2005年4月12日火曜日

S.ソンタグ『他者の苦痛へのまなざし』(みすず書房)

 

sontag1.jpg・スーザン・ソンタグが死んだという記事を目にして、驚いた。9.11以降のアメリカを危惧して活発な活動をしていたのに、なぜ、あー、残念という気がして悲しくなった。『写真論』『ラディカルな意志のスタイル』(晶文社)や『反解釈』(筑摩書房)、そして『隠喩としての病い』(みすず書房)など、彼女の本から得たものは少なくない。何より、思慮に富んで歯切れがいい文章が好きだった。で、まだ読んでいない本を何冊か買って読んだが、報道写真をテーマにした『他者の苦痛へのまなざし』がおもしろかった。
・9.11以降、戦争によってもたらされた悲惨さを記録した写真やビデオを見る機会が増えた。これでもかという愚行のくりかえしに、暗澹とした思いにさせられる。けれどもまた、食傷気味という感じを覚え、その説明のつきにくい矛盾した感情にとまどう自分も自覚してしまう。暗澹とした思いはわかる。しかし、食傷気味とは、どういうことなのだろうか。たまに見て刺激にしたいということなら、バイオレンス映画に期待するものと変わらない。いったい僕は戦場の悲惨の写真に何を見ているのだろうか。
・『他者の苦痛へのまなざし』には次のような文章がある。


写真は混じり合った信号を発信する。こんなことは止めさせなさい、と写真は主張する。だが同時に写真は叫ぶ。何というスペクタクルだろう。(p.75)

・写真にたいする二つの相反した反応。ソンタグはそれを、前者は理性や良心にもとづくもの、後者は身体が暴力を受けるイメージにつきまとう性的な興味だという。もちろん常識的には、誰もが前者を肯定し、前面に出し、後者を否定、あるいは隠蔽する。しかし、忌まわしいものではあっても、あるいは、忌まわしいものであるがゆえに、後者は誘惑力を持つ。
・このような指摘は、もちろん全く新しいというものではない。新聞が部数を増やしてマスになったのは、世界中どこでも、戦争の報道がきっかけだった。惨事があれば売れる。それは現代の新聞でも変わらないし、何よりテレビに明らかだろう。今や、ニュース・レポーターが戦車に乗って生中継する時代なのだから。
・だから、特にテレビによる報道のスペクタクル化が批判されたりもする。そこで言われるのは、残忍な行為や犯罪を記録した写真は楽しみではなく、義務として、事実を直視するために見るべきものということだ。それは正論だが、正論でしかないから、またほとんど、説得力を持たない。そうは言っても、心の底から湧き出てくる関心や興奮は抑えがたいからだ。
・ソンタグは、そう考える基盤にあるのは、平和が規範で戦争を例外とする倫理観だという。そして、人間の長い歴史を見れば「戦争は人間が常習的に行うもの」だったことがわかるという。

現実がスペクタクルと化したと言うことは、驚くべき偏狭な精神である。それは報道が娯楽に転化されているような、世界の富める場所に住む少数の知識人のものの見方の習性を一般化している。(p.110)

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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。