2001年6月25日月曜日

湖に浮かぶ


forest8-1.jpeg・毎週1、2度カヤックに乗って湖に漕ぎ出すようになった。今のところ組みたてて漕ぎだす場所はほぼ一緒だから、乗るたびに時間は長くなっている。しかし、それでもゆっくりとした動きだから、まだまだ河口湖全体を漕ぎ回われていない。ぐるりと一周するためには、たぶん3時間ほどかかるだろう。それをやるためには、腕や胸、それに腹の筋肉がなまりすぎている。ここのところ腰の状態も不安定だし、もちろん手のひらにマメができるうちはだめだ。何より今のところ、半日の時間をのんびり過ごすゆとりがない。


forest8-2.jpeg・とは言え、先日は河口湖大橋の下をくぐりに出かけた。週末は水上スキーや釣りのモーターボートで真っ直ぐ進むこともままならない。何しろ横波は禁物で、波が来るたびに直角に向きを変えなければならないからだ。だから遠出は平日の早朝ということになる。カヤックは風を背に受けるとほっておいても進む。橋まではのんびりした漕ぎ方でも簡単に行けた。ところが、そこでUターンをすると、今度は漕いでも漕いでも進まない。まるで腕立てふせを連続でやらされているようなしんどさだが、もちろん途中でやめるわけには行かない。漕がなければカヤックは風を受けて後退をはじめてしまう。まさに「行きはよいよい帰りは恐い」。たっぷり2時間。これでも湖の半分にしかならない。いつもの岸に戻った時にはもうバテバテだった。


forest8-7.jpeg・湖から見える風景はやっぱり新鮮だ。新興宗教の建物、あるいは廃屋になったホテルや旅館や別荘。ふだんは近寄ってみることもない場所がかえって気になる。湖と富士山が見える露天風呂は、湖からはまるみえなんじゃないか。へんな好奇心につられて近づいてしまったりする。あるいは湖畔にすむ知人の陶芸家の家。もちろん、大橋の下をくぐったときはやっぱり感激ものだった。もっとも、梅雨に入ってからは富士山がほとんど隠れているから、富士に向かって漕ぐというシーンはない。
・梅雨空とはいえ、暖かくなってきたから、週末には釣り客で早朝からにぎわっている。だから糸を引っかけないように気をつけなければならない。もっともその釣り客が針や糸を捨てていくから、漕ぎだすときや戻るときにもカヤックに引っかけないよう辺りに気をつけなければならない。とにかく河口湖の週末はこみすぎている。

forest8-4.jpeg・そんなこともあって日曜日の夕方、西湖に出かけてみた。大学のオリエンテーション・キャンプをやった「くわるび」のあたりには、ウィンドウ・サーフィンをする人がちらほら、釣り客も河口湖にくらべるとぐっと少ない。溶岩がむきだしの対岸まで漕いでみた。西湖は青木ヶ原の樹海の端にあたる。まだ明るさが残っているとはいえ、湖の真ん中あたりまで来ると、溶岩と樹海にちょっとたじろぐ感じがする。


forest8-9.jpeg・「カントリーレイク」でカヌーの指導員をしている人は、一度、湖に落ちた方がいいという。ひっくり返ることになれておかないと、そうなったときにパニックになるからというのだ。たとえば水上スキーやウィンドウサーフィンをしている人は、水の中にいる方が多いんじゃないかと思うほどによくこけている。それを見ていると、ついつい笑ってしまうし、どうってことはないような気がする。落ちても必ず浮くように、ライフジャケットも着ているのだから、何も怖がることはないのだが、船体をわざと傾けるのは躊躇してしまう。


・しかし、もう少し暑くなったら、かならずやってみようと思う。西湖や本栖湖は水深があるから万が一の時のために経験は積んでおかなければならない。などと、我ながらだらしがない。

2001年6月18日月曜日

"The Hurricane"

 

・『ハリケーン』は世界チャンピオンだったボクサー、ルービン・カーターの物語である。彼は10代の大半を少年院で過ごし、また30代と40代を刑務所で過ごした。しかもどちらも、黒人差別に根ざした不当逮捕。獄中から何度も再審請求をし、モハメド・アリやボブ・ディランが支援したが、却下された。そしてその主張が認められて釈放されたときには。ルービン・カーターはすでに50代になっていた。『ハリケーン』はその実話にもとづく映画で、主役を演じるのはデンゼル・ワシントン。僕はディランの歌で、その話を知っていたから、楽しみにしていた。
・ 映画は一人の黒人少年に光を当て、ルービンが書いた自伝への関心と、そのあとに作られる二人の関係を軸に描かれている。同じように貧しい家庭に育ったが、環境保護運動をするカナダ人たちに引き取られて、高校に通う。その幸運に恵まれた自分の境遇とカーターの不幸の違いが少年の心を突き動かす。そして彼の気持ちを全面的にバック・アップするカナダ人たち。
# 映画そのものはハリウッド映画の常套手段で、主人公の苦悩や挫折にもかかわらず黒人少年の献身的努力でハッピーエンド、例によっての法廷での感動的な弁舌といったもので、少年を支えるカナダ人はまったく非人格的といっていいほどに心の葛藤や日常生活を捨象して描かれているが、それでも、夢中で見てしまった。原因はやはり、ディランの歌にあったのだと思う。

ピストルが響いた酒場の夜
パティ・バレンタインが降りてきて
バーテンが血の海に倒れているのを見る
「たいへん、みんな殺されている!」
というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
なにもしなかったのに 独房にいれられた
だがかつては 世界チャンピオンだったはずの男

・ 改めてディランの「ハリケーン」を聴きなおすと、この歌が事件の経過を忠実に物語っていることに気がつく。バラッドとはまさにこういう内容の歌をいうのである。「みなさん聞いてよ、こんなことがあったんだ」。と語りかけながら、ことの真相や問題、あるいは結末を歌う。バラッドは新聞が登場する以前からあったジャーナリズムの原初形態で、それがフォークソングやロックに引き継がれた。おもしろいのは、その形式がラップにもしっかり残っていることだ。映画に挿入された同名の曲「ハリケーン」を歌うのはヒップ・ホップのザ・ルーツ他。

究極の犠牲を払うとはまさにこのこと
ハリケーンはずっと投獄されていたのさ
地獄の底に突き落とされ、刑務所の中で男は成長した

彼は自分のやるべきことをやり、リングの王者になった
話題になりはじめたハリケーンを当局の奴らは封じこめようとしたのさ
ヤツらは彼を陥れ、牢獄にぶち込んだ

・ことばは映像と違って簡潔だ。「血の海」の一言に、凄惨なシーンをイメージさせるのは受け手の役目だからだ。もちろん、そのことばに送り手が感情を込めることはできるが、それはあくまで、受け手がそれぞれにイメージさせるものに働きかけるにすぎない。一方映画はイメージそのものをつくりだすことで成り立つ表現手段だから、受け手は現実に近いものに直接立ち会うように経験する。そこにことば以上のリアリティを感じることもあれば、またかえってうそっぽさや陳腐さを受けとることも少なくない。『ハリケーン』でも、そういった作りすぎの描写にしらけたり疑ったりすることもあったが、また映画ならではというシーンも多かった。
・シーンの多くは独房でのカーターの表情。デンゼル・ワシントンの顔の演技は見応えがあった。絶望や希望、不安や安堵、怒りや喜び、そういった感情を微妙な顔の表情でどう表現するか。これは映像ならではの描写だと思った。
・映画俳優の仕事の特異性は、その演技を観客に対してではなく、カメラという無反応の機械の前で演じるところにある。それをいちはやく指摘したのはベンヤミンだった。観客は、役者が機械を相手にした演技を、あたかも至近距離で見ているかのようにして経験する。映画はそれが作られる場と公開する場が断絶していることによって成り立つ表現手段。そのことを自覚するのは写し取られる者だけであって、ふつうは観客は無自覚に見てしまう。デンゼル・ワシントンの演技に惹きつけられている自分を自覚しながら、時にボクサーになったり、弁護士になったり、刑事なったりするする映画俳優の仕事の奇妙さについて考えてしまった。

2001年6月11日月曜日

アンケートで考えたこと

 

  • 大阪市大の学生から卒論用のアンケートの依頼が来た。卒論のテーマは「発表という行為の価値の自明性」。質問は次のようなものである。
  •  釈迦と言う人物は仏教でいう「悟り」を見い出し、そしてその教えを広めた人物で すが、この「悟り」を見い出したときのエピソードがとても興味深いのです。釈迦は「悟り」を見い出したとき、余りの喜びに、「しばらく誰にも言わないでおこう」と思い、しばらくの間、誰にもその「悟り」を伝えなかったのだそうです。
  • つまり釈迦は最初はその発見を発表しないでいたのです。このエピソードから私は、「なぜ発表するのだろう」という素朴な疑問を抱きました(もちろん釈迦に対してではなく、発表一般に対して)。そこで、実際に発表していらっしゃる方、特に新しい発表の場であるインターネットのホームページ上に論文をアップしていらっしゃる人に直接お聞きし、探っていこうと思いました。あなたのように個人でこのようなホームページを運営されていらっしゃる方が、このテーマにふさわしいと思います。

    1.あなたにとって発表とは何ですか?
    2.何故あなたは、発表をしようと思ったのですか?動機をお聞かせ下さい。
    3.発表をしたことによって、どのような変化・効果・などがありましたか?
  • で、ぼくは次のように応えた。
    1)「発表」ということばに違和感を覚えますが、他人とは違う自分の思いや考えを持っているという自覚が、それを形にして公表しようとさせるのではないかと思います。ぼくが考えることは釈迦の「悟り」などというだいそれたものではなく、極めて私的な戯れです。世の中を変えようとか人を導こうなどとは間違っても考えたことはありませんが、やはり、反応があってコミュニケーションがおこることには喜びを感じます。
    2)研究者であるぼくにとっては、考えたこと、作り上げたものは公表するのが基本です。いろいろ考えてみたいことがあったから研究者になった。なったからには、考えたことは公表する。ようするに、それを職業として選択したのだと考えています。
    3)一概には言えません。紀要などに論文を書く、雑誌や新聞の依頼に応えて原稿を書く、あるいは本にまとめる。また学会で発表というのもあります。発表する場の違いは当然、受け手の違いになります。したがって、発表のスタイル(文体)や内容も変えることになります。発表が何か変化や効果をもたらしたという実感はあまり持ったことがありません。個人的な関係が生まれることはありましたが……。
     実は、このような反応の少なさには以前から物足りなさを感じていました。インターネットの存在を知ったときにいち早くホームページを開設したのは、それまでの発表の場とは違うスタイルで異なる人たちと出会えるのではという期待を持ったからです。そのような期待はある程度実現していますから、休業状態にならないよう、せっせとHPを更新しています。
     ですから、HPにいわゆる論文のたぐいは載せていません。本にしても、紀要にしても、それは図書館に行けば手にすることができます。そういうスタイルではない公表の場、幅広い受け手を想定して、思ったこと、考えたことを気楽に書いていく場として考えています。
  • と、もっともらしいことを書いたが、「書くこと」とそれを「公表すること」については、ぼくはその姿勢をG.オーウェルの「なぜ私は書くか(Why I Write)」というエッセイから学んだ。というよりは自覚させられた。彼が考える「書く」動機は次の4点である。
    1)純粋のエゴイズム………賢い人だと思われたい、人の話題になりたい、死んでからも覚えていてもらいたい、子どもの頃自分をバカにした大人たちを見返してやりたい、その他いろいろの欲望。
    2)美的情熱………自分の外の世界の美しさ、または言葉とその適切な組み合わせの美しさを感じること。一つの音がもう一つの音に与える衝撃、よい散文の確かさとか、おもしろい物語りのリズムの楽しみ。
    3)歴史的衝動………物事をあるがままの姿で見たい、本当の事実を見つけて後世の使用のためにたくわえておきたいという衝動。
    4)政治的目的………ある方向に世界をおしていきたい、どんな社会を実現することを目標として努力すべきか、などについて他人の思想を変えたいという欲望。
  • どれもあたっているが、「エゴイズム」を最初にあげているところが「精神的誠実さ」を作家としての基本姿勢にしたオーウェルらしいと思う。「エゴイズム」がなければ、エネルギーは続かないが、またそれだけでは人には伝わらないし共感も影響も与えない。
  • 2001年6月4日月曜日

    カヤックから見える風景

     ・河口湖にはカヌーをレンタルしたり、教室を開いたりしているところがあって、以前からやってみたいと思っていた。「カントリー・レイク・システムズ」という名で、修学旅行生にカヌーを体験させたりしている。そこに注文して、組み立て式のカヤックを手に入れた。フォールディング・カヤック「ウムナック380」。タンデム(二人乗り)で重量は15.5kg。組み立てには10分と書いてあるが、40分はかかる。慣れてもとても10分は無理だろう。もうこれで一汗かいてしまう。


  • 組み立ててさっそく漕ぎだしてみた。二人乗ると、やっぱり重いし、揺れるのが恐い。湖にある唯一の島を一周して40分ほど楽しんだ。岸辺には釣り人、ボートでの釣り客も多い。それにモーターボートと水上スキー。これは波を立てるから、近づいたら急いで波に直角にカヤックを向けなければならない。湖の上も結構混雑していて、のんびり浮かべて昼寝、などというわけにはいかない。
  • お尻はもう、湖面にあるから、ちょっとした揺れでも転覆しそうな感じがする。直進、旋回もなかなか難しい。まだまだこわごわだが、そのうち河口湖を一周したり、西湖や本栖湖にも遠征するつもりだ。
  • それにしても水が濁っている。藻がいっぱいだし魚のにおいで生臭い。岸辺には釣り糸やルアーが捨ててある。もちろんゴミも多い。湖に漕ぎ出すと風景はまた違って見えた。



  • 乗り終えて片づけていたら、中学生のカヌー教室が始まった。神戸から修学旅行に来ている子どもたちで、昨日はペンションに分宿したようだ。もう十分にやり慣れたインストラクターたちの説明だが、子どもたちの反応はおとなしい。大学のゼミと一緒。並んだ顔を見ていると、どうしてこんなに生きる力に乏しいんだろうと思ってしまう。
  • しかし、いざカヌーに乗り始めると、ワーワー、キャーキャーという歓声がではじめる。前進、後退、回転。オールの漕ぎ方を教わっても、カヌーは意のままにはならない。しかし、子どもたちの表情にやっと生気が溢れてきた。僕はやる気満々だったが、すぐくたびれてしまった。カヤックで体力の回復をと思ったが、やっぱり体力はもっと日常的に鍛えなければだめだな、とつくづく思った。



  • 2001年5月28日月曜日

    Bob Dylan "Live 1961-2000"


    ・ボブ・ディランがデビューしてからもう40年がすぎた。年齢も5月24日で還暦を迎えた。僕がはじめて彼の歌を聴いたのは16歳の時だから、そのつきあいも35年を越えたことになる。本当に長いつきあいになったな、と思うが、その40年間を1枚に収めたCDがでた。ディランは今年、4年ぶりに日本でコンサートをしたが、その来日記念版として日本だけで発売されたもので、全曲ライブである。

    ・一番古いのは1961年。ミネアポリスの友人の部屋での録音で曲目はトラディショナルの「ウェイド・イン・ザ・ウォーター」。その時期、彼はほんの少しだけ、ミネソタ大学にいた。そこから、彼のキャリアのなかで節目になるライブが並べられている。たとえば、3曲目の「ハンサム・モリー」はニューヨークのライブハウス、ガスライトでの録音で、レコード・デビューする直前のもの。5曲目の「アイ・ドント・ビリーブ・ユー」はロックを取り入れて物議を醸した1966年のイギリス公演。交通事故で沈黙しているときに出た、1968年のウッディ・ガスリー・メモリアル・コンサートが6曲目。7曲目は 1974年の復活コンサート。8曲目は1975年から76年にかけておこなわれた「ローリング。サンダー・レビュー」ツアー・コンサート。その後も、80 年代から90年代、そして2000年まで、ライブばかり16曲が収められている。

    ・もちろんぼくは、ここに収録されているほとんどをすでに持っているが、こうして並べて聴くと、また違ったおもしろさが感じられて、無駄な気はしなかった。特に目立つのが声の変化。僕は最近の太いだみ声にはどうしてもなじめないでいる。だから家にいてもディランのCDをかけることは多くはない。かえってヴァン・モリソンの声に、昔のディランとつながるものを感じたりする。だから、このアルバムで、改めて、声の変化のプロセスを確認した気がした。

    ・ディランのライブを僕は5回聴いている。最初はもちろん、日本初公演の1978年。大阪の松下電器体育館に2日連続ででかけた。2日目の席は前から10列目ほどで、ディランの顔を生で確認できたことだけで感激してしまった。その後、大阪城ホールで2回。最初はトム・ペティがバックで、聴衆が完全に2分されているのがおもしろかった。しかし、その後に来たときの印象はほとんどない。たぶんつまらなかったのだろうと思う。そして最後に行ったのが1997年の大阪フェスティバル・ホールで、レビューにも書いたように、これはなかなかよかった。

    ・で、今年が4年ぶりの来日コンサートだったのだが、僕は行かなかった。関心がないわけではなかったが、河口湖に住んでいると、本当にライブ・コンサートや映画を見に行くのが億劫になる。しかし、音楽は家や車で聴けばいいし、映画はテレビで見ればいい。そのためのCDやビデオや衛星放送じゃないか。もともと河口湖に住むときにそう判断したのだからしかたがない。とはいえ、今回は行きたかった。

    ・ ディランはここ数年、いろいろと話題になっている。グラミー賞を取ったし、今年はアカデミー賞ももらった。ノーベル賞の平和賞にも、何度も名前が挙がっているから、たぶん近いうちに受賞するだろう。20世紀後半のポピュラー音楽の方向をつくった人、アメリカ文化の代表者、あるいはアメリカの良心などということばで褒め称えられている。ディランもそのような風潮に応えたのか最近、「世界自然保護基金(WWF)」のために自分の曲を無料で提供する、といったニュースも報じられている。しかし、「歌を歌い始めたころ、動物だけが僕の音楽を気に入ってくれた。今度は恩返しをする番」(朝日新聞より)は、わかったようなわからないような中途半端なコメントだ。

    ・僕はこのような傾向にあえて反対する気はないが、名声や伝説というフィルターでディランを扱うのはあまり好きではない。ディランがくり返し言っているように、彼は1人の歌うたい。古いブルースやフォークを好んでうたう姿勢を、もっと色眼鏡なしで受けとめたらいいのにと思うし、ディランもちょっと調子に乗り過ぎかなという気もする。

    ・たまに日本盤のCDを買うと、付録の訳詞にうんざりすることが多い。勝手な思いこみで、いい加減な訳をしているものが多すぎる。同様のことは解説にも言える。いっぱしの評論家気取りが思いつきでだらだらと書く。しかし、このアルバムの訳詞はしっかりしているし、解説も丁寧だ。訳者はおなじみの片桐ユズル、三浦久、中川五郎。解説は菅野ヘッケル。ロックは、英語ができることはもちろんだが、詩がわかって、音楽がわかって、解説や訳詞から、久しぶりに何かを得ることができた。

    2001年5月21日月曜日

    突然の死 桐田克利『苦悩の社会学』(世界思想社)


  • 17日の朝、大学の研究室に着くと、メッセージのない留守電がいくつも入っていた。しばらくして僕のパートナーから電話が来た。「桐田さんが今朝亡くなったって。」「えー、何だって、どういうこと?」折り返し世界思想社の中川さんに確認して、やっと事態はのみこめたが、それでもまだ、まるで実感がない。しかし、葬儀には行かなければならない。勤め先の愛媛大学に電話をして会場を聞き、彼と親しかった人たちに連絡をする。そんなことで午前中の時間が慌ただしく過ぎた。会議も授業もキャンセル。飛行機と宿の予約。夕方の便で松山に出かけることにした。
  • 僕と彼は院生の頃からの勉強仲間で、E.ゴフマンやK.バーク等の難解な英語の文章を何年も一緒に読んだ。ゴフマンの "Frame Analysis" は600頁以上もあって読むのに2年もかかったが、彼がいなかったら途中でやめていたと思う。とにかく勉強一途の人で、読書と思索以外にはまったく関心がないという感じだった。日の当たらない彼のアパートに行くと、部屋には畳も見えないほど本が散乱していて、とても上がりこむ気にはならなかった。だからいつでも近くの喫茶店に誘った。
  • 彼の関心はコミュニケーションや人間関係における優劣の問題、それも劣位にある者の心情。例えば、自殺した少女の日記、いじめ、病いに苦しむ者………。そこに強くアイデンティファイしながら的確な分析を丁寧にしていく。そのまなざしはいつも優しさに溢れていた。書き上げたらもうおしまい。関心はまったく別のことに。といった僕の気まぐれさとは違って、彼は一度書いた文章を何度も書き直し、しかもそれぞれのバージョンを全て、フロッピーに保存していた。「書き直したら、前のなんていらないじゃない。」と言ったら、彼はまるで大切な宝物をけなされたかのように反論した。寡黙で頑なだけどおちょくるとムキになる、おもしろい人だった。
  • そんな彼の仕事は1993年に『苦悩の社会学』(世界思想社)となって出版された。売れそうにないけど、いかにも彼にぴったりの題名だと思った。その本を、僕は松山に持っていくことにした。何度も読んだ(読まされた)文章だが、もう一度読みたいと思った。飛行機嫌いの僕には、とても集中して読める状況ではなかったが、突然の死と重ねあわせると、また違った印象を受けた。
  • <健康>な人びとは、日常を自分の死の隠蔽のうえで生きている。「死ぬのは他者であり、私は死なない」。<生命あるものには終わりがある>ということは一般認識であるが、私たちの日常的意識はその認識に裏打ちされてはおらず。無限の生を生きるものとして感じている。
  • 死に対する現代の一般的態度が死の否定による生の肯定であるとすれば、重い病に直面した時、人はその態度のゆえに苦悩せざるをえない。自分の死の自覚は、もはや自分のいままでの形での生がありえないということを前提にしている。その不安を誰もが程度差こそあれ、経験するにちがいない。死は寂しさを伴う恐怖の対象として実感される。特に、働き盛りの時に病に陥る人びとはそうである。
  • 告別式の始まる前に奥さんの弘江さんとちょっと話した。絶えず流れ落ちる涙にはれあがった顔をしながらも、時折笑顔を浮かべて、彼女は状況を説明してくれた。桐田さんは夜間部の授業の最中に倒れた。脳溢血で、朝までさまざまな処置が施されたようだが、意識は一度も戻らなかった。授業が始まる前に「これから授業だ」と電話をしてきたこと。だから倒れたと言われても、大したことはないのでは、と思ってしまったたこと。もう少し健康状態について気にかけてあげたらよかったと反省していること。4歳になる流生(りゅうき)君が、最近、かっちゃんと言って、母親よりは父親に近づきはじめたことなどなど………
  • 僕が流生君にあったのは3年前、四国を車で回った時に高松の自宅を訪ねた。(→)
    まだ1歳の赤ちゃんで、桐田さんは遅すぎてやってきた「父親」という役割に戸惑い気味だった。学生や同僚たちの涙や虚脱したような表情でつらい雰囲気の会場にいる4歳になった彼に、この事態はどの程度認識されているのだろうか。僕は朝、ホテルを出て愛媛大学まで歩き、彼の研究室の前まで行った。主が突然にいなくなった部屋。授業に出かけたまま彼は2度と戻らない………
  • 桐田さんが本に書いたのは、病いや劣位の状況に追い込まれて苦悩する人たち。その愛憎の感情や夢と悪夢、希望と絶望の間を揺れ動く心の軌跡、失墜の闇が彼のテーマだった。なのに、彼は、そんな境遇に陥ることなくあっさりとこの世とおさらばしてしまった。彼が置いていったのは後に残された人たちの心の中の空白。「桐田さん、こんな死に方は君らしくないね。不器用なあなたには似つかわしくない格好いい結末」。もっとしぶとく生きて、もっともっと仕事をして欲しかった。読書と思索ばかりでなく、弘江さんや流生君との生活を楽しんだり、煩わしい思いをしたり、悩まされたり、苦しんだりしてほしかった。
  • でも、それは誰より桐田さんの希望だったのだと思う。まだまだ仕事ができたのに残念です。
  • ご冥福をお祈りします。
  • 2001年5月14日月曜日

    オリエンテーション・キャンプ

     

    saiko1.jpeg・僕の所属する学部では、毎年、新入生を1泊2日のオリエンテーション・キャンプに連れて行く。主な目的は、学生同士の親睦で、これをやらないと、いつまでたってもうち解けた関係になれない学生が多いからだ。ここ数年は富士五湖の西湖が会場になっていて、僕は家が近いという理由で、今年の実行委員長にさせられてしまった。
    ・とにかくいろいろと委員をやらされているから、できるだけ手抜きでと考えた。しかし、去年も一昨年も参加して感じたのは、西湖まで出かけていってするスケジュールになっていないということ。ボランティアで手伝いをしてくれる学生たち(オリターと呼ぶ)とそんな話をしているうちに、キャンプ・ファイヤーやバーベキューをやろうということになった。4月に入ってから毎週、学生たちとキャンプの中味を検討。熱心な学生たちが出すアイデアにつきあって、委員会は毎回長時間になった。

    saiko2.jpeg・こんな予定ではなかったのに、と思ったが、学生が何かを積極的にやるという姿勢は最近めったに見かけないから、面倒くさがってもいられなかった。
    ・前回書いたように、僕はゴールデン・ウィーク中に体調を崩した。仕事を再開してしんどい一週間だったが、前日にした最後の実行委員会も無事済ませて一応準備はOK。キャンプ・ファイヤーや翌日の西湖散策につきあう体力があるかどうか不安だが、一応何とかなりそうなめどはついた。やれやれ………。
    ・当日は、本当に久しぶりの快晴。朝起きたときに窓から真っ青な空が見えるのはずいぶん久しぶりで、寝起きの感覚も久しぶりに気持ちがいい。これなら何とか勤まりそうだと思った。

    saiko3.jpeg・西湖に着いたのは4時過ぎ。全体会をして、夕食。そして7時からキャンプ・ファイヤー。1年生にはゼミ単位で仮装してジェンカを踊るという課題をだしておいた。しらけて何もやってこないのではという心配があって、新聞紙、段ボール、パンストなどを用意したが、予想に反して、仮装はなかなかのものだった。で、大きく燃え上がる火の勢いもあって、キャンプ・ファイヤーは最初から盛り上がった。アー、これなら大丈夫。ほっとした気がした。 ・ジエンカを踊った後にはソロで歌う学生がいたり、エレキギターを持ち込んでビートルズを歌う教員がいたりで楽しかった。学生たちはその後も、ホールに集まってビンゴやクイズのゲームなどで盛り上がった。教員たちは部屋に引き上げて慰労会。夜中に騒いだり、外出したりする学生もほとんどいなくて、その点でも大助かり。

    saiko4.jpeg・翌日は8時に朝食をとって9時からはいくつか用意したミニ講義や授業。僕は「西湖散策」を担当したが、希望者が多すぎて、半分はバスで「野鳥の森公園」に送り出す。で、残った学生を連れて、ちょっとだけ山登り。宿舎の北側には高い山が迫っていて、時折山崩れが起こる。それを防ぐ大きなダムまでが一応の予定で、時間にしたら30分ほどだった。すぐに弱音を吐く学生もいたが着いたらまだ物足りなそうな雰囲気で、それならちょっと冒険をと川原にくだって巨岩がごろごろするところをダムの中まで歩く。水は全然流れていないが足場を気をつけなければ滑ってしまう。「ワー、こわ」とか「キャー」とかいう学生もいるが楽しそうで、次には堤防の上まで登る。空は真っ青、山は新緑、眼下には西湖、遠くに富士山。一人前の山歩きをした気がして満足そうな顔。じゃー、これで下に降りましょう。

    saiko5.jpeg・最後はバーベキュー。飯盒炊さんのまねごともして終了。1時半にバスが出発して、僕の役目もすんだ。オリターをしてくれた学生さんたちは本当に頼もしくて、1年生も積極的だった。実行委員は慣例で行くと3年間やる事になっているらしい。今回だけでかなりくたびれたから、もう来年は交代して欲しいところだが、たぶんそれは無理だろうから、来年は今回と同じスケジュールで、事前のミーティングなどは極力簡略にしたいと思う。それにしても、大学の先生も体力がなければつとまらない仕事になった、とつくづく感じた。いったいいつまでもつことやら。