1999年11月16日火曜日

「恋愛小説家」"As good as it gets"

 

  • とにかく今年は映画を見る機会がない、というよりは余裕がない。だから、テレビは結構見ているのに、Wowowで見るものをあらかじめチェックしてといったこともしなくなった。で、思い出したように番組欄を調べたら、見たいものがいくつかあった。「恋愛小説家」はその一つである。ジャック・ニコルソンとヘレン・ハント主演で監督は「愛と追憶の日々」のジェームズ・L.ブルックス。この映画は「タイタニック」がアカデミー賞を総なめにした年に、主演の男優と女優賞を横取りにして、デカプリオ人気に肩すかしを食らわした。日本では「タイタニック」に隠れてほとんど話題にならなかっただけに、よけいに見たいと思っていた映画の一つだった。
  • ニコルソンが演じる小説家のメルヴィンは極端な潔癖性で動物嫌い、そしてなにより人間不信の毒舌家である。住んでいるのはマンハッタンの高級アパート。隣人とは口をきくのも嫌で、食事をするのは決まったレストランの決まったテーブルで、しかも注文を取るのも決まったウェイトレス。もちろん食べるものも決まっていつも同じもの。しかしそのウェイトレスに対しても、積極的にかかわろうとするわけではない。彼にとっては、かろうじて接触を許容できる相手というにすぎない。作家である主人公が人との関わりに積極的になるのはワープロに向かって恋愛小説を書くときだけである。
  • そんなメルヴィンが否応なしに隣人のゲイの画家と関わらざるを得なくなり、嫌いな犬とを世話するはめになる。ウェイトレスが店を休むと家まで行って、君がいないと食事ができないと懇願するようになる。けれども彼女にとって彼は決して印象のいい相手ではない。と言うよりは口が悪くて偏屈な嫌な客にすぎないから、家まで来たりしたことをひどい言葉でののしる。彼女には病気がちの男の子がいた。
  • フィクションの中では男女の恋物語を自由自在に操ることができるが、現実になると、相手をむかっとさせたり、うんざりさせたり、傷つけたりすることばしか吐けない。読者として女性ファンを虜にすることはできても、現実の、目の前にいる女性にはまるでだめ。すでに60歳を過ぎているはずの、男や女の心理を知り尽くしているはずの男が見せる、まるで初恋を経験する純情な少年のような一面。そのニコルソンの演技は、笑わずにはいられないがまた、何とも切なくなってくる。
  • 都会では、何か一つ才能があれば、あるいは仕事さえあれば、人とはつきあわなくたって生きていける。生身の人間は思うようにはならないし、信用もできないが、それに代わるフィクションや疑似現実的な世界でなら、親しさも、恋愛感情も経験することができる。そんな意識は若い世代にはごく自然なものとして現れているが、中年以上の世代だって例外ではない。そしてやっぱりどこかに欠落感や孤独感を抱えている。
  • メルヴィンはゲイの画家の犬をしぶしぶ預かってはじめて、その犬を返した後にあいた心の穴に気づく。あるいはいつも行く店にいつものウェイトレスがいないことであらためて、自分の居場所が消えてることを思い知らされる。
  • その欠落感や孤独感は、現在の人間が持つ共有意識で、少なくともある程度都市化したところなら、住んでる場所を問わないもの。この映画を見ながら思ったのは何よりそんなことだった。ある日突然、安住の場であるはずの職場や家庭が消えてなくなったら、僕らは、その欠落感や孤独感をどうやって埋めていくのだろうか?
  • 1999年11月9日火曜日

    秋の風景




  • 夏休みを河口湖で過ごしたあとも、毎月一回4〜5日ほど訪れている。今年はいつまでも暖かいが、それでも、来るたびに陽の光や空気や景色が変わっていくのがわかる。で、11月の初旬はと言うと、山の上だけだが、ご覧のような見事な紅葉だった。場所は太宰治の「富士には月見草が似合う」で有名な御坂峠の茶屋のあたり。今は河口湖と御坂の間は長いトンネルで一走りだが、昔はカーブの多い細い道を越えなければならなかった。残念ながらこの日は富士山が隠れていたが、紅葉の向こうに湖という風景はやっぱり美しかった。




  • 家のログと屋根の隙間にミツバチが巣を作っていた。たまたま見たテレビで、野生の日本ミツバチだということを知って、8月から気になってよく見ていたのだが、飽きないのは巣を襲うスズメバチとの闘いだった。からだの小ささを何匹もで力を合わせてカバーする。そのチームワークの見事さに口を上げていつまでも見とれていた。
  • そのミツバチが何匹も家の中で死んでいた。どこかに中に入る道でもあるのだろうが、探してもよくわからなかった。夏に比べたら、ほんのわずかになったが、ハチはまだ飛び回っている。穴をふさごうか、来年もまた見物しようか、迷っている。

  • ハチに代わってやってきたのがかわいいお客様。伊藤家のヒビキ君はまだ8カ月でもうすぐハイハイをしはじめるところだ。これからがやんちゃな盛りで、目が離せないが、また這った、立った、歩いた、喋ったとかわいい時でもある。
  • ぼくは久しぶりに彼をだっこして「高い高い!」をやったために、二の腕が筋肉痛になり、笑顔に応えて、不断使わない顔の筋肉を使ったためか、帰ったあとはぐったり疲れてしまった。

  • 疲れたと言えば薪割り。ストーブに使う薪はやっぱり自力で調達と意気込んで、チェーンソウも買ったのだが、赤松や杉の倒木はとてつもなく重い。それを30cmほどに切って、今度は鉈でまっぷたつ。これがまたなかなか大変で、節のあるやつはなかなか割れてくれない。朝から始めて気がついたらもうお昼、などという日を、結局は毎日過ごしてしまった。ところが、苦労してつくった薪も、いざ燃やしてみると、一晩で一山も使ってしまう。上に写っている薪の山もせいぜい4日分といったところで、来年住み始めたらやっぱり灯油ということになるのかな、と思うと、ストーブや鉈やチェーンソウが恨めしくなる。
  • 火と言えば、カミさんは七輪を使った陶芸に夢中だった。七輪に炭を詰めてその上に陶器を置く。上からアルミ箔や一斗缶で覆いをして、ドライヤーで風を送る。そうすると、土が見る見る真っ赤に焼けてくる。それを新聞紙にくるんで還元。焚き火の灰をまぶすと、ところどころガラス質になっていたりして、なかなかのものだった。ちなみに七輪は1200円で調達したものである。



  • あとは付近の散歩。ぼくは毎朝、新聞を湖畔のコンビニまで買いに行ったのだが、いつも霧がかかっていて、霜も降りていた。しかし、太陽が高くなり始めると霧も晴れて雲一つない青空。パラグライダーが気持ちよさそうに舞っていた。稲刈りの済んだ田んぼ、近隣の集落には火の見梯子(?)と半鐘、そして樅の木になった赤い実。ぼくは子どもの頃に食べたことを思い出して、たまらなく懐かしかった。
  • 次に行くときはもう初冬、今度はどんな風と陽の光と風景が待っているのだろうか。
  • 1999年11月2日火曜日

    広告依頼とDMについて

     

  • Yahooに眼鏡マークつきで載るようになったせいか、最近広告依頼やDMがたくさん来るようになった。宿題のレポートなどに混じっているのを見ると、迷惑この上ない話で無性に腹が立つ。で、今回はそれを話題にすることにした。まず一つ紹介してみよう。
    広告ネットワークへの参加は無料。サイトの有効利用のために広告スペースを…… 広告スペースを確保したら5分以内に広告配信開始。広告を掲載することでサイト自体の認知度もアップ、広告主へ広告料金の請求と回収の代行。(広告料金の支払遅延、未払の心配無用) 高速回線によりどこよりも早いバナー広告の表示速度! (ホームページへの影響なし)掲載する広告を選択可能。(広告主別バナー非表示設定)リアルタイムでアクセス数レポートを表示。 毎月クリック数に応じて広告掲載収入が得られます。(1クリックあたり15〜25円)広告はデルコンピュータ・ホンダ・マイクロソフトをはじめ多くの優良クライアントが参加。
  • ぼくのHPは大学のサーバーに載っている。広告バナーを禁止しているのかどうか確認していないが、たぶんだめだろう。しかし、たとえOKでも、また個人でプロバイダ契約をして載せていたとしても、つける気はない。ぼくのHPは100%ぼくのメディアなのだから、金をもらって他人に場所を貸すなどというもったいないことはしたくない、と思うからだ。
  • インターネットが商売として儲かるという話をずいぶん読んだり耳にしたりする。確かにそういうこともあるだろう。けれども同時に、詐欺事件も多発しているようだ。上に紹介した誘いを詐欺だと言っているわけではないが、飛び込んできた誘いにうっかり乗るのはやっぱり危険だと思う。たとえば、別のメールでにはつぎのような甘い言葉があった。「毎日4000ヒットあるサイトAでは、5%の200人のユーザーがメンバーエリアにアクセスし、毎月¥2.500.000の収益を上げています」。1日に数十人のヒット数では、表示速度が遅くなるばかりで収入はほとんど見込めないはずで、儲かるのは契約を取り持つ代理業者だけだろう。
  • もちろん、インターネットで金儲けをしてはいけないと言っているのではない。うまく副収入を得ている人が多いことも知っている。他方で、マルチまがいの商法が相変わらず後を絶たなくて、学生が引っかかったといった話を良く耳にする。一見うまそうに見える話にうっかりお金を払う人が後を絶たない。社会問題化しているものも少なくないが、結局は個人で責任を負う性質のものなのだと思う。世の中を甘く見ている人間には、それなりの授業料がいるのかもしれない。
  • ところで、ぼくが今感じる腹立ちは、大学のサーバーに載っているHPにこんな誘いのメールを出す者の無神経さにある。インターネットはそこに参加する個人や教育機関や公的機関、それに企業などの自発的な協力によって維持されている部分が多い。そんなことお構いなしに金儲けに夢中の人間たちが好き勝手に動き回って獲物を狙っている。そんな図をイメージしてしまうからである。
  • たとえばこんなメールもやってくる。
    無料でいつまでも使える、高機能出会いウェブ『いっしょに遊ぼ』では、先々週より「ナイスバディなお友達」コーナーを開設していますが、夏と同じくもうすぐ終了の予定です。出会いを求めている女の子が水着や下着……でナイスなバディを披露してくれています。男性のかたにも素敵なボディを披露していただきたいのですが、なかなか難しいようです。お一人だけ、男性で参加していただいている方がいるのですが、女の子からのメールが殺到しているようです。
  • 何か勘違いしているんじゃないの?と言いたくなるが、最近大学教員の起こすセクハラがよくニュースなったりするせいかな?などと気を回したりもしてしまう。ぼくは毎週京都と東京を新幹線で往復していて、そのことをHPにも書いているから、旅行会社から「チケットの手配をいたします」といったメールも飛び込んできたりする。「まあよくお調べになって商売熱心ですね」と皮肉の返事を書こうと思ったが、やっぱりこの手のメールはすべて無視するのが一番と反応しないことにしている。
  • インターネットは世界につながっている。今さら言うまでもないことだ。当然、閉ざされた日本人的な感覚でなく「個人の責任」が第一にされなければならないはずだが、そのことをいったいどれだけの人が自覚しているのだろうか。
  • 1999年10月26日火曜日

    賀曽利隆『中年ライダーのすすめ』平凡社新書


  • ぼくはバイクに乗り始めてから、もう30年近くになる。最近では、自動車を使うことが多くなってしまったが、気持ちのいいワインディング・ロードに出会うと、「あーバイクで走ってみたい」と思うことが少なくない。暑さや寒さや風の強さを肌で感じる。コーナーでの傾きや後輪のスリップで実感する機械と身体との一体感。同じ登り坂や下り坂もその傾斜は車とはずいぶん違う。そんな感覚を、時々無性に味わってみたくなる。
  • とは言え、快適な時ばかりではないから、歳とともに「しんどさ」や「面倒くささ」が先に立つようにもなってきた。腰痛持ちで数時間も乗ると腰や尻が痛くなる。重たいバイクを引き回すとすぐに息が上がってしまう。だから、荷物を満載しての長距離ツーリングは、もう夢だけの世界で、街中や近くの山道をちょこちょこと走っている。で、今年長く走ったのは京都から東京への高速道路一直線と東京-河口湖一往復だけである。
  • 『中年ライダーのすすめ』を書いた賀曽利隆さんは51歳だから、僕より一つ上である。題名に惹かれて買ったが、読み始めてびっくりしてしまった。バイクで日本一周、世界一周はもちろん、それを50cc でもやったりしている。オーストラリアやアフリカの砂漠、あるいはモンゴルの草原。もちろん、それらを題材にしたフリー・ライターだから、それが仕事だといえばそれまでだが、飽くこともなく次から次へと走っている。そのエネルギーとバイクによる世界体験への好奇心は呆れるほどである。
  • よう身体がもつなと思ったし、費用はどうするんだろうと考えた。子どもが三人で扶養の義務も果たしているようだ。数カ月とか半年とか、家族をほったらかしてよく愛想をつかされないな。怪我や病気は......などと余計な心配ばかりしてしまったが、「ノーテンキ・カソリ」「強運のカソリ」「不死身のカソリ」といたって威勢がいい。
  • 「中年ライダーの愉しみと悩み」とか「中年ライダーの健康問題」の章は、さすがに歳相応の話かと予測したが、とんでもない。ここでも肺に腫瘍ができたとか心臓発作とか物騒な話が続き、それがオーストラリアやモンゴルに行った時期だと書かれている。しかもそれは無謀なことというよりは、自分の体力や気力を回復させるのに役立っている。もうただただ感心して読んでしまった。
  • 僕はとても彼にはついてはいけそうもない。けれども、バイク乗りとして共感できるところはいくつもあった。たとえば、「車というのは日常を引きずって走るもの、バイクは日常を断ち切って非日常の世界を走るもの」といった文章。ただし僕の非日常体験は、むしろ南伸坊がやるような裏道や裏山の探索といった程度で、しかも、だいたいは仕事の行き帰りの寄り道程度のものである。
  • もう一つ「そうだ」と同感したのは、バイクが決して危険な乗り物ではないということ。バイクに乗っていると、車が身体に比べて異様に大きな図体なのに、ドライバーがそれに無自覚であることに気づく。けれどもまた、車に乗っていると、身体をむき出しにしているのに、バイクの危険さを自覚しないライダーが気になる。ヘルメットを規則だからと仕方なく首に巻き付けているような人を見かけると、「死ぬのは勝手だけど、巻き込まれる人の身にもなったら」とつぶやいてしまう。同じ道路を走りながら車とバイクはまったく違う世界にいて、しかも互いを邪魔者に感じている。ぼくは、著者と同様、今まで30年近く、事故とは無関係だった。運もあるのかもしれないが、両方の世界を経験したことが大きかったと思う。
  • この本によれば、最近は若い人のバイク離れが目立つそうである。その代わりに中年ライダーが増えている。バイクが不良の乗り物ではなくおじさんたちのものになり始めている。ワーカホリックやリストラと、あまりいい思いをしていない中年たちが見つけた、自分を取り戻す一つの道具。それは、若者とは違うおじさんたちの文化を創り出す一つの契機になるのかもしれない。
  • 1999年10月20日水曜日

    Sting "Brand New Day",Steave Howe "Portraits of Bob Dylan"


    sting1.jpeg・スティングは好きなミュージシャンの一人だった。大阪城ホールで 5、6年前に見たコンサートは3人だけのシンプルな編成で、ぼくはじっくり聞かせる歌い方を堪能した。"Ten Summer's Tale"が出た後だったと思う。いい曲がたくさん入ったアルバムで、車の中でくりかえし聞いた。
    ・しかしその後、彼が登場したテレビCMを見てから、すっかり興ざめしてしまった。確か宮崎県の海岸に建つホテルだったと思う。彼はご丁寧に、そのホテルでコンサートを開いて客集めに一役買ったりもした。僕はたまらなく違和感をもった。
    ・もちろん、ロック・ミュージシャンはCMに出てはいけないという決まりはない。彼らにとっては自分でつくった音やことばはもちろん、姿形や生きざまだって商品として売られるものなのである。けれども、だからこそ、自らの商品化には意識的になってほしいとも感じてしまう。彼はずっと、アマゾンの熱帯雨林破壊の反対運動に賛同して、そのためのコンサートなどに積極的に出演していた。第一、スティングの音楽の良さは、その抑制された歌い方にあったはずである。「もう十分お金は手に入れたんじゃないの?」というのが、テレビに出たスティングに向けたぼくのことばだった。
    ・1996年に出た"Mercury Falling"は一般的な評価がどうだったのか知らないが、僕にとっては悪くはなかったが、印象の薄いアルバムだった。だから、くりかえし聴くことはなく、やがて、スティング自体も聴かなくなってしまっていた。シルベスター・スタローンの『デモリッシュマン』の音楽なども担当して、話題にはなっていたが、僕には、彼についてのイメージをますます違うものにする意味合いしか感じられなかった。
    ・で、今回のニュー・アルバムだが、たまたま見つけて久しぶりに聴いてみようかという気になった。"Brand New Day"。その最後の同名の曲には次のような一節があった。何やらこっちの気持ちをくすぐるような文句である。


    なぜ時計をゼロにできないのだろう
    有り金はたいて買ったモノを売ってしまおう
    真新しい日をスタートさせる
    時計を完全に元に戻して
    彼女が戻ってくるかどうかわからないが
    僕はまっさらのブランドで考える

    howe1.jpeg・もう一枚一緒に買ったのはスティーブ・ハウの"Portraits of Bob Dylan"。ハウはYES のギタリストでそのテクニックのすごさで知られるが、彼がディランに心酔していることをこのアルバムで始めて知った。中身は全てディランの曲。それらをハウ自身はもちろん、何人もの人たちが歌っている。ハウらしい静かなトーンでつくられていて、それなりにいいと思ったが、しかし聴いているうちにディランのオリジナルが無性に聴きたくなった。
    ・あのエネルギー、あの鋭さ、あの節回しがなければ、どれもこれもただのフォークやロックのスタンダードになってしまう。ディランのカバーで今まで、あのザ・バンドを除いて、ディラン自身よりいいというものに出会ったことがない。彼の作った歌はその存在抜きには考えられないのかもしれないが、それは、思い入れの強い僕個人の感覚だけなのかもしれない。

    1999年10月13日水曜日

    「社会学」のレポートを読んでの感想

  • 今年担当している「社会学」には受講生が200人以上いる。ほとんどが1年生だ。僕は去年も追手門学院大学で1年生の「入門社会学」を担当していたが、東経大のコミュニケーション学部には社会学のプロパーが少ないから、自分の得意な領域だけを講義するというわけにいかなくなった。で、「近代化」を中心テーマに基本的な話をしている。ちょっと大変だと思ったが、文献にもふれてもらおうと夏休みのレポートも出した。
  • 4000字のレポート200人分というと本で5-6冊はある。回収して積み上げたらうんざりするばかりだったが、連休の週末に久しぶりに河口湖に行ったから、がんばって全部を読んでしまうことにした。おかげで、暖かくて天気も良かったのに、ほとんど出歩くこともなく、4日間をレポートの束を抱えて過ごした。読後感はというと、まじめに書いている学生がほとんどだったが、いつもながらおもしろいものは少ないというものである。
  • 本を読むこと、それについて書くことは、基本的にはどちらも「考える」ことである。しかし、考えている学生が少ない。何が書いてあるのか、作者は何が言いたいのか、それについて自分はどう思うか、何を考えたか、それをどのように書いたらいいか。他人の書いた文章を読むおもしろさは、ひとつはそんな書き手の思考の後をたどることだが、学生の書いたものには、そんな姿がほとんど見えないものが多い。
  • 理由はいくつかあると思う。第一はこの種の本をはじめて読んだということ。どう読めばいいのか、どうまとめたらいいのか、どう書けばいいのかわからないこと。第二は、そんなとまどいをレポートに書いてはいけないと判断したこと。何しろこれはグレードがつくレポートである。多少は知ったかぶりもしなければいけない。第三は、作者、あるいは内容と、読んでいる自分との間にもつはずの距離感。これは、共感するにせよ、違和感を感じるにせよ、読むという行為に欠かせないものだが、そんな意識が不在なのである。
  • 大学生が本を読まない、ということに、今さら驚きもしないが、大学に入ってくるまでに、この種の本を一冊も読んだことがない学生がほとんどだということには、ちょっと不安な感じがする。大学に入るためには当然、「現代国語」や「英語」の試験がある。どちらにしても、社会や文化、政治や経済をテーマにした長文が出されて、結構難しい設問が設けられている。それをクリアして合格するのだから、文章を読んで理解する力はあるはずだ。しかし、それは一冊の本というのではなく、高校の教科書と、何より入試の問題集や参考書で培われる。それは、ちょっと前から一般的になった小論文でも同様だ。
  • 受験の弊害といえばそれまでだろう。しかし、日本語はもちろん英語にしても、読むおもしろさ、書くことの意味をまるで経験しない、というよりは、つまらないもの、しかし、やらねばいけないものと思いこませてしまう現状は問題である。学生は本は高くてつまらないものと考えている。しかし、専門書だって、最近では文庫や新書で豊富に出されている。それになじんで自分の関心がはっきりしてくれば、高くて難しい専門書にだって、取り組んでやろうという気が起こるはずである。
  • 今は大学生にそこから動機づけをしなければならない。200人の学生にそのことを理解させるのは至難の業で、僕もそんなことを自分の使命にするつもりはない。けれども、本を読むこと、それによって考えることをおもしろいと感じる学生が、何人かでもあらわれればという期待を込めて、学生に本を読むことを勧めてみようと思う。レポートには、この課題をきっかけに、これからはもっと本を読みたいといったことを書いた学生がかなりいた。社交辞令か、いい子ブリッコかもしれないが、僕はこのことばを信じようと思う。
  • 1999年10月6日水曜日

    最近のテレビはおかしくありませんか

     

    ・大学に長くいてつくづく思うのは、最近、政治はもちろん、文化の新しい流れが大学からはまったく生まれなくなったということだ。今、社会の流れを敏感にキャッチして、新しい方向づけをする役割は、大学生ではなく、高校生や中学生の女の子である。
    ・白髪模様の頭に厚底サンダルで肌はこんがり小麦色。今年の夏はどこにいてもこんな高校生の女の子ばかりだった気がする。で、大学でも今頃になって見かけるようになった。何も高校生のまねをしなくてもと思う。茶髪頭の数と偏差値は反比例するといった説を何年か前に耳にして、経験的に確かにそうだなと納得したことがあったが、今は厚底サンダルでそんなことが測れるのかもしれない。
    ・こんな傾向を見ていると、今の流行の発信源には「アホで幼稚」な感覚が必要なのだとつくづく感じてしまう。たとえば、テレビにはものを知らない女の子たちを笑う番組がたくさんあって、よってたかって馬鹿にしたりしているが、彼女たちも知らないことを恥じたりはしない。とんちんかんな受け答えをしても、あっけらかんとしている。彼女たちは何より、テレビに映されただけで満足なのだ。トレンドはそんな女の子たちとテレビが共謀してつくりだす。

    ・ダスティン・ホフマンとジョン・トラボルタの『マッド・シティ』を見た。恐竜博物館にライフルを持って立てこもった男と、そこに潜入して独占中継を試みるキャスターの話. 犯人に同情したキャスターは、世論を喚起するためにシナリオを作成して、犯人に演技をさせる。失業、路頭に迷う家族、思いあまっての犯行.....。うまく行きかけるが、ライバルのキャスターの横やりがあって、犯人は自爆する。定番のメディアものだが、おもしろかった。
    ・世論も流行もメディアがつくりだす。今さら断る必要もないことだ。ただ、メディアは、かつてはそれを悟られないようにやってきたはずだが、今ではあからさまにやる。「サッチー」の話題はもう半年以上もつづいているが、僕にはいったい何が問題なのかいまだにわからない。長島巨人の「メイク・ミラクル」を読売系以外のテレビがあんなに煽った理由もわからない。コマーシャルやドラマの主題歌にしてヒット曲を出す、というのは昔の話で、今は番組の中で出演者に歌わせて、それを実際にヒットさせる、といったことをやっている。ヒッチハイクでの冒険旅行の中継が、すでに何人もの人気タレントをつくりだしたことは今さら言うまでもないだろう。台風の最中に岸壁に立たせ、台湾の地震では阪神大震災の反省もなくヘリを飛ばし、災害現場でわがもの顔に振る舞っていた。神奈川県警の腐敗ぶりを叱り、東海村の核の事故を批判する口調は激しいが、NHKも民放も、局内でのセクハラやトイレの覗きといった下品な話題にあふれているし、アイドル化した女子アナはまたスキャンダルの餌食でもある。

    ・テレビ俗悪論は放送の開始時点からあって、僕はそのような議論にはほとんど与しなかったが、最近は本当に俗悪、というよりは醜悪になったなと思ってしまう。かつて、テレビの制作者はテレビ番組が俗悪なのは視聴者がそれを望んでいるからだ、と居直っていた。しかし、今はそうではなく、テレビ自体が俗悪さをふりまいている。何より「アホで幼稚」なのは視聴者や登場して喜ぶ素人ではなく、テレビ番組をつくる側なのである。しかも、同じ顔が次の瞬間には社会の良心といった表情に豹変するから、よけいに始末が悪い。警察や核施設のいい加減さがルールやマナーの軽視、たかをくくった慢心にあるとすれば、同じことはメディアにだって言えるはずである。テレビは何でもできる。テレビといえば誰もがにじり寄ってくる。そんな意識にスポイルされている。
    ・そんなふうに考えると、あまり邪心もなく、自分の外見をさまざまに変えては面白がっている少女たちの行動には、かえってほほえましい感じすら覚えてくる。自分たちが面白いことをやれば、メディアが追いかけてきて、それを話題にしてくれる。だから、馬鹿にされたってかまわない。彼女たちからのこんな自己主張にはけっして「アホで幼稚」と片づけてしまうことができないものがふくまれている気がする。とは言え、ちょっと遅れてまねする「フォロワー」の女子大生には、目につくせいもあってか、やっぱり、何とかしてよと言いたくなってしまうのも正直なところである。