2003年5月26日月曜日

なぜか懐メロ

 

・トヨタのエスティマのCMにザ・バーズのミスター・タンブリンマンが使われている。ボブ・ディランの曲で、僕が高校生のときにロックに夢中になるきっかけになったものだ。だから当然懐かしいが、思い入れがあるから、安っぽい使われ方をされると腹も立つ。ほかにも自動車のCMにはよく古いロックが使われるが、うまい使い方をしていると思えるものはきわめて少ない。
・なぜ古いロックがCMに使われるのか。CMを作っている人の趣味か、スポンサーの意向か。どうやら中年世代の男を消費のターゲットしているからのようである。たとえば車でいえば、最近のヒット商品は日産のフェアレディZ。これは60年代にデビューしたスポーツカーで、今50代の男たちにとっては憧れの車だった。若い頃には手が出なかったスポーツカーがリバイバルされて、それを中年世代が買っている。月産2000台というから、この勢いはかなりのものだろう。後を追ってマツダもロータリー・エンジンのRX7を8にして発売しはじめた。
・車はここ10年以上ワゴンやワンボックスが主流だった。セダンと違って人も荷物もたくさん積める実用重視なのだが、バンのように商用の安っぽくはない。それに最初に注目したのは今の50代で、家族みんなで出かけられる車を求めたからだった。買い物や食事、あるいは小旅行やキャンプ。「車に乗って感じる家族の繋がり」。僕の乗っているレガシーがその典型だが、テレビのCMはやっぱりロッド・スチュアートなどのロックが多かった。
・その50代が今、不景気をうち破る消費層としてあらためて注目されている。そんなコメントを最近よく聞くし、BSジャパン(東京12チャンネル系)は50代の男だけに限定した会員募集をしていて、その世代をターゲットにした番組も作っている。いわく「今、50代が一番格好いい」。その50 代のまん中にいる僕としては「へー、そうなの」という感じだが、そう、持ち上げられる理由も何となく分かる気がする。
・可処分所得、つまり比較的自由に使えるお金をもっているのは、独身の30代と子どもにお金がかからなくなった50代なのだそうである。 20代は薄給だし、40代は子育てで精一杯、そして60代になれば老後のためにと無駄づかいはしなくなる。確かにそうで、僕ももうすぐ子どもへの仕送りや学費の負担から自由になる。
・音楽がテーマなのに話が妙な方向にそれてしまった。5月20日の朝日新聞で、売れないCDについての特集記事が掲載されたが、演歌が売れはじめたことなど、やはり中年世代の購買力が指摘されていた。そういえば、50年代のロックンロールや洋楽のヒット曲、あるいは60年代、70年代のロックなどを集めた「〜全集」といったCDの新聞広告も目立つし、テレビの通販などもよく見かける。もちろん、日本のフォークやニューミュージック、あるいはJポップなどをまとめたものも多い。NHKのBSでは戦後の時代をヒット曲と映像でふりかえる番組を毎週やっている。僕と同世代のフォーク・シンガーなども、外見はすっかり変わってしまっているのに、まったく昔のままの歌を歌って、客席のおじさんやおばさんを懐かしがらせている。
・なるほど、そういう傾向なのかと思う。50代の消費が増えて不景気が少しでも改善されるのなら、それはそれで悪いことではない。「〜全集」がセットで何万円もしても、ほしいと思う人が多ければ、売上げはかなりのものになるに違いない。けれども、僕は首を傾げてしまう。その種のCDはちょっと前まで街頭の出店なんかで数千円、あるいは数百円で売られていたはずで、ぼくもそんなCDを何枚ももっているからだ。今でも探せばあるはずだ。それは著作権を払わない違法のCDだったのだろうか。それとも、レコード会社が考えた商品価値を高めるためにした工夫の結果なのだろうか。懐かしさにつられて財布の紐をゆるめるのは、あまり賢い買い物ではないと思うのだが………。

2003年5月19日月曜日

相変わらずのジャンク・メール

  相変わらずジャンク・メールが多い。とはいえ、傾向は少しずつ変わっている。今、毎日数十通も舞いこむのは英語のダイレクト・メールで、その3分の1はヴァイアグラのセールス。アメリカではこの薬がすっかり定着したようで、メジャー・リーグの試合を見ていると、バックネットに大きく宣伝されている。NHKはイニング毎の交代時には中継とは別の映像を流しているが、試合中に何時間もヴァイアグラの宣伝なんかしていていいのだろうかと首を傾げてしまう。特に松井一辺倒の番組編成に頭に来ている僕としては、「ヤンキースタジアムのヴァイアグラの広告を映しっぱなしでいいのか!!」と文句を言いたくなってしまう。


ヴァイアグラは男の性器を勃起させるための薬で、僕も興味がないわけではないが、そんなもの使ってまで無理することはないと思う。しかし球場のバックネットに広告されるくらいだから、アメリカ人はセックス好きというか、セックスに強いことに強迫観念的に囚われているんじゃないか、とあらためて感じてしまう。ご苦労なことだが、同じような意識で日本人にセールスのメールを送ってきても、いったいどれほどの効果があるのだろうか。


もっともアダルトサイトの広告メールは日本語でやってくるものも多い。一頃の出会い系サイトは減ったし、携帯向けのものも来なくなった。これは規制が入ったせいだと思う。また、時々やってくるものにはタイトルに「未承認広告」ということばが入っていて、文面には「当配信は送信に関する特定商表示義務規定に則り送信しています。」と書いてある。送信を請け負う業者が代行するという形式をとっている。規制がかかるとその網の目をくぐり抜ける方法が見つけだされて、今度はそれが問題化する。ジャンクメールの動向を見ていると、そんないたちごっこがよくわかる。


現在のインターネットは、ほとんど無修正のハードコアの画像や映像が見放題の状態で、ヴィデオやDVDのネット販売も簡単のようだ。男にとって結構な世の中になったと言えるかも知れないが、男の性に対する関心は「隠されている」ものに向かうから、こんなにさらけ出されてしまっては、かえって意欲を削がれてしまうのではないか、とも思う。


だからこそのヴァイアグラ。ということなら納得がいく。そうすると日本での市場の担い手は若い世代なのだろうか。「過剰な発情装置」→「欲望の発散」→「マンネリズム」→「ヴァイアグラ」→「欲望の捏造」。まさに欲望のゲームである。最近目立ちはじめたメールにドラッグのセールスがある。これにも性の媚薬などといった誘い文句があるから、やっぱり欲望を捏造<する道具のひとつにいれてもいいのかも知れない。


もっとも、このような仕組みは何も性に限るわけではない。「『消費文化』は 、欲望を抑えるのではなく、欲望をでっち上げ、拡大し、飾り立てねばならない。………資本主義が実現するものは、幻想と快楽の商品化である。」(B.S.ターナー『身体と文化』文化書房博文社)。このような仕組みのなかで重要な役割を果たしたのが広告であることは言うまでもないが、ジャンクメールはそのことをあまりに端的に、露骨にさらけ出している。


メールによる広告は新聞やテレビによるものとちがって、いかがわしくて、卑猥で暗い世界だ。当然、いまだに市民権は得ていない。これをこれから成長可能な広告メディアとして考えることはまだまだ難しいけれども、逆に形式を整え、制度化された既存の広告機構が本質的には、「欲望の捏造」システムであることを暴露する材料としては有効なのかも知れないと思う。


ジャンクメールはほっておけば、パソコンはもちろんサーバーにもたまるばかりだから、ほとんど読みもしないでどちらからも削除しているが、残らずためたら「広告メールの記号論」ができるんじゃないか。時折そんなことも考えるが、やっぱり、毎日何十通も入ってくると、興味よりは腹立ちの方が先に立ってしまう。誰か、こんな研究やっている人はいないのだろうか。

2003年5月12日月曜日

不況と少子化の影響


・SARSやイラク戦争のせいで連休中に海外に出た日本人の数は異常に少なかったようだ。国内の旅行より安いヨーロッパやアメリカ大陸行きの格安チケットが売り出されたりもしたが、たとえば、松井とイチローの初対決でNHKが大騒ぎしたヤンキースとマリナーズの試合は満員にはならなかったし、日本人でいっぱいというほどでもなかった。どう考えたって、外国旅行などという気分ではないようだ。


・それなら国内が混んだかというと、そうでもない。河口湖はさほど渋滞も起こらなかったし、高速道路の混み具合も大したことはなかった。友人のペンションのオーナーは、連休の間に平日が3日間もあったらゴールデン・ウィークにはならないと嘆いていた。そのせいなのかも知れないが、人びとの財布の紐の堅さは相当なものになっている。スーパーの売り上げも減り続けていて、日常の生活費も切りつめているのだから、レジャーでぱっと使うなどということは、もっと戒めているのかもしれない。


・大学生の身なりを見ていても質素になった気がするし、コンパも買い出しして研究室でやりましょうなどという。バブルの頃とは比較にならないが、数年前に比べても、景気の悪さは肌身で感じてしまう。僕の所属する研究科にはキャリアアップを目指す社会人が多く在籍していて、すでに何人もの人が修士論文を書き、博士課程に進んでいる人も多い。いわば研究科の柱になっているのだが、職場の不安定さで休学する人が続出している。


・少子化の影響で、東京の高校のかなりの部分が定員割れをおこしはじめているようだ。数年後には、同じ現象が大学でも起こる。東経大もそのような危機と無縁ではない。定員割れをしたら大学の評判はもちろん、中身もがたがたになる。そうならないためにどうしたらいいか。コミュニケーション学部でもその対応策を講じて、来年度からカリキュラムを大幅に変更することにした。そのための委員会をつくり長期間にわたってプラン作りをし、それをたたき台にして教授会でも激しい議論になった。


・それでも、なかなかいいアイデアは出てこないし、どこでも同じような検討をしているから、結局は差が出ないことになってしまう。それではかえって、何もやらない方がいいのではないか。そんな気にもなるが、結果が出なくてもがんばったという姿勢は見せなければいけない。


・もちろん、一番大事なのは入学してきた学生とつきあうことで、学力や知識や技術を身につけさせなければならない。大学は自分で勉強するところだという原則を、僕は今でも学生に言っているが、それでは不親切で教育熱心でない教師だと思われかねない。だから、「こんなこと自分で自覚してやなきゃだめだよ」と言いつつ、手伝ったり、アドバイスをしたりしてしまう。それが必ずしも学生のためになると思わなくても、そうしなければならないと感じはじめている。


・一方で文部科学省は大学に格差をつけようとしていて、補助金を出して大学ごとの共同研究を奨励しはじめている。いわゆる各分野におけるトップ30というやつだ。コミュニケーション研究科でも、院を担当する教員が中心になって共同研究を立案して応募した。もちろんぼくもそのメンバーになっている。最初から当たることはないとたかをくくっているが、実際に準備はしておかなければいけない。他に頼まれている仕事もあるし、自分でやりたいテーマもあるから、正直言って重荷だが、一人知らん顔をするわけにもいかない。何しろここでも、大学の生き残りがかかっているのだから………。


・少子化で少ないはずの高校生の就職率が悪いらしい。もちろん大学でも、就職が決まらないままに卒業していく学生が増えている。業績不振で減給や退職、あるいは倒産で失業といった話も周辺にあふれている。業績不振の建設業、巨額な不良債権をかかえる金融業の次は教育だと噂されている。大学の教師は他には何もできない人種で、その人たちが路頭に迷ったらどういうことになるか。人ごとならば、それは見ものと面白がるところだが、自分がそうなったらと考えるとぞっとしてしまう。僕には他に何ができるだろうか。誰が雇ってくれるだろうか。何よりふれたくない質問である。

2003年5月5日月曜日

ファイナル・カット


・「ファイナル・カット」は隠しカメラを使って友人の秘密をあばく話である。問題のビデオを撮ったのはイギリスの映画スターであるジュード・ロウで、彼はナイフで刺されて殺される。その葬儀の後で未亡人になったサディ・フロストが友人たちにビデオを見せ、その光景もまた記録する。物語はそのビデオをみんなで見る数時間のできごとで、映画は実名の出演者が演技ではなく撮られた現実の話のドキュメントのように映しだされるのだが………
・盗撮は、カメラを手にしたときに誰もがやってみたいと思うことのひとつだろう。通常のやり方では撮れない部分を写しとる。それは人との関係のなかでは隠された部分、秘密の一面、あるいは存在しないはずの顔などで、「ファイナル・カット」では、友人たちがそれぞれ、そんな一面を暴露される。友人同士が罵りあい、夫婦の間に不信感が芽生える。
・こんな光景は他人事の世界としてなら笑って見ることができる。けれども、自分の話として考えると、とんでもないことだと言わざるを得ない。たぶん友達関係も崩れ、夫婦なら離婚はまちがいないからだ。
・映画では、主人公が友人に殺される場面もまたビデオに記録されていることが示されるが、その原因は盗撮ビデオの存在を知った友人のひとりが逆上したからだった。ビデオには彼が主人公の妻を誘惑するさまや、彼の妻がトイレでおしっこをする様子、浮気願望の告白と実際の浮気シーンなどが写されていた。殺すのは短絡的で行き過ぎかも知れないが、こんな場面をビデオに盗撮されたら、僕だって逆上して「殺してやる」と思ってしまうかもしれない。
・悪趣味な映画だといってしまえばそれまでだが、「こんなことすると殺されるよ」という教訓話のようでもある。何しろ今では、それを可能にする道具は手近にいろいろある。他人、それも親密で気になる他人の秘密をちょっと見てみたい、自分でもやってみたい。そんな軽い気持がとんでもない結果になる。この教訓には説得力がある。
・私たちは、どんな人間関係にも表と裏があることを承知している。その関係が一面的で薄いものであれば、そこで示し合うのはきわめて表面的な作り物で、そのことを互いに了解し合ってもいる。だから、相手が表に出さない一面を知ってもそれほど驚かない。店員やセールスマンの笑顔は営業上のものであって、けっして「真心サービス」などではないけれども、無愛想よりははるかにいい。よく知らない人との関係は、そんな表面上の演技によって支えられている。
・しかしである。関係が親密なものであれば、そうはいかない。何でも話し合える関係、示し合える関係こそが親しさを証明する。親子、夫婦、恋人、友人………。ここでは裏がないこと、秘密をもっていないことが前提になるが、現実にはそんな透明な関係はつくれないし、またできたとしても、おそろしくつまらないものになってしまう。関係の維持には互いの距離をなくす努力は不可欠だが、同時にまた、距離がなくなってしまっては関係自体の魅力、それに対する興味も失われてしまう。

・お互いについての知識は関係を積極的に条件づけるが……また同じように一定の無知をも前提とし、ある程度の相互の隠蔽をも前提とする。
・いかにしばしば虚言が関係を破壊するにせよ、関係が存在するかぎりは、虚言はやはり関係の状態の統合的な要素である。(G.ジンメル『秘密の社会学』世界思想社)

・ジンメルは人間関係の維持に必要なのは「配慮」であって、それは、「1.他者の秘密への考慮、隠蔽しようとする他者の直接的な意志への考慮。2.他者が積極的に明らかにしないすべてのことについて、遠ざかること。」だという。親しくなれば、そんな配慮が不要になったり、無用になったりすると思いたくなるけれども、これは関係の絆の不確かさを忘れたとんでもない錯覚である。
・ジュード・ロウは友人たちに不信感をもったから盗撮をしたのではない。信頼感がそれを許容すると過信したのだ。友人たちとの関係を大事に思うなら、絶対にしてはいけないこと、そんな「配慮」の気持の軽視が、関係の破壊だけでなく、自分の死になって跳ね返った。「ファイナル・カット」はそんな人間関係の不確かさや危うさ自体を露骨に暴露しているし、死というオチによって強い教訓話にもしている。「それをやったらおしまいよ」である。

2003年4月28日月曜日

病気と病い 

・アーサー・W・フランク『からだの知恵に聴く』日本教文社
・ロバート・F・マーフィー『ボディ・サイレント』新宿書房
・アーサー・クラインマン『病いの語り』誠心書房

 半世紀以上も生きてくると、からだの具合がいつでも万全だというわけにはいかない。たとえば、今は50肩で右腕が十分に動かないし、腰の調子も不安定だ。胃の薬も欠かせない。痛い、重苦しい、むかつく、だるい………。どれも不快だが、こんな感覚が日常化すると、それとうまくつきあう術もわかってくる。


ところが医者に相談すると、食生活は?酒は、タバコは?睡眠、ストレスは?運動はしてますか?と、決まったことを聞いてきて、決まったアドバイスをしてくれる。「病気」にはかならず原因があって、それを治療する方法も、大概、確立されている。胃カメラ、血液検査、尿検査、CTスキャン、超音波………、で注射や薬を処方してくれて、不摂生や意志の弱さを戒めるというわけだ。


もちろん、医者の言うことは逐一ごもっともで、反論できることはほとんどない。けれどもいつでも、聞きたいこと、あるいは聞いてほしいこととはちょっと違うんだけどな、という気持を感じてしまう。教師というのは人に教えることはあっても、人からの教えを素直に受け止めない。このような気持は、そんな職業病と根っからのへそ曲がりのせいかもしれない。からだの調子が悪くなると、そんな反省の気持も出て、医者の忠告を思い出したりするが、回復すればすぐに忘れてしまう。


アーサー・W・フランクの『からだの知恵に聴く』はみずからの病気(心臓発作と癌)の経験を素材にした社会学である。ここで問われているのは、痛みや苦しみ、あるいは不安や焦りといった感情として経験される、自らの病いについてであり、それとはずれる医療や医学、医者や看護士との関係である。

・身体への治療は人に対してなされるべきことのごく一部にすぎない。私のからだがダウンしたときに起きたことは、からだだけではなく、私の生にも起きていたのだ。
・体験とはそれを生きるべきものであって、支配すべきものではない。からだは自分自身によっても支配されるべきではない。からだは人生の手段であり、媒体である。私はからだの中で、からだを通して生きるのだ。心とからだを切り離すべきではないし、からだを物ととらえるべきでもない。『からだの知恵に聴く』15頁

・医学は病気をからだの変調や不全としてとらえる。だから医者が立ち向かうのは病気、つまり病んだ身体であって、その症状を示す患者そのものではない。患者にとって特別の経験も医者や看護士にとっては日常的な仕事の一例でしかない。その感覚の落差が医療行為のなかではほとんど無視されてきた。もちろん、医者も看護士も毎日数十、数百人の患者に対面するから、その一人一人の心の中まで思いはかっていたのでは、仕事になりはしない。もちろん、町医者とは互いによく知っている関係をつくることができる。けれども、病気の正確な診断は、大きな病院に行かなければはっきりしないことが多い。病気と医療行為のあいだには、そんな根本的な断絶がある。


・ロバート・F・マーフィーはアマゾンをフィールドにする文化人類学者だが、やっぱり脊髄癌におかされた自分の経験を記録したものだ。病気になるとはどういうことか、他者の態度はどう変わるか、所属する集団の扱いは、そして死と闘い、それを受け容れることとは………。彼は病いによって身体に障害をもつことは「からだのあり方であると同時に、社会的アイデンティティのあり方」でもあるという。自らの経験や実感に基づく分析であるだけに、とても説得力がある。もちろんそれは『からだの知恵に聴く』にも言えることだ。


・アーサー・クラインマンの『病いの語り』は、前記した2冊とは違って、病いに冒された者の経験、その内的世界や周囲の人々との関係、そしてもちろん医療行為について、ひとつの研究領域として分析しようとしたものである。彼は医療が診断する「疾患」(desease)とは区別して、患者固有の体験を「病い」(illness)と呼んで区別する。その「病い」にとって大事なのは患者やその身近な人間たちが語る物語である。

・病いの語りは、その患者が語り、重要な他者が語り直す物語であり、患うことに特徴的なできごとや、その長期にわたる経過を首尾一貫したものにする。病いの語りを構成する筋書きや中心的なメタファーや、あるいは表現上の工夫は、経験を意味のある方法で整理し、それらの意味を効果的に伝達するための文化的、個人的モデルからひき出されるものである。『病いの語り』61頁
・「病い」とは単に身体的な変調に限定されるものではなく、それを経験する人の感情の起伏や、人生を通した意味づけ、周囲の人たちとの関係の変容に注目する視点である。医学のおかげで寿命が延びて、その分、病院の世話になったり、そこで死を迎える人が増えた。そのことで問題になるのは、病気そのものではなく、それを経験する人の心。これは医学にとってというよりは人間論や人間関係論にとっての新しい課題なのだと思う。

2003年4月21日月曜日

春になったから………

 

forest20-2.jpeg・長ーい冬がやっと終わった。何しろわが家では11月の初めから薪ストーブを使いはじめたから、暖房の期間は5カ月半、ほぼ半年になった。例年よりは半月から1月長い。おかげで、予定した薪は全部使い切って、来年用に蓄積しはじめたものまで燃やすことになった。これだから、倒木集めと薪割りは余裕を持ってやっておかなければならない。地元の人たちは、連休明けまでは安心できないと言うから、まだまだストーブを使うかもしれない。
・去年の11月に見つけた倒木は、冬のあいだにすべて、切って割って薪にした。ちょうど家のまわりに積み上げる量で、これで次の冬もだいたいいける。それでも、倒木を置いてあった場所が空になると、何となく不安というか寂しくなる。で、また出かけたついでにあちこちをきょろきょろ。この冬は雪が多かったから、倒れたり割れたりした木はかなりある。見通しは悪くない。
・そんなふうに思っていたら、さらにいい知らせがあった。高校の同級生が山中湖で「マナ・ハウス」というペンションをやっている。不況でどこも客足はのびないようだが、彼のところはがんばっていて、最近、隣のペンションを購入してビジネスを拡大した。改築して周囲の木を伐採したときいたから、さっそくもらいに行くことにした。山中湖までは片道25kmほどある。トラックを借りようかと思ったが、とりあえずはランカスターで積めるだけもらってきた。

forest24-1.jpeg・春休みだったから、次の日も行こうと思ったのだが、1日目で持病のぎっくり腰になった。さらに数日後には季節はずれの大雪。4月にはいっての25cmは十数年ぶりのようだ。で、ガソリンも抜いてお役ご免のはずの除雪機を動かすことになった。そんなふうにしているうちに新学期が始まってしまい、いまだに行っていない。5月になると草が生い茂って倒木は隠れてしまうし、カビが生えたり腐り始めたりする。連休はペンションが忙しくなって迷惑だから、なんとかその前に行かなければと考えているが、なかなかその時が来ない。
・もちろん、ウィークデーで大学に行かない日はあるのだが、先週からベランダの改修工事をはじめてしまった。ベランダの板や手すりがだいぶ腐り始めていて、前から気になっていた。急に暖かくなりはじめて、ベランダでちょっと読書でも、と椅子に座ったら、ぼろぼろの手すりが目に入った。もらってきたばかりの木に、ちょうどいい太さのものがある。そんなふうに思いはじめたら、決断するより先に、本は置いて、鋸と金槌を取りに行ってしまったのだ。腐った木を壊しはじめたら、もう後戻りはできない。

forest24-2.jpeg・DIYの店に行って板を買い1日か2日で仕上げるつもりだったのだが、点検すると床下の支えの板も腐っている。かなり大がかりなことになって、すでに4日も5日もかかってしまっている。もちろん仕事があるから、飛び飛びにしかできない。でこの週末に一気に仕上げることにした。出来映えはなかなかいい。腰や肩と相談しながらの日曜大工。けっして体にいいわけではないが、心のレフレッシュにはもってこいだ。何しろ大学では、先週の学部教授会が5時間、今週の全学教授会も5時間半で、退屈や、イライラ。ストレスがかなりたまっていたのだ。
・最後に周囲の春の様子をすこしだけ。蕗の薹はもう終わったがたらの芽がもう少したてば食べられるようになる。ここ数日の高温で、庭の桜が一気に満開になった。片栗の花は今年は8つ。去年の倍に増えた。この分で行って来年さらに倍になると、数年後には庭に群生するようになるかもしれない。パートナーはさっそくその周辺に入らないように低い柵を張り巡らした。白樺も葉をつけはじめ、あたりが茶色から緑色に変わりはじめている。もう少しするとライラックや三つ葉ツツジも咲き始める。河口湖の春は突然のようにやってくるが、今年はそれが一層はっきりしているようだ。

2003年4月14日月曜日

Juchrera"Herveit"

 

・今回紹介するCDはゼミの卒業生の楠見君が作ったものだ。彼は僕が東経大に移って最初にもったゼミの学生で、リーダー的な存在だった。ロックで卒論を書くと積極的に勉強したし、発表もした。移籍したばかりで慣れない僕にとっては貴重な学生だった。卒論のテーマは「ウェールズ音楽論」。イギリスのなかで唯一見落とされていて、音楽不毛の地のように誤解されているが、決してそうではないということを力説する内容だった。


・楠見君は卒業後も仕事のかたわら音楽活動を続け、その近況報告をこのHPの掲示板に書き込んだり、メールを送ってきたりした。前回報告した溝口君のように、忘れた頃に連絡してくる人は少なくないが、定期的に連絡をくれるのはわずかだ。最近ではイラク戦争に反対するデモを事前に書き込んでくれた。「仕事はやってるの?」と心配すると、「しっかりやってます」という返事。最近では珍しい(?)、素直な好青年である。その彼が自作のCDを出した。タイトルは『HERVEIT』、バンド名は「Juchrera」。どちらも造語のようである。


・聴いてみるとなかなかいい。何より音がきれいだ。ピアノやバイオリンなども入っていて映画のサウンドトラックのような感じ。スタジオを借りたり何人もの人に演奏を頼んだりして大変だったろうと思ったが、同封された手紙では「全部自宅で作成」と書いてある。CDのラベルが厚いせいか、車のオーディオでは出し入れの時に引っかかってしまう。ぎゅっと差し込んだり、出にくいのを引っ張り出す。いかにも手作りの感じだし、本人も「庭の自家製野菜」のような作品だと言うが、中身はなかなか。八百屋さんで売っているのと同じぐらいいい出来だと思った。


朝の光のなかに Toyland
迷い込んでいる 道は遠いな
「今ここにある暇」がどこにある
朝の光に問いかけてなくなった
辞書を参照 言葉得ましょう
無意味の検証「意味がない」でしょう
感情 誕生だが 不感症
だからあべこべ 故に消えてなくなった
同世代など どうせないんだろうと
申さないだろう この世代だと
この世界では その視界では
全てあれこれ それ消えてなくなった
曖昧な愛 曖昧な愛(IMINATOIN)

・ことばもおもしろい。何より日本語でしっかり歌っているのがいい。最近聞こえてくる日本人の歌は日本語と英語が混じって意味不明なんていうのばかりだから、新鮮な感じがする。こんなCDが自宅で作れてしまうというのはすごいと思うが、今は演奏にも録音にもアマとプロの垣根はないのかもしれない。そういえば今年のゼミの卒論には、インディーズ人気という最近の傾向に注目してまとめたのがあった。メジャーのレコード会社が不作でヒット曲が出ない状況のなかで、インディーズ・レーベルが人気を得ている。そんな内容で、僕はそこで取り上げられているミュージシャンやアルバムをほとんど知らなかったが、楠見君のアルバムを聴くと、そんな状況も理解できるような気がした。

・とはいえ、このアルバムが大ヒットするかもしれないなどと無責任な予測を擦るわけではない。メジャーの目にとまったかぎられた人たちだけがすくい取られてスターに仕立て上げられていく。そんなシステムが機能しなくなることは音楽産業にとってはいいことではないかもしれないが、音楽状況としては悪くないのでないか。そんな希望を感じさせてくれただけで十分意味のあるアルバムだということだ。
・なお、このアルバムや楠見君に関心のある方は、ぜひ彼のHPを訪ねて、メールを出してあげてください。