2006年9月25日月曜日

生きものの世界

 

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・今年は雨の多い夏だった。からっと晴れた日は数えるほど。だから、じめじめして、家の中はかび臭くて、外でもあちこちでキノコを見かけた。見るからに毒キノコで、一つも食していないが、ひょっとしたら美味のものがあるのかもしれない。当然、カエルやミミズなども多い。庭を歩いたり、ハンモックに揺られていて、例年になく、蚊に悩まされもした。

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・高温ではないが多湿な気候は虫にも好都合なのかもしれない。庭で見かける虫の種類も、例年になく多かった。生まれたばかりの芋虫。それが青葉をむしゃむしゃ食べる。成虫は交尾に夢中だ。どんな虫も、間近で見ると色合いが美しい。マクロで写真を撮ると、その色合いがいっそうはっきりする。技術のある写真家が高機能の高価なカメラを使ってはじめて可能になるような鮮明なショットが簡単にとれてしまう。デジカメの威力に改めて感心!。

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・こうして並べると、森の生きものの多様さがよくわかる。けれどもこれらはどれも、目をこらしてはじめて見えてくるようなものばかりだ。当然、意識しなければ気づかない。それは花でも一緒で、野草が咲かせるのはどれも小粒で、近寄ってみなければ、その色合いや模様はわからない。だから、こういう世界にふれていると、余計に、派手さばかりを追いかける都市の暮らしや人びとの関心の向けどころにインチキ臭さを感じてしまう。
・もちろん、自然のものだけでなく、育てたものもある。朝顔は今年もきれいな花を毎日たくさんつけている。茗荷もたくさん出た。ただし、一週間だけの楽しみだった。今は秋海棠が満開だ。

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2006年9月18日月曜日

破れたジーンズの不思議

 

jeans1.jpg・破れたジーンズが流行っているらしい。たしかに街中でも見かけるし、テレビタレントなどもはいている。何かの授賞式などにはいて出たりするのはおもしろいと思うし、女の子のチラリズムとしても悪くはないのかもしれない。けれども、わざわざ破れたものを買うということになると、ちょっと、おかしいんじゃない?と言いたくなってしまう。第一、ぼくにはそれがなぜ格好いいのか、その感覚が今ひとつよくわからない。もちろん、破れたジーンズなどはくなと言いたいのではない。実際ぼくが家ではいているジーンズは、ごらんの通り穴の開いたものである。

jeans3.jpg・ぼくはいつでも、どこでもだいたいジーンズをはいている。毎年1本新調して、3年ほどたってよたってくると、家での作業着にしている。京都に住んでいるころは膝が破けてくると夏用の半ズボンにして使っていたのだが、河口湖に来てからは、薪割りや大工仕事をするときのユニフォームになっている。去年の秋に、破れがひどくなったものを2本つなぎあわせて、薪を運ぶための背負子(しょいこ)を作った。ホームセンターで売っているものを見てヒントにしたものだ。

jeans4.jpg・こんな具合だから、ぼくのジーンズは、買ってから捨てるまで 10年以上も生きつづけることになる。丈夫で長持ち、汚れやほころびを気にせず着ることができるし、生地としてもほかに使い道がたくさんある。厚手の綿に藍染めをした生地は、もともと帆布や幌の素材として作られ、カウボーイや綿摘み労働者の作業着に転用されたものである。だから、もともと新品も中古もなく、破れて使えなくなるまで利用されたのである。
・その意味では、破れても汚れても平気で街中にはいていくというのは、ジーンズ本来のはき方として正しいのだと言える。けれども、新品にわざわざ穴を開けたり、ほころびを作ったりするのはどうなのだろうか。一度穴があくと、はいているときはもちろん、洗うたびにその穴が大きくなる。太い綿糸でざっくり織った生地だから、ほころんたデニムには念入りな補修が必要になる。その穴かがりに刺繍などをほどこしたら、高い値段になるのも十分に納得できる。

jeans2.jpg・その破れや汚しのテクニックをテレビで見た。グラインダーで青い縦糸だけ削って、白い横糸を残す。もちろん、どの部分にどんな穴を開けるかには、専属のデザイナーがいて、作業をする人はその指示に従って正確に処理をする。さらには、刷毛でペンキを散らす。だから、仕事着として乱暴にはいてついた破れや汚れとはちがうのだという。試しにグーグルして、穴あきジーンズの作り方を調べてみた。そうしたら、たしかにいくつもあって、読んでいると、へーと驚くことばかりだった。穴あきジーンズはたしかに、ただ破れているわけではない。それは一つの刺繍であったり模様であったりする。こういうものを見ていると、それをおもしろいとかかっこいいと感じる感覚も、わからないではない気になってくる。

jeans5.jpg・しかしである。それを新品で、しかも付加価値のある高い商品として買うという発想はどうなのだろうか。個性的というのなら、せめてじぶんでやってみるぐらいの自発性がほしい。新品を破りたければチェーンソウで薪切りをしたらいいし、ペンキのシミをつけたければ、家の壁でも塗ったらいい。流行の始まりはたぶん、そんなことをあたりまえにやっているアメリカやイギリスの人たちからなのだと思う。だから、そういう行動とは無縁な男の子や女の子たちの格好は、ぼくにはとってつけたような、何とも似合わないものに見えてしまう。

2006年9月11日月曜日

Bob Dylan "Modern Times"

 

dylan9.jpg ・ディランのあたらしいアルバムは「モダン・タイムズ」という。チャップリンの映画と同じで古くさい感じがするが、収録された曲にも昔懐かしいブルースやカントリーやジャズの雰囲気がある。マディ・ウォーターズ、ハンク・ウィリアムズ、そしてジョニー・キャッシュとのジャムセッションという感じで、いかにも楽しそうだ。いうまでもなく、みんな、この世にはいない人たちばかりだ。

・それは、ポピュラー音楽として近代化されるきっかけになった音楽の再現といってもいいかもしれない。スーパースターがこれ見よがしにじぶんを印象づけようとするのではなく、顔見知りのストリート・ミュージシャンが集まってジャム・セッションをやる。そんなサウンドに仕上がっている。だからだろうか、ディランは録音技術に文句をつけて、スタジオで聴いたサウンドがCDでは再現されていないと批判している。ディランがこのアルバムに盛り込みたいものは、ディジタル録音では漏れてしまう。おそらく、そう言いたかったのだろうと思う。

・インタビューでは続けて、「不法なダウンロードをして、ただで音楽を手に入れる風潮に音楽産業が手を焼いているが?」という問いかけに「なぜだめなんだ?どうせ価値のないものじゃないか」と答える部分がある。日本では、ここが「最近のミュージシャンの作る音楽にろくなものはない」といったニュアンスで伝えられたが、インタビューを読むと、ディランはディジタル化の批判しているだけのようにも読み取れる。「スタジオの方が10倍もよかった。CD には何の価値もない。」

・たしかに、録音時の熱気とか高揚感といったものが記録されなければ、のびたラーメンのようなものなのかもしれないと思う。けれども、聴いていてひどいとは感じない。アナログのレコードならば、それが盛り込めるのだろうか。残念ながら、ぼくには、そんな微妙な差異はよくわからない。

夜、神秘な庭を歩いていると
傷ついた花がつるから垂れ下がっていた
向こうの冷たい透明な泉を通り過ぎたとき
だれかが背中をたたいた
しゃべるな、ただ歩け
この疲れ果てた悲しみの世界でも
心が燃え、願い続けるようなことがある
それはまだだれも知らないこと
(Ain't talikin')

・"Festival Express"というドキュメント映画をWowowで見た。1970年にカナダのトロントからカルガリーまで、列車をチャーターしておこなったコンサート・ツアーで、ジャニス・ジョプリンやザ・バンド、あるいはグレイトフル・デッドが出演している。コンサートそのものより、列車内でのセッションが中心で、まるでお祭り騒ぎの盛り上がりだが、コンサート会場での入場券を巡る客と主催者のやりとりもおもしろかった。

・どの会場でも、主催者やミュージシャンたちはフリーのコンサートにしろと抗議して押しかける人たちに詰め寄られる。その理由は、共感して、自分にとって大事な曲、バンドだから、金など払わずに見る資格があるというものである。こういう発想は何とも懐かしいし、グレイトフル・デッドのガルシアが別の会場でフリーのセッションをやったりするのも、時代の空気を思いださせてくれる気がした。第一、このドキュメントの中心は列車での移動中にミュージシャンが集まって、寝る間も惜しんで歌い、演奏し続ける、その高揚感にある。ここでは、音楽は共感の道具であって商品ではまったくない。

・確かに、70年代の初めまでは、こういう雰囲気があったのだが、いまではすっかり忘れられている。その代わりに、ロックはいまでは何より商品で、有名なミュージシャンはメジャーのレコード会社と契約し、コンサートも巨額な費用と手間暇をかけることがあたりまえになっている。お金ではなく、気持ちで買う(評価する、共感する)。そんな側面は70年代以降急速に薄れ、何万枚売って何億ドル稼いだかがミュージシャンの価値評価の基準になった。

・いまでは、新しく生まれるものだけでなく、どんな古い音源もディジタル化されて売り出されている。ディランの新しいアルバムは3年ぶりだが、その間に出されたリメイク盤や海賊盤の本物盤は数知れないほどだ。そのほとんどを手にしているぼくからすれば、確かに、最近のミュージシャンの作る音楽やメッセージは、屁みたいなもので何の価値もないと言いたくもなる。けれども、ディランは何より、自分のつくってきた音楽が取っかえ引っかえして売り出されることに嫌気がさしているのかもしれない、とも思う。

・ たとえば街中で歌を歌い楽器を演奏する人たちを見かけることがよくある。ちょっと立ち止まって耳を傾け、手拍子をたたいたり、知ってる曲なら口ずさんだりもする。こういう場に参加するのにお金はかからないが、小銭をはらうことが礼儀となっている。フリー(ただ)だがシェア(共有)したのだから、それなりの代価を払う。それはコンピュータの世界にまだ残る、「フリーウエアー」と「シェアウェア」のソフトに共通する。そして、両者の根っこにある発想は同じものである。

・ ディランの"Modern Times"はそんなフリーとシェアの関係が作り出した音楽の再現をめざしているといえるだろうか。だとすれば、このCDが売れようと売れまいと、無断でダウン・ロードされようと、それはディランにとっては、どうでもいいということになる。音質は気に入らないかもしれないが、ディジタル化とネットは、音楽の伝わり方にフリーとシェアを再現させる可能性をもっている。それが音楽を商品以上のものにするのか、以下のものにするのか。音楽の世界を豊かにするのか貧しくするのか。それはミュージシャンと彼や彼女がつくる音楽と、それを受け止める聞き手の関係の再構築にかかっている。 (06/09/11)

2006年9月4日月曜日

富士登山をした

 

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photo37-2.jpg・富士山はしょっちゅう見ているのだが、なかなか登る機会がなかった。で、山登りなど少しも興味を示さない息子に声をかけると、どういう風の吹き回しか、行こうという返事があった。ボクシングをやる体力自慢の友人のT君が一緒だという。何とも心強い。ぼくは大学生の時に一ヶ月、山小屋でアルバイトをしたから、登れば35年ぶりということになる。もっとも、そのときも、山小屋と五合目の往復はなんどもやったけれども、頂上までは行ってない。だから、今回が初登頂ということになる。

photo37-9.jpg・ここのところ、家のデスクやソファーやハンモックで読書とパソコンの毎日で、ほとんど運動らしきものはしていない。だから、その前に何度か予行演習で、付近の山登りもした。そうしたら、急坂を登ると10Mも登らないうちに息切れがしてしまう。貧血気味になってあたりが真っ暗なんて状態になったからどうなることかと思ったが、休み休みで何とか歩き通した。平地を歩くことには今でも自信があるが、山登りはそうはいかない。五合目から頂上までは1400mあるから、これは簡単ではないと多少不安があった。

photo37-3.jpg・もう一つの心配は天気で、今年は雨が多いし、雷もよく鳴る。天気が悪ければキャンセルだし、途中でもやめるということにしておいたが、当日の天気予報は何とも悩ましかった。家の周辺は薄曇りで山頂は快晴。ところが息子から、東京は土砂降りだという電話が入った。予報を確認すると夕方から富士山周辺は雨で、明日も天気はよくない。しかし、一応でかけることにした。天気は河口湖周辺でもめまぐるしく変わり、日が差したり、雨が降ったりで、五合目までのスバルラインに入ると大粒の激しい雨になった。  
 
影富士 ■ 剣が峰と火口
photo37-4.jpg・雨は五合目手前で嘘のように上がりからっと晴れる。これはいいと思って、2時すぎに山登りを開始したが、六合目をすぎたあたりからまた雨になる。ずぶ濡れで手が冷たくかじかんでくる。雷も鳴るが、先を急ぐ元気はない。行けるところまで登ってしまおうと山小屋の予約はしていなかったが、結局予想していたなかの一番下の小屋に泊まることにした。もう6時過ぎで、一休みして食事をするころには真っ暗になっていた。8時就寝。蚕棚のベッドで体も冷えていたから眠れなかったと思ったが、息子にはイビキがうるさかったと言われてしまった。

photo37-8.jpg・翌日は1時前に目が覚めた。便所に行くと満天の星で、下界の夜景も見える。東京から帰ると河口湖でも星がきれいと思うが、その数も大きさもちがう。数分の間に流れ星が一つ、また一つ。ベッドに戻って息子たちに話すと、起き上がって確認にいった。頭が少し痛くて、食欲がない。夜中には少し吐き気もあった。軽い高山病だが、歩き始めたら頭痛は消えた。
・金曜日だったが、すでに山道は登山者でにぎわっている。時々渋滞したおかげでゆっくりしたペースで進んだが、それでも、すぐに息が上がってしまう。心配したT君にリュックを預けて身軽になると、かなり元気になった。山頂には5時過ぎに到着。気温は5度で風もあってかなり寒い。しかし、星が消えると真っ青な空になった。下界は見渡すかぎりの雲海で、東の一点が明るくなり始めている。元気なT君は食欲もものすごくて、昨晩はカレーライスを二杯とカップラーメンを食べたが、山頂でも早速800円の豚汁を注文した。

■ 最高峰"3776M"
photo37-5.jpg・無事御来光を見て、おはち巡りをした。360度のパノラマだが、どこまでも雲海で東京も相模湾も駿河湾も見えない。せめてアルプスと思ったがそれもだめ。富士山だけが雲の上に頭を出しているわけで、ここだけが快晴ということになる。火口を見おろし、剣が峰の最高地点まで行き、雲にうつる影富士を見た。火口は砂で埋まっているが、富士山そのものはかなり崩れている。火口のなかに登山客が石でつくったモニュメントがあった。ピースマークがなかなかいい。息子とT君もさっそくつくりはじめる。

photo37-6.jpg・つくったのは"IYF"。もう少し大きくして、丸く囲った方がいい。そう言ったのにT君はさっさとやめて山小屋に急いで行ってしまった。もよおして我慢できなくなったようだ。つられて息子も、そしてぼくも山頂での脱糞。強制ではないが使用料は200円。洋式で後は水鉄砲で流すきれいなトイレだった。
・8時に下山を開始したが、下りの道は何とも単調だった。ブルドーザーが通るジグザグ道で、何にもおもしろみがない。昔は砂走りを一気に駆け下りて楽しかったのだが、落石事故があってまったくちがうルートに変更したようだ。

重たいビールを頂上までかついで、"乾杯"
photo37-7.jpg ・富士山は登る山としても魅力に欠けるのに、何とも味気ないルートをつくったものだと思う。同じ調子で3時間も降りれば、足を悪くする人もでるはずだ。ぼくも最後には足が震えて階段を下りることがつらくなってしまった。とはいえ、一日目が4 時間で二日目が8時間の行程を、無事歩き通すことができた。70歳を過ぎた人たちのグループなども見かけたし、幼稚園の子どももいたから自慢はできないが、我ながらよく歩けたと感心した。しかし、日頃からもっと歩かねば、体力はますます衰えるということを身をもって実感もした。二人の若者に感謝!
・実は、落ちているゴミを拾って下まで持ち帰ることにしていたが、ゴミはほとんどなかった。富士山をきれいにというキャンペーンが徹底したせいだろう。湖畔のバーベキューやり放しでゴミ散乱といった光景とは対照的で、拍子抜けしてしまった。

2006年8月28日月曜日

CMの日のCM批判

 

・8月28日はCMの日だそうだ。ちょっと前から、テレビでCMのCMというコマーシャルをやっていて、気に入らないと感じていた。民放テレビにCMがあるのはあたりまえだが、中断して申し訳ないといった姿勢は、とうの昔になくなっている。というより、番組に不可欠なものとしてふるまっている。「CMの日」と「テレビでCMのCM」には、そういう既成事実をさらに正当化させる狙いがある。だからあえて、「視聴者にとってはCMはあくまで邪魔者である!」と言う必要がある。CMには市民権はないのである。
・しかし、こういう感覚は、誰にも共通したものではないようだ。たとえば、CM必要悪論をゼミで話すと、学生たちは「エー?」といった反応をする。「CMはじゃまだろう?」と聞くと、「あるのがあたりまえ」といった意見がでて、多くがそれに同調する。そういうものとしてテレビを見て育ったのだからあたりまえか、と納得するけれども、なかには「CMのCM」のキャラがかわいいなんていう者もいるから、ついついむきになって、「君たちはだまされているんだよ!」と言いたくなってしまう。
・テレビCMは「洗脳」の道具である。繰り返して「あれを買え、これがいい、私を覚えて、欲しいだろう」とやっている。ぼくは夕飯どきのニュースを民放で見るが、やっているCMはどこの局でも毎日、「保険」ばかりである。病気や老後の「不安」をかきたてて「安心」を買わせるレトリックは、詐欺商法と同質のものだが、テレビでやれば、それはまっとうなものとみなされてしまう。
・民放テレビの収入は、なによりこのCMにある。番組で高視聴率を稼ぐのも、スポンサーのCMを多くの人に見せたいがためなのである。CM は番組を5分から10分で刻んで連発される、内容とは無関係なメッセージである。これは放送開始以来のシステムだから、何を今さらと思われるかもしれない。けれども、集中力や一貫性をまるでもたないテレビに何の違和感も感じなくなってしまうというのは、ずいぶん困った意識の持ちようだと思う。そういえば、学生たちの集中力はおそろしく持続力がない。自発的に読書などせずテレビばかり見て育ったせいだといったら、いいすぎだろうか。

・高校野球が例年になく盛り上がった。何年も見なかったが、今年は早実の試合が気になって、何試合か見た。理由は勤め先の大学のお隣さんだからである。しかし、感動よりは不愉快さを感じた。もちろん試合そのものではない。「熱投」を賛美して興奮する中継やニュースに対してである。何で高校生に4試合もつづけて投げさせることに批判が出ないのだろう。斉藤君は人生で最高の瞬間といっていたけれども、彼にはこれからかなえたい、もっと大きな夢がある。甲子園はその入り口にすぎないのに、もし肩を壊したら、それこそ、甲子園が最初で最後の晴れ舞台になってしまう。
・実際、甲子園で活躍してプロ入りしたのに、故障が原因で活躍できなかった選手が何人いただろうか。そんな人たちはあっという間に忘れ去られてしまっている。ぼくはそのことについて前にも書いたことがある。今読み返すと懐かしい気がするが、その年、甲子園をわかせた平安高校の川口はやっぱり4連投で、翌年オリックスに入団したが、ほとんど活躍できずに終わっている。去年の甲子園をわかせた大阪桐蔭の辻内は巨人に入団したが、左肩痛で二軍でも投げられないという。はたして故障が癒えて活躍できるのか。今、そんなことを気にする人はほとんどいない。その代わりに「ハンカチ王子」に夢中で、テレビや週刊誌が学校はもちろん、アパートや実家に押しかけている。本人の困惑などにはもちろん無関心で、ブーム、あるいは「現象」をつくりだすことしか念頭にないようだ。その意味ではCMだけでなく番組そのものがCM化しているといってもいいだろう。この傾向が、最近とくにひどすぎる。

・最近あちこちでいろんなミュージアムができはじめている。それぞれに趣向を凝らして、見応えのあるものも少なくない。けれども、ぐるっと一回りして出口に近づくと、必ずギフト・ショップがあって、どこもここが一番の人だかりだ。記念のグッズ、土産物は展示されたもののコピーやカリカチャーだが、多くの人は展示されたものよりはコピーに関心があるようだ。まさに主客転倒で、展示物はギフトのためのCMにすぎないのである。ぼくはそこにテレビ番組とCMの関係を連想して、たいがい素通りしてしまう。
・何かを経験することよりも、経験した証がほしい。複雑なもの、わかりにくいものを自分の目と頭で判断するのではなく、あらかじめ用意されたわかりやすい下書き通りに味わいたい。もちろんそこには、驚きや感動、涙や笑いが欠かせない。大勢の人と一緒に経験することができれば、それで大満足。こういう風潮はなによりテレビが育て、増幅させてきたものだ。経験、記憶、思い出の商品化。 jaffe.jpg

・Joseph Jaffe の『テレビCM崩壊』(翔泳社)はアメリカのテレビCMについての批判で、その質の低下や効果、あるいは信憑性を疑う内容である。ネット利用者が飛躍的に増えて、テレビがメディアとして相対的に力を失いつつある。しかも、消費行動も受け身ではなく、ネットで検索してじぶんで探すといった行動が普及してきた。テレビがそれに追いついていないという趣旨の批判である。確かにそういう面は日本にも当てはまると思う。けれども、日本ではネット利用が多様性よりは画一性を増幅させる傾向にあって、その意味では、テレビとネットが共謀してブームや現象をつくりだしているといえる。人とはちがうものではなく、みんなと一緒に。この性向に変化がない限り、日本のテレビやCMは安泰なのかもしれない。

2006年8月21日月曜日

世界が老人ばかりになる

 

セオドア・ローザック『賢知の時代』(共同通信社),ローレンス・J.コトリフ、スコット・バーンズ『破産する未来』(日本経済新聞社),フランク・シルマッハー『老人が社会と戦争をはじめるとき』(SoftBank Creative),上野千鶴子『老いる準備』(学陽書房),赤川学『子どもが減って何が悪いか!』(ちくま新書)

・団塊世代がまもなく、60代になる。日本は世界一の長寿国で、女の平均寿命が85歳になろうとしている。一方で、子どもの出生数は減り続けているから、高齢化社会に向けてまっしぐらということになる。年金の破綻は目に見えているが、たいした改善策もなされぬままに秒読み段階に入っている。団塊本などには、すぐ下の世代から「年金泥棒」などという暴言が吐かれたりもしている。もらう前からこれだから、いざ年金生活者になったら何を言われるか、と思うとぞっとする。

journal1-104-5.jpg・フランク・シルマッハーの『老人が社会と戦争をはじめるとき』はドイツでベストセラーになったという。その内容は近未来の恐怖を誇張したもので、題名通りに、世代間戦争を予告する脅し文句で一杯だ。老いてリタイアを望んでいながら、他方で若さや長生きに執着する老人たちと、それを支えるしんどさを拒否し、ばからしさに嫌悪する若者たち。何もしなければ、数十年、あるいは数年後に、そんな状況がやってくる。しかも、ヨーロッパやアメリカや日本でいっせいにというのである。
・一番の原因は、第二次大戦後に多くの子どもが生まれたことにある。そして、その後の近代化の成熟過程で、少ない子どもを大事に育てるとか、子どもをつくらない結婚(Dinks)とか、一人で暮らすといった多様なライフスタイルが現実化した。さらに加えて、飛躍的な寿命の延びである。豊かさがもたらした悲劇。
・年金がもらえなければ、この世代は数が多いのだし、反抗の世代とも呼ばれたから、デモでも実力行使でもやりかねない。しかし、もらえればそれでいいという問題でもない。若い世代が金や権力を持つ大人に異議を唱えるのとちがって、年金は若い世代に高い負担を強いることになるし、それでもとても追いつかないほどの財源が必要だからである。

journal1-104-1.jpg・このような少子高齢化社会が招く問題については、どこの国にも明確な解決策は見あたらない。ローレンス・J.コトリフとスコット・バーンズの『破産する未来』は、アメリカの財政の現状と過去の政策、そして政府が持つ将来についてのビジョンをさまざまなデータをつかって経済学的に分析したものである。
・アメリカの人口構成は2000年で5歳以下が6.8%で65歳以上が12.4%。この数字は100年前とちょうど逆である。そして 2030年には65歳以上が20%近くになる。歴代大統領はこの問題を避けて通ってきた。ブッシュはそうはいかないはずなのだが、その危機意識はテロ問題には遠く及ばない。社会の高齢化はベビーブーマー世代に限った一時的な現象ではなく、これから恒常化するもので、著者が見通す未来予測はきわめて悲観的である。そして、政府の政策などあてにせずに自衛策を施せ!という以外に対処のしようはないというのが結論になっている。
・ただし、この本にアメリカとの比較で出てくる日本は、すでに人口構成比や年金の問題だけでなく、国の財政も破綻寸前にあって、状況はアメリカよりもはるかに悪い。平均寿命ののび(82)と出生率の減少(1.25)が同時進行の日本と比較して、アメリカの平均寿命は世界で25位(76)にあり、出生率も2.0前後を推移している。「破産する未来」という悪夢は、日本のほうがはるかに現実的なのである。

journal1-104-4.jpg・日本では、それをどうしようとしているのか。政府主導の「少子化対策」に「男女共同参画社会を実現させれば少子化は止まる」というスローガンがある。仕事や子育てを男女が協力し合い、それを国や自治体や企業が支援すれば、もっと子どもを産む気になるというものだ。しかし、本当にそうなるのだろうか。赤川学の『子どもが減って何が悪いか!』はそのスローガンの根拠自体に疑問を呈している。つまり、モデルとなるのは北欧やオランダといった国だが、提示されている統計が都合よく歪曲されていて、男女共同参画が実現しても出生率が増えない国が除かれているというのである。あるいは社会福祉の理想国として取り上げられるスエーデンでも、効果は一時的で、出生数の回復が恒常化されているわけではないようだ。
・少子化の原因は、都市化と核家族化、それに女の就業志向の高まりにあるから、そこを変えないかぎりは出生率が飛躍的に高まることは望めない。第一、少子化の大きな原因は、共働きの既婚者以上に、結婚しないシングルの増加にあって、ライフスタイルの多様化は、すでに意図的に修正できないところまできている。「少子化対策」に集められた研究者たちは、それがわかっていながら、「男女共同参画」と「出生率」の関係を強調して御用学者に成り下がっている。読みながら、年がいもなくかわいこぶりっこする「コスプレ大臣」を思い浮かべてしまった。

・高齢化社会への対応は、高齢化する人たちがみずから解決すべきものである。赤川はそう主張する。もうすぐ老人の中に入るぼくも、そう思う。しかし何をしたらいいのか。上野千鶴子の『老いる準備』は介護保険を中心に、団塊世代以降の人たちが、自分の将来を見通す必要性を説いたものである。上野は「介護保険法」の制定を強く評価している。


journal1-104-3.jpg 介護保険は家族革命だった、とわたしは思っている。「革命」というのは非常に強い表現だが、天地がひっくり返るような変化のことをいう。なぜあえてそういう強い表現を使うかというと、介護保険で、家族観が変わったからである。「介護はもはや家族だけの責任ではない」という国民的合意ができたからこそ、介護保険は成り立った。これを介護の社会化という。(p.106)

・介護保険は40歳以上が強制的に加入することでまかなわれる。年金とはちがって後の世代にみてもらうのではなく、自分のために用意する保険である。できた経緯にはかなり不純な要素があり、また政治家にも革命的な制度だという認識が薄かったようだ。また現実的にもさまざまに試行錯誤が必要なようである。ぼくはそれほどの制度改革とは思わなかったから、この本には目から鱗の思いがした。

・セオドア・ローザックはベビーブーマーが起こした動きを分析した『対抗文化の思想』(ダイヤモンド社)で知られている。そのかれが老年期に入るベビーブーマーの問題を『賢知の時代』で考えている。若いころに社会を批判し、あたらしい世界を思い描いた世代なのだから、老人ばかりになる世界をどうつくりだしていくか、についても考えて実践すべきだし、そうするだろうという内容になっている。ローザックはベビーブーマーよりも一世代上で、大病も経験したようだ。だから、その気持ちのもちようには、すでに老人期に入って死も自覚した人のたしかな見識がうかがえる。

journal1-104-2.jpg ・年長者はこの社会の創造的な力であって、それまでと同じことをしていてはならないのである。創造的であることは生産的であることとはちがう。いつまでも競争をつづけることに疑いの目を向け、富と名声の追求から手を引くことだ。その態度はまったく新しく、勇気と想像力を必要とする。(p.151)

・ローザックがいう創造力は、知識や情報ではなく、「知恵」の復権である。広告や流行に惑わされない、シンプルな生活スタイル。金が必要な消費ではなく、じぶんで工夫する試み。それらは60年代にベビーブーマーたちが社会批判として実践し、ほどなく消費文化にとりこまれたものだが、当時とはちがって現在では、かれらには経験や技術に裏打ちされた知恵がある。まったくそのとおりだと思う。具体的に何をどうという話はほとんど書かれていないが、不安や憎悪や恐怖ではなく、具体的に何かできそうだという希望を抱かせる本である。

2006年8月14日月曜日

富士・箱根・伊豆

 

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・朝起きたら快晴で、空がいつになく青い。夏には珍しい感じだったので、箱根までドライブをしようということになった。湿度が下がって遠くまでよく見える。富士山がこんなにはっきり見えるのは何ヶ月ぶりかである。もう雪はなく、赤茶けた地肌が見えている。あまり好きではないが、背景が青いからすっきり見える。

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hakone-4.jpg・河口湖から箱根までは60キロほどでたいしたことはないのだが、何となく遠い気がする。御殿場から乙女峠までの山道が曲がりくねっていて、結構きつい登り坂だし、上がればどうしても、尾根づたいに天城高原までつづく有料道路を走りたくなるからだ。もちろん、きつくていやだというわけではない。僕は山道のドライブは大好きで、夢中になってしまうから、後でぐったり疲れてしまう。だから、なかなか行く気にならないのだ。

hakone-5.jpg・芦ノ湖スカイラインにはいると、右後方に富士山、前方に三島や沼津の街と駿河湾、そして左に芦ノ湖と箱根の山が見えてくる。ぐるっと一望できる、まさにパノラマの風景で、いつきても爽快な感じを味わうことができる。
・ここからの富士山の眺めはなかなかいいが、今日は雲の感じがまたいかにも夏らしい。平日とはいえ夏休みだから人手は多い。しかも、サーキットやラリー・コースのつもりで運転する車が時折あるから、のんびり脇見というわけにもいかない。何しろここは、テレビや雑誌で新車の試乗をする定番の道なのである。ところが逆に、のんびりと低速運転を楽しんで、後続が渋滞するのにもお構いなしといった車もある。いらいらして無理な追い越しなんて車もいるから、かなり気をつかうコースなのである。
hakone-6.jpg・で、ここまでくると、やっぱり伊豆半島を南下したくなる。あまりに気持ちがいいから、いっそ下田までと思ったけれども、出た時間が遅かったから、有料道路の終点まで走って、城之崎海岸に降りた。 ・下に降りると何とも暑い。伊豆高原は26度だったのに、海岸は32度。金目鯛の煮付け定食を食べ、砂浜にたちより、干物を買った。帰りは海岸沿いに熱海まで北上して、また箱根へ。曲がりくねった道を登って降りて、また登り、また降りる。普段の高速道路の運転とはちがって、ステアリングを右に左にするたびに腰を回転させるから、かなりの運動になる。もちろん、絶えず腹筋にも力が入る。御殿場に降りた頃には、すっかりくたびれて、目も真っ赤になってしまった。