2016年9月12日月曜日

久しぶりの映画館

・地元に映画館がなくなって、もう10年ぐらいになる。だから、映画館で映画を見ることもほとんどなくなってしまった。最近ではアマゾンで見たいときに見たいものが見られるから、わざわざ遠くの映画館まで出かける気にもならなくなった。ここにはもちろん、新作とは言ってもどうしても見たいと思うような作品がないという理由もある。とは言え、アマゾンで探すと、気づきもしなかった作品が結構あって、時折、映画鑑賞の時間を楽しんでいる。

・そんなことをしながら気づいたのは、邦画がずいぶんたくさん作られているということだった。もちろん、映画収入で邦画が洋画を抜いてからずいぶん経つことは知っていた。あるいはジブリなどのアニメが国内だけでなく、海外でもよく見られていることもわかっていた。しかし、映画館のある街をぶらついて、上映中の映画について関心を向けることもなかったから、ほとんど興味も持たなかった。

・ところが、ツイッターやフェイスブックでいろいろな人たちが『シンゴジラ』について、絶賛に近い感想を寄せていて、ちょっと興味が湧いてきた。『ゴジラ』映画について、これまでほとんど興味がなかったが、それなら見に行ってみようかという気になった。一番近い映画館は甲府のイオンモールにある。今まで一度も行ったことがないから、ショッピングモールの見物とあわせて出かけて見ようということになった。映画館にはシニア割引があって、1800円が1100円になる。そんなこともまた、新たな発見だった。

・で、肝心の『シンゴジラ』だが、評判ほどの映画だとは思わなかった。この映画はゴジラが主役ではなくて、それに対応する政府の動きやアメリカとの関係でストーリーが作られている。ゴジラは単に東京を壊滅させるだけでなく、やがて世界中を崩壊させる脅威を持っている。だから核攻撃をしてでも退治しなければならない。こんなアメリカと国連の決定に、将来を嘱望されている若い政治家が中心になって、冷凍させる作戦に打って出る。東京が広島、長崎に続く被爆地になることを避けるための必死の行動がクライマックスになる。

・しかし、映画を見ていて気になることがいくつもあった。なぜ、ゴジラが東京湾に出没したのか。謎の研究者がゴジラの卵を東京湾に落としたのかもしれないが、そのことは暗示的で、詳しくは語られていない。また、幼いゴジラはガラス玉のような目で、いかにも作り物でしかないし、変態を繰り返して成長するのだが、大きくなったゴジラもまた、生物と言うよりは作られたものにしか見えないものだった。そもそもゴジラがなぜ、火を吹いたり背中からレーザー光線を出したりするのだろうか。そんなことを思いながら見ていたから、映画に没入することは全然できなかった。

・この種の映画には、そんなけちをつけてもしょうがないのかもしれない。しかし、一方でゴジラに立ち向かう政府や自衛隊の描き方は、きわめてリアルなものだった。おそらく東日本大震災のときの動きはこんなものだったのだろうと思わせるようなシーンがいくつもあった。この荒唐無稽さとリアルさが奇妙に混在した映画を楽しむためには、怪獣映画やアニメのファンであることが前提になるな、と思ったのが見終わっての感想だった。

・とは言え一つだけ納得できるセリフとシーンがあった。東京の中心部が破壊され、政府の首脳の多くが死んだ状況から、もう一度リセットして日本を復興させることを主人公が決意するところだ。確かに日本の現状はリセットでもしなければ、身動きが取れないような状況にある。古い考えや目先の利害に囚われた政治家や企業家ばかりが幅をきかせている。未来を見据えた国作りを目指す発想は、まったく影を潜めている。

・3.11でもダメだったのだから、ゴジラにというのがこの映画のメッセージだったのかもしれない。しかし、それはまたゴジラに頼まなくても、首都直下地震がいつ起きてもおかしくないと言われていることからすれば、荒唐無稽な話ではないとも思った。であれば、ビルが崩壊したり、鉄道や道路が寸断されたりして、多くの人々が逃げ惑う姿は他人事ではないだろう。3.11の経験を思い起こしたり、明日の我が身を想像しながら見た人がどのくらいいたのだろうか。実際僕は、東京に出かけるときにはよく、地震があったらと、思うことがよくあるのである。

2016年9月5日月曜日

文化としての食

  飽食と飢餓

・コミュニケーション学部では「現代文化論」を担当しています。「現代文化」というと学生たちは音楽やスポーツ、あるいはマンガやゲームのことを思い浮かべるようですが、僕が授業で主に話すのは「衣食住」と「ライフスタイル」に関連したことです。「文化」は「カルチャー」の訳語で、その語源には「耕す」という意味があります。つまり「文化」とは、基本的には「食べる」ことを含めて、人間が生存のためにしてきた独自の工夫の集積を表すことばなのです。で、「食」も数回にわたって話すことにしてきました。

・今は飽食の時代です。飢える経験をした人は日本ではほとんどいませんが、逆に食べ残したり、賞味期限切れだと言って捨ててしまったことは誰にでもあるでしょう。日本の食糧自給率は半分以下で、毎年5500万トンの食料を輸入していますが、また年間1800万トンを廃棄しています。金額にすると11兆円で、その処理にまた2兆円を使っています。他方で世界には飢餓のために死亡する人が年間1500万人もいて、その7割以上が子どもだと報告されています。これは私たち日本人が「食」を考える上で、避けることのできない問題だと言えるでしょう。アフリカから始まった「MOTTAINAI」キャンペーンは世界共通語を目指していますが、肝心の日本では「もったいない」はすでに「死語」と化しているのが現状です。

 食と人口の爆発
・ところで、現在の世界人口は70億人を超えましたが、その増え方はどんなものなのでしょうか。たとえばコロンブスがアメリカ大陸にたどり着いた頃の人口は3億人程度で、その半分以上はアジアに住んでいて、4分の一がアメリカ大陸、5分の一がヨーロッパだったようです。それが3世紀後の1800年には10億人に増え、1900年には20億に達し、2000年には60億人を超えました。このまま増えていくと2050年には90億人を超え、今世紀の終わりには100億人に達すると予測されています。

・この500年で人口が24倍に増えたのは食料生産技術の進歩によりますが、それ以上に大きいのは、食料にする植物や動物が、もともと生存していた地域を越えて「食料」として世界中に広まったことによります。チャールズ・C.マンの『1493』(紀伊國屋書店)は、それを「コロンブス交換」と呼び、アメリカ大陸からヨーロッパやアジアにもたらされたり、逆にヨーロッパやアジアから世界中に拡散した動植物を詳細に分析しています。

 食のコロンブス交換
・たとえば南米からジャガイモ、中米からはトウモロコシがヨーロッパにもたらされ、サツマイモが中国に伝わって、そこからさらに各地にひろがりました。これらは主に貧民層の食料として必需品になっていき、飢餓を減らし、人口を増やす原因になりました。またサトウキビはアジア原産ですが、適した土地がアメリカ大陸で探され、ブラジルやキューバに大規模なプランテーションが作られました。このように原産地から離れて新たな生産地が求められたものにコーヒー、カカオ(チョコレート)、バナナ、椰子などがあります。

・あるいは牛や馬、豚、羊、山羊などが家畜としてアメリカ大陸に持ち込まれてもいます。アメリカ映画を代表した西部劇には大量の牛を移送する馬に乗ったカウボーイが出てきますが、馬も牛も移民が持ち込んだものでした。あるいはイタリア料理には欠かせないトマトは南米原産ですし、キムチや焼き肉に使うトウガラシも同様です。今ではすっかり嫌われものになっているタバコも、この交換によって世界中にひろまったもので、ここには煙を吸うこと自体が、特にインテリや芸術家、あるいは文学者等が好んだ新しい嗜好の仕方だったという特徴もありました。

 食文化とグローバル化
・今日本では居ながらにして世界中の食べ物が食べられます。あるいは寿司や天ぷらといった日本食が、世界各地でブームになっていると言われています。まさに食のグローバル化ですが、しかし、世界各地の固有の料理も、その食材を吟味してみれば、上記したように、「コロンブス交換」以後に普及したものが少なくないのです。と言うことは、どんなものも人類の歴史の中ではほんのわずかに過ぎない数百年程度のものだということになります。

・あるいは和食を代表すると言われている天ぷらは室町時代にポルトガル人が持ち込んだ料理法だと言われています。庶民の大衆料理になるのは江戸時代で、その理由は江戸が侍にしても町人にしても圧倒的に男が多い偏った人口構成だったことにありました。手軽に食事を済ます「屋台」が普及したのですが、寿司も蕎麦も天ぷらもここから広まったのだと言われています。

・私たちが今日常的に食べている洋食や中華料理は明治以降に入ってきたものです。しかしカレーライスはインドのものとは大違いですし、スパゲッティ・ナポリタンはイタリアのナポリに行ってもありません。同様に中華丼や天津飯も中国では注文できないメニューです。これらはあくまで、日本人の好みにあわせて作り上げられた和洋折衷の日本食と言えるものなのです。

 食から文化全般へ
・海外旅行を何度か経験して、あちこちでその地の食べ物を口にしてきました。カレーやパスタ、あるいはパンやチーズなど、日頃食べているものとの違いを実感しましたが、けれどもまた、外から入ってきた食文化を、日本人ほどうまく日本文化に取り入れた国民はないとも思いました。そしてこのような特徴は「食」に限らないことだということにも気づきました。外から入ってきたものを自国に合うように手を加えることこそ、日本文化の大きな特徴で、そのことはすでに多くの人によって指摘されています。

・たとえば小さく、しかも高性能にするという特技は、第二次大戦後の経済成長を牽引した家電製品や自動車に見られた特徴でした。しかしまた、この特技が携帯に代表される「ガラパゴス化」の原因だとも言われています。漢字を輸入してひらがなやカタカナを作り出した日本人はまた、明治以降に流入した外来語をカタカナで表記して、独特の使い方をするようになりました。もちろんそれは有効に機能した側面を持ちますが、カタカナ語はまたもともとのことばとは似て非なるものになって、日本人以外には通用しないものにもなっているのです。日本人にとってグローバル化が必要だとすれば、そのことの自覚からはじめる必要があるかもしれません。

 マルサスの罠を乗り越えるために
・ところで、最初に述べた飽食と飢餓にもどって、今回の話を終わりにしたいと思います。「コロンブス交換」が人間の数を飛躍的に増大させたと言いましたが、イギリスの経済学者として有名なマルサスは、たとえ食料の供給量が増えたとしても、結局は人口増加が食料の供給量を追い越して、貧困や飢餓がもたらされるだけだと言いました。この「マルサスの罠」は、70億人を超え、やがて100億にもなろうかという人間をまかなう食料生産は不可能だという議論と共に、最近よく見かけることばになりました。

・日本は人口の減少を問題にしていますが、これから急増するのはアフリカだと言われています。貧しい国が豊かになろうとするのは当然ですから、増加を抑制するのは難しいでしょう。だからこその「MOTTAINAI」キャンペーンで、捨てる無駄をどうやってなくすかといったことや、食糧にするもの自体の新たな発見や改良が、そう遠くない未来に差し迫った課題になると言われています。ここにはもちろん、農薬や遺伝子操作などがもたらす問題も含まれます。あるいは「新自由主義」的な政治や経済がもたらしつつある先進国における格差の問題を、世界大のレベルでどう克服していくのかといった難問もあるでしょう。

・地球に住む人間がすべて、衣食の足りた生活を送れるようになるといった理想が現実化できるのかどうか。やがて人口増が抑えられて「マルサスの罠」が取り越し苦労に終わる世界になるのかどうか。21世紀が抱える最大の課題であることは間違いないでしょう。

 <東京経済大学コミュニケーション学部ブログ「トケコミ」から再録>

2016年8月29日月曜日

オリンピックが終わって

・いったい開催されるのだろうか、と心配されたリオ五輪が無事終わった。日本人選手の活躍で、NHKはスポーツ・チャンネルと化し、新聞はスポーツ新聞になった。いつもながらという以上にオリンピック一辺倒だったようだ。もちろん、400Mリレーのように息詰まるレースに拍手喝采したものもあったし、卓球やバトミントンのラリーに、改めてその面白さを実感した種目もあった。50Km競歩はまるで行者の苦行のようで、見ている方も苦しくなった。けれどもやっぱり、オリンピックには問題が多いなとも感じた。

・予選や決勝の日程がアメリカのテレビ時間にあわせて行われていたのは相変わらずで、オリンピックがテレビの放映権を第一の収入源にしていて、すべてがそれを基本に仕組まれているからだった。また8月開催がアテネ(2004)からずっと続いていて、それは次の東京でも変わらないようだ。かつては64年の東京と68 年のメキシコは10月、88年のソウルと2000年のシドニーは9月だった。なぜ東京が9月や10月にできないのかというと、ヨーロッパのサッカーリーグやアメリカのバスケット・リーグのオフシーズンに合わせるからだ。

・もっともそれで、サッカーに一流選手たちが出場したわけではない。あくまで人気スポーツ・イベントを避ければ8月しかないということなのだ。それはもちろん、放映権料に関係してくる。ちなみにリオとソチあわせて日本は全部で360億円(円建て)で、東京、平昌は660億円になる。一方アメリカはリオ、ソチ、東京、そして平昌すべてで3500億円の契約をした。アマチュア・スポーツの祭典ではなくなったのはとっくの昔だが、スポーツビジネスの色彩があまりに強くなりすぎているのである。

・日本は女子レスリングの金メダルラッシュに熱狂したが、そのレスリングは廃止の危機に立たされてもいた。ギリシャ以来の伝統種目なのに、ポピュラーではないという理由で廃止されかかったのである。その代わりに今回もまた、えっと思うような種目がいくつもあった。たとえばモトクロス自転車だし、ゴルフは有名選手の多くが辞退して期待外れになったようだ。冬期のスノウボードはすでに人気種目になったが、東京ではサーフィンやスケボー、あるいはスポーツクライミングなどが追加されるらしい。

・オリンピックに新種の人気スポーツが次々追加されて、地味な種目が隅に追いやられたり消えたりしていく。それもこれも一番の理由は、観客動員数やテレビの視聴率にある。これでは商業主義化と言うよりは巨大ビジネスそのもので、オリンピック精神などはどこにいったかという姿になってしまっている。メダルを国別で競う風潮も強くなっている。そんなオリンピックの開催に、日本の政府は国の浮沈をかける覚悟のようだ。けれども思いつくのは否定的な側面ばかりだろう。

・東京の8月は猛暑だし、今年のように台風がきて荒れ模様になるかもしれない。第一直下型地震がいつ起きても不思議ではないともいわれているのである。しかも、簡素な五輪といった約束とは裏腹で、何兆円もかかるのではと言われはじめてもいる。そのお金の使い道がはっきりしないという問題もある。オリンピック景気を当て込んでいるようだが、目算通りに行くあてはないし、その後のオリンピック不況の恐ろしさを予測する人も多い。

・僕は今でも辞退すべきだと考えている。そんなことしたら世界の恥さらしだと言う人もいるだろう。しかし恥は一時だが、開催することによって生じる負債は、その後日本を長く苦しめることになる。辞める勇気が必要だが、これはまた、日本人が一番苦手な決断でもある。

2016年8月22日月曜日

コロンブスは世界をどう変えたか

 

ジャック・アタリ『1492』ちくま学芸文庫

チャールズ・C.マン『1493』紀伊國屋書店

1492.jpg・1492年当時の地球には約3億人の人間が生きていた。その半分以上はアジアで、4分の一がアメリカ大陸、そしてヨーロッパにいたのは5分の一にすぎなかった。ジャック・アタリの『1492』はこんな書き出しで始まっている。


西ローマ帝国が崩壊すると、ヨーロッパは多くの支配者によって鎖に繋がれほぼ1千年の間眠る。それから偶然とも必然とも言えようが、あるときヨーロッパは自分を取り囲む者たちを追い払って世界征服に乗り出し、手当たり次第に民衆を虐殺し、彼らの富を横領し、彼らからその名前、過去、歴史を盗み取る。(p.12)

・イスラムの王国を崩壊させ、ユダヤ人を追放し、キリスト教を浸透させる。活版印刷術が発明され、聖書をはじめさまざまな書物が出版される。武器や道具、そして船の技術革新が進む。かつてはシルクロードを経由して細々と届いていたアジアからの産物が、ビザンチン帝国の崩壊によって、海上ルートを探さざるを得なくなった。アフリカへの探検競争と大西洋を西に向かってインドへ辿るルートの探索が始まる。そして、ヴェネチア、ジェノヴァ、ナポリ、リスボン、セヴィーリヤといった港町が栄えるようになる。「ルネサンス」が起こり、「個人」「芸術」「自由」「責任」「創造」といった新しい考えが登場する。

・『1492』は三部構成になっていて、I部が1492年に至るまで、II 部が1492年の一年間、そしてIII部がその後となっている。どの章も現在形で書かれていて、物語のようにして読める。1492年はキリスト教ヨーロッパによる世界の植民地化の始まりの年で、アメリカ大陸やアフリカ大陸の植民地化を巡って各国がしのぎを削り、また争うことになる。またプロテスタントが新興勢力としてカトリックに対抗するようになり、近代化が進展し、産業革命が起こることになる。

1493.jpg・チャールズ・C.マンの『1493』は、コロンブス以後の世界の変容について、主に「交換」をキイワードに詳細に分析をしている。この本も同様に物語風に現在形で書かれていて、小説を読むように読み進むことができた。コロンブス以後にヨーロッパとアメリカ、そしてアジアやアフリカの間で「交換」されたものは貴金属や作物ばかりでなく、動植物や細菌にまで及ぶ多様なものである。


いまやイタリアにトマトがあり、フロリダにオレンジが育ち、スイスでチョコレートがつくられ、トルコやタイでトウガラシが使われている。生態学者にとってコロンブス交換は、恐竜の絶滅以来最も重大な事件なのだ。(p.34)

・交換された作物はもちろん他にもたくさんある。南米からジャガイモ、中米からはトウモロコシがヨーロッパにもたらされ、サツマイモが中国に伝わる。これらは主に貧民層の食料として必需品になっていく。タバコが伝わると多くの人を虜にして、大規模な生産がおこなわれるようになった。サトウキビはアジア原産だが、適した土地がアメリカ大陸で探された。その他にコーヒー、カカオ(チョコレート)、あるいは牛や馬、羊、山羊といった家畜など……。

・「交換」はアジアとの間でも起きた。フィリピンのマニラを中継地にして明(中国)との間にも貿易が盛んになり、大量の銀の他に、サツマイモやトウモロコシ、トウガラシ、ピーナッツ、そしてたばこなどが、太平洋を渡って明に送られ、逆に絹や陶器、そして香料などが明から輸出された。

・このような「交換」によって世界の人口は1700年代には10億人を超えた。しかし、ヨーロッパやアフリカからアメリカ大陸に持ち込まれた病原菌(マラリア、天然痘、インフルエンザ、黄熱病など)が多くの先住民を死に追いやった。たとえば中米を侵略したコルテスの残忍ぶりはひどいものだったが、天然痘によって人口は3分の一に減ったという。またアフリカから奴隷としてアメリカ大陸に送られた人は1170万人でヨーロッパから移住した人の3倍にもなった。そして現在地球の人口は70億人に達している。520年で23倍になったのである。

・この本の帯にあるように本書を読むと「この世界のありようは欲望の帰結だ」ということがよくわかる。欲のためには殺人はもちろん、自らの死も恐れない。ひどい話だと思ったが、それは現在の「グローバル化」の状況下でまた繰り返されていることでもある。ヨーロッパやアメリカは近代化を達成したが、中南米やアフリカは今でも貧しい状態が続いている。リオ五輪の様子を横目で見ながら本書を見たせいか、人種の混交や貧富の格差の原因と結果を目の当たりにした気がした。

2016年8月15日月曜日

また祭日が増えた

 

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・8月になって大学もやっと夏休みになった。と、ホッとした途端に熱が出て、数日爆睡が続いた。疲れだから寝れば治る。これは僕にとってはよくあることだ。今年の夏は暑いが、河口湖は夜になれば涼しくなって、寝苦しいことはない。また午前中も涼しいから、自転車はもっぱら朝のうちに乗っている。さすがに汗びっしょりになるが、バルコニーのハンモックで身体を揺らしていると、心地いい風に包まれてほてりが取れてくる。ケヤキや唐松の林越しに青い空と白い雲が見える。

・家の周囲は雑草が生え放題だが、いろいろな花が次々と咲いている。そのヤマユリがいつになく大量に咲き誇った。細い幹に白くて大きな花が咲くから、重すぎて垂れてしまう。野生なのにどうしてなのか、何かそれなりの理由があるのだろう。だから細い竹竿をつけてまっすぐにしてやろうかと思ったがやめにした。そのヤマユリが消えたらウバユリが咲き始めた。これもまた例年になく多い。どうしてなのだろうか。そう言えば、この時期に来てユリの花を食べる猿の群れを今年は見かけない。猿や鹿、猪の害が深刻で駆除をしていると聞いているせいかもしれない。

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・ところでお盆休みに引っかけてまた祭日が増えた。お盆休暇が一日長くなるのはいいことかもしれない。しかしそれはまた、国が休日を増やしてあげなければ休めない風潮が少しも改まらないせいでもある。先進国で日本ほど祭日の多い国はないが、また日本ほど個人の意思で休暇(有給)が取れない国もないのである。権利として認められているのに取らないのは、企業のせいだったり、同僚に気兼ねしたりするためだ。

・多くの人が同じ時に同じ程度の休みを取って、同じような過ごし方をするから、観光地は混み、高速道路は渋滞する。河口湖の湖畔には観光客と車が溢れているし、富士山は登山者が行列をなしているようだ。数年前から中国などのアジアからの訪問者が激増しているから、今年は特にすごい混みようだ。住人にとっては迷惑千万でいいことは何もない。

・富士山は入山料をしっかり取って、登山の装備もチェックすべきだと思うが、山小屋や土産物屋を気遣ってか、任意の入山料で装備や服装のチェックもない。湖畔の道路には狭いところがいくつもあるが、大型の観光バスが走るし、センターラインのない道の真ん中を走る車が多いから、危ないと感じることが少なくない。そこをレンタサイクルでのんびり走る人や、ロードバイクで飛ばす人が行き交うから、事故が起きないのが不思議なくらいだ。

・それにしてもお盆の時期の帰省ラッシュはすごい。東京にはそれだけ地方出身者が多いということだが、それは戦後の高度成長期からずっと続いている。人口の東京集中を裏づける現象で、以前は長男が残って後を継いでいたのだが、今は少子化だから、子どもが出てしまえば、田舎には老人しかいない。消滅する市や町、そして村が増えるのは当然のことだろう。

・狭いところに住み、安い給料で休みもなく働かされ、国が恵んでくれた祭日や年中行事に同じように休暇を取る。豊かな社会とは名ばかりの、心にゆとりのない世界になったものだとつくづく思う。

2016年8月8日月曜日

経済、メディア、そして教育

・参議院選挙で改憲勢力が3分の2を超えました。いよいよ憲法に手をつけるのではと言われています。自民党のとんでも改憲案がいきなり登場するわけではないでしょうが、(アメリカに追随して)戦争ができる国になることが憲法上も認められる危険性はかなり大きいと言えるでしょう。しかし恐ろしいのは憲法改悪に限りませ

・安倍首相は選挙演説で「アベノミクスをさらにふかす」と繰り返しました。さっそく20兆円を超える経済対策を打ち出しましたが、財源は借金ばかりで,最大の目玉がリニアモーターカー、生活保護費の削減をすでにやりながら、低所得者に一人1万5千円を配るようです。福祉給付金や子育て給付金、また障害者年金を削減したり廃止しておきながら、保育士・介護職員の給与を上げることなど、矛盾の多い,支離滅裂なごまかしの対策だと言えるでしょう。

・「年金積立金管理運用独立行政法人」(GPIF)が2015年度に5兆円を超える損失を出しました。年金の株での運用率を倍増させた結果ですが、ここには国家や地方の公務員が加入する共済組合年金は含まれていません。また日銀はマイナス金利を実行し、さらに「ヘリコプター・マネー」というお金のばらまきをするのではないかと言われています。日本経済の実態以上に株価を高くするのは政府の強い要請によるのですが、目先の政権維持が目的ですから,将来的には破綻の道を後戻りできないほどに進んできてしまっているのです。

・政府の思いのままというのはメディアも同様です。上記した政策に対して海外メディアは辛らつな批判を浴びせていますが,日本のメディアは黙っているか、申し訳程度の批判しかしていません。「選挙期間中の報道は中立公正に」というお達しに、新聞もテレビも参議院選挙や都知事選の争点をほとんど取り上げませんでした。ところが終わった途端に、その結果について大騒ぎをしています。今の日本には御用新聞と御用テレビしかないのです。テレビに出ている人気者は御用タレントである限りは安全ですから、政府に批判的な発言が出てこないのは当然でしょう。

・他方で教育に対する文科省の姿勢もますます強権的になっています。高校に「公共」という科目が新設されるようです。選挙権の引き下げに伴って生徒が主体的に政治や社会に関心を持つことを狙いにするとされています。しかし一方で、高校生の政治活動については制限をする動きがありますし、ここでも「中立公正」な授業が求められますから、高校生の主体性を育てる教育などはできないのではないかと思います。

・そもそも日本の教育には欧米では当たり前の「ディベート」の授業がありません。それこそ小学校から、多様なテーマで生徒たちに自由に調べさせ、考えさせて議論し合うことが何より必要で、それがなければ、早期に英語教育をはじめても、ほとんど身につくことはないのです。英語は何より自己主張を基本にして、相手と戦うことを求める言語ですから、それなしの語学教育などは「ガラパゴス」そのものに過ぎないのです。

・最近、20歳代のパスポート所持率がたったの5.9%だという実態が明らかにされました。海外に関心がない若者の増加は、自民党を支持する若者の増加と無関係ではないはずです。戦前回帰の志向を強める政権にとって「グローバル化」が何を意味するのか。弱者を切り捨てておきながらの一億総活躍、財政再建と言いながらのヘリコプターマネー、主体性を育てると言いながらの自由の制限、今のことや過去への回帰しか考えないのに未来チャレンジ内閣……。醜悪な素顔を隠した厚化粧なのに、それを言ってはいけないような空気が蔓延しています。

2016年8月2日火曜日

感情と勘定が世界を劣化させている

・相模原市の障害者施設で19人の入居者をナイフで殺害する事件が起こった。犯人の言い分は「社会に無用な人間はいなくなればいい」というものだったようだ。この施設で働いていた時に思ったのかもしれない。それは老人ホームで働いていた職員が,入居者を殺した事件に共通している。

・確かに,有用性から見れば、障害者にしても,老人にしても,手間がかかりお金もかかるばかりで,社会にとっては無駄だと言える側面はある。こういう施設で働いている人も,あるいは家族の人にとっても、そんな思いをふと感じることもあるだろう。しかし、そうではないと打ち消す強い気持ちも同時に感じるのが普通のはずである。

・人にはいろいろな側面がある。優れたところも劣ったところも、それをひとつの個性としてつき合うところに、人間同士の親密な関係やかけがえのなさが生まれてくる。もちろんそこには、どんな人も皆平等に人権を保障されるべきだとする近代社会以降に確立した考えがある。これは法律上だけでなく、倫理の問題としてすべての人に分け持たれるべき思想でもある。

・しかし今、こういった倫理をないがしろにする、きわめて一面的な知識に基づいた感情的な発言が目立っている。差別意識を露骨に公言するヘイトスピーチが各地で起こったりするのは好例だが、それを正当化する政治家の発言も少なくない。批判や非難が起こっても,同様の発言が繰り返されるから,もうすっかり慣れっこになってしまっているし,逆に選挙運動での発言が注目されて,支持を増やしている例なども少なくない。

・その代表はアメリカの大統領候補として共和党から指名されたトランプだろう。理想(建前)をないがしろにしてきわめて感情的な発言(本音)を強調するのは、今の社会や自分の置かれた現状に不満を感じている人たちを引きつけやすい。アメリカが強くなること,それを牽引するのが白人の男であることといった訴えが、中流以下の白人に受けている。ここには人種や性別に関する露骨な差別主義があるし、アメリカのことしか考えない傲慢さや,他国を見下す意識がある。

・同様の傾向は最近の参議院や都知事の選挙でも見られた。野党が統一候補を立てたことには「自公」の連立を棚に上げた「野合」「民共合作」などといった非難が浴びせられたし、都知事選でも野党統一候補には何年も前の未遂と思われる「不倫報道」が週刊誌で取り上げられた。ところが肝心の政策に関する論争に対しては、メディアは「中立」に名を借りた政府の圧力によって、ほとんど何も取り上げずじまいで、それこそ一時の感情によるイメージ選挙に終始した。

・政府は沖縄で敗北すると、その翌日に機動隊を動員して、高江のヘリポート建設に反対する住民を暴力的に排除する行為に出た。県民の意思を無視した暴挙だが、メディアに大きく取り上げられることはなかった。弱者切り捨ての方針は明確だが、沖縄に冷酷に対応すればするほど,強者であるアメリカへの追従が明らかになる。また首相はこの時期にリニア新幹線を目玉にした28兆円の経済対策を表明したが,その裏で生活保護費や福祉給付金、子育て給付金、障害者年金、介護報酬、障害者事業者報酬などを削減、半減、廃止する政策も出している。まさにやりたい放題の犯罪的な行為だが、取り締まるどころか支持率が上がっているのだから、どうしようもない。

・感情と勘定が日本はもちろん世界中を劣化させている。ひどい時代になったもんだとつくづくと思う。