2010年3月29日月曜日

K's工房の個展案内

 

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・K's工房の個展は、1年おきに京都と東京の国立でやっています。今年は4月6日(火)から11日(日)まで、いつもの中央線国立駅南口にある「ゆりの木」でおこないます。ぜひお出かけください。おもしろいもの、不思議なもの、奇妙なもの、楽しいものなど、多様な作品が展示されます。
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2010年3月22日月曜日

『コミュニケーション・スタディーズ』

 

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・もうすぐ、新しい本が出版されます。タイトルは『コミュニケーション・スタディーズ』で、大学での「コミュニケーション論」のテキストとして作りました。大学の授業は年間30回と決められています。祭日や大学の行事などで休講になることもありますし、試験などもありますが、年間の講義回数にあわせて、28の章と4つの補論で構成してあります。

・大学の授業は自分で勉強するためのヒントを得る場だと言えるでしょう。つまり、勉強はあくまで自主的にやるものなのですが、そう考える学生が少なくなってきたのが現状です。それを改善するためには、予習、復習を義務づけて、理解度を深め、興味や関心にしたがって自発的に勉強するための教材が不可欠で、数年前から、その作成を続けてきました。

・作成には、僕の研究室に集まる若手の研究者たちが参加しています。大学生たちにとって「コミュニケーション」に関わる身近な話題は何か、そこからどのようにして、理論や歴史、そして異なる社会や人間関係への興味を引き出していくか。そんな課題を掲げて2年近くを費やした成果です。もちろん、教科書としてだけではなく、コミュニケーションについて興味がある人にとっても有益で読みやすい内容になっていると思います。詳しくは『コミュニケーション・スタディーズ』をご覧ください。

2010年3月15日月曜日

グラミーを見て買ったCD


Greenday"21st Century Breakdown"
Tracy Chapman"Our Bright Future" "Where You Live"
Eminem"Relapse"
Tom Waits "Glitter and Doom Tour"

・Wowowでグラミー賞の生中継を見た。特に興味があったわけではないが、ディランがノミネートされていたし、U2やスプリングスティーン、そしてトレイシー・チャップマンの名前もあった。結果的には誰も受賞しなかったが、トレイシー・チャップマンとグリーンデイ、そしてエミネムのアルバムを買った。

greenday2.jpg ・グリーンデイの"21st Century Berakdown"はなかなかいい。前作の"American Idiot"でうるさいだけのバンドではないことを発見したが、今度のアルバムもじっくり聴かせる作品に仕上がっている。全体が一つの物語になっていて、一人の人間の日常から21世紀になった世界の現状に対する批判が歌いこまれている。「絶望的だが希望がないわけではない」「敵を知ってるか、君の敵、そう敵を知るべきだ」。歌詞には強いメッセージが散在している。



tracy3.jpg・今の世界の危うさを危惧するのはトレイシー・チャップマンも同じだ。"Our Bright Future"は逆説的なタイトルで、同名の曲では、「それはもう過去のこと」と歌われている。殉教者になった息子を持つ父と、無垢で生まれたけど栄光に憧れて傷ついた息子たちに問いかける、輝く未来が過ぎ去ったところに連れてこられたんだね、と。あるいは「夢のために」という題名の歌では、幸せな大家族と一緒にマントルを囲む様子を描いて、「そんな記憶は信用しない」と歌い、でも「夢のためにはいいんだ」とも歌う。


tracy4.jpg・気づかなかったが、彼女は2005年にもアルバムを出していて、それも一緒に買ってみた。"Where You Live"というタイトルだ。トレイシー・チャップマンの歌は、どのアルバムのどの歌も、ただ聴いているだけなら、ほとんど同じように聞こえてくる。それはそれで悪くはないが、何を歌っているかを確かめなければ、彼女の魅力はわからない。2枚のアルバムを続けて聴いていて、改めてそう感じた。流行や傾向にはまったく無関心だがそのメッセージには、国や人種や世代や宗教を越えて、今を共有しているという手応えがある。


もし今日死ぬことがわかったら
もし今日神と愛に出会うとわかったら
あなたは変わるだろうか
もし、わかっていると思っているすべてのことが
あなたの生活を絶えられないものにするとしたら
あなたは変わるだろうか "Change"

eminem1.jpg ・エミネムの"Relapse"ははじめて買ったアルバムだ。白人のラッパーとして人気があって、自伝的な映画の"8miles"はずいぶん話題にもなった。その8マイルが彼が生まれ育ったデトロイトの街で、白人と黒人の住む場所を隔てる距離だと聞いて映画は見たが、CDは買わなかった。ラップにはどうもなじめないという感想をずっともっていたからだ。そんな気持ちは"Relapse"を聴いても変わらない。数年ぶりのアルバムで、間に引退騒ぎもあったようだ。



tomwaits1.jpg ・もう一枚、グラミーとは関係なかったがトム・ウェイツのライブアルバムを買った。「きらめきと滅びのツアー」というタイトルで、アルバムにはミラノ、パリ、そしてダブリンなどでのコンサートが収録されている。中には35分間のおしゃべもあって、楽しいライブであることはよくわかる。以前のライブ盤で、レストランで食事をしていておばあちゃんの詐欺にあった話をしている部分があった。「私が席を立つときに『バイ・マム』といって欲しい」と言われたのだが、自分がレジに行くと、そのおばあさんの分まで請求されたという話だった。場内は大爆笑で、彼のライブの魅力は、こんな話がはさまれることにある。ぜひ生で聴いてみたいミュージシャンの一人だが、日本では難しいだろうと思う。

2010年3月8日月曜日

木村洋二さんを偲ぶ会


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・昨年の夏に肺癌で急逝された木村洋二さんを偲ぶ会が関西大学で催された。若い頃から親しくしてきた友人で、彼の死は僕にとっては驚きの出来事だった。そのことについてはすでに「友人の死」という題名で書いている。

・大阪に行くのは本当に久しぶりで、関大にはもう10年以上行っていない。だから懐かしい気がしていたのだが、朝からあいにくの雨。「笑い」の木村に似合わない天気で、「どうしちゃったの木村さん」と言いたくなってしまった。
・大学にはよく、正門にいたるまでの通りに、本屋や喫茶店、食堂や麻雀屋が軒を連ねる風景があった。関西では関大が一番気に入った通りだったのだが、日曜日とは言え、それらしい店がほとんどなくなっていて、何とも殺風景に感じた。もっとも、本屋や喫茶店、そして雀荘がなくなったのは、どこの大学でも一緒で、似通った看板のゲームセンターやコンビニが増えている。

・偲ぶ会は献花からはじまった。数百人もの人が集まる盛大な会だったが、涙を流す人は誰もいなかった。反対に、外の天気とは違って、話す人の誰もが一度や二度の笑いをとり、終われば拍手が起こるような雰囲気だった。スクリーンに映しだされた何枚もの写真に写った彼の顔はどれも笑っていて、ビデオからは高らかな笑い声が聞こえてきた。それにつられて、思わず笑ってしまったが、笑い声はあちこちから、ときにはどっとおこった。

・話をされた人たちに共通していたのは、木村さんが俗人ではなかったと言うこと。仙人のような風体はもちろんだが、絶えず何か考え事をしていて、何か思いつくとカードに書き込んでは考えこんでいたこと、誰とでも話をし、興味が湧けば時間も場も忘れて話し込み、議論もしたこと等々、ぼくにも思い当たることが多かった。

・人間や人間関係、そして人がつくる世界の不思議さに、いつでも子どものように夢中になる。いくつになっても、それこそが生きる意味であるかのように振る舞う人だった。偲ぶ会に集まった人たちに共通しているのは、そんな彼のイメージに対する愛着や憧憬、そして呆れの気持ちだったのかもしれない。その意味では彼は社会学者であるよりは哲学者であり、また世界や人間に距離を置く研究者である以上に宗教家であったと言える。もちろん、それは「笑う宗教」だ。

・笑いと拍手の偲ぶ会というのは、いかにも木村さんらしいものだと思ったが、それはまた、関西であればこそ生まれる雰囲気だとも思った。東京では決してこうはいかない。親しい人の死を偲ぶ気持ちは。本当はもっと生きていて欲しかったと思うから生まれてくるものだ。だからまず悲しくなるのだが、しかし、そこには、そう思うことが正しくてもっともらしいのだという暗黙の前提や強制が感じられることも多い。

・不意にいなくなって悲しいのは当たり前だが、それではなく、出会えてよかったと思えること、一緒にいて楽しかったと言えることを話題にする。だから、涙よりは笑い。木村理論を証明するような会だった。
・帰り道は途中から雪に変わる、数日前には初夏のような天気だったのに冬に逆戻り。

2010年3月1日月曜日

ロマとユダヤ

 

関口義人『ジプシー・ミュージックの真実』『オリエンタル・ジプシー』青土社
内田樹『私家版ユダヤ文化論』文芸新書

・「ロマ」の存在に興味を持ったのは、NHKが放送した「はるかなる音楽の道」がきっかけだった。2002年だったから、もう8年も前のことだ。その番組で教えられたのは、ロマがかつてはジプシーと呼ばれていたこと、もともとはインドにいた民族で、長い時間をかけてヨーロッパにやってきたこと、定住よりは移動を生活の基本にして、音楽や踊りに秀でた特徴を持っていること、ユダヤ人同様に、強い迫害を受け、ナチによって大虐殺をされたが、ユダヤと違ってほとんど問題にされてこなかったことなどだった。

・4年前に旅行したスペインで、そのロマと呼ばれる人たちにはじめて遭遇した。バルセロナのサグラダ・ファミリアの入り口で物乞いにつきまとわれたのだが、同様の経験は有名な観光地で何度か繰りかえされた。不愉快な思いを感じたが、またセビリアではフラメンコの歌と踊りを楽しんだ。嫌われ、無視されてきた存在でありながら、同時に、住み着いた土地を代表する音楽や踊りの形成に大きく関わってきた人たち。そんな不調和な存在であることを、短期間の旅行でも垣間見た思いがした。

roma1.jpg・関口義人の2冊の本は、そんなロマの置かれた現状を、ヨーロッパ各国はもちろん、アラブの世界にまで踏み込んでフィールド・ワークをしたレポートだ。「ジプシー・ミュージック」とは言え、そこに固有の音楽があるわけではない。それは個々の土地の音楽と楽器に順応し、歌われ演奏される場や機会も、それぞれの需要や許容のされ方に適応されている。たとえば、トルコのベリーダンスとその伴奏、ルーマニアやブルガリアでの管楽器をつかった楽団、ハンガリーやオーストリアでのバイオリン、そしてスペインでのギターとフラメンコなどである。
・他方で、定住よりは移動を常態とする生活スタイルは、どの国においても頑なに守られている場合が多い。もちろん、それぞれの国の法律や政策で、定住化が進められ、規則化されている例も多い。しかし、彼や彼女たちの多くは、定職を持たず、学校にも行かないから、文盲率も極めて高いままのようである。

roma2.jpg ・1000年もの長い年月をかけて移動をして、ヨーロッパやアラブ諸国に散在しているにもかかわらず、使うことばや集団規範、そして生活スタイルには多くの共通性がある。そんな特徴がロマと呼ばれる民族を生きながらえさせてきたが、それ故にまた、どこにおいても迫害を受け、その存在を無視されてきた。しかしまた、彼や彼女たちの存在は、音楽を通して表現され、それぞれの土地を代表するものにさえなっている。2冊の本を読むと、そんな奇妙な存在としてのロマが、それぞれの地方における違いや共通性として浮き彫りにされてくる。
・もちろん、ロマといっても、そこにはさまざまな人たちがいて、相互の関係はまたさまざまだ。同じ土地に近接して住んでいても、いつ、どこからやってきたかでお互いの間に格差をつけたりもする。ロマ同士の間に繋がりをつけるといった試みは、つい最近始まったものが多く、必ずしもうまくいっているわけではないようだ。

・同じ流浪の民であり、迫害され続けてきた点でロマはユダヤ人と多くの共通性をもっている。けれども、両者の間にある違いは、またきわめて大きなものである。ロマと同様ユダヤ人もまた、自らの民族性や宗教を守り続け、どこの土地でもコミュニティを作って生き続けてきた。しかし、ロマと違ってユダヤ人は教育に熱心で、文学や哲学はもちろん、自然科学や社会科学の分野でも多くの天才や秀才を生み出している。あるいは、経済的な側面でも有能で、金融業や貴金属の世界に大きな勢力をもってもいる。
・内田樹の『私家版ユダヤ文化論』には、ヨーロッパでユダヤ人が嫌われ、排斥された理由として、彼らが近代化にいち早く適応し、その進展に大きく寄与したことがあげられている。近代化によって、慣れ親しんだ社会の仕組みや生活の仕方を壊した張本人にされたというわけである。であれば、ロマは逆に、自分たちの慣れ親しんだ世界の中に侵入した前近代的な遺物(異物)だということになるのだろうか。さげすまされ、迫害を受け、そのことを歌にして嘆くように歌う。そんな音楽が人びとの心に訴えかけるが、そのことで、異物が異物でなくなるわけではない。また、自分たちもけっして同化を望まない。ロマの音楽を通して感じられる世界はきわめて不思議で複雑で、もっともっと知りたいという気になっている。

2010年2月22日月曜日

パイプの煙


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・二年ほど前からパイプでタバコを吸っている。以前に吸っていたことがあるのだが、後に必ずパイプの掃除をするのが面倒で、すぐにやめてしまった。再開したのは、紙巻きたばこをやめようか、と思ったからだった。

・と言って、健康を気にしての禁煙というわけではない。吸う場所が限られてきたし、周囲の冷たい目や忠告も気になっていた。吸いたいと思うときや、吸っておいしいと感じるとき、何となく落ち着いた気分になるときはもちろんある。けれども、多くは習慣的な行為で、時間が来れば吸いたい気がして、慌ただしくスパスパやることも多かった。

・ニコチン依存のせいだろうと考えていたのだが、海外旅行で飛行機に乗って長時間吸わない経験をしたときに、そうではないことに気がついた。吸えないと思えば我慢がきくことがわかったし、それで禁断症状をおこすということもなかったからだ。だったら、いっそやめてしまおうかとも思ったのだが、しかし、吸っておいしいと思うことはあるし、吸いたい気分になることもある。パイプに興味がいったのは、そんな理由からだった。

・パイプはたばこを詰めて吸い始めたら1時間以上はもつ。だから、紙巻きと同じつもりでは吸えないし、途中でやめて、しばらく経ってまた火をつけると、甘さよりは苦みや辛みが気になってしまう。それにせわしなくスパスパやれば、パイプは手で持てないほどに熱くなる。火が消えない程度に時間をおいて、パイプが熱くならないように静かに吸う。それができる時間は、一日のうちでせいぜい2度か3度に限られる。

・タバコはコロンブスがアメリカ大陸からヨーロッパに持ち帰って広まったと言われている。それはインディアンと呼ばれたアメリカ先住民たちに古くから使用されてきたもので、もともとは主に宗教儀式の場でパイプで吸われていたものだった。パイプの煙が空に立ち上って、天上の精霊たちと交信する。落ち着いて煙をくゆらせていると、そんな気分の一端に触れたような気がしないでもない。

・パイプはヨーロッパで「プライヤ」と呼ばれるツツジ科の木の根っこを使って作られている。堅くて耐火性があるからだが、それは最初、葉巻や紙巻きタバコが高価で買えなかった労働者階級に広まった。しかし、20世紀以降になると、芸術家や文学者、哲学者、そして政治家が咥える道具としてイメージ化されるようになる。だから人前で咥えたりすれば「何を格好つけて」と言われかねないが、公共の場での喫煙が禁止されたり、はばかられたりする現在では、見かけることはほとんどないと言っていいだろう。

・暇人の嗜好品と言えばそれまでだが、パイプを使い始めてから、そのアクセサリーや小道具のいくつかを自分で作ってみたくなった。灰皿、パイプレスト、タンバー、ナイフ、そして小さなスプーンなどを作ったのだが、木は薪用に干していた桜や山椒、アカガシ、白樺そして楠などである。白樺や楠は柔らかくて削りやすいが、細くすると折れやすくなってしまう。桜やアカガシは堅くて細くしても丈夫だが、その分、削るのに力がいる。そして楠と山椒は削るたびに独特の臭いがする。

・また、楠とアカガシを削った木屑は、ストーブの上の鍋で煮ると、真っ赤な色が出て、それでTシャツの草木染めをしたら淡いピンクになった。燃やしてしまえば一瞬で灰になるほどの大きさの木だが、道具になれば、壊れるまで何年も手もとで使われることになる。薪ストーブの前でパイプをくゆらせながら、ナイフで木片を削っていると、目の前で灰になっていく木と、形をなしてくる木の運命の違いを考えたりもする。

2010年2月15日月曜日

悪者を探せ

・ここのところのニュースは、政治も経済もスポーツも芸能も悪者をよってたかってつるし上げることを繰りかえしている。もううんざりでいい加減にしろよといいたくなるが、その矛先は「悪者」にではなく、批判する側や、メディアに向かうことのほうが多い。

・鳩山首相が母親から多額のお金を贈与されていて税金を払っていなかったという。額も驚きだが、それを知らなかったというのも普通の感覚をはるかに超えていると思った。しかし、親からもらったお金は政治のために使ったわけで、私財を政治活動に注ぎ込んでいるのだから、職務を利用して賄賂を取って私腹を肥やすケースとはまるで違うんじゃないか、とも思う。それに、たくさんいる2世や3世の議員たちだって、地盤や、看板はもちろん、鞄(資金)だって受け継いでいるのだろうに、それがどう処理されているのか調べるメディアがないのはどうしてなのだろうか。

・小沢一郎のケースだって、何が問題なのか、今ひとつわかりにくい。ダム工事の受注に絡んで賄賂を取ったのかどうかという疑惑が、陸山会の土地購入にからむ資金の問題とどう関連しているのか、さっぱりわからない。僕は小沢一郎という政治家は好きではない。哲学がないし演説もへたくそで、力に頼るところばかりが目立つ政治家だと思うからだ。けれども、だからといって、これを機会に引きずり下ろしてしまおうとする動きには首をかしげてしまう。

・説明責任を強く言う政治家は多い。しかし、今まで何かがあったときに、説明責任を果たした政治家が、これまで何人いただろうかと思う。自分にできもしないことを他人に要求するのは、空虚なパフォーマンス以外の何ものでもない。一連の問題で民主党の支持率は急降下しているが、だからといって自民党の支持率が上がっているわけではない。他党の批判よりは自らを省みてどう立て直していくかの方がはるかに大事で、それができなければ、支持者が戻るはずはないのに、自民党からは、そこがまったく見えてこない。

・自己反省をしない点では、メディアも同様だ。新聞の購読者が減り、テレビの視聴率が下がっていることをどう受け止め、その対応をどうしようと考えているのだろうか。「悪者」らしきものを次々血祭りに上げるような紙面や番組ばかりを作って、それがまるで正義であり、世論を代弁しているかのように振る舞うのは、自滅行為以外の何ものでもないはずなのである。

・「足利事件」で17年も投獄された管家さんに検察が無罪を求刑し、はじめて謝罪をしそうだ。しかし、頭は下げたけれども、どうして間違ったのかについての説明は1分足らずの短いものだったようだ。「説明責任を果たして欲しい」ということばは、管家さんの口からこそ出るべきものだろう。そして、彼が逮捕されたときに、新聞やテレビはそれをどう報道したのか、メディアはそのことを振り返って検証すべきなのに、それをやったところは今のところほとんどない。冤罪を生むのは検察の愚行だが、それを増幅させ、定着させるのはメディアの仕業なのである。

・トヨタがアクセルやブレーキの欠陥問題で窮地に立たされている。しかし、この問題にも何か割り切れないものを感じてしまう。複雑な電子制御装置のためにプリウスのブレーキのききが一瞬遅れるのだそうだ。トヨタは最初、感覚の問題だといって欠陥を認めなかったが、メディアの攻撃にあって、リコールを発表した。しかし、それは本当に欠陥なのだろうかと思う。車の特徴はメーカーや車種によって千差万別だ。自分が買って乗る車の特徴や癖について熟知し、それに対応できる運転を心がけるのは、車に乗る者にとってわきまえなければいけない最低限の心構えだろう。

・トヨタも最初はそう考えていたようだ。しかし、世論は納得しなかった。それは最近の車が、運転者に特別な知識や技能やメインテナンスを要求しないことを前提に作られ、売られているからだ。車の癖がわかれば個々に対応できる程度のものだという言い訳は、ドライバーにとっては上から目線で下手くそ呼ばわりされたように感じられてしまったのかもしれない。その意味では、世界で一番車を売っている会社が言うべき台詞ではなかったとも思う。

・こう書いてくると、同じような話が次々思い出されて終わらなくなってしまう。朝青龍に押尾学、酒井法子、そしてつい最近では国母和宏‥‥‥。どれにしたってたいしたことではないのに大騒ぎして悪者扱いにしてしまう。それが強い者、人気のある者であればなおさら、メディアは血眼になる。品格を疑いたいのは、不祥事を起こした者や疑惑を持たれた者以上に、それを糾弾する側にこそなのである。