2005年4月19日火曜日

追悼 高田渡

 

wataru1.jpg・高田渡が死んだ。享年56歳、僕と同い年だった。あまりに早い死だが、ずいぶん前から、体は悪かったようだ。酒を断たなければ長生きはできない。そういう忠告を間近で聞いたのは8年半ほど前だったが、その後もやめなかったようだ。
・BSで吉田類が各地の居酒屋を巡る番組「酒場放浪記」をやっている。毎日15分。僕は酒飲みではないが時々みている。しばらく前に吉祥寺の立ち飲みの屋台を紹介していて、僕も行ったことがあるから、興味深くみていたのだが、突然、カメラの前を高田渡が横切った。知らぬフリしてわざとやったのかもしれない。だとしたら、いかにも彼らしいいたずらで、僕は笑ってしまったが、同時に、昼間からしょっちゅう来て飲んでるんだ、と思って、体のことがまた気になった。
・僕が彼に最後にあったのは「中山容さんを偲ぶ会」だった。それについての文章に、彼との出会いを次のように書いた。

wataru2.jpg 30 年前、僕は予備校の授業をさぼって吉祥寺の南口にあった「青い麦」でフォークソングのレコードを聴いて過ごし、井の頭公園でギターの練習をした。そこで高田渡と何度か会った。彼をはじめて知ったのは四谷の野中ビルで開かれた「窓から這いだせ」という名のコンサートだった。その後、東中野や阿佐ヶ谷、あるいは豊田など中央沿線で小さな会場を借りたコンサートが行われ、僕も何度か歌った。会を設定し、若い歌い手を集め、歌の批評やアドバイスをし、相談に乗ったのが中山容だった。

wataru3.jpg・中山容は片桐ユズルと一緒にフルブライト留学生としてアメリカに渡り、ビートニクの影響を受けて日本でビート詩を書いた人だ。公民権運動や反戦活動とともにフォークソングが注目されると、ピート・シーガーやボブ・ディランの歌を訳して若い人に歌わせるようになった。場を設定して小さなコンサートを開き、やんちゃな連中を引率してフォーク・キャンプをして回った。そんな活動がやがて「関西フォーク運動」になったのだが、高田渡はひときわ脚光を浴びるフォークシンガーだった。
・高田渡に久しぶりにあったのは、その容さんを見舞いに行った京都の病院だった。中川五郎も来ていて、容さんは「渡ちゃん」「五郎ちゃん」と呼んで、懐かしい昔話に花を咲かせた。その時に、高田渡が死ぬほど体が悪くなり、琵琶湖の病院で療養生活を過ごしたことを聞かされた。原因は酒の飲み過ぎで、話したのは、同席したその病院の院長だった。彼もまた、学生時代にフォークソングにのめり込んでいた一人だが、その時のやりとりを中川五郎の小説をレビューしたときに次のように書いた。

goro3.jpg 2年半ほど前にボブ・ディランの訳者の中山容さんが死んだが、ぼくは入院先の病院でたまたま彼と会った。高田渡ともう一人、滋賀県の病院長をしている人と一緒に容さんを近くの喫茶店に連れだして話をした。みんな関西フォーク運動を経験した仲間達で、年長の容さんには世話になった。その時、渡ちゃんか五郎ちゃんかどちらかが、「なまじ音楽の才能がない方が出世したみたいだね」と言った。確かにこのメンバーでは、才能がなくて早々音楽の道をあきらめた者が医者や大学の教員になっている。「あー、そういうことになるのか」と思ったが、それはあくまで30年も経った後の話でしかない。

wataru4.jpg・高田渡にも中川五郎にも「容さんを偲ぶ会」以来会っていない。しかし、彼らの歌は最近のCDの復刻版で改めて聴くようになった。高田渡の歌は、明治時代の演歌士添田唖然坊の歌詞をフォークやブルースの古い曲に乗せたものであったり、黒人の詩人ラングストン・ヒューズの詩であったり、あるいは金子光晴や山之口貘の詩であったりもする。しかし、どんなものも、彼の手にかかると高田節になって違和感なく聞こえてしまう。しかもそれは、もう三十数年前に吉祥寺の井の頭公園で聴いた時の印象から変わらない。大学ノートに書き込んだ歌詞をめくって次々歌ってくれて、その場で腹を抱えて笑ったのを今でもよく覚えている。その時から、僕よりずっと年上の人に思えたが、枯れつきてしまうのもまたあまりに早すぎた。ご冥福をお祈りします。

2005年4月12日火曜日

S.ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』(みすず書房)

 

sontag1.jpg・スーザン・ソンタグが死んだという記事を目にして、驚いた。9.11以降のアメリカを危惧して活発な活動をしていたのに、なぜ、あー、残念という気がして悲しくなった。『写真論』『ラディカルな意志のスタイル』(晶文社)や『反解釈』(筑摩書房)、そして『隠喩としての病い』(みすず書房)など、彼女の本から得たものは少なくない。何より、思慮に富んで歯切れがいい文章が好きだった。で、まだ読んでいない本を何冊か買って読んだが、報道写真をテーマにした『他者の苦痛へのまなざし』がおもしろかった。
・9.11以降、戦争によってもたらされた悲惨さを記録した写真やビデオを見る機会が増えた。これでもかという愚行のくりかえしに、暗澹とした思いにさせられる。けれどもまた、食傷気味という感じを覚え、その説明のつきにくい矛盾した感情にとまどう自分も自覚してしまう。暗澹とした思いはわかる。しかし、食傷気味とは、どういうことなのだろうか。たまに見て刺激にしたいということなら、バイオレンス映画に期待するものと変わらない。いったい僕は戦場の悲惨の写真に何を見ているのだろうか。
・『他者の苦痛へのまなざし』には次のような文章がある。


写真は混じり合った信号を発信する。こんなことは止めさせなさい、と写真は主張する。だが同時に写真は叫ぶ。何というスペクタクルだろう。(p.75)

・写真にたいする二つの相反した反応。ソンタグはそれを、前者は理性や良心にもとづくもの、後者は身体が暴力を受けるイメージにつきまとう性的な興味だという。もちろん常識的には、誰もが前者を肯定し、前面に出し、後者を否定、あるいは隠蔽する。しかし、忌まわしいものではあっても、あるいは、忌まわしいものであるがゆえに、後者は誘惑力を持つ。
・このような指摘は、もちろん全く新しいというものではない。新聞が部数を増やしてマスになったのは、世界中どこでも、戦争の報道がきっかけだった。惨事があれば売れる。それは現代の新聞でも変わらないし、何よりテレビに明らかだろう。今や、ニュース・レポーターが戦車に乗って生中継する時代なのだから。
・だから、特にテレビによる報道のスペクタクル化が批判されたりもする。そこで言われるのは、残忍な行為や犯罪を記録した写真は楽しみではなく、義務として、事実を直視するために見るべきものということだ。それは正論だが、正論でしかないから、またほとんど、説得力を持たない。そうは言っても、心の底から湧き出てくる関心や興奮は抑えがたいからだ。
・ソンタグは、そう考える基盤にあるのは、平和が規範で戦争を例外とする倫理観だという。そして、人間の長い歴史を見れば「戦争は人間が常習的に行うもの」だったことがわかるという。

現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している。(p.110)

2005年4月6日水曜日

「男」と「女」

 

・テレビのニュースでは事件の容疑者の性別に「男」「女」をつかっている。たとえば、「殺人の容疑で逮捕されたのは〜。この女(男)は………」といったようにだ。実際、いかにも悪いことをしたヤツという印象を受ける。いつからこうなったのかはっきりしないが、最近変えたのだとしたら、それ以前は何と言っていたのだろうか。とにかく、この呼び方、特に「女」が気になって仕方がない。もちろん不快にである。
・ニュースでは容疑者と区別して、被害者には「女性」「男性」という呼び方をするから、「女」「男」は明らかに敬称なしという扱いである。しかし、新聞で読むぶんにはさほど気にならないのに、耳からはいる「おんな」「おとこ」からはどうしても、侮蔑や叱責のニュアンスを感じてしまう。読むと聞くの違いか、あるいはアナウンサーやキャスターの読み方の問題なのだろうか。
・僕が気になるのは、容疑者の人権といったことではない。「女」と「男」ということばの扱いかたについてである。これではニュートラルな意味での「女」「男」の使用を躊躇せざるをえない。「女性」「男性」を使えばいいではないかと言われるかもしれないが、僕は以前から「性」をつけることの方に抵抗感をもっている。
・「ウーマンリブ」の運動が社会的に認知されたときに、「ウーマン」は「婦人」や「女性」ではなく「女」なんだと教えられたし、丁重な言い方が隠す蔑視や差別の意識の方が問題なんだということにも気づかされた。たとえば、排泄の行為を直接示す「便所」の代わりに「手洗い」が使われたり、「トイレ」や「レスト・ルーム」が使われたりする。しかし、ことばを婉曲的にしても、それが指すこと、示すもの、あるいは行為に変化があるわけではない。
・確かに「女」には、男にとっての「性の対象」(いい女)、あるいは「男の所有物」(俺の女)といった使い方がある。「あの女」と言ったら、そこには敬意は感じにくいかもしれない。しかし、「いい女」「あの女」は誰がどこで誰にどんなふうに言うかによって多様だし、「俺の女」は所有物として考える男の意識の方が問題なのである。
・ニュースでの「男」「女」の使い方は、こういったニュアンスを無視して、叱責ばかりを強調する。このような使い方が定着すると、「男」「女」は「便所」と同じような使いにくいことばになってしまう。僕はあくまで抵抗して、「男」「女」を使うつもりだが、いったいいつまで可能なのだろうか。
・そんなことを考えていて、今まで見過ごしていたことに気づいた。「ウーマンリブ」が「フェミニズム」と名前を変えた理由は何だったのだろうか。一部の人たちの運動から一般的な意識への広まりにともなった婉曲的な言いかえだったのだろうか。ちょっと調べてみたくなった。「フィメイル」や「メイル」には「雌」「雄」という意味があって、人間以外にもつかわれる。英語のニュアンスとしてはどうなのだろうか。
・ついでに「性」に関連して、気になっていることをもう一つ。院生や若い研究者がやたら「〜性」ということばを使いたがる点だ。たとえば「関係」と言わずに「関係性」と言ったりする。「男と女の関係」ではなく「男と女の関係性」。ここにどのような意味の違いがあるのか、よくわからない場合が多いのである。「性」をつけるとそれらしく感じられるということなのだろうか。一種のアカデミックな婉曲語法なのかもしれない。しかし、これははっきり言えば「曖昧さ」と「深遠さ」の取り違えである。僕はこんな使い方にも不快感をもってしまう。

2005年3月30日水曜日

ホリエモンの魅力と怖さ

 もう一ヶ月以上、テレビのニュース番組が「ホリエモン」でにぎわっている。ニッポン放送を買収し、次はフジテレビ。ホリエモンこと堀江貴文はまだ30代の前半で、そんな若造が巨大なメディアを相手に乗っ取りを仕掛けたというのだから、話題になるのは当然だろう。喝采も多いが反発も強い。僕は興味もってずっと見守ってきた。


ホリエモンを最初に見たのは「オリックス」に吸収合併される「近鉄」の買収に名乗りを上げたときだ。僕はそれまで、堀江貴文はもちろん、「ライブドア」という会社もネット上のサイトも知らなかった。それはネット・ビジネスの急成長を認識させられる機会でもあった。ところが、日本のプロ野球機構は「ソフトバンク」と「楽天」は認めても、「ライブドア」をまっとうな相手として認めようとしなかった。


堀江はその後メディアにしょっちゅう登場して童顔の太った風貌から「ホリエモン」という愛称で呼ばれるようになった。ところが、そのポケットからとんでもないものが飛び出して世間を驚かせ当惑させることになったのである。
僕がホリエモンで特に関心をもったのは、彼がネクタイを締めないことだった。それはどこで誰に会う場合でも徹底しているから、彼の中では強いポリシーになっているのだと思う。ささいなことに見えるかもしれないが、ネクタイは、大人たちがフォーマルな関係を持つ際には必ず身につけなければいけないアイデンティティ・キットとしてみなされている。だから、ノーネクタイは、守ることが前提とされているもろもろのルールや慣行が、暗黙の了解事項ではないことの意思表示にもなる。


ホリエモンの手法は実際に、このノーネクタイに象徴されるように、暗黙の了解事項を無視したり、積極的に打破することを基本にしているようだ。つまり、彼はプロ野球機構、日本の企業形態、日本のマスメディア、そして株取得の意味や方法について、明文化されたルールではないが常識化した慣例を無視し、それに異議を唱えるスタイルで行動をおこしてきた。だから反発も強いのだが、彼が切り崩そうとする壁は実際に、老朽化や腐敗などのさまざまな問題を引き起こしてもいる。


たとえば、国土計画と西武鉄道の問題は、堤義明が同族経営を維持して株式を他人に支配されないように画策した行為が犯罪として追求されている。けれども、これは程度問題で、どんな会社も乗っ取りを恐れて関係のある会社と株を持ちあうことはしている。あるいは創業家の威光が大企業になっても弱まらないところも少なくない。だからホリエモンの行動が「他人の家に土足で上がりこむ」といった言い方で非難されるわけだ。しかし、株式とは公開されたものだから、「他人の家」といった意識そのものが極めて日本的なのである。


日本的といえば、小さな国土計画が大きな西武鉄道の親会社になっているという形態も奇妙だ。同じことはフジテレビとニッポン放送の関係にも言えるが、どちらも組合を持たない企業であったという点でも共通している(フジテレビにはあった)。ニッポン放送の社員は今度の事態で急遽組合を結成して、乗っ取りに反対する声明を出した。それに同調して、出演を拒絶する人たちも出はじめたが、まったく家族主義的な発想だと思う。ビジネスは公的なもので家族といったプライベートなものとは違うはずだが、日本の社会には、そのけじめがほとんど存在しないのである。


この点の善し悪しは、「家族的」を「私物的」と読みかえたら、ずっとはっきりするだろう。プロ野球の球団を持つオーナー達の発想が一般の野球ファンから反発を買った点がここだったはずである。そしてニッポン放送やフジテレビ、あるいはマスコミ関係者が共通感覚(常識)として訴えようとしているのも、まさにこの点に他ならない。 

日時:2005年3月30日

2005年3月25日金曜日

農鳥その後

 

notori1.jpeg・いつも富士山を眺めていて気づかなかった「農鳥」を見つけてから、毎日、その姿が気になるようになった。そうすると、鳥はしょっちゅう見える。だから、「な〜んだ」という気がして、ありがたみがなくなってきた。
・しかし「写真館」に農鳥?を載せて、知人に連絡したら、たくさんの反応がかえってきた。事後承諾で、そのいくつか紹介してみよう。

・『富士山の農鳥』、見ました。ほぉ、こういうのが富士山にあるのか、と思いました。たしか、北アルプスだったかにもありますね。あれは『タネを蒔くおじさん』だったような(記憶が不鮮明です)。それに比べれば、鳳凰のようにも見えますし、やはり富士山のイメージにピッタリです。(桃山学院大学のHさん)
・「農鳥、拝見しました。たしかに鳥ですね。長い首と頭の鶏冠からして、私には孔雀か軍鶏のようにも見えます。新潟魚沼地方には「牛」の出る山があります。2年前5月、妻の父の葬儀の合間、残雪の山々を皆で眺めながら牛ヶ岳に牛が出てる、などと語り合ったことをこの農鳥を見ながら想い起こしました。」(東経大のIさん)
・確かに鳥に見えますね。今日は霞がかって6号館から富士山がよく見えませんが入試の最中の1日、空気が澄んでいて、滅多にないほどきれいに、しかも気のせいか、いつもより大きく、近くに山が見えました。方角があえば農鳥が見えたかな。(東経大のUさん) ホームページで農鳥写真を見ました。本当に珍しいことがあるのですね。さっそくカラーでプリントアウトしました。足利からも晴れていると富士山が見えます。本当に珍しい写真で家族で鑑賞させて頂きました。(東経大のSさん)

notori5.jpeg・はじめ、鳥の姿がどこにもみれず、「ああ、先生疲れすぎてとうとう・・!」と思ってしまいましたが、それは僕の感受性が死んでいたせいでした。自己嫌悪です。(笑)確かにこれは、美しい鳥ですね!絵でしか不死鳥を見たことがないのでなんなんですが、鶴とか農鳥という感じよりも、不死鳥の姿といった表現のほうがしっくり来るようにかんじますね。でも不死鳥は炎の中で再生を繰り返すというイメージが強いため、これは雪なので「不死鳥の影」といった感じになるんでしょうか。なんだか幸せになれそうですね。(追手門卒業生のK君)
・九州の、それも海沿いの育ちで、山と雪には縁のない生活が長かったので、山肌の残雪に何かの形をよみとるということは実に新鮮な体験。吹き溜まりに残った雪、ということなのでしょうが、・・・。おもしろいなと思います。<しろうま>も、いつか見てみたいものだとおもいました。で、あの鳥の正体は、ドタバタと飛び立つ白鳥に見えなくもないのですが、首の短さからアヒルかガチョウか、偕成社文庫の表紙に描かれたガンにもみえますが、色違いなので、やっぱり、アヒルの「ムース」、というのが我が家の漫画少年たちも巻き込んでの鑑定結果です。(院生のYさん)
・1枚目の写真では、・・・?どこ???と思いましたが、わかりました!2枚目で。綺麗に鳥の姿が浮かび上がってますね。自然がつくりだす姿にしては、あまりにもはっきりとしていて、思わず感動してしまいました。その後、雪の予報とありましたが、その美しい鳥は、もう姿を消してしまったのでしょうか?(追手門卒業生のMさん)
・農鳥、拝見しました。モノは見ようで、確かに白鳥のように見える気がしました。富士山に真っ白な鳥が舞い降りる…なんて随分洒落ていますね。先日の雪で飛び立ってしまったんでしょうか。先生は、こんなキレイな日本一を毎日拝んでいるんですね。ちなみに、ジェットコースターから眺める富士もいいものデスヨ!(ゼミのSさん)

notori4.jpg・静岡に住むいとこから右のような記事が送られてきた。静岡新聞の一面に載ったようだ。河口湖より東の富士吉田か忍野あたりから撮ったもののようで、角度が少し違う。同じ日に、NHKの夜のニュースでも紹介された。どちらも春をつげる鳥という紹介だった。例年なら連休頃に出て田植えを告げるといわれているのに、今年は1月から見えている。春を告げるのではなく、凶作の兆しなのだが、NHKはそのことにふれずに、季節の話題として取りあげていた。
・冬の間、東経大からもきれいな富士山がよく見える。しかし残念ながら農鳥は見えない。東京から見える富士山は、方向的には山中湖から見える富士山で、農鳥は隠れてしまう。そのかわりに丹沢山地の上に出た富士山は全面真っ白である。
・河口湖はこのところ暖かい日が続いている。雪ではなく雨が久しぶりに降った。雨上がりに大学に出かける朝、湖畔で富士を見たらまた雪化粧で農鳥の形がはっきりしなくなっていた。

2005年3月16日水曜日

懐かしい歌

 

tomobe1.jpeg・洋盤でめぼしいニュー・アルバムがない。スティングの「Sacred Love」はまあまあだったけど、U2の「 How to Dismantle an Atomic Bomb」は完全に期待はずれ。そんなこともあって、早川義夫以来、日本人のミュージシャンに関心が移っている。昔懐かしい人たちが今も歌っていて、昔のアルバムがCDで次々復刻されている。すでにレコードでもっているものがほとんどだが、何枚か改めて買い直してみた。
・友部正人はずっと歌い続けていて、アルバムもコンスタントに出している。しかし、初期の「大阪にやってきた」や「にんじん」にくらべると、いまひとつぴんとこない気がしていた。
・『にんじん』を聴きなおしてみると、このアルバムのすごさがあらためて実感される。浅間山荘事件と新宿の雑踏を重ね合わせて歌った「乾杯」、JR中央線の阿佐ヶ谷駅から見えた夕日を描いた「一本道」、富山県高岡での暴走族の様子を語る「トーキング自動車レースブルース」等々。いい感覚をしている。歌の一つ一つが一枚の傑作画のようだ。同じ印象はもちろんデビュー作の『大阪へやってきた』にも感じた。
・1991年に出た『 ライオンのいる場所』にも湾岸戦争をテーマにした「モンタハ」といった曲がある。その時々に出会った出来事や、した経験を歌にしたものを「トロピカル・ソング」というが、彼の歌作りにはそんな姿勢が一貫しているようだ。しかし、いまひとつぴんとこない。
・たぶん、これは友部がつくる歌以上に、それを聴く僕の姿勢のせいなのだと思う。『にんじん』や『大阪へやってきた』を聴きながら僕の頭に浮かんでくるのは、それをよく聴いていた頃の僕自身であるからだ。そうすると、改めていいと思っているのは、それが僕にとっての懐メロであるからなのかもしれない。

minami1.jpeg・同じような印象はディランIIの『きのうの思い出に別れをつげるんだもの』や、南正人の『回帰線』と『ファースト・アルバム』にももった。思い出す光景は、彼らをライブで何度も聴いた時の僕であり、その時代の僕自身の心もちや行動なのである。別れをつげて忘れてしまっていたはずの思い出がよみがえる。ちょっと前なら、ぞっとするほどやりたくないと思っていたことだが、それがそれほど不快でもない。というより、素直に懐かしいと思って、感慨に耽ってしまったりする。
・たとえば、早川義夫の「風月堂」は『言う者は知らず、知る者は言わず』ではじめて聴いたが、そこで歌われている登場人物が、まるで自分であるかのように思ってしまった。ただし、その場所は新宿風月堂ではなく、京都ほんやら洞で、70年代の前半である。

黒い上着と 長い髪
本を抱えて 煙草を吹かして
ぼくはいつも 外を眺めてた
石のテーブルで コーヒーを飲んでいた

・もちろん、友部も、南も、そしてディランIIの大塚まさじもずっと歌い続けていて、新しいアルバムも出している。高田渡の映画もできているようだ。それぞれが、どんなふうに年月を重ねてきたのか、今度は新しいアルバムをじっくり聴いてみようと思う。 


2005年3月9日水曜日

ハワイからのメール


2月の末から1週間ほどハワイに出かけてきた。息子夫婦からのプレゼントだが、こちらも母親の喜寿の祝いにと両親をともなっての旅行だった。本当はハワイから更新のつもりでわざわざPower bookをもっていったのだが、うまくはいかなかった。

今回のメインは「キラウエア火山」。オアフ島ではなくハワイ島にある。その火口にあるヴォルケーノ・ハウスに2泊した。右の写真はそこの庭から写した火口の一部である。もうすでに噴火はしていないが、ところどころから湯気が上がっていて、圧倒される風景だった。

ハワイ島はいくつもの火山が集合して一つの島になっている。キラウエア火山の西にはなだらかなマウナロアがあって、その頂には雪が見える。とてもそうは見えないのだが、富士山よりも高く、標高は4000メートルを超える。もっとも、宿舎のある火口自体が海抜1200mもある。山の気候は変わりやすい。晴れたかと思うと雨。だからしょっちゅう虹が架かる。虹の向こうにマウナロア。


 

ハワイ島に出かけた理由の一つは、パートナーの知人を訪ねることだった。陶芸家のロンさんだが、彼はもともとは地質学を専攻していてキラウエアの博物館でも働いていたことがある。その彼に一日中火口から海岸まで案内してもらった。ガイドというよりはレクチャーを受けながらの見物で、ずいぶんいろいろなことを教えてもらった。おまけに昼時になったら、彼のバッグからスパム・ムスビが出てきてまたビックリ。ついでに、彼の工房によって、名産のコナ珈琲までごちそうになった。本当に親切で、お礼を言うと、「これがハワイ人のやり方」とおっしゃった。

ところでスパムとは豚のソーセージの缶詰のことで、おむすびはそれを挟んで海苔で巻いたものだ。おいしかったが、名前が気になった「スパム」といえば「スパム・メール」。なんで同じ名前なのか。さっそく帰って調べると、語源はやっぱり缶詰らしい。詳細を知りたければ「spam考古学」がいい。
ハワイ島で一番大きな町はヒロという。ホノルルから飛行機を乗り継いで、ここからレンタカーで移動した。久しぶりの右側通行、左ハンドルのアメ車もすぐに慣れた。島の南半分を走ってコナで返却。溶岩ばかりの荒れ地の島だが、コーヒー、ナッツ、果物などが豊富にとれる。日系人の多さを改めて実感した。家の雰囲気や商店の看板に、何とも言えず昔懐かしさがあった。
ハワイ諸島はプレートの割れ目の上に乗っている。だから噴火してできた島が少しずつ東に移動して、次々と島が生まれた。実は今一番活動しているのはハワイ島ではない。その西に新しい火山ができていてロイヒ火山と言う。次々と生まれているが、またそれらはいつかは海底に消えてもいくようだ。海山はカムチャッカ半島にまで届いている。
そのハワイ諸島の一番東にはニイハウ島がある。イギリス人が個人で所有する島でネイティブのハワイアンだけが住む。TBSの番組で見たことがあったから、飛行機からきれいに見えた時はうれしかった。

最後に、アメリカの入国管理の厳しさについて。ホノルルに到着したときより、ヒロに向かう便の搭乗手続で、執拗なボディ・チェックを受けた。もちろん、外国人に限ってのことである。これでは、迂闊にアメリカ国内を移動することなどできない。 

日時:2005年3月9日