2013年11月25日月曜日

古典を読もう

・大学生が本を読まなくなった。こんな感想はもう珍しくないが、大学での勉強が本を読むことを基本にしているのは今でも変わらない。講義を聞くだけでは、その時理解できたとしても、身につかずに右から左に流れていってしまう。だから、講義内容に準拠した教科書を作って、予習と復習の必要を毎回くり返して話すのだが、さてどのくらいの人たちが、自覚をしているのだろうか、と思う。

・そんな思いは多くの教員に共有されていて、何とか学生に本を読ませようとそれぞれ工夫をしているのだが、なかなかうまくいかない。で、学部の教員が集まって「コミュニケーション」に関連する書籍を集めた「ブックガイド」を作ろうということになった。一冊を見開き2ページほどで紹介するもので全部で100冊ほど、僕はその中の四冊を受け持った。どれも出版されてから、年月のたった、いわば古典と言われるものばかりだった。

classic1.jpg・D.リースマンの『孤独な群衆』は大学生の時に買って読んだ本である。個々人ではなく一つの社会に生きる人たちに共通して見られる性格(社会的性格)を「近代」を中心に「前近代」「現代」と分けて、その違いを詳説した内容は、読んだ当時も目から鱗といった感じだったが、今でも必要な概念だと思って、講義でも話題にし続けている。

・現代人に共通した「社会的性格」をリースマンは「他人指向型」と名づけた。自分の良心や信念に従って行動するのではなく、他人の言動に注意を向け、他人の反応に自覚的になる。そんな特徴は、リースマンが指摘した時代以上に、現代では顕著になっている。その一番の理由はパソコンやケータイ、そしてインターネットといった情報機器の発達とそれに頼る人の増加だが、僕は最近の分析よりははるかにおもしろいし有益だと思っている。もっとも日本人にとっては「内部指向型」の時期はほとんどなかったから、「伝統指向型」から「他人指向型」への変化ということになる。

・その『孤独な群衆』が最近復刊されていることを知って、買い直すことにした。上下二冊本になって、それぞれ3300円と高額で学生に買えとはとても言えないが、図書館で借りて読んで欲しいと思う。トッド・ギトリンが解説していて、僕はこの文章だけでも、買い直す価値があったと思っている。

classic4.jpg・D.ヘブディジの『サブカルチャー』はカルチュラル・スタディーズ初期の代表作と言えるものだ。70年代にイギリスで台頭したパンクやレゲエは、労働者階級や植民地からの移民の中から生まれた若者文化だった。70年代のイギリスは、英国病と言われて不況にあえいでいたが、パンクとレゲエは一方では、社会の最下層で争う関係でありながら、他方では音楽的に影響しあってもいた。
・社会に対する不満や反抗の叫びとして生まれる「サブカルチャー」は時に、大きな支持を得て、世界的な広がりを見せることがある。二つの音楽はその好例だが、それはまた路地裏の悪魔が大通りの天使に変身する過程でもある。音楽を社会や政治、そして経済の関係から読み解くことのおもしろさを教えてくれる一冊である。

classic2.jpg・J.メイロウィッツの『場所感の喪失』は、以前にこのコラムで取り上げたことがある。メディアを送り手の側からでなく、受け手の側からとらえるとすれば、どうしたらいいか。ケータイやパソコンの利用が普及した現在では、当たり前の視点だが、それらが登場する以前の時代には、気づきにくい発想だった。メイロウィッツはそれをマクルーハンとゴフマンを統合することで試みた。
・テレビはまるで目の前にいる人と直接対面しているかのようにして視聴する。だから活字メディアとは受け取り方が違ってくるし、今自分がいる場所の実感が怪しくもなってくる。ケータイやパソコンは、そんな無場所感を桁違いに増殖させるメディアだが、今では、そんな感覚も当たり前になって、誰も不思議だと思わない。だからこそ、原点に立ち返って考え直すために読む価値がある本である。

2013年11月18日月曜日

紅葉と冬支度

 

forest111-1.jpg

forest111-2.jpg・最低気温が10度以下になった10月末から薪ストーブを燃やし始めた。半年ぶりの暖かさに体がほっこりした。これから来年の五月初旬まで、また半年間、ストーブを燃やし続けることになる。

・ストーブをつける目安は気温だけではない、家から見える御坂山塊が尾根から色づき始めて、だんだん下に降りてくる。それが我が家の庭にやってくるのだが、そんな毎年の景色に、また感動して、ストーブの季節を思い出すのである。

forest111-3.jpg・薪を燃やし始めれば、次の年の薪を用意しなければならない。で、原木を注文した。一年で8㎣使うが、まずは半分の4㎣。これを暮れまでにはチェーンソーで玉切りして、斧で割らなければならない。半年ぶりにチェーンソーを動かしたが、なかなかエンジンが始動しない。もうこれだけで腕がなまり、汗が出てきた。ガソリンもチェーン・オイルもすぐなくなってしまったから、一日目は一時間ほどでおしまい。

・毎年の仕事で、楽しい反面、年々しんどい思いも増している。いくつまで続けられるか。無理は禁物だが、体力はつけておかなければならない。

forest111-4.jpg・夏の北海道旅行でプロトレックが壊れたから、新しい時計を買った。フィンランドのスントというメーカーだ。知らなかったが、標高はもちろんGPS機能がついていて、パソコンにつなげば歩いたルートを地図上で確認できるというので決めた。結果は右図の通り。道の登り降りと歩いた速度が細かくチェックできる。トレッキングだけでなく、ランニングやサイクリング、カヤッキング、そして高速道路を使ったドライブも記録できる。

・数字フェチとしては、おもしろい道具で、これがまた歩いたり漕いだり乗ったりする気を起こさせる。カヤックや自転車は寒くなるとつらくなるが、記録を残したいからとがんばるかもしれない。

2013年11月11日月曜日

「ソロモン流:上原浩治」

・このコラムは前回もメジャーリーグが話題だった。ちょうどシーズンが終わったところで、これからプレイオフが始まるので、今シーズンを振り返ったのだが、その後の10月は、もう試合のことが気がかりで、家にいる時は必ず中継を見て過ごした。注目したのはもちろん、上原投手と彼が所属するボストン・レッドソックスである。

・上原は今年テキサスからボストンに移籍して、最初は中継ぎだったが、クローザーが不調で、6月からずっと、試合の締めくくり役を務めてきた。今シーズンの成績は4勝1敗21セーブで、防御率は1.09、73試合に登板して74回1/3を投げた。特にすごかったのは6月の末から9月にかけて、点を取られないどころか、四球も出さないし、ヒットもあまり打たれなかったことだ。直球のスピードは140キロちょっとのピッチャーがなぜ打たれないのか。不思議な感じがしたがプレイオフで何試合も見て、その理由がよくわかった。

・彼の持ち玉は直球とフォークの2種類だけだそうだ。ただし、そのフォークが時に右に、左に曲がって落ち、直球は打者の手許で浮き上がるように見えるようで、強打者達がくるくると空振りしてしまうのである。ボストンの相手は、最初はタンパベイで、次がデトロイトだった。相手チームの監督は打てないのはしょうがないと諦めていて、勝つためには上原を出さないことだと言っていたが、先行してもボストンに逆転される試合が多く、上原が出てくれば、ファンはもう勝ったも同然という感じになった。

・テレビ東京の「ソロモン流」がその上原に半年密着取材をした番組を見た。彼は2009年にボルティモア・オリオールズに入団して2年半を過ごしている。家も購入して家族と一緒に暮らしていたのだが、テキサスにトレードされ、今年はボストンと契約したから、ここ数年は単身での生活を強いられている。ボストンではけっして高級ではないホテル住まいで、試合が終わって部屋に戻ると、一人でマッサージをし、テレビを見ながら食事をする。カメラにそんな様子を写されながら、体の調子やチームの雰囲気、メディアの対応と日本での報道のされ方、そして家族のことなどを話すのだが、彼のことばはきわめて正直で、時に辛辣だ。

・メジャーリーグでプレイする日本人選手は今年も10人を超えている。ただし、試合の結果や成績が報じられるのは、イチローとダルビッシュばかりで、地味な黒田や岩隈のことはすこしだけになるし、上原のような中継ぎ投手は、ほとんど話題にされることもなかった。「5試合に1試合しか出ない先発より、毎試合準備していつでも出られるようにしなければならない中継ぎの方がずっとしんどい。」そんな彼の気持ちは、メディアではほとんど語られない。

・実際、メジャーリーグの中継も、レンジャーズやヤンキースが中心で、レッドソックスなどは数えるほどしか放送しなかったから、上原の活躍は、ぼくもプレイオフになるまでほとんど見ることはなかった。ただし、彼は毎日のようにブログを更新していて、出場した試合で対戦した選手への配球と狙いや結果をメモしている。さらにツイッターもやっていたから、調子の良さはずっとフォローしていた。「ソロモン流」ではホテルの部屋でスマートフォンを使ってツイッターやブログに書き込みをする様子も映していた。

・おもしろいのは、スポーツ新聞などが、そのブログやツイッターを借用して記事を書いていたことで、彼は番組の中で、そのことについて、「取材もせんとよう書くわ」と憤慨していた。昨年までいたレンジャーズでは、大勢の日本人の取材記者がダルビッシュを取り囲んでいて、上原には知らん顔といったこともあったようだ。それが、今シーズン後半からワールドシリーズまでの活躍で、手のひらを返したような取り上げ方に変わった。

・上原は自ら「雑草魂」と言う。巨人のエースだったからスター選手であったことは間違いないのだが、メジャーリーグに来てからは地味な存在でしかなかった。もらうお金もイチローやダルビッシュの比ではないし、CMなどの声もかからない。そんなやつらを見返してやる。この一年は、そんな気持ちが実現した、彼にとっては最高のシーズンだったのだと思う。ただし、すでに来年度の契約は済んでいるから、今年の活躍が反映されて大幅アップということにはならないようだ。

2013年11月4日月曜日

秘密、嘘、謝罪

・嘘が平気でまかり通る。そんな現状に腹が立つというより、絶望感にとらわれるばかりです。阪急・阪神ホテルのレストランが食材を偽ってメニューに並べていたというニュースを耳にしました。これはもう悪質な詐欺行為ですが、欺す意図のないミスだったと言い逃れをしているようです。中国産のウナギを愛知県産と偽る業者が後を絶たないようですし、福島県産であることを隠して売られている農産物も多いようです。クール宅急便が猛暑のなか外に放置されていたことも明るみに出されました

・みずほ銀行が暴力団関係者に融資を続けてきたことの発覚も、嘘と謝罪のくり返しでした。最初はトップは知らないことと言っていましたが、頭取をはじめ誰もが承知の上で行ってきたという訂正がなされたのです。嘘がばれると一同勢揃いして、テレビカメラの前で謝罪をする。そんなニュースが毎日テレビに映し出されます。醜悪な光景に反吐が出る思いです。

・見つからなければいいのだから、都合の悪いことは隠しておけばいい。そんな態度を代表するのは、もちろん、東京電力です。会社の存続のためにはどんな嘘もつくし、知られたくないことは徹底的に隠したままにする。最大の秘匿データは地震発生から津波が襲ってくるまでの間に原発に起きたことで、元東京電力の技術者だった木村俊雄さんが、そのデータの開示を強く求めて、福島原発はツナミではなく地震で破壊されたことを主張しています。

・ただし、この主張をマスコミはほとんど無視しています。3.11の地震と津波以降、新聞やテレビの報道がきわめて意図的に操作されていることが明らかになりました。自ら不利益になることは隠したり、無視したり、歪曲したりする。このような姿勢は、メディアが公共の報道機関であるよりもまず私企業であることをあからさまにしました。そんな危機意識からフリーのジャーナリストや評論家が自前で開設した「デモクラTV」は、僕にとって何より信頼できる情報ソースになりました。

・しかし、秘密と嘘ということでは安倍首相が一番でしょう。何しろ世界に向けて、福島第一原発は完全にコントロールされていて、海には放射能は流れ出していないと大嘘をついたのですから。消費税を上げるのは社会保障財源のためではないし、TPPや秘密保護法も国民のためではありません。憲法改悪もふくめて、日本の政治権力や経済を牛耳る人たちにとって好都合な制度に変えようとしているのですが、そんなことはもちろん隠したままですし、明るみに出れば嘘八百でごまかしたり、機密事項だといって無視したりするばかりです。

・2020年に東京でオリンピックが開かれます。しかし、これはいつか来た道の再現になるのではないか。そんな予感すらしてしまいます。東京オリンピックは1964年以前に、40年に開催される予定でした。ヒトラーがその権力を誇示したベルリン・オリンピックの次に開催することが決まったのですが、中国侵略を狙った日中戦争に対する各国の批判によって、返上したのです。福島原発の処理が進まない中でまた大きな地震が起こったりする危険性や、中国や韓国との緊張関係など、現実に今の日本は、すでにオリンピックどころではない状況にあるのですから、この危惧は、けっして考えすぎではないのだと思います。

2013年10月28日月曜日

Danny O'Keefe

"O'Keefe"

" Good Time Charlie's Got The Blues"

O'Keefe1.jpg・ダニー・オキーフの"O'Keefe" は1971年に発売された彼の2枚目のアルバムだ。その中に入っている’Good Time Charlie's Got The Blues’がプレスリーにカバーされてヒットして、一躍注目を集めた。町から人びとが次々出て行ってしまって置き去りにされた男の物語だ。


勝った奴もいれば、負けた奴もいる
いい時もあったチャーリーだって、憂鬱になるさ

・オキーフはジェームズ・テイラーやジャクソン・ブラウンといったフォーク・シンガーより少しだけ年上で、デビューも早かったが、それ以後のアルバムはほとんど注目されなかった。’Good Time Charlie”は道楽者とか落ちぶれた者といった意味の慣用句だから、たった一つのアルバム、その中のたった一曲だけヒットした「一発屋」の自分を予言したような歌だが、その後も音楽活動は続けていて、アルバムも出している。

O'Keefe2.jpg・その一つだけのヒット曲を題名にしたアルバムはオキーフが1970年から2000年の間に発表したアルバムから選んだベスト・アルバムである。ヒット曲名をタイトルにしたのはビジネス上の理由なのかもしれない。けれども、地味で気取らないいい曲ばかりが集められた傑作だと思う。2000年にリリースされた”Runnin' From the Devil”からはディランとの合作の'Well, Well, Well'が収められた。


水を盗んだ男は永遠に泳ぎ続けるだろう
だが、けっして黄金の岸辺の大地にはたどり着けない
ぼんやりした白い明かりが彼の心をとらえる
闇の中でたった一つの思い出をなくすまでは

・オキーフの歌は、たまたま読み始めたエリック・ホッファーと強く重なり合う部分がある。放浪と出会い、そして別れ。一攫千金とは無縁だが、アメリカ人の開拓者魂を持って、何かを探し続けている。アメリカは祖国を追われ、あるいは捨てた放浪者達が作った国。フォークやカントリーには、その魂がくり返し歌われている。そんな典型の’The Road'は’Good Time Charlie”同様、この2枚のアルバムに入っていて、ジャクソン・ブラウンもカバーしている歌だ。

遠くから電話がかかってきた
何してたかって
失ったものを忘れ
勝ち取ったものを誇張する
ここで足を止めたのは
ただたまたまのこと
道の途中の一つの町っていうだけ

・Youtubeでも彼の生の歌を聴くことができる。'Good Time Charlie's Got The Blues'''Well, Well, Well'、そして'The Road'。オキーフは21世紀にになってからもアルバムを出し続けている。最近はどんな歌を歌っているのか、聴きたくなった。

2013年10月21日月曜日

秋の山歩き

 

hoei1.jpg

9月になっても山歩きをする気にならなかったのは暑さのせいだった。ところが、涼しくなってもあまり行く気にならない。やはり、こういうことは続けていないと、億劫になってしまうものである。で10月になって前から行こうと思っていた宝永山に登ることにした。快晴の朝で富士山もくっきりとよく見えた。さぞかしいい眺めになるだろうと思ったのだが、富士宮口の五合目に着くと、霧が立ちこめ始めて、宝永火口まで歩いた頃には、濃い霧で何も見えなくなった。宝永山に登る時には風も強くなったから、頂上まで行ってすぐに引き返した。本当なら、上の画像のようなところだったのだが、何も見えなかった。
とは言え、一度歩けば弾みはつく。パートナーの誕生祝いに昨年は木曽御嶽山に登った。スイスのアルプスを歩いた勢いで、3000m級の山に挑戦したのだが、今年はもっと楽な所ということで池ノ平湿原にした。2000mほどの所だが山は白く薄化粧をしている。台風が過ぎて急に冷え込んだせいだろう。台風の影響で池ノ平に行く林道は車はもちろん、歩くのもだめだということで、篭の登山(かごのとやま)に登ることにした。



komoro1.jpgkomoro2.jpg
komoro3.jpgkomoro4.jpg

篭の登山には他に東と西がついた三つのピークがある。歩いたのは2000m弱の高峰温泉から東篭の登山までで登ったのは300m弱だったが、木々は凍りついていて、岩場の多いルートも滑りやすくて慎重に歩かざるをえなかった。崩落箇所も多かったが、尾根づたいに歩くと、東には浅間山、西にははるかに槍ヶ岳が望めたし、北には志賀高原も見えるなかなかの風景だった。南側に雲がかかっていなければ、八ヶ岳や富士山も見えたはずで、まさに360度のパノラマの風景を満喫できるコースだった。
 
komoro5.jpgkomoro6.jpg

2013年10月14日月曜日

「大丈夫です」って何?

 ・「コーヒー飲む?」って聞いた時に「大丈夫です」という返事が返ってきて、ちょっとむっとして「飲むの、飲まないの?」と聞き返した。ほんの数ヶ月前のことだが、ところがその後、違う人から同じ返事を何度も聞いた。また変なことばがはやり始めたようだ。

・コーヒーについて、「大丈夫です」という返事が意味を持つのは「コーヒー飲める?」と聞かれた時だろう。ところが現実には、飲めないとか、いらないの意味で「大丈夫です」と言う。なぜ、そうなるのか、使う人には自覚があるのだろうかと疑ってしまう。だから、「大丈夫です」と答えてきたら、「それどういう意味?」としつこく問い詰めることにしている。

・もちろん、意味がわからないわけではない。はっきり言わずに、婉曲的に答える。それが相手に対する心遣いだという風潮は、言い方を変えて、もう何年も前から続いている。最初は「語尾上げ」で、断定を避けて判断を相手に委ねる言い方だったと思う。ジェンダー論的な言語学では、英語でも典型的な女ことばとされてきて、批判の矢面に立ってきたが、日本では女も男も「語尾上げ」なんて時期があった。

・次にはやったのは「〜じゃないですか?」「〜でありません?」といった付加疑問や、「とか」「みたいな」で、その後に「かなかな虫」が鳴き始めた。「かなかな」については2年半ほど前に、このコラムでも書いたことがある。付加疑問は断定を避けて相手に判断を委ねる、一種の社交的な言い回しだが、「とか」や「かな」は、相手の反応を意識してと言うよりは、自信のなさの表明に聞こえてしまう。

・他にもあると言うわけではないのに、最後に「とか」を入れる。はっきりしたことなのに、最後に「かな」と言う。こういう言い方がはやるのは、もちろん、自信のなさに共感してというのではないのだと思う。自信過剰な人、強引な奴、そして上から目線の輩(やから)などと思われたくない。そんな人間関係における用心深さが、こんな言い方を次々生んで、あっという間に世間に広まる原因であることは容易に察しがつく。

・ただし[大丈夫です」はいただけない。そこまで意味を曖昧にしたのでは、ことばのやりとりが意味をなさなくなってしまう。「コーヒー飲む?」の返事になっていないのに、[大丈夫です」と言って、何もおかしいと思わない。その感覚に対する違和感は、語尾上げや「とか」や「かな」に感じたものとはちょっと異質な感じがしたからだ。

・「大丈夫」とは語源的には「立派な男」のことを言う。そこから「しっかりした」、そして「間違いない」という意味に転じてきた。そのことばになぜ「ノー、サンキュウ」に似た丁寧な断りの意味が出てくるのだろうか。ことばは変化するものだから、「日本語は大丈夫なの?」と言うつもりはないが、曖昧さもここまでくると、人間不信きわまれりと言いたくなってしまう。もっと素直に、正直に、ことばを使ってつきあいたいものである。