2006年8月28日月曜日

CMの日のCM批判

 

・8月28日はCMの日だそうだ。ちょっと前から、テレビでCMのCMというコマーシャルをやっていて、気に入らないと感じていた。民放テレビにCMがあるのはあたりまえだが、中断して申し訳ないといった姿勢は、とうの昔になくなっている。というより、番組に不可欠なものとしてふるまっている。「CMの日」と「テレビでCMのCM」には、そういう既成事実をさらに正当化させる狙いがある。だからあえて、「視聴者にとってはCMはあくまで邪魔者である!」と言う必要がある。CMには市民権はないのである。
・しかし、こういう感覚は、誰にも共通したものではないようだ。たとえば、CM必要悪論をゼミで話すと、学生たちは「エー?」といった反応をする。「CMはじゃまだろう?」と聞くと、「あるのがあたりまえ」といった意見がでて、多くがそれに同調する。そういうものとしてテレビを見て育ったのだからあたりまえか、と納得するけれども、なかには「CMのCM」のキャラがかわいいなんていう者もいるから、ついついむきになって、「君たちはだまされているんだよ!」と言いたくなってしまう。
・テレビCMは「洗脳」の道具である。繰り返して「あれを買え、これがいい、私を覚えて、欲しいだろう」とやっている。ぼくは夕飯どきのニュースを民放で見るが、やっているCMはどこの局でも毎日、「保険」ばかりである。病気や老後の「不安」をかきたてて「安心」を買わせるレトリックは、詐欺商法と同質のものだが、テレビでやれば、それはまっとうなものとみなされてしまう。
・民放テレビの収入は、なによりこのCMにある。番組で高視聴率を稼ぐのも、スポンサーのCMを多くの人に見せたいがためなのである。CM は番組を5分から10分で刻んで連発される、内容とは無関係なメッセージである。これは放送開始以来のシステムだから、何を今さらと思われるかもしれない。けれども、集中力や一貫性をまるでもたないテレビに何の違和感も感じなくなってしまうというのは、ずいぶん困った意識の持ちようだと思う。そういえば、学生たちの集中力はおそろしく持続力がない。自発的に読書などせずテレビばかり見て育ったせいだといったら、いいすぎだろうか。

・高校野球が例年になく盛り上がった。何年も見なかったが、今年は早実の試合が気になって、何試合か見た。理由は勤め先の大学のお隣さんだからである。しかし、感動よりは不愉快さを感じた。もちろん試合そのものではない。「熱投」を賛美して興奮する中継やニュースに対してである。何で高校生に4試合もつづけて投げさせることに批判が出ないのだろう。斉藤君は人生で最高の瞬間といっていたけれども、彼にはこれからかなえたい、もっと大きな夢がある。甲子園はその入り口にすぎないのに、もし肩を壊したら、それこそ、甲子園が最初で最後の晴れ舞台になってしまう。
・実際、甲子園で活躍してプロ入りしたのに、故障が原因で活躍できなかった選手が何人いただろうか。そんな人たちはあっという間に忘れ去られてしまっている。ぼくはそのことについて前にも書いたことがある。今読み返すと懐かしい気がするが、その年、甲子園をわかせた平安高校の川口はやっぱり4連投で、翌年オリックスに入団したが、ほとんど活躍できずに終わっている。去年の甲子園をわかせた大阪桐蔭の辻内は巨人に入団したが、左肩痛で二軍でも投げられないという。はたして故障が癒えて活躍できるのか。今、そんなことを気にする人はほとんどいない。その代わりに「ハンカチ王子」に夢中で、テレビや週刊誌が学校はもちろん、アパートや実家に押しかけている。本人の困惑などにはもちろん無関心で、ブーム、あるいは「現象」をつくりだすことしか念頭にないようだ。その意味ではCMだけでなく番組そのものがCM化しているといってもいいだろう。この傾向が、最近とくにひどすぎる。

・最近あちこちでいろんなミュージアムができはじめている。それぞれに趣向を凝らして、見応えのあるものも少なくない。けれども、ぐるっと一回りして出口に近づくと、必ずギフト・ショップがあって、どこもここが一番の人だかりだ。記念のグッズ、土産物は展示されたもののコピーやカリカチャーだが、多くの人は展示されたものよりはコピーに関心があるようだ。まさに主客転倒で、展示物はギフトのためのCMにすぎないのである。ぼくはそこにテレビ番組とCMの関係を連想して、たいがい素通りしてしまう。
・何かを経験することよりも、経験した証がほしい。複雑なもの、わかりにくいものを自分の目と頭で判断するのではなく、あらかじめ用意されたわかりやすい下書き通りに味わいたい。もちろんそこには、驚きや感動、涙や笑いが欠かせない。大勢の人と一緒に経験することができれば、それで大満足。こういう風潮はなによりテレビが育て、増幅させてきたものだ。経験、記憶、思い出の商品化。 jaffe.jpg

・Joseph Jaffe の『テレビCM崩壊』(翔泳社)はアメリカのテレビCMについての批判で、その質の低下や効果、あるいは信憑性を疑う内容である。ネット利用者が飛躍的に増えて、テレビがメディアとして相対的に力を失いつつある。しかも、消費行動も受け身ではなく、ネットで検索してじぶんで探すといった行動が普及してきた。テレビがそれに追いついていないという趣旨の批判である。確かにそういう面は日本にも当てはまると思う。けれども、日本ではネット利用が多様性よりは画一性を増幅させる傾向にあって、その意味では、テレビとネットが共謀してブームや現象をつくりだしているといえる。人とはちがうものではなく、みんなと一緒に。この性向に変化がない限り、日本のテレビやCMは安泰なのかもしれない。

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