にコンサートが開かれている。主催者はペギー・ヤングでコンサートは毎回、ニール・ヤングが中心になっておこなわれている。そのマウンテン・ビュー「アライン・アンフィシアター」におけるコンサートも去年で12回目を数えた。
  • "The Bridge School Concerts"には、86年から96年までに登場したミュージシャンの歌や演奏が集められている。例えば、トム・ペティ(86)、トレイシー・チャップマン(88)、エルビス・コステロ(90)、ボニー・レイト(93)、サイモン&ガーファンクル(93)、プリテンダーズ(95)、ベック(95)、デビッド・ボーイ(96)、パティ・スミス(96)、パール・ジャム(96)。ちなみに、97年のコンサートは「ブリッジ・スクール」のホームページでは10月18、19日におこなわれていて、出演者はニール・ヤングのほかにアラニス・モリセット、スマッシング・パンプキンズ、ルー・リード、メタリカ他となっている。また『ニール・ヤング全記録』(音楽の友社)によると、スプリングスティーンもディランも参加したことがあるようだ。
  • 「ブリッジ・スクール」は重度の障害を持つ子供たちのために積極的に新しい道具や技術を取り入れて、彼や彼女たちの自己表現やコミュニケーションが可能になるような教育をしている。そのホームページには、具体的な日常生活のプログラムや、子どもたちの作品などが紹介されている。このコンサートは、そのような教育を運営するために重要な資金源になっているのである。
  • 慈善活動というと、何か抵抗感をもつのが日本人の共通感覚かもしれない。しかし、アメリカ人のこの種の活動に対する意識はきわめて積極的で、しかも大げさではない。ロック・ミュージシャンによる支援活動は、たとえば70年代の「バングラデシュ救援コンサート」から一つの大きな流れになったと言えるだろう。そして84年の「USA for Africa」はテレビによって世界中が一日中つながる巨大なイベントになった。それはロックが市民権を得るためには確かに有効な活動になった。あるいは、巨額な支援金を集めるためにはロックのスーパー・スターの力が不可欠であることも証明された。けれどもそれはまた同時に、一つの売名行為になったり、政治や社会的な立場の違いや対立をうやむやにしたりもした。最近では交通事故で死んだダイアナとエルトン・ジョン、そしてダイアナ基金との関係などがある。
  • ぼくは必ずしも、ロック・ミュージシャンのおこなう支援コンサートに賛成するつもりはない。しかし、"The Bridge School Concerts"などを聞き、「ブリッジスクール」のホームページなどを見ると、それがずいぶん地道な活動として定着していることをあらためて教えられる。と同時に、この種の活動が日本ではまったく不毛であることを考えさせられてしまう。例外的にがんばっているのはただ一人、泉谷しげるだけだろう。
  • 現実から距離を置くことを作品のモチーフにしていた村上春樹が、最近は「デタッチメント」ではなく「コミットメント」が大事だと言い出している。それはやっぱり彼にとっても、何年かのアメリカ生活で得た実感のようである。で、地下鉄サリン事件への関心というわけだ。それを批判するつもりはないが、関わる価値のある対象は、もっと身近な現実の中にいくらでも存在していて、実はそのことの方が大事で、なおかつ難しいはずなのである。とは言え、きっかけを作るのにそれなりの理由を探してばかりだったり、抵抗を取り払うことに手間どったりしているぼくには、「日本人」などと一般化して他人を批判する資格など、どこにもないのだが..............。
  • 1998年1月5日月曜日

    鶴見俊輔『期待と回想』上下(晶文社)

     

    kitai1.jpeg・鶴見俊輔は17歳でハーバード大学に入学し、20歳で卒業している。太平洋戦争が始まって投獄され、日本に強制送還されたから、実質的には2年半、その間に、ウィリアム・ジェームズやパース、G.H.ミード、そしてJ.デューイを読み込んでいる。シンガポールでの戦争経験の後、27歳で京大の助教授になった。プラグマティズム、転向研究、そしてさまざまな大衆文化論、そして『思想の科学』の編集とベ平連。
    ・ぼくにとってはもう30年ほど、とにかく、すごい人、偉い人、それに何より信頼できる人としてありつづけてきた。そんな鶴見さんが、インタビューを受ける形で、自伝的な本を出した。この本は改めて、彼の思考のスタイルとその発想の原点を垣間みさせてくれる。
    kitai2.jpeg・彼の父は鶴見祐輔、母方の祖父は後藤新平。その「日本の上位1%」の家系の中で育ったという生い立ちが彼の発想の原点にはある。もちろん、その後ろめたさを自覚するのはある程度成長してからだが、しつけの厳しい母親との関係が彼の性格や思考に与えた影響は恐ろしく大きかったようだ。「何でもかんでも叱ったね。わたしの存在自体が気にくわない。しかもそれは過剰な愛のためなんだ。」
     そんな、行き場のない気持ちの向けどころはフィクションの世界だった。彼は3、4歳の頃から本を読み始めるが、その大半はエロ本だと言う。「和田邦坊の『女可愛や』や宮尾しげをの『軽飛軽助』は女を裸にするところがあって、『いやあ、いいなあ』と感激したのを覚えていますよ。」
    ・飛び抜けた秀才がなぜ漫才やマンガにあれほど肩入れをするんだろう。ぼくは正直言って今一つしっくりしない疑問のようなものを持ち続けてきた。実際大衆文化の研究家には、自分の本当の趣味はもっと高尚なものに向けられているといった人たちが少なくない。けれども、この本を読んでいるうちに、そんな疑問がすっきり解消したような気分になった。彼にとってマンガや大衆文学は、何より自分が自分でいられる場をかろうじて提供してくれるものとしてあったのである。
    ・権威や権力、原理原則、体系だった思想、純粋で高級な文化。鶴見俊輔にはこのようなものに危うさ、胡散臭さを感じとる姿勢が貫かれている。彼はそのようなものの対極にあって希望の託せる存在として大衆やその文化に期待する。「無関心に依拠して戦う。それがわたしの望みなんですね。『がきデカ』に期待する、というのはそういう意味なんですよ。」
    ・もちろん彼は、自分が大衆そのものだなどと思っているわけではない。「私のポジションは、サンチョ・パンサに憧れるドン・キホーテだったと思う。ドン・キホーテそのものでもない。またサンチョ・パンサそのものでもない。ドン・キホーテから学ぶサンチョ・パンサでもないんだ。」
    ・鶴見は吉本隆明とは違って知識人と大衆とをまったく異なる存在としてはとらえない。「私は連続体として考える。そういうふうに切れないというのが私の考えです。知識人は大衆と相互乗り入れをしている。」ぼくは鶴見俊輔を、そのことを身をもって感じとり、一つの思想に仕立て上げた人だと思うが、この本は、そのことをつくづくと実感させてくれるような気がした。