2000年12月18日月曜日

井上俊『スポーツと芸術の社会学』( 世界思想社 )

  • 井上俊さんに出会ったのはぼくが大学院生の時だから、もう30年前になる。新進気鋭の社会学者の授業を受けるというので、興味津々で教室で待ち受けていたが、その若くて華奢な姿に驚いてしまった。そんな記憶が今でも鮮明に残っている。権威のかけらもない姿勢につられて、好き勝手な話ばかりした気がするが、一方で英語の文献をしっかり読む習慣もつけてもらった。大学の教師には教員免許が必要ではないし、教育実習もない。しかし、ぼくにとっては井上さんが学生と接する仕方のモデルになったことはまちがいない。
  • 手本にしたのはそれだけではない。ちょうど最初の著作である『死にがいの喪失』(筑摩書房)が出て、その一見平易な文体と緻密な論旨に感心して、それを自分のものにしたいとまねをした。当時は読む価値のある本は難しいものだという常識があって、その難しい中身をどれほど理解しているかが、良くできる学生のバロメーターであるかのような風潮があった。何度読んでもわからない本に自信を失うことも多かったから、井上さんの本には救われた気がした。
  • そんな井上さんが柔道をやっていると聞いたのは、それからしばらくたってのことで、およそかけ離れている気がして、黒帯姿などはとてもイメージできなかった。柔道は体育会系の中でもとびきりの単細胞で右翼チックな連中のやることと思っていたからだが、この本を読んで、高校生の時に有名な三船十段と知り合ったのがきっかけだと知って、何十年ぶりかで疑問が解決した。
  • 柔道について再認識した点をもう一つ。柔道は日本の伝統的なスポーツと考えられているが、実は極めて近代的なものであり、嘉納治五郎がつくった講道館柔道が柔術の近代化を意図してできたものということ。
    柔道は、単に近代にふさわしいマーシャル・アートであるにとどまらず、近代化にともなう社会の変動のなかでなおかつ変わらない日本人の民族的アイデンティティを象徴する身体文化としての性格もあわせもつことになった。その意味で、柔道は「近代の発明」であると同時に、E.ホブスボウムらのいう「伝統の発明」の一形態であったといえよう。(100-101頁)
  • そう、「伝統の発明」。たとえばブルースだって、フォークソングだって、伝統の中に埋もれていた音楽が再発見され、時代に合うよう作り直されたもので、新たな発明という要素がなければ、埋もれたままでしかなかったのである。嘉納治五郎が目指したのは、本書によれば、日本の近代化とその世界への認知。それは彼が日本のオリンピック参加の推進役になったことでも明らかである。近代国家としての日本を欧米に認識されるために重要な役割を果たしたのが柔道だったという指摘は、おもしろいと思う。柔道に日本的な精神主義が付加されたのは軍国主義以降のことだったのである。
  • 本書のテーマにはスポーツの他にもう一つ「芸術」がある。ただしここで問われている芸術は美術や音楽といった狭い範囲のものではなく、文学、あるいはスポーツをも含む広いものとして扱われている。そこでキイワードとなるのは「物語」である。日常の経験と物語は違う。しかし「人間の経験は物語の性質を持つ」。日常生活を意味づけ確かなものに感じさせるのは、古くは神話や伝説であったし、今では小説や映画、あるいはテレビドラマがある。そのようないわば「文化的な要素としての物語」は次に、私たちが自らを認識したり、他者に示して見せたり、また他者を理解したりするために必要な「相互作用としての物語」に影響する。私たちのなかには例外なく、自分をよりよいものとして他人に見せたいという欲求がある。「自己創出的な相互作用儀礼」。実人生のなかでも、人はドラマを演じるものなのである。
    まず人生があって、人生の物語があるのではない。私たちは、自分の人生をも、他人の人生をも、物語として理解し、構成し、意味づけ、自分自身と他者たちとにその物語を語る。あるいは語りながら理解し、構成し、意味づけていく……そのようにして構築され語られる物語こそが私たちの人生にほかならない。この意味で、私たちの人生は一種のディスコースであり、ディスコースとしての内的および社会的なコミュニケーションの過程を往来し、そのなかで確認され、あるいは変容され、あるいは再構成されていくのである。(163頁)
  • 現代はしっかりとした神話や伝説が失われた反面、様々な物語が氾濫する世界。自己を縛る古くさい慣習からは解き放たれたが、それに代わる自分なりのアイデンティティを見つけなければならない社会。生きられる私を意味づける材料には事欠かないが、逆に確かなものは見つけにくい。文学や音楽や映画、そしてスポーツが、魅力的な物語を供給する手段であり、それが私を物語るための材料になることは間違いないが、それで私のすべてが語りつくされるわけではない。だから次々と新しい物語を必要とし、片端から消費して捨てられる。多様な物語に満ちた世界はまた、私の経験そのものをも確かなものにしにくい世界なのかもしれない。
  • 不確かな物語に依拠して示される自己や他者やその関係は、たえず、そのほころびを露呈する危険につきまとわれる。だから私はいつでも自分が嘲笑や不信の原因になることにおそれと不安感をいだく。若い人たちに感じる言葉遣いや相手との距離の取り方には特に、そんな心理を感じることが多い。しっかりしろと言いたくなるがしかし、そこに向けられる井上さんの視線はきわめて優しい。
    物語への感受性はまた、物語の裂け目やほころびへの感受性でもある。どんな巧みな物語も、多様なバージョンも、人とその人生の全体を覆いつくすことはできない。たしかに私たちは、物語によって相互に理解しあい、関係をとり結んでいるが、同時に一方では、物語によってというよりはむしろ、互いに語りあう物語の裂け目やほころびによって、かえって深く結びつくことも少なくないのである。(164頁)
  • 2000年12月11日月曜日

    花はどこへ行った


    ・NHKのBSで「世紀を刻んだ歌・花はどこへ行った」を見た。「花はどこへ行った」はピート・シーガーの代表作だが、番組はこの歌にまつわるさまざまなエピソードと、現在でもなお集会に呼ばれて歌い続けるシーガーを紹介していた。次々とおこるブームや流行とは関係なく、主張を持った音楽に生き続ける老いたミュージシャンの元気な姿に、ぼくは感銘を受けた。
    ・実はこの番組はハイビジョンで数ヶ月前にも見た。で、そこで紹介されていた"Where have all the flowers gone, The songs of Pete Seeger"をAmazon.comに注文した。このアルバムはシーガーの歌40曲をさまざまなミュージシャンが歌っているもので、「花はどこへ行った」を受け持っているのはアイルランドのフォーク・シンガーであるトミー・サンズ。その他、ブルース・スプリングスティーンが"We shall overcome" を歌い、『仕事』や『アメリカの分裂』で有名なジャーナリストのスタッズ・ターケルが朗読もしている。
    ・アルバムを手にしてから何度も聞いていたこともあって、番組もまたくりかえしじっくり見てしまった。『花はどこへ行った』はシーガーがショーロホフの小説『静かなドン』からヒントを受けてつくった。しかし、小説に登場する少女の歌はコザック兵のあいだで歌われていたものらしい。ロシアのフォーク・ソングが小説に取り上げられて、そこからさらに、アメリカのフォーク・ソングに生まれ変わる。その経過に興味をもったが、さらに驚いたのは、シーガーがつくったのは3番目までで、その後はまた別の人がつけくわえたということだった。最初の歌詞は

    花はどこへ行った  少女が摘んだ
    その少女はどこへ行った  若い男と一緒になった
    その若い男はどこに行った  戦場に行って死んだ

    だけだったが、そこに次のようにつけたされた。

    死んだ兵士はどこへ行った  お墓に入った
    その墓はどこへ行った  花で覆われた

    つまり、これで元に戻るような構成になったわけだが、物語としては、このほうがずっと奥行きも広がりもでてくる。で、もちろんピート・シーガーはそれを受け入れて、5番目まで歌うことにした。
    ・この話を聞いて、これこそフォーク・ソングの出来方のモデルだと思った。つまり、一つの曲を互いには無関係な何人もの人が練り上げる。歌い継がれる過程で変容するのがフォーク・ソングの一番の特徴で、そこでは、オリジナリティとか誰が版権を持つといった所有権や利害は問題ではない。「花はどこへ行った」は、シーガーがこのようなスタイルを貫いた最後のフォーク・シンガーだったことを改めて証明した。そのことを一方に置けば、フォーク・ソングを源流の一つにするロックやポップがほんの一時だけ売れる金儲けのための音楽になりすぎていることがいっそうはっきりしてくる。
    ・テレビ番組はその他に、この歌にまつわる人たちの物語を取り上げた。たとえばマリーネ・デートリヒ、あるいはアイススケーターのカタリーナ・ビット。2人ともドイツ人で、デートリヒは第2次大戦、ビットはサラエボという2つの戦争について、その悲惨さを訴えて歌い、あるいは滑った。それはそれで、いい話しとしてつくられていたが、しかし、デートリヒはヒトラー、ビットは旧東ドイツの権力者に寵愛されたスターだった。彼女たちが反戦のメッセージを公言した裏には、そのような批判を払拭するという狙いがあったと言われているが、番組ではなぜか、このことにはふれなかった。だからその分、番組の主張がきれい事になってしまった気がした。
    ・実は「花はどこへ行った」のアルバムの他に、Amazon.comで見つけたものが他にもあって、その一つが60年代にフォーク・ソングの情報を伝える雑誌として有名だった『ブロードサイド』に紹介された歌を集めたアルバム。ぼくはこれが1988年まで出され続けていたことに、また驚いてしまった。アメリカ人は移り気で派手好きだが、しかし同時に地道で根気のいる活動もしている。前記した『花はどこへ行った』も含めて、日本でくりかえし出される『フォーク大全集』といった商品という意味しかないものとの違いを感じざるを得なかった。
    ・BSデジタル放送が始まった。あまり期待しないが、このような番組がつくられ放送されるとしたら、その存在価値は高まるだろうと思った。

    2000年12月4日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』その3「孤独」について

     



    ・紅葉の季節が終わったら、あたりは茶色の世界になった。木の幹や枝、落ち葉、それに久しぶりに見せ始めた地肌。季節は色によって変わる。こんな感覚もずいぶん久しぶりに味わう気がする。色と言えば空。寒くなって乾いてきたせいか、本当に真っ青になった。急に気温が下がって、最低は氷点下。だから早朝は必ず河口湖でできた霧が、森にやってくる。ほんの一時期立ちこめて、さっと消えると、抜けるような青空。夏の間は聞かなかった鳥の鳴き声がまたするようになった。シベリアあたりから戻ってきたのだろうか。「久しぶりだね。元気で何よりでした。」と言いたくなってしまった。 森の中の生活は、冬になって訪れる人が少なくなっても退屈することがない。


    ほとんどの時間を一人で過ごすことは健康的だとぼくは思う。たとい相手が選りぬきの人でも、誰かといっしょにいるとすぐに退屈し、疲れてしまう。ぼくはひとりが大好きだ。孤独ぐらいつきあいやすい友にぼくは出会ったためしがない。自分の部屋から出ないときより、どんどん人中に出ていくときのほうが、ふつうはずっと寂しいものだ。考えたり働いたりしていると、人はどこにいようといつも一人だ。(『ウォルデン』206頁)


    ・もちろんぼくはここで一人で暮らしているのではない。しかし、パートナーはできたばかりの工房で、ほとんど一日中、土と戯れている。だから食事のとき以外は顔を合わすこともない。いっしょにすることと言えば、週に一回の町への買い物ぐらいのもので、後はそれぞれ好き勝手なことをやっている。ぼくは部屋でパソコンとにらめっこをしているか、ストーブにあたりながらのテレビか読書。そしてもちろん外に出て薪割り。親しくなったこの地区の管理人さんが近くで伐採した木を運んできてくれる。それを自分で運べる大きさにチェーンソーで切って、庭まで持ってくる。そんなことをしていると、冬の太陽はあっという間に山に隠れて、夕闇がやってきてしまう。本当に一日が短い。

    ・ここに引っ越してからパートナーはほとんど遠出をしていない。東京に仕事に出かけるぼくの車に同乗して、時には東京でショッピングや美術館周り、あるいは映画に食事。そんなことがたまにはあるのだろうと思ったが、全然その気にはならないようだ。実はぼくも、仕事に出かけるのがおっくうで、前日から「行きたくないな」などとつぶやいてしまう。行けば行ったで学生や、同僚とのつきあいはそれなりに楽しいのだが、どうしても行きたい楽しみというものではない。だから、数日間東京に滞在したりしていると、たまらなく森の生活が恋しくなる。


    交際の代価はふつうあまりにも安すぎる。ぼくらは相手のために何か新しい価値をまだ身につける時間もなかったくせに、ほとんどあいだを置かずに顔を合わせる。日に三度食事の時に顔を合わせ、黴くさい古チーズ同然のぼくら自身をまた新しく味わう。これだけ頻繁な出会いをなんとか辛抱できるものにし、たがいに敵同士にならなくてすむように、礼儀作法という名の一連の規則についてぼくらは合意しなければならなかった。(『ウォルデン』207頁)


    ・まったくその通り。特に大学というプライドの高い人の集まりは、角が立たぬようにするための配慮ばかりに気をつかう。もちろん夫婦という関係も、また難しい。一日をまるで違う世界で過ごして、それを共有し会う努力をしなければ、それは本当に形ばかりの関係になっていく。しかし、毎日一緒にいればまた、お互いの存在が鼻について煩わしくなりがちだ。同じ空気、同じ温度、同じ景色を共有しながら、それぞれが別々の世界で生活する。そこにももちろん、礼儀や工夫が必要になる。

    ・「孤独」は一人になれる時間や空間であって、けっして世界から孤立した寂しい状態ではない。それは一人になることで、逆に人とのつながりや他の生き物、あるいは世界との関係を自覚できる瞬間だ。ソローが言うように、森の中ので生活すると、そのことが実感としてわかるようになる。


    ぼくの家には実は仲間がわんさといるのだ。特に訪ねてくる者のいない朝のうちが賑やかだ。(『ウォルデン』208頁)


    ・それはもちろん生き物に限らない。東京にいるあいだに初雪が降った。ぼくのパートナーはそれを喜々として話した。「あー、会えなくて残念」。恋人とのデートに行きそびれたときよりもがっかり。ぼくはそんな気持ちになった。

    2000年11月27日月曜日

    BBはまだ当分だめのようだ

     

  • ヤフーがADSLによるブロードバンド(BB)に乗り出すニュースを聞いてさっそく予約した。大学でのインターネット環境が改善されたら、余計に家での遅さが気になってしまった。BBの普及でかえってひどくなったんじゃないかと思いたくなるほどだ。しかし、ヤフーによれば10月はじめには最寄りのNTT局の工事にとりかかるという。もうすぐ、動画だろうがサウンドだろうが気にせず楽しめる。そう思うとなにやら待ち遠しい気持ちになった。そしてヤフーから工事終了のメールがあった。後は、わが家に連絡がきて接続の手続きが済むのを待つだけ。
  • しかし、その後の連絡がヤフーからちっとも来ない。状況をHPで調べると、相変わらず未接続の地域になっている。おかしいと思っていろいろあたってみると、ADSLが十分な速度で使えるのはNTT局から2kmまでの範囲だという。これではまるでだめだ。何しろぼくの家は、最寄りの富士吉田局とは15km以上も離れている。仮に河口湖に支局ができたって、湖をぐるっと回ってくるから、やっぱり10kmほどもある。これではいくら待ってもADSLはわが家では使えない。嫌いなNTTと直接契約してもだめ。まったくがっかりしてしまった。
  • BBにする手段はほかに、ケーブルテレビの回線と、光ファイバーがある。しかし河口湖にあるケーブルテレビはインターネットのサービスをしていないし、光ファイバーの敷設工事があるというような話はまったく聞かない。これでは、当分は今までのままの超スローな接続で我慢するしかない。本当にいやになってしまう。山間の森のなかまで最新の設備を、というのが無理なのかもしれないが、ほかに無駄な金をずいぶん使っているのだから何とかならないかと行政に苦情を言いたくなってしまった。
  • 今年の夏は、パートナーの工房に陶芸の体験希望者がずいぶんたくさん来た。『ガイドのトラ』の河口湖特集に紹介記事が掲載されたり、『ブリオ』にも、中年夫婦が都心から日帰りでドライブを楽しむモデルコースとして紹介された。トヨタの高級車に乗って、美術館を見て、忍野で有名な蕎麦を食べ、そして工房での器づくり。優雅にすごす二人だけの休日というものだが、実際にそのコースどおりに来た中年夫婦が一組あった。森のなかで、車を運転してこなければ、どうしようもなく不便なところだが、情報さえ提供できれば、それなりの人が関心を持ってやってくる。そんなことを今さらながらに自覚した。
  • けれども、来た人のなかで一番、情報提供として役立ったのは、彼女が出しているホームページだった。河口湖にやってくる多くの人が買い求める観光ガイドや、ナイスミドルをターゲットにした数十万部を発行する雑誌以上に、一日数十人のアクセスがあるホームページの方が力になる。これは本当に改めて、インターネットの可能性を感じさせる出来事だった。
  • それだけにである。BBでの快適な環境が必要なのだ。河口湖に来て一年半になるが、パートナーには陶芸家や画家、あるいは木や石を素材に作品をつくる人など、たくさんの知り合いができている。また、カヌーの「カントリーレーク」やログ・ビルダーのBe・Born」、それに何軒ものペンションの人とも顔見知りになった。強調したいのは、そんな人たちのほとんどがホームページを作っていて、仕事はもちろん、生活や夢について、そこから発信していることである。ホームページは都会ではなく、田舎に住む人たちにこそ、情報の発信や受信に必要なものである。逆に言えば、そんな発想のない人には、たぶん、将来の可能性もないことになる。
  • NTTには、そんな話ははなからする気はないが、赤字が恐くて何もできない「河口湖ケーブル」には、将来のビジョンを描きだせるもっといい人材がいれば何とかなるのではと考えたくなってしまう。あるいは、観光や環境に積極的な河口湖町なら、IT環境にも本腰を入れるよう働きかける価値はあるのかもしれない。とはいえ、今は大学が忙しくて、そんな運動をする時間もエネルギーも全然ない状況だ。
  • 2000年11月20日月曜日

    やれやれ、で秋も終わり

     大学の教師は怠け者でも勤まる。仕事に出るのは1年間に100日足らずで、後は休みなのだから。これは相撲取りとほぼ同じで、プロ野球の選手よりははるかに少ない。もっとも先発ピッチャーならば中4日とか5日の登板で、メジャーでも30試合で200イニング投げれば、一流の証明というからうらやましい気がするが、結果がすぐ出るから、そのしんどさは登板数ではかれるものではない。今年の野茂は、好投しても点がもらえず、かわいそうだった。しかもタイガースは来シーズンの契約をしないという。佐々木に沸き、またイチロー話題が集中して、今は野茂のことなどどこも報じないが、ぼくは今年も一番力を発揮したのは彼だったし、来年もそうなるだろうと思う。なぜ日本人選手がこれほど注目されて、大金が払われるようになったか。もっともっと野茂のすごさに敬意を払うべきだろう。
    横道にそれたが、今回は大学の教師という仕事の話である。大学にはおよそ2カ月間の夏休みと、春休みがあり、その他に今一番待ち遠しい3週間ほどの冬休みがある。それに、授業のある期間といっても出校しなければならないのは原則的には週3日。企業に勤めるサラリーマンにはうらやましい勤務に見えることだろうと思う。人からそう言われることはしょっちゅうあるし、身近にいる学生からもうらやましがられる。正直言って、申し訳ない気がしないでもない。しかし、気持ちとしては忙しい。特に今年の秋はそうだった。
    まず、「日本マス・コミュニケーション学会」の大会の開催校になって、その準備の責任を任されたこと。経験者からは体をこわすとか、神経が参るとか脅されたが、無事に終えることができた。
    次は春からまとめ始めた『アイデンティティの音楽』の校正作業。図版や年表、それに詳しい文献一覧などを入れたから、通常の校正作業とは比べものにならないほど手間暇かかってしまった。編集者にも校正者にも細かな作業で迷惑をかけたが、おかげで、年内の出版ができそうである。学会の開催はもうこれっきりにしてほしいが、本はこれからも作っていきたい。第一、何もなくてやれやれと、仕事が形になってほっとするのでは、満足感が違う。後は、本の売れ行きがいいことを願うばかりである。
    この二つは、いうまでもなく、大学の本業とは関係ない。しかし、大学の教師には、実際こういった仕事が結構あって、それがかなりの手間と暇を必要とする。どちらもやりたくなければやらなくてもいいものだが、なかなかそういうわけにもいかない。
    けれども、これで、暇、というわけではない。師走とはよく言ったもので、これから12月の中頃までは、4年生の卒論作成を助けなければならない。すでに、先週から、何本かの論文を読み始めている。おもしろいもの、つまらないもの、かんばったもの、手抜きのものなどいろいろだ。
    東経大で卒論の指導をするのははじめてだが、ぼくは前にいた追手門学院大学では、ハードルがきつくて学生泣かせの教師だった。理由は卒論集を出していたことと、学生に全力を出させる経験をという親心。その『林檎白書』は編集から印刷、そして製本まで100%手作りのもので、ずいぶん大変だったが、今年の3月で9号まで発行した。
    その卒論集はもうやめと思ったのだが、今年はゼミの活動費として印刷費がもらえることになった。で、生協で作ってもらうことにした。手間はかからないが、やっぱり公になるから、学生にはおもしろいものを書いてほしいと思う。
    そんなわけで、なかなかのんびりできないが、薪割りや、森の散策はもちろん、天気や景色に誘われて、山歩きやドライブには出かけている。ここに載せた画像は上から、落ち葉で埋まった我が家の庭。次の2枚が三つ峠とそこから見た御坂山系。4枚目からは紅葉真っ盛りでパトカーも出動するにぎわいの河口湖と、雪をかぶった富士山。朝の気温も0度になって、ぼちぼち冬いう感じでがしてきた。ストーブの薪の消費量も増えて、山のように積んだ薪が数日でなくなってしまう。庭の木を伐採したおかげで幸いたくさんあるが、早く割って乾かさないと燃やせなくなってしまう。
    なお『アイデンティティの音楽』の表紙を公開しましたので、ぜひご覧下さい。ぼくはもちろん気に入っています。それでは。

    2000年11月13日月曜日

    村上春樹・柴田元幸『翻訳夜話』( 文春新書 )


    ・ぼくはこれまで5冊の翻訳をした。こつこつと根気のいる作業だが、けっして嫌いではない。何より、自分で書く文章と違って、時間を見つけて少しずつやれるのがいい。翻訳はいってみれば夜なべ仕事である。とは言え、その報酬は内職仕事ほどにもならないから、収入のことを考えたらやってられない仕事であることもまちがいない。

    ・それではなぜ、そんな面倒な上に儲からない仕事をやるのか。ことばによって作り上げられた一つの世界を、別のことばで作り直すおもしろさといったらいいだろうか。そこには、推理もあれば、賭もある。創作はできないが、想像力を働かせる場面にも事欠かない。ただ読むよりは数段楽しめる気がする。もっともそう思えるのは、ぼくが翻訳家ではなく、余技としてやっているからなのかもしれない

    ・村上春樹と柴田元幸が出した『翻訳夜話』には、そんな翻訳に対する姿勢や意識に共感できる部分があっておもしろかった。


    ・小説を書くのはもちろん本職であるわけで、これがぼくにとっては生命線なわけです。それだけに「好き」とかそういう言葉では簡単に表現できない部分があるし、またいつでもどこでもすらすら書けるというものでもない。それなりの覚悟を決めて、正しいときを選んで、「さあやらねば」という勢いと集中がないとできません。でも翻訳というのは、違うんです。放っておいても、ちょっとでも暇があったら机に向かって、好きですらすらやっちゃうようなところがあるんです。(村上、p.30)


    ・翻訳はことばを置き換える作業だから、当然、原文に忠実であることが大事だ。けれども、一字一句正直に置き換えていったのでは、日本語にならないし、なっても、とても読みにくいものになってしまう。「忠実に、しかし、スムーズな日本語に」。翻訳の極意は簡単にいえばここにある。しかしまた、それが難しい。難しいからやってみたくなる。

    ・『翻訳夜話』を読んでいて、うらやましいな、と思ったところが一つある。それはふたりが訳しているのが小説だというところだ。ぼくが訳すのはいつも学術書だから、作品の奥にある作家のイメージとか文体の特徴とかを意識することは少ない。注意するのはただ一点、論理的な正しさの追求である。それはそれでおもしろいが、学者ももっと文体に工夫してくれたら、訳しがいがあるのにと文句を言いたくなることが少なくない。

    ・ふたりが披露する翻訳の極意でおもしろいのは「リズム」である。つまり「リズム」のある文章で訳す工夫ということだ。これにもぼくは共感するが、翻訳をしていていつも迷ってしまう点でもある。学術書は正確さを大事にするから、どうしても文章が長くなったり、くりかえしが多くなったりする。だからリズム良く訳そうと思ったら、長い文章はいくつかに分け、くりかえしは省略したり、回りくどい表現は率直に言い換えたりしたくなる。けれども、学術書は読みやすさとか訳者のセンスを発揮させるよりは、正確に訳すことが大事だと言われたりしかねないから、ついつい、リズムに合わせて踊り始めた頭や指先にブレーキをかけることになる。翻訳者のジレンマである。

    ・「正確」であることと「リズム」のある文章であること。翻訳は両方の使命の達成を理想とすべきだが、これははっきり言って不可能である。学術書の翻訳は引用されて、あたかも原文そのままであるかのように扱われる。だから正確にという意見を良く耳にする。もっともらしいが、ぼくは引用するなら原文にあたれと言いたくなってしまう。研究者なら、翻訳をあてにしたり鵜呑みにするような姿勢をもつべきではない。

    ・ぼくは今、6冊目の翻訳を始めている。ポピュラー文化論の入門書で、諸理論の解説が内容だから、当然正確さを期さねばならないが、入門書だから、わかりやすく、読みやすいものにしなければならない。しばらくはまた翻訳者のジレンマに悩まされそうだが、そこがまた、おもしろがれるところでもある。


    2000年11月6日月曜日

    M.Knopfler, The Wall Flowers

     

    ・マーク・ノップラーの新しいアルバムがでた。ぼくは最近、彼の前作やそれ以前の映画のサウンドトラックをしょっちゅう聴いているから、 amazon.comで見つけてすぐに注文した。一緒に購入したのはウォールフラワーズ、ラジオヘッド、トレーシー・チャップマン、それにU2のニュー・アルバム。U2はまだ届いていないが、聴いた中ではノップラーが断然いい。中でもジェームズ・テーラーと一緒に歌っていて、アルバム・タイトルになっている"sailing to philadelphia"、それにヴァン・モリソンとのデュエット"the last laugh"。写真で見るノップラーは太って、しっかり、おじさんしているが、歌やギターは相変わらずのノップラー節だ。ヴァン・モリソンとのデュエットは本当に渋くて、聴くたびにしんみりしてしまう。

    最後の笑い声の音は好きじゃないのか、友人
    泥だらけの老兵と溝に倒れ
    酔っぱらった船乗りとは甲板の排水溝にはまった
    だが、最後の笑いは君のだ。その音が好きじゃないのか?

    奴らが泣かそうとしても、君は笑っていたし、
    這いつくばらせようとしても、飛ぼうとしていた
    だから、最後の笑いは君のなのに、その音が好きじゃないのか?
    "the last laugh" with Van Morrison

    ・ノップラーはダイアーストレイツのリーダーだ。ぼくは彼らのデビュー以来のファンだが、最初に惹きつけられたのは、ノップラーの声がボブ・ディランにそっくりということだった。歌い方も明らかに意識していたから、一歩間違えば、そっくりさんで終わっていたところかもしれないが、ノップラーにはもう一つ、独特の音色のギターがあった。その透明で糸を引くようなサウンドはアイルランドを連想させたが、彼の作るサウンドには、次第にアイリッシュが色濃くでるようになった。聴き始めるとアルバムを次々かけたくなる。で、一日中ノップラー、なんてことが良くある。乾いたしっとり感、あるいは冷たい優しさ。彼のつくる歌にはルー・リードのような都市の風景ではなく、田舎の情景を感じる。


    ・ディランにそっくりといえばもう一つ。ザ・ウォールフラワーズのボーカルはジェイコブ・ディラン。3枚目のアルバムだが、こちらもなかなかいい。もう親の七光りなどと陰口をいわれないだけの力をつけたと思う。ぼくは聴きながら、どうしても若い頃の父親を連想してしまうが、ジェイコブのほうが良くも悪くも屈託がない。

     

    ママ、今月は愛を送ってこないで、心が疲れ果ててるから
    ママ、家に帰りたい、戻りたい
    だから朝の雨に飛び出した、で、悲しみの列車に乗っている
    スーツケースをおろして、靴を茶色に磨いている
    誰もぼくの名前を知らない、今はもう、誰もぼくの名前を知らない
    "Mourning Train"


    ・ママなどということばを聞くと、今度はサラを思い浮かべてしまう。サラは離婚した後ジェイコブと暮らしていたんだ、などと想像力は勝手に歩き始める。そういえば、ぼくの息子は「米、送ってくれ」なんていうメールをよこしていた。「中古の250ccのバイクを20万円で買うからよろしくだって」。それがどうした。そうそう甘い顔ができるものか。などと、連想ゲームは公私混同もはなはだしくなってくる。ジェイコブの詩は"morning rain"と"mourning train"で韻を踏んでいたりして親父の影響が感じられるが、内容はまだまだだ。とは言えぼくの息子よりはずっとましかな………。
    ・ウォールフラワーズを聴いていると、どうしても自分のことに気持ちが移ってしまう。