・高田渡が死んだ。享年56歳、僕と同い年だった。あまりに早い死だが、ずいぶん前から、体は悪かったようだ。酒を断たなければ長生きはできない。そういう忠告を間近で聞いたのは8年半ほど前だったが、その後もやめなかったようだ。
・BSで吉田類が各地の居酒屋を巡る番組「酒場放浪記」をやっている。毎日15分。僕は酒飲みではないが時々みている。しばらく前に吉祥寺の立ち飲みの屋台を紹介していて、僕も行ったことがあるから、興味深くみていたのだが、突然、カメラの前を高田渡が横切った。知らぬフリしてわざとやったのかもしれない。だとしたら、いかにも彼らしいいたずらで、僕は笑ってしまったが、同時に、昼間からしょっちゅう来て飲んでるんだ、と思って、体のことがまた気になった。
・僕が彼に最後にあったのは「中山容さんを偲ぶ会」だった。それについての文章に、彼との出会いを次のように書いた。
30 年前、僕は予備校の授業をさぼって吉祥寺の南口にあった「青い麦」でフォークソングのレコードを聴いて過ごし、井の頭公園でギターの練習をした。そこで高田渡と何度か会った。彼をはじめて知ったのは四谷の野中ビルで開かれた「窓から這いだせ」という名のコンサートだった。その後、東中野や阿佐ヶ谷、あるいは豊田など中央沿線で小さな会場を借りたコンサートが行われ、僕も何度か歌った。会を設定し、若い歌い手を集め、歌の批評やアドバイスをし、相談に乗ったのが中山容だった。
・中山容は片桐ユズルと一緒にフルブライト留学生としてアメリカに渡り、ビートニクの影響を受けて日本でビート詩を書いた人だ。公民権運動や反戦活動とともにフォークソングが注目されると、ピート・シーガーやボブ・ディランの歌を訳して若い人に歌わせるようになった。場を設定して小さなコンサートを開き、やんちゃな連中を引率してフォーク・キャンプをして回った。そんな活動がやがて「関西フォーク運動」になったのだが、高田渡はひときわ脚光を浴びるフォークシンガーだった。
・高田渡に久しぶりにあったのは、その容さんを見舞いに行った京都の病院だった。中川五郎も来ていて、容さんは「渡ちゃん」「五郎ちゃん」と呼んで、懐かしい昔話に花を咲かせた。その時に、高田渡が死ぬほど体が悪くなり、琵琶湖の病院で療養生活を過ごしたことを聞かされた。原因は酒の飲み過ぎで、話したのは、同席したその病院の院長だった。彼もまた、学生時代にフォークソングにのめり込んでいた一人だが、その時のやりとりを中川五郎の小説をレビューしたときに次のように書いた。
2年半ほど前にボブ・ディランの訳者の中山容さんが死んだが、ぼくは入院先の病院でたまたま彼と会った。高田渡ともう一人、滋賀県の病院長をしている人と一緒に容さんを近くの喫茶店に連れだして話をした。みんな関西フォーク運動を経験した仲間達で、年長の容さんには世話になった。その時、渡ちゃんか五郎ちゃんかどちらかが、「なまじ音楽の才能がない方が出世したみたいだね」と言った。確かにこのメンバーでは、才能がなくて早々音楽の道をあきらめた者が医者や大学の教員になっている。「あー、そういうことになるのか」と思ったが、それはあくまで30年も経った後の話でしかない。
・高田渡にも中川五郎にも「容さんを偲ぶ会」以来会っていない。しかし、彼らの歌は最近のCDの復刻版で改めて聴くようになった。高田渡の歌は、明治時代の演歌士添田唖然坊の歌詞をフォークやブルースの古い曲に乗せたものであったり、黒人の詩人ラングストン・ヒューズの詩であったり、あるいは金子光晴や山之口貘の詩であったりもする。しかし、どんなものも、彼の手にかかると高田節になって違和感なく聞こえてしまう。しかもそれは、もう三十数年前に吉祥寺の井の頭公園で聴いた時の印象から変わらない。大学ノートに書き込んだ歌詞をめくって次々歌ってくれて、その場で腹を抱えて笑ったのを今でもよく覚えている。その時から、僕よりずっと年上の人に思えたが、枯れつきてしまうのもまたあまりに早すぎた。ご冥福をお祈りします。
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unknownさんではなく、何か名前があるとうれしいです。