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2021年10月4日月曜日

iMacで悩んでます

 マッキントッシュのOSが"Catalina"から"Big Sur"に更新されたようです。ようですと書いたのは、僕の使うiMacには更新の通知が届いていないからです。パートナーがビッグ・サーに更新しろと言ってきてると聞いて、初めて気がつきました。どうして僕の所には来ないのか、気になってAppleを調べると、"Big Sur"はiMacでは2014年以降のモデルに対応とありました。僕のiMacは2012年ですから、もう新しいOSには対応しないというわけです。さて、どうしようか。かなり悩ましい問題です。

そう言えば、僕の使うiMacはすでに9年も経っているのです。そんなになるのかと思いましたが、今でも問題なく動いています。壊れるまでは使うつもりでいましたが、OSが更新できないとなると、ぼちぼち買い替えを考えなければなりません。けれども 、iMacにつなげて使っているディスプレイは、新しいiMacでも使えるのでしょうか。Appleは現在、ディスプレイを販売していないのです。

僕は1989年からマッキントッシュを使い続けています。今までに購入したマックはおそらく10台を超えているでしょう。何しろ最初の頃は数年経つと処理速度が遅くなって買い替えなければならなかったのです。しかも、最初に買ったSE30は100万円近くもしたのです。そこにいくと、最近のパソコンは進化が遅くなった気がします。今使っているiMacのプロセッサーを調べると、Quad-Core Intel Core i7で処理速度は3.4GHz、プロセッサーの個数は1、コアの総数は4とありました。今売っているものとどれほど違うのでしょうか。

同じ27インチで調べると、3.1から3.8GHzまで3種類あってコアが6〜8とありました。ターボブーストを使うと最大5GHzになるとありましたが、ここ10年、あまり変わっていないことがわかりました。これなら壊れない限りは買い替える必要などないなと思いました。しかし、24インチのiMacは新しいのが出たばかりで、プロセッサーはApple M1チップという新しいもののようです。さらに、これから発売されるものとして30インチのiMacの噂があるようです。今は大きな変化の時期なのかもしれません。

もう一つ気になるのは、新しいiMacを購入したら、古いiMacをディスプレイとして使えないかという問題です。壊れていないのに捨てるのは何とももったいない気がするからです。今のところダメという記事が多いですから、やっぱり壊れるまではこのまま使うことにしようと思っています。そのためにも、iMacにあるデータは確実にバックアップしておかなければなりません。

AppleはGAFAの一角として世界を席巻しています。その旗手(機種)は何といってもiPhoneでしょう。僕は2014年に最初のiPhoneを購入して、昨年SE(第2世代)に買い替えました。最初の5sが6年で使い物にならないほどに遅く感じられたからでした。もっともiPhoneは電話以外にはほとんど使っていませんでしたから、買い替える必要もなかったのですが、今さら電話だけで使う携帯に代える気にもならなかったのです。Appleは毎年新機種を出しています。それに合わせて毎年買い替える人がかなり多いのでしょう。パソコンとは力の入れ方がずいぶん違うとつくづく感じました。

2021年9月20日月曜日

使える翻訳ソフト

 インターネットが始まった時に、欲しいと思ったのが翻訳ソフトだった。海外のサイトにアクセスして、面白そうな記事に接する楽しさを味わうのに、辞書片手に訳したのではまだるっこしいと感じたからだった。そこで、学科の予算で高額の翻訳ソフトを購入したのだが、ほとんど使い物にならずにがっかりした記憶がある。それに懲りて、以後ソフトを購入することはなかったが、新しいフリーのソフトが出るたびに試してみて、まだまだダメだなと感じ続けてきた。

最近、使える翻訳ソフトがあるという記事に触れて、実際に試してみた。そして、その実力にびっくりした。"Deepl"はドイツのケルンにある"Deepl GmbH"が開発したソフトである。ウィキペディアには「Google翻訳より精度が高く、微妙なニュアンスのある翻訳ができると肯定的な報道を受けている。」とあった。

"Deepl"は英語だけでなく24の言語を552の言語ペアで翻訳することができるようだ。何より、5000文字以内であれば、無償で利用できるのがありがたい。もちろん長文でも、5000文字ずつに分けて翻訳すれば、どれほどの量でも訳すことができる。日常的によく利用しているが、英語から日本語だけでなく、自分の書いたものを英語にすることも試していて、ちょっとした修正だけで、十分使えることも確認した。

たとえば、最近では大谷選手の活躍を伝えるMLBのニュースをコピペして、日本語にすることをよくやっている。たとえば、次のような文章だ。

Angels manager Joe Maddon indicated on Thursday that Ohtani could be shut down for the season with soreness in his pitching arm, but Ohtani threw a 32-pitch bullpen session without any issues on Friday. Ohtani was originally scheduled to start Friday's series opener against Oakland, but will now take the hill in Sunday's finale. Right-hander Jaime Barria is expected to be pushed back to start against the Astros on Monday..

 エンゼルスのジョー・マドン監督は、木曜日に大谷選手が投球腕の痛みで今シーズンを棒に振る可能性があると指摘しましたが、大谷選手は金曜日に32球のブルペンセッションを行い、問題なく投球しました。当初、大谷は金曜日のオークランドとのシリーズ開幕戦に先発する予定でしたが、日曜日のフィナーレで登板することになりました。また、右腕のハイメ・バリアは、月曜日のアストロズ戦での先発に延期される見込みです。
ほぼ修正のいらない翻訳だが、それでは和文英訳はどうか。自分の書いた文章で試してみた。前回載せた「オリパラの後は自民総裁選ばかり」の冒頭の部分だ。
 オリンピックが始まると、NHKはもちろん、民放までが中継一色になった。そうなったらもう見るものがまるでない。当然、パソコンでネットを見る時間が多くなった。Amazonで映画を見ることが増えたし、大谷の出る試合もAbemaで楽しむようになった。どちらもスマホとテレビをつなげて大画面で見ることができたから、放送局の提供する番組など、ほとんど見る必要もなかった。

When the Olympics started, NHK and even the commercial broadcasters went all in on the coverage. Then there was nothing left to watch. Naturally, I spent a lot of time on the Internet on my computer, watching more and more movies on Amazon and enjoying Otani's games on Abema. In both cases, I was able to connect my phone to the TV and watch on the big screen, so I hardly needed to watch the programs offered by the broadcasters.

自分で訳すよりずっとましな気がする。これだけできれば、英文のサイトを作ろうかといった誘惑にかられてくる。とはいえ、数ヶ月をかけてホームページを丸ごとBloggerに転載したばかりだし、英文でのコメントがたくさん来たら、その返答に忙殺されるかもしれないからと、二の足を踏んでいる。 

2021年8月2日月曜日

自転車ロードレースだけ観た

 

・ テレビがオリンピック一色になって、見るものがなくなった。毎日楽しみにしていたMLBの試合をNHKは中継しないから、スマホをテレビに接続してAbemaTVやYouTubeで見ている。今日はどっちで見るか、見られるか。試合が始まるとあれこれ試さなければならないから、オリンピックが邪魔で仕方がない。もともと興味のない種目で日本がいくら金メダルを取っても、そんなことには興味も関心もない。大騒ぎしているだろうテレビなどは、見る気にもならない。それにしても、エンジェルスは弱いが、大谷は打って、投げて、走ってと孤軍奮闘の活躍だ。このまま行けば間違いなくMVPだろう。試合中も大谷が出ると「MVP!、MVP!」の大合唱になる。

roadbike2.jpg ・ オリンピックは観ないと書いたが、一種目だけ観たものがある。男女の自転車ロードレースで、両方とも、ネットで長時間つきあった。レース自体は単調だが、マラソンとは違って面白いシーンもあった。何よりスタート地点の武蔵の森公園は実家の近くで、周囲の道は熟知しているし、道志から山中湖、篭坂峠を下って富士山に登り、富士スピードウェイに至るコースも、車では何度も走っていて、わかっていた。山中湖は自転車で1周したこともあった。

・コースの全長は男子が244kmで女子が147km、獲得標高は男子が4865mで女子は2692m。この距離と大半が登り坂のコースを男子は6時間、女子は4時間ほどで走った。僕は平坦な道をおよそ30km弱で1時間ほど走るのを日課にしているから、レースがどれほどの早さで走っているかがよく分かった。平坦な道なら50km、登り坂でも30km、下り坂になると80kmを超えるスピードを出すのだから驚いてしまう。しかも連日の酷暑で山中湖だって30度近くあったはずだ。熱中症になって倒れる選手がいなかったのが不思議なくらいの過酷なレースだったと思う。

roadbike1.jpg・ロードレースは個人競技だが、複数の選手が参加する国では、それぞれに役割が与えられている。強い国は最高5人まで参加できるから、一人は、水や食料の調達と配布役になって、集団の中を行ったり来たりする。あるいはエースに何かあって遅れたりすれば、風よけになって先導して集団に追いつけるようにする選手もいる。オランダは、そうやってサポートされた女子選手が銀メダルを獲得した。ツールド・フランスでもそうだが、ロードレースには役割分担を徹底させた団体競技という性格が強くある。

・もうひとつ、6時間も休まずに走り続けていれば生理的欲求もあるはずだ。今回代表で参加し、35位で完走した新城選手が、走りながらしちゃうんだという話をしていたことがある。タイツの脇からちょっと出してするから、自分だけでなく周りの選手にも飛沫がかかる。皆やるから気にしないんだと笑っていたのが印象的だった。さて今回はどうか。そんなことも気にしながら観ていたのだが、そういう行為に及んでいる選手は見つからなかった。さて女子は………。いや、やめておこう。

・ところで、今回のコースの最大の難所は富士スピードウェイから三国峠に登る道で、平均斜度が10%で最大では20%を超えるところもある。7キロほどの道で500mも上がるから、車で走ってもアクセルを強く踏む必要があるし、下る時にはエンジンブレーキを利かせないと危なく感じる道でもある。道路にはすべり止めのドーナツ状の穴があいている。そんな道を先頭の選手は平地でも走るように登っていった。すでに東京から200km近く走ってきて、なおこの元気さは人間離れしていると思ったが、多くの選手は3週間に及んだツールド・フランスを終えて、すぐに日本に来ているのだった。

・プロ選手の強靭さと過酷なスケジュールを改めて知ることになったが、女子は数学を専門にする研究者でもあるオーストリアのアマ選手が優勝した。スタートしてすぐに飛び出して、そのままゴールまで先行したのだが、プロのレースでは、ありえないことのようだった。彼女にはもちろん、サポート役もついていなかった。2位になったオランダの選手はゴールするまで優勝したと思っていたようだ。他の大きなレースでは使われるコーチからの無線連絡が禁止されていた結果で、それも面白いと思った。

・テレビ中継がなかったせいか、沿道には大勢の観客がいた。特に府中の大国魂神社周辺は大混雑だったようだ。テレビや新聞には批判の声が多く上がったようだが、オリンピックを強行しておいて、見に行くなというのは、主催者の身勝手というものだろう。それで感染者が増えるのなら、それは主催者にこそ責任がある。メディアから聞こえる批判は、責任逃れの言い分でしかないのである。もっとも僕は、ワクチン接種をしていないから、人混みには出かけない。

2021年5月10日月曜日

Bloggerを始めました

 僕は今、ホームページの他にブログを公開しています。ホームページは1996年に始めて、勤務先が変わった1999年から現在のページになっています。おかげさまで23年かけてカウント数が100万近くになりました。ブログはホームページと全く同じもので、2011年にゼミの学生と一緒に作リ、現在まで続けています。どちらも大学内のサーバーにありますが、ブログのソフト(Movable Type)が古くなって、7月で更新できなくなると連絡を受けました。で、新たにブログを作る必要が生まれました。

僕のホームページは、今でもHTMLを打ち込んで作成しています。ブログを始めた時に、その必要がほとんどなくなったことに驚きましたが、それでホームページをやめようとは思いませんでした。一度作ってしまえば、新しい更新記事を構成するHTMLは大体コピペで済んでしまいます。それほど面倒に感じなかったことが、今まで続いた理由だと思います。もっともHTMLもずいぶん進化しているようですが、僕の知識は始めた頃のままで留まっています。ホームページという名称は表紙になるフロントページをさしていますが、Tシャツも掲示板スタイルも最初から変わっていません。おそらくやめる時まで変えないだろうと思います。

さて、ブログの更新をどうするか。そこでBlggerにチャレンジしてみました。新しいことをやろうと思えば、何であれ、最初はわからないことだらけです。背景をどれにするかいろいろ試してみましたが、気に入るものがなくて、結局無地のシンプルなものにすることにしました。サイドバーには「カウンター」や「関連サイト」、それに「お気に入り」などを入れ、カレンダーもつけました。Bloggerだけ見ていては、どうすればそれができるのかわからないので、それぞれGoogleで「Blogger カウンター」などと検索して、見よう見まねで作っていきました。で、まずは最初の一つを公開ということになりました。ひと月ほど前のことです。

実際に作ってみて、誰かのページに似ているなと思いました。すぐに同僚だった川浦さんのサイトだと思い当たって、確認するとサイドバーに「過去の記事」と「記事カテゴリー」がありましたから、これも参考にして作ることにしました。そうすると過去の記事を追加したくなります。さて投稿日を明記してアップするにはどうしたらいいか。あれこれ探すと日時を指定できることがわかりました。こうなると、今まで公開した記事をすべて載せたくなりました。一気には無理ですから、とりあえず過去1年ぐらいをやってみることにしました。

Bloggerが優れていると思ったのは、Blog {Movable Type} の記事をコピペすれば、そのままほぼ同じものになることでした。画像の位置や大きさは少し修正する必要がありましたが、画像をいちいちアップする必要がないのは驚きでした。ページのソースがどうなっているのか調べると、HTMLもそのままにペーストしていて、画像はホームページとリンクされていたのです。これなら、ホームページの他にブログをアップするのに、手間はそれほどかかりません。1年分をアップすると数時間かかりますが、少しずつやれば、数ヶ月あればすべてアップできるのではないかと思います。

僕のホームページは25年続いていて、画像もかなりの分量になっています。動画はほとんど載せていませんが、画像の解像度をあまり落としていませんから、Blogger用に解像度を落とす必要があると覚悟していました。しかし、大学のサーバーとリンクしているのなら、bloggerに画像をアップする必要はなくなります。とは言え、これを機会に、画像の点検もして、ホームページも軽量化しようと思っています。

今までのブログに新たな更新はできなくなりますが、まだしばらくは公開され続けるようです。しかし、いつ閉鎖されるかわかりませんから、これまでブログに訪問されていた方にはBloggerに変更していただきたいと思います。もちろんホームページそのものは、これからも変わらず更新しますから、そちらにおいでの方には、特に変更する必要はありません。どうぞ下のボタンをクリックしてBloggerをご確認ください。よろしくお願いします。 


2019年6月17日月曜日

DAZNをはじめた

 

dazn.jpg・スポーツには見たいもの、気になるものがいくつかある。そのうちテレビで見ることができるのはごくわずかだ。たとえばメジャー・リーグは毎日中継しているわけではないし、見たい試合をやっているわけでもない。日本のプロ野球(NPB)やJリーグにはそれほど興味はないが、それでも見たくなる時はたまにある。サッカーの国際試合は我が家では映らない民放が中継することが多いから、見られないことがしばしばある。ましてや自転車やF1などは、テレビではほとんどやっていない。そんな物足りなさを感じていたら、ブラウザーにしきりにDAZNの広告が載るようになった。

・DAZNはダズンではなくダゾーンと呼ぶ。各種スポーツを提供するインターネット・テレビで、イギリスに拠点を置いているようだ。日本では2016年からサービスを始めている。野球やサッカーはもちろん、モーター・スポーツや自転車、ラグビーやアメリカン・フットボール、さらには格闘技などのライブや動画を配信している。ぼくはたまたま自転車の「ジロ・デ・イタリア」の様子をYouTubeで見て、DAZNがライブを配信していることを知った。DAZNに行くとメジャー・リーグも毎日数試合やっている。自転車が気になったし、NHKのBSではMLBは限られているから、契約することにした。最初の1ヶ月は無料で、継続したければ月々税込みで1890円払うことになる。継続するかどうかはわからないが、今は1ヶ月のお試し視聴を楽しんでいる。

・スポーツならライブが一番だが、そうでなければ、視聴する時間を自分で決められるインターネットは、自分にとっては好都合だ。だからますます地デジからは遠のくようになった。そんな傾向に対応するためかNHKもネット配信を予定しているようだ。広告費がネットに移動して収益が落ち込んでいる民放も追随することだろう。しかし、同じ番組をただネットに垂れ流しても、それで視聴者数を維持したり、増やしたりできるわけではない。バラエティばかりのテレビは飽きられているし、政府にべったりの報道姿勢にも批判は高まっている。

・大体、政権に批判的な報道番組がここ数年でずい分減ってしまっていて、そのうちのいくつかはネットで放送されたりしている。ぼくは愛川欽也が「朝日ニューススター」で放送していた「愛川欽也パックインジャーナル」を楽しんでいたが、それが廃止になり、2012年に欽也自身が開局したkinkin.tvの「愛川欽也パックインニュース」を視聴するようになった。彼が亡くなって、2013年に「デモクラTV」として再開されてからずっと視聴しつづけている。月額525円ですでに6年が経過した。最近の政治や経済、社会について、意見や認識を共有できる論客やジャーナリストがいる番組になっている。こことは別れてYouTubeで「デモクラシータイムス」という名のチャンネルを提供しているところもあって、前者は東京新聞、後者は日刊現代と提携している。

・インターネットではすでにAmazonプライムに契約して、映画視聴を楽しんでいる。YouTubeでテレビやラジオの番組を見たり聞いたりすることも多い。YouTubeはCMで中断して不快に感じることがあるが、お金を払ってCM抜きにする気はない。他にも映画、スポーツ、音楽など、お金を払えば見放題、聞き放題のサイトが乱立しているが、今のところ、これ以上に増やすつもりはない。

・ところでDAZNだが、アメリカ旅行中にはMLBのライブを楽しむことができなかった。配信しているのはアメリカ国外であることがわかって、帰国するまで見ることができなかった。MLBのライブ配信はMLB自体がやっているから、アメリカではここと契約する必要があるのだろう。しかしDAZNは日本のプロ野球を毎日ほとんど全試合、ライブ配信している。ライブ配信によるMLBの収入はかなりの額になると思うが、NPBはライブ中継からどれほどの収入を得ているのだろうか。そんなことが気になった。

・放送はNHKなら受信料の徴収、民放なら広告収入で成り立っている。NHKはなかば強制的だし、民放には見たくないCMがたくさん入る。だから、見たいもの、聞(聴)きたいものだけをお金を払って楽しむという方式は、ぼくにとってはずっと好ましい形態に思える。とは言え、既存の放送局もネットに本格的に進出しようとしていて、視聴者の奪い合いがますます熾烈になっていくことに、DAZNを見始めて改めて気がついた。

2019年1月28日月曜日

パトリシア・ウォレス『新版インターネットの心理学』 (NTT出版)

 

wallace1.jpg・この本の旧版は1999年に出版され、日本では2001年9月に翻訳されている。ぼくは2003年1月にこのコラムで紹介した。インターネットが一般に使えるようになったのは1995年だから、ごく初期の利用者に見られた特徴を描き出そうとしたものだった。それが同じ著者による改訂版として出版された。翻訳を2冊ともやっているのは川浦康至だが、彼はぼくとは大学の同僚で、一昨年一緒に退職した仲である。退職と同時に遊んでばかりいるぼくとは違って、彼は500ページにもなるこの本を翻訳した。しかも贈っていただいたからには何はともあれ紹介しなければならない。で、がんばって読んでみた。

・前作でぼくが注目したのは、「インターネットのリヴァイアサン」と「集団成極化」だった。「リヴァイアサン」はトマス・ホッブスが国家について使った概念で、人間がたがいに争い合うことを避けるために各自が持つ「自然権」を国家(リヴァイアサン)に譲渡すべきだとしたものである。国境がなく世界中の誰もが参加できるネットの世界には、そこを統治する権力は存在しなかった。だから参加者たちは、やりたい放題ではなく、その場が機能するようにルールを決め、エチケットを心がけることが前提にされ、「ネチケット」とか「ネチズン」といった言葉が使われた。

・しかし、インターネットが急速に進化すると、多様な場にいろいろな人たちが接触するようになり、誹謗中傷や暴言が飛び交うことが問題にもされた。前作が主なテーマにしたのは直接接触の場とインターネットにおける、自己呈示の仕方の違い、他者との関係の持ち方の違いと、それによってもたらされた、世界の出現であった。ネットへの参加は何より「匿名」であることが一般的で、それが直接接触の場ではできないことを可能にした。またネットは同じ意見や趣味を持つ者との接触を容易にした。そうやってできた似た者同士の集団は、極端に走りやすい特徴を持った。ウォレスはそれを「集団成極化」と名づけた。

・『新版インターネットの心理学』の原著 は2016年に出版されている。だから前作からは17年後の改訂版である。インターネットはこの17年の間に大きく変わり、まったく別物になったといってもいい。何より利用者の数が桁違いだし、利用の仕方も多種多様になった。スマホの登場によって人びとの日常生活に深く入り込み、なくてはならないものになったし、世の中を大きく動かす手段としても使われるようになった。だからこの本で扱う事例も複雑で多様だが、しかし、基本的な所では案外共通しているとも思った。

・たとえばそれは目次を見ればよくわかる。章構成は第一章の「心理学から見るインターネット」から始まって、「あなたのオンライン性格」「インターネットの集団力学」「オンライン攻撃の心理学」「ネットにおける好意と恋愛」と続くが、これは旧版とほとんど一緒である。違いは旧版ではインターネットとポルノの問題が独立していたが、新版ではジェンダー問題と合わせて「ネットにおけるジェンダー問題とセクシャリティ」になった。反対に新版で新たに加わったのは「オンラインゲーム行動の心理学」と「子どもの発達とインターネット」、そして「オンラインプライバシーと監視の心理学」だ。

・もちろん、旧版と似た章構成の部分も、中身はほとんど変わっている。ネットでの自己呈示は文字が中心だった段階から画像が容易に使えるようになり、音声や動画も当たり前になった。フェイスブックやツイッター、インスタグラムやユーチューブなど、利用できる場は無数にある。当然、そこでの自分の「印象管理」も複雑で多様になるわけで、その細かなケースを豊富な先行研究を紹介することで検討している。同様の方法はネットにおける個人や集団間にあらわれる友情や恋愛、手助けや協力、そして妨害や攻撃を扱う章にも通じている。

・人生の途中でインターネットに出会った「デジタル移民」と違って、現在では生まれた時からインターネットが身近にある「デジタル世代」が、すでに成人に達しようとしている。実社会とは違うもう一つの世界として認識するのではなく、両者が混在一体となっていることを当たり前に思う感覚は、「デジタル移民」には持てない感覚だろう。

・インターネットは「移民」の一人としてぼくも便利に使っていて、もはやなくてはならないものになっている。便利だが、言動のことごとくをチェックされ監視されているのを自覚することも少なくない。その意味で、ネットにまつわるさまざまな問題と事例を検証しているこの本は、人間個人から関係、そして社会に及ぶ問題を視野においている。だから、一気に読むだけでなく、時に応じて気づいたことを辞書のように確認するにも使えるものだと思う。

2018年7月30日月曜日

佐々木裕一『ソーシャルメディア四半世紀』(日本経済新聞社)

 

socialmedia.jpg・四半世紀は25年だから厳密には、この本が分析対象にするのは1993年から2018年までということになる。しかし1993年はブラウザのモザイクや、そこにホームページなどを作成するHTML1.0が公開されたばかりの年である。だからもちろん「ソーシャルメディア」といったことばも存在しなかった。一般に使われるようになったのは2006年だと言われている。
・実際本書が扱う「ソーシャルメディア」は2001年からで、5年刻みで五部構成になっている。500ページを超える大著で、主にビジネスとして成立することを目指したユーザー・サイトについて、その設立者や運営者にインタビューをしながら、長い時間をかけてまとめたものである。25年ではなく18年ほどだが、インターネットとそれに関連する世界の急速な変容が整理された好著だと思う。

・ぼくがインターネットに接したのは1995年で、大学の研究室からだった。電子メールという新しい通信手段を使い、ネットスケープ(ブラウザー)によって国内はもちろん世界中のサイトを訪ね歩いた時の驚きや興奮は、今でも良く覚えている。サイトを探す時に使う検索エンジンはYahooで、できたばかりのAmazonで洋書を購入するようになった。書店を通すのとは段違いに早く、低額だったから、一時は研究費の多くを洋書に費やすほどだった。海外のサイトでものを買ったり、ニュースに直接アクセスするという経験は、それほどに新鮮なものだった。
・またHTMLを覚えて、1997年からこのサイトを作り始めた。もう21年になるが週一回の更新を一回も休まず続けている。始めて数年経つと一日100前後のアクセスがあり、その数は多少の増減はあったが、今でもほとんど変わらない。1999年に勤務校を変えたが、そこから数えてアクセス数はもうすぐ78万になる。単純に割ると1年のアクセス数はおよそ4000ということになる。増えもしないが減りもしない。見捨てられるのはさみしいが、やたら増えすぎても対処できなくなる。だからぼくはこの数に安心し、満足している。

・この新しい通信手段にどんな新しい世界が作り出せるか。そしてどうしたらビジネスとして成り立つか。インターネットの四半世紀は、そういう夢や野望を持った人たちの戦場という一面も持っている。万単位の人を集めるために考えられた一つが、ユーザーに積極的な参加を求めるものだった。アクセス数が増えれば、そこに広告を載せることが可能になる。あるいは参加者に課金することも出来るようになる。しかし、対処すべき課題は魅力的なサイトにしてアクセス数を増やすことだけではない。インターネットはただで利用できるメディアだという通念を、どうしたら変えることが出来るか。広告の内容とアクセス者のマッチングはどうしたら可能か。ビジネスサイトの創設者や運営者は、絶えず、このような難問と取り組むことになった。

・この本に登場するのは商品や店について、消費者どうしの情報交換の場を提供した「カカクコム」や化粧品の口コミサイトの「@cosme」、「食べログ」、質問と応答の場である「はてな」、電子掲示板の「2ちゃんねる」、ネットワーキング・サービスの「mixi」「GREE」「LINE」、そしてオンラインやソーシャル・ゲームを提供する場等々である。この中には年商が数百億円になったものも少なくない。あるいは「LINE」や「メルカリ」のように、公開した株価が総額で1000億円を超えるといった規模になっているものもある。

・ここにはもちろん、インターネットを支えるインフラの進歩や変化もあった。「ブロードバンド」が普及したのは2000年代で、それによって動画などの大容量のデータがやりとりできるようになった。2010年代になると、ネット利用にスマートフォンが加わり、パソコン以外で大量の人がアクセスするようになった。それに合わせて広告の仕方も代わり、またその規模も飛躍的に拡大した。

・いつでもどこでもスマホでネット。今はもうこういう時代になっている。「思想を持ったスモールメディア」(第一部)が「ユーザーサイト・アズ・ビッグ・ビジネス」(第二部)になり、「ユーザーサイトの黄金期」(第三部)を迎え、「メディアから仕組みへの助走」(第四部)を始めるようになった。世界中の人が多様な使い方や接触の仕方をすることを可能にしたメディアが、いくつかの巨大な企業によってコントロールされ、アクセスする人たちの自発的な行動から、簡単で便利な受け身的なそれに変わってきた。

・実はこの本の著者は、大学で同僚だった人である、広告やネットビジネスが専門領域だったから、ビジネスにも広告にも批判的で無関心だったぼくは、どんな研究をしているのか、ほとんど知らなかった。実際この本でも、ネットビジネスの可能性を追求する人たちに対するたくさんのインタビューについては、こういう人たちがネットを変容させてしまったんだと思いながら読んだ。何しろぼくはインターネットは今でも、「思想を持ったスモールメディア」であるべきだと思って実践しているのである。

・もっとも著者の佐々木さんは、大学では教務主任などの激職を長期間やり、学部の運営を支えてきた人である。こういった職に就くと研究自体を忘れてしまう人が多いのだが、彼は研究者としての自分の仕事を続け、大著をものにした。この本を贈られ、手にして読み始めた時に感じたのは、校務に負けずに頑張った、その努力や熱意に対する敬服の念だった。ご苦労様、そしてこれからもいい仕事を。

2018年5月14日月曜日

CDではなくYouTubeで

 

・これまで何十年もCDは、大学からもらう研究費で買ってきた。書籍ではなくCDがなぜ、研究費として認められるのか。そんな疑問に対して、音楽を研究対象にしていて論文も書いていることを説明したのは、もう30年程前のことだ。おかげで書斎には2000枚程のCDが貯まっている。そのCDも、ずいぶん前から、買ってすぐにパソコンにコピーしたら、ほとんど聴くこともなくなってしまった。iTunesに入れた音樂はiPodやiPhoneやiPad、そしてSDカードなどにコピーして、車を運転しながら、自転車に乗りながら聴いている。家でも聴くのも、大概ステレオに接続したiPodや使わなくなったスマホばかりである。だからもうCDで買う必要はなくなっているのである。

・とは言え、ダウンロードで買った事はほとんどない。CDにはジャケットもライナーノーツも歌詞もついていて、それも含めて一つのアルバム(作品)だと思うからである。もっとも、本当に欲しいと思うもの以外は買わないようになった。大学を辞めて研究費をもらえなくなったこともあるが、欲しいと思うものがめったにないこともある。音樂を材料に論文を書く気もなくなったから、そんなものなのかな、とも思うし、新しい音楽やミュージシャンの中に、気に入ったものを見つけることが出来なくなったとも感じている。若者のロック離れとギターが売れなくなったことが話題になっている。ギターの老舗ブランドのギブソンが倒産したのは、音楽の好みが変わったことが原因だとも言われている。

youtube1.jpg・そうなると、すでに所有している音楽だけをくり返して聴いていると思われるかもしれないが、必ずしもそうではない。最近の発見は、YouTubeなどにCDとしてはほとんど持っているミュージシャンのライブを中心にしたビデオクリップがたくさんあることだった。たとえばボブ・ディランには"Sad Eyed Lady Of The Lowlands"という名のチャンネルがあって、古いものから最近のものまで、ライブを中心にした動画や音源がリストアップされている。画像も音質もさまざまだが、毎日のように新しいものがアップされるから、追いかけるだけでも忙しい。

・しかもそんなチャンネルは無数にある。たとえばピンク・フロイドはその初期の作品を作ったロジャー・ウォーターが脱退して、著作権を巡る争いもあったのだが、それぞれが別々に行ったライブや、一緒に行ったものなどが大量にある。ピンクフロイドのコンサートは、音だけでなくステージに映し出される映像も魅力だったから、ただ聴くだけでなく同時に見入ってしまうことも少なくない。

・YouTubeのチャンネルには、ミュージシャンがオフィシャルとして出しているものもあるし、そうでないものもある。ヴァン・モリソン、U2 、ジャクソン・ブラウン、ニール・ヤング、ライ・クーダー、パティ・スミスなどなど、探しているとおもしろいものが次々見つかって飽きることがない。これではもう買う必要もないかも、と思ってしまうほどである。

youtube2.jpg・ 怪我をして去年の日本公演をキャンセルしたエド・シーランの4月のライブが、さっそくアップされた。大阪でのもので、2時間弱、たった一人でギター一本でやるパフォーマンスは、まるで会場に行っているような迫力があった。オフィシャルではないから、映像は最前列の右に固定されていたが、音も映像もすごくよかった。このチャンネルには外のミュージシャンの日本公演を撮ったものが数多くある。

2015年12月14日月曜日

アマゾンで映画のただ見

・アマゾンからビデオをただで見放題というメールがあったのは数ヶ月前だった。もちろん誰でもというわけではなく,プライム会員限定のサービスである。田舎に住んでいるから、僕の家では本だけでなく、家電製品から食料品、衣料品などあらゆるものを購入している。かなりの上得意だから、このぐらいのサービスはしてもらっても過剰ではないかもしれない。何しろ、僕の家の近くには映画館がひとつもない。これはなかなかいいと思ったのだが、残念ながら見たい映画はそれほど多くなかった。

・テレビがますますつまらなくなった。食事やその後の食休み時しか見なかったのだが,その時間にも見たいものが何もないことが多い。その意味では、ますますテレビ離れがすすむばかりだが、と言ってパソコンでじっくり映画を見るのは,何となく馴染めない。ただでさえパソコンに向かっている時間が多いから、これ以上増えるのは、もう不可能に近いのが現状だ。そんなわけで、まだ数本しか見ていない。

・ジム・ジャームッシュの映画はほとんど見ているが、大学の卒業制作だという『パーマネント・バケーション』があって、これを見た。ニューヨークに暮らす青年の退屈な生活が描かれているが、集中しないで見たから、今ひとつという気がした。彼の映画はほかに『ダウン・バイ・ロウ』と『ストレンジャー・ザン・パラダイス』がリストされている。そのうち見直そうかと思ったのだが、両方ともビデオカセットでもっている。もっとも、すでにビデオ再生機はない。

・僕の研究室には、映画やドキュメントなどのビデオカセットが数百本ある。かつては,それを講義やゼミで一部を見せたりしていたのだが、ネットを利用することで,ほとんど使わなくなった。もう一度見るといったこともほとんどしなくなって、もう見ることができなくなった。DVDにコピーも考えたのだが,面倒で数枚で辞めた。だから、退職する時にはすべて廃棄処分ということになる。

・もっともDVDで買ったり、録画したものも,くり返し見るといったことはほとんどない。だから、アマゾンでいつでも好きな時に見られるのなら,所有する必要はないのだということに気がついた。大学を辞めれば,資料や教材として持っておくこともない。本やCDも含めて,これからはどう処分するかが最大の課題になるのである。

・で、アマゾンのただ見だが、パソコンの画面で見るのはどうも落ち着かない。ついついほかのこともしたくなるし,メールが入ってきたりするからだ。もうあまり使わなくなった古いMacbookをテレビの台に置いて、アマゾン映画専用機にしようか。そうだとすると、あらかじめ見たいものをリストアップしておく必要がある。パートナーはすでに結構見ているようなので、調整も必要だ。もっとも、実際にそうするのは,退職してからということになるだろう。

・1年も経てば、見られる映画もずっと増えているはずだ。しかし、アマゾンのことだから、そのうち課金を取るように変更するだろうとも思う。ただより高いものはない。美味しそうな話には,無警戒に乗らないのが賢明だろう。

2013年6月10日月曜日

デモクラTVを見よう

・政治のこと、経済のこと、社会のこと、そして文化のことについて、身近な問題としてとらえ、時には行動しなければとこれほどに考える時代が、これまであったのだろうかと思う。ところが一方で、新聞やテレビがこれほど信用できない時代もなかったのではと感じることも多い。

・とは言え、頼りになる、信頼できると思えるジャーナリストや評論家と言われる人もいて、その人達が書いたものや登場するテレビ番組に、これまで以上に注意を向けるようになったのも確かだ。特に3.11以降は原発の是非を巡ってその立場をはっきりさせることが、信頼できるかどうかの基準になった。また、憲法改正の動きやTPP加盟といった問題、あるいはぎくしゃくし始めた韓国や中国との関係への対処法、さらには沈滞する日本経済を立て直すとして安倍首相が掲げた「アベノミクス」に対する評価等々、自分なりに考える上で、意見を参考にする人の数も増えた。

・Youtubeなどのサイトに、地上波やCSの番組が掲載されていて、おもしろい番組があるのを知ったのは3,11がきっかけだった。その中にCSの「朝日ニュースター」という名のチャンネルがあって、僕は愛川欽也が司会をした「パック・イン・ジャーナル」や「ニュース解説 眼」「ニュースの深層」といった番組を見るためにCSと契約をした。そこで神保哲生、青木理、上杉隆などのフリーのジャーナリスト達を知った。

・その「朝日ニュースター」が朝日新聞からテレビ朝日に身売りされて、番組の廃止やキャスター変更になった。同じ時期に京大原子炉実験所助教の小出裕章さんがレギュラー出演していた毎日放送ラジオの「種蒔きジャーナル」も廃止されたから、ぼくは政治的な圧力があったのではと思った。数少ない自由な言論の場が次々と消えていくことに危機感を持ったが、「パック・イン・ジャーナル」は愛川欽也が独自に立ち上げた「KInkinTV」で「パック・イン・ニュース」として生まれ変わることになり、「種蒔きジャーナル」も「報道するラジオ」と名を変えて継続されることになった。

democra.gif・「パック・イン・ニュース」を見るためには月に1050円の料金が必要だった。僕にとって欠かさずに見る番組だったが、愛川欽也の個人的な理由で1年間で休止になった。そしてこの4月から、この番組にレギュラー出演していた人たちが中心になって立ち上げた「デモクラTV」で継続されている。料金は毎月525円と半額になったが、内容は盛りだくさんで、毎週土曜日の昼に生放送される「本会議」の他に、レギュラー達がそれぞれ、独自の番組を持って、週一回の割で放送している。

・放送されたものはアーカイブに残されているから、暇な時間を見つけて、ほとんどを視聴している。内容は「田岡俊次の軍略探照灯」(軍事問題)、「早野透の時間」(憲法と政治)、「山田厚史のホントの経済」、「池田香代子の100人に会いたい」(インタビュー)、「ウッチーのデモくらジオ」(内田誠のトーク)、「鈴木耕の『原発耕談』」といったもので、短い間に充実した番組作りを成し遂げている。なかなか精力的で、これからもさらに番組を増やして充実させていくつもりだから、月々525円払って是非視聴して欲しいと思う。

2012年4月23日月曜日

インターネットでテレビを見る

 ・地デジをBSで見ることができなくなって、ますますテレビを見る時間が減った。4月の番組改編でNHKのBSもおもしろくなくなったから、テレビをほとんどつけない日もあるようになった。それで少しも困らないのは、興味を持てそうな番組(主に報道やドキュメント)は数日遅れでネットで見ることができるからだ。それで、ほとんど定期的に見るようになった番組には、次のようなものがある。15分の細切れになるYoutubeよりはDailymotionのほうが掲載されるのも早くて種類も多い。ちなみに、見たいものの検索は番組名よりは放映日の年月日(たとえば20120423)でやるのが確実のようだ。

・『玉川徹の「そもそも総研」』(テレビ朝日モーニングバード)
・『報道特集』TBS
・『報道ステーションsunday』
・『愛川欽也パックインジャーナル』

・「朝日ニュースター」がテレビ朝日に統合されて『愛川欽也パックインジャーナル』が終了した。愛川欽也は出演者や視聴者の強い要望に応えてkinkin.tvを4月に開局して、「愛川欽也パックインニュース」と名を変えて途切れなく番組を続けている。放映時間が決まっていて、しかも初期トラブルもあるから全部を見ることができていないが、がんばっているから、見続けようと思っている。ちなみに視聴料は月額1050円でDVDでの配布は月額2100円だ。愛川欽也はインターネットもパソコンもやらないようだが、ネットTVという新しい試みに挑戦する姿勢には感服するばかりである。

・「朝日ニュースター」ではほかに「ニュースの深層」という番組があって、4月以降もTV朝日のCS放送番組として継続しているのだが、キャスターは全員入れ替わっている。一方で「ニュース解説 眼」は廃止された。原発事故について厳しい指摘をし続けてきたフリーのジャーナリストたちの発言の場がなくなったのは全く残念だ。地上波のだめさ加減をかろうじてBSやCSが補ってきたという感があったのだが、政治や経済あるいは社会や文化に対する批判の眼が、テレビ全体から排除されつつあるように思われる。

・ネットで見つけたおもしろい番組はテレビよりはむしろラジオにある。MBSの「種まきジャーナル」は原発事故直後から小出裕章さんの出るものだけは欠かさず聞き続けているし、吉田照美が毎朝文化放送でやっている「吉田照美のソコダイジナトコ」は木曜日に出るおすぎやアーサー・ビーナードの発言ややりとりがおもしろくて、これもアップされれば必ず聴くようにしている。そんなふうにして検索していると、興味を持って聞きたくなるものは結構ある。ぼーっとテレビなど見ているよりはずっとおもしろいのである。

・インターFMで毎日(月〜金)の朝放送していたピーター・バラカンの「バラカン・モーニング」が3月で終わった。本人は否定しているが、原発批判などの発言が影響したのでないかといった声が、ネット上ではよく発せられている。忌野清志郎の反原発ソングを放送しようとして止められたりしたこともあって、ラジオとてそれほど自由でないことは今に始まったことではないが、それだけに、ネットをもっとうまく使う可能性を探るのは大事なことだろう。

2011年7月11日月曜日

「Twitter」と「Facebook 」

・大震災をきっかけに始めたと思っていたが、改めて確認すると、「Facebook」をはじめたのは2月4日で、「Twiitter」は3月8日からだった。だとすると理由は?ということになるが、これもブログに書いた文を読みかえすと、中東各地で起きたデモやそれを契機にした「ジャスミン革命」との関連で、FacebookやTwitterに触れているから、そのニュースによって、認識を新たにしたということなのかもしれない。ほんの数ヶ月前のことなのに、なんとも不確かな記憶しかないのは、歳のせいなのか、激動の年のせいなのか、あるいは校務に追われて落ち着きのない日々を過ごしているためなのか。

・いずれにしても、「Twitter」と「Facebook 」を自分ではじめようと思ったのは、そこに仲良しごっこだけではない、文字通りの「ソーシャル・メディア」としての可能性と実態を認識したからだ。実際、「Mixi」は当然だが、「Twitter」と「Facebook 」についても、僕はそこで生まれる関係性や動きについて、ほとんど評価してこなかった。個々の人の「さえずり」や友だち関係が大きなデモに拡大して、一国の体制を崩してしまう革命に発展するなどということは、まったく予想もしていなかったことで、そのことはおそらく、利用者はもちろんこれらのメディアを作った人たちでもそうだったはずである。

・もっとも「Twitter」の書き込み欄が英語で、"What are you doing?"から"What's happening"に変わったのは1年半以上前のことである。直訳すれば「何してる?」から「何が起きてる?」への変更で、理由は、実際の使われ方に対する個人的なことから社会的なことへという大きな変化があったことによるようである。とは言え、そのことを知ったのは、つい最近のことだ。


Twitterは当初、自分のリアルタイムの状況を共有するツールとして立ち上げ、ユーザーが「いま、カフェでコーヒーを飲んでいる」といったツイートを投稿することを想定していた。だが、実際の利用状況を全体的に見ると、「なにをしているか」という自分の状況よりも、目撃した事件や仕入れた情報など「なにが起きているか」に関するツイートが多いという。この現状に合わせ、もはや適切ではなくなってしまった「いまなにしてる?」という問い掛けを「いまどうしてる?」に変更した。(ITmedia ニュース)

・この説明は英語ではよくわかる。しかしそれに対応した日本語での「いまなにしてる?」から「いまどうしてる?」への変更には首をかしげてしまう。「なに」から「どう」で、なにがどう変わるというのだろうか。これでは、自分のことから、自分の周囲のことへという関心の変化は出てこない。そこに違和感を持たないとしたら、やっぱり、日本人が意識する「社会性」については、その特殊性を指摘しなければならない。

・同様のことは"twitter"を「つぶやき」と訳した点にも伺える。辞書には「さえずり」とあって「つぶやき」という語は載っていない。小鳥のさえずりが原義で、興奮してしゃべりまくるといった様子に使われることが多いようだ。だから"twitter"には、どうしても言いたいメッセージを大きな声で伝えるといった行為であることは明らかで、ひとりごとが基本の「つぶやき」とはまったく異なるコミュニケーションのはずである。

・もちろん、日本における最近の「mixi」の斜陽化と「Facebook」の台頭という現象には、「匿名性」という日本独特のネット利用から「実名性」へという変化が読み取れて、これはこれで大きなことなのかもしれないという感想はもっている。あるいは、「Twitter」が反原発のデモの呼びかけに使われて、多くの人を呼ぶ力になったことも指摘されている。だから、この二つのメディアは、多くの日本人がしてきたネットの使い方を変えるかもしれないと思う。

・で、僕自身の使い方だが、最初は日記のようにして、「Twitter」に一日一回書き込みをしていたのに、だんだん少なくなって、今ではこのコラムのアップを連絡するのに週一回だけ書くという状態になっている。「つぶやき」程度なら書き込む必要はないし、「さえずり」たいことが頻繁にあるわけではないからだ。また、知人や気になる人のフォローについても、個人的な書き込みの多いものはフォローを解除してしまった。「いまどうしてるか」ということは、どんなに親しくたって毎日気になるわけではない。だから、知人たちの「Twitter」にはブックマークをつけて、思い出したときにだけ出かけるようにした。

・「Facebook」は「Twitter」以上に使い慣れていない。とりあえず、知人同士で「友だち」になったが、それ以上にやりたいことが見つからない。「Twitter」に比べたら、おもしろい書き込み(ウォール)も少ないようだ。僕自身も書き込みは「Twitter」にして、「Facebook」にも自動的に転載するようにしている。とは言え、どうなるかは、これからのことだろう。

2011年2月14日月曜日

光がやってきた

・ブロードバンドが当たり前になって、もうずいぶん時間が過ぎたが、我が家では相変わらずISDNのナローバンドだった。それが昨年の秋に、突然、光ケーブルがやってくるという連絡が入った。何よりの朗報で、それから指折り数えて、工事の日を待っていたのだが‥‥‥。

・光ケーブルの敷設工事の様子は、きわめてわかりやすいものだった。湖畔の周遊道路にNTTの工事用車両が止まり、ケーブルを電柱に敷設していくのだが、車で通るたびに、我が家に近づいてくることがよくわかった。我が家に届くのは2月1日と決まっていたのだが、「早く来い」という気持ちで、工事の進む様子を眺めてきたのである。

・光の予約は、この地区では我が家が一番早かったようだ。だから、工事の始まる初日になったのだが、工事を始めてすぐに、敷設できないことがわかった。電話線は道路から我が家までは、地中に埋めたパイプを通っている。その古い線に光ケーブルをつないで引っ張って取りかえるのだが、古い線が動かないのである。今年は例年以上に寒く、特にここ数日は零下10度以下の日が続いた。だから、パイプの中で電話線が凍りついてしまったのである。

・「電話線を引っ張ってみて、動くようになったら連絡してください。」工事にきた人はそう言って帰って行った。暖かくなる春先まで待たなければならない。そんな事態に、こちらの熱も一気に冷めて、零下の気持ちになってしまったのだが、翌日から急に春めいて、最高気温が10度に近くなる日が数日続いた。そこで、ものは試しと電話線を引っ張って見ると、最初は堅かった線が動きはじめたのである。これはいい、と思ってさっそく連絡を電話でしたのだが、肝心の電話が繋がらない。どうやら、強く引っ張ったせいで電話線が切れてしまったらしい。

・電話もネットも繋がらないのではどうしようもないから、パートナーがNTTにケータイで電話をかけ、僕は縁の下に入り込んで、電話線を確認して、押したり引いたりしながら、回復しないか試みた。NTTの対応は早くて、すぐに工事担当者が来て、とりあえず電話線を新しくすることになったのだが、そうしている間に光ケーブルの担当者も来て、一緒に引いてしまうことになった。こういうのを「怪我の功名」と言うのだろう。

・もちろん、それですぐ開通というわけではなく、ルーターを設置して、晴れて使えるようになったのは、それから1週間後だった。残念ながら、開通した日は仕事があって、僕はその場に立ち会えなかった。しかし、当然だが、パソコンは立ちあげれば、プロバイダーに接続することなく、WiFiでネットに入ることができる。いつも見ているサイトに出かけても、ほとんど待つこともなく画面に現れる。研究室では当たり前の環境だったが、家でも同じ感覚で使えるのは、やはり快適だ。

・ところで、光ケーブルに変えるのにかかった費用は、工事費が6090円で、月額の費用は6510円だった。後は前回書いた地デジだが、光テレビが山梨県でも使えるようになれば解決される。ネットと電話とテレビ。三位一体での提供はCATVとの競争だが、地デジの電波や衛星放送と合わせていくつもあるテレビの受信方法は、どう考えても無駄という他はない。

2010年9月20日月曜日

アナログ、デジタル、有線、無線

・テレビ画面の上下に、アナログ放送の終了を告げるテロップが常時流れるようになった。何とも邪魔くさいから、見えないように画面調整すると、今度は字幕が読めなくなってしまったりする。まったく迷惑な話で、ますます地上波を避けるようになった

・すでに何度も書いてきたが、我が家は難視聴地域にあって、アナログの電波も届きにくかった。それはデジタル化しても同じで、アンテナを立てても見えない可能性の方が高いという。総務省はすでに、難視聴地域用にBSのチャンネルを使った地デジ放送を開始しているが、地域の選定は遅々として進んでいないようだ。やることをやらないでおいて、国民にはさっさと対応するよう請求する。だから邪魔なテロップを見るたびに腹が立ってしまう。

・そもそも、この地デジ化の方法は、将来の多様な電波利用の可能性を考えて決められたものではない。デジタル化にあたって最も考慮されたのは、既存の放送局の既得権を守ることだったようだ。だから多額の費用がかかり、国民に負担も強いている反面で、インターネットやケータイ電話に周波数を割り当てるという、将来的な可能性にはあまり目が向けられることがなかった。国会でほとんど議論されずに決められ、新聞もテレビも既得権のために、ほとんど問題にしてこなかった。こういう姿勢は、何も電波行政に限ったことではないが、ボーダレスにグローバル化したネットの現状は、狭い世界の既得権など無意味にしてしまうほど進んでもいるのである。

・3週間アメリカとカナダを旅行している間に見られなくて気になったテレビ番組が二つあった。NHKの「龍馬伝」と「ゲゲゲの女房」(パートナーのみ)である。ポートランドの友人宅でそのことを言うと、日本のテレビはほとんどネットで見ることができるという返事で、喜ぶやら驚くやらしてしまった。で、出発後に放映した二つの番組を、しっかり見たのである。これはもちろん、アメリカだから可能だったというものではない。ブロードバンドでネットに接続してれば、日本でも、そして世界のどこにいても可能なサービスで、契約などしなくても接続することのできるサイトがいくつも存在するのである。ちなみに、「龍馬伝」には韓国語の字幕がついていた。

・我が家はまだISDNという化石のような回線を使ってネットに接続している。だからネットでテレビというわけにはいかないのだが、アメリカでの経験で、日本の地デジ化がいかに意味のないものであるかということが、はっきりわかった気がした。電波のデジタル化は、テレビやラジオ、電話やネットといった既存の区別を無意味化する。それぞれが融合した形で、どのように進化するかが、今後の方向なのだとすれば、テレビの地デジ化が、きわめて古くさい発想の元におこなわれたものであることがわかるはずである。何年もたたないうちにテレビの地デジが廃止されるといったことが起こったとしたら、その責任はいったい誰が取るのだろうか。

2010年2月1日月曜日

DVDとYouTube


・今年の冬から春にかけては、なじみのミュージシャンがずいぶんやってきてコンサートをやるようだ。ボブ・ディランのほかに、ジャクソン・ブラウンとシェリル・クロウ、キャロル・キングとジェームズ・テイラーはジョイントでやる。どれにも出かけたいのだが、夜遅くなって家まで帰ることを考えると、やっぱり躊躇してしまう。第一に、会場近くに車を停めることができるかどうかも不確かだ。いつでも、「行きたいな」と思い、「どうしようか」と悩み、「やっぱり、やめとこう」となる。この繰りかえしで、もう何年も東京でのコンサートに出かけていない。けれどもやっぱり、ライブの魅力は捨てがたい。

・僻地に住んでいてネットは未だにISDNだから、YouTubeもほとんど見ることはなかったのだが、講義で使いたい材料を探しながら、好きなミュージシャンのライブ映像が結構あることを、今さらながらに発見した。ダウンロードはもっぱら大学の研究室だが、今年度の授業が終わり、成績もつけたから、これから、しばらくはじっくり検索できる時間がとれそうだ。もっとも、探したいのは、なじみのミュージシャンばかりではない。狙いをつけているのはロックンロールが登場する以前に活躍した伝説的なブルース・シンガー、中南米のフォルクローレ、ヨーロッパのシャンソンやフラメンコ、そしてアフリカの音楽だ。ここにはもちろん、現在のものだけでなく、歴史的なものが含まれる。

・来年度に新しくはじめる講義で数回、「ロマ」の音楽をインドからヨーロッパまで辿って、その民族の歴史的変遷と現状を話そうと思っている。集めたCDと画像を使ってと考えていたが、動画が見つかれば、もっといい。あるいは、ポピュラー音楽が現在のようなサウンドや楽器編成になったプロセスには、数十年、数百年の時間の経過があり、世界中を移動する空間的な経過もある。音楽のグローバル化は今に始まったことではないのである。

liveaid.jpg ・ハイチの地震で大きな被害が出ている。世界でもっとも貧しい国の一つで、ストリート・チルドレンが多数いる街が一瞬にして瓦礫の山と化した。その惨状にアメリカのミュージシャンたちが立ち上がっている。アフリカの飢饉に援助の手をと呼びかけられた「Live Aid」の再現だと言われている。「Live Aid」は、アメリカのフィラデルフィアとイギリスのロンドンを拠点にして、1985年に世界中で同時に開かれたライブだが、その記録は数年前にDVDで発売された。僕はテレビの生中継を見て、ビデオにも録画して、授業で何度か学生に見せてきた。DVDになったライブは他にもたくさんあって、 YouTubeとあわせて、ずいぶん便利になったものだと、つくづく感じてしまう。

 

madonna1.jpg・マドンナのライブ"I'm Going To Tell You A Secret 'を買った。CDとDVDのセットで、ついでに彼女のビデオクリップを集めたDVDも購入した。ライブもビデオクリップもよくできていると再認識した。マイケル・ジャクソンとほぼ同時期に大ブレイクして、どちらも音楽とダンスの関係を決定的にした。マイケル・ジャクソンが死んで、今は彼のCDやDVDが売れているが、この四半世紀、とりわけ21世紀になってからの仕事としては、マドンナのほうが圧倒的に勝っている。
・マドンナのビデオクリップを見ていてあらためて、ダンスはセックスなのだと再認識した。彼女の踊りはセクシーだが、同時にマッチョでもある。見ながら、虚と実、静と動、中心と周縁、露骨さと洗練さといったことばが浮かんできた。

・とは言え、基本的に音楽は耳だけでいい。そういう思いは変わらない。だから、DVDやYouTubeで探すのは、主に記録として価値のあるものになる。音楽を楽しむのは、圧倒的に何かをしながらの聴取で、映像もという時には、集中的な視聴が必要になる。だから録画したビデオや購入した DVDは、そのほとんどが一回限りの視聴で、後はほこりをかぶっている。DVDを買う気にならない理由の一つである。

2009年11月9日月曜日

インターネットの現在・過去・未来

 

ジョナサン・ジットレイン『インターネットが死ぬ日』ハヤカワ新書
ジェイムズ・ハーキン『サイバービア』NHK出版

internet1.jpg・新聞やテレビが死ぬ日ならわかるが、インターネットの死ぬ日というのはぴんとこない。そう思いながら『インターネットの死ぬ日』を読んでみた。原題は「インターネットの未来」で、この方が内容を的確に表している。
・この本によれば、インターネットの未来が問題なのは、あまりに巨大になりすぎた現状にある。ただし、それは大きさ自体にではなく、大きくなったゆえに政治力や資本に左右され、専門家や大企業だけに任されるようになってきた点、あるいは何より、安心して便利につかえることが最優先されるようになったところにある。インターネットは草の根の民主主義から生まれたメディアで、新聞や雑誌、ラジオやテレビとはまったく異なる形で発展してきた。その本来のメディア特性が、巨大化したことで失われつつあるというのである。

・20世紀に新しく生まれたさまざまなメディアや道具の多くは、完成品として特定のメーカーが生産し、商品として売られてきた。だから利用者には、そのハードもソフトも、自ら改良して使いやすくしたり、新しい機能を追加することなどはできなかった。不満を聞いて改善するのはあくまでメーカーの責任と権利で、それが次の新商品のセールス・ポイントにもなってきたのである。ユーザーが勝手に手を加えることは主として安全性の観点から法律で厳しく規制されてきた。しかし、パソコンとインターネットはまるで違う。

・インターネットとパソコンの特徴は,さまざまな人びとが夢を描き、アイデアを出し、実用化し、改良してきたことにあり、それを無料か少額の使用料で共有し合ってきたことにある。パソコンはAppleやIBMが商品化し、日本をはじめ世界中にメーカーが開発にしのぎを削ってきた。それを動かすソフトはMicroSoftの独壇場だが、新しい世界の開拓には、無数の人たちによる自由な競争や協力の成果であるものが少なくなかった。インターネットはまさに、その好例だと言えるだろう。

・ユーザーを利用だけに限定して、製品やサービスの機能の改善や開発はメーカーがおこなう。ジットレインは、パソコンやインターネットが、そういった発想の通用しないところで発展したことを力説する。そして同時に、巨大な企業によるユーザーを利用者として限定する新たな戦略の普及に危惧を抱く。ハードもソフトもブラックボックスになっていて、利用者には手も出せない。その例としてIphoneやXBoxの普及をあげるのだが、日本のケータイはその典型だと言えるだろう。

cyburbia.jpgg ・パソコンやインターネットの登場と草の根の民主主義の関係には60年代の対抗文化の影響がある。ジェイムズ・ハーキンが主張するのは、そのまた源流として、ノーバート・ウィナーのサイバネティックスの発想だ。サイバネティックスは情報は一方的な流れではなく相互のもの、つまり一つの情報が発せられた時には、すぐにそれに対するフィードバックがあり、そのやりとりがくりかえされることが重要だと考える。多様な人たちが平等に参加し、自由にやりとりすることで誤りや誤解が正される。それは権力による大衆操作に抗する力にもなる。パソコンとインターネットは、そんな発想に基づいて蓄積された情報の産物であり、それを可能にしたメディアだというのである。

・パソコンとインターネットはハードもソフトも、誰もが自由に参加して、新しい使い道を探し、改善できるメディアである。だからこそ、ウィルスが蔓延したりもする。商品として売られている映画や音楽が無償でダウンロードされて被害を被ったりもする。そういったリスクを防いで安全に使えるメディアにすることが何より必要だと考えれば、それに応じてさまざまな制限が施されることになる。しかしそれは、当然、これからも生まれるはずの可能性を摘むことになるし、人びとを受け身のユーザーに限定していくことになる。インターネットの未来は確実に、国家や企業のもとに舵きりがされはじめているのである。

2009年7月6日月曜日

BlackberryとMacbook Air

 

blackberry.jpg・携帯は一応持ち歩いているが、ほとんど使うことがない状態だった。家族との間の連絡にしか使っていなかったからだ。あってもなくてもいいもので、買ってから機種変更も一度もしなかった。しかし、NTTのMovaはサービスが停止になるという知らせが頻繁に来るようになったことや、 iphoneが気になったこともあって、買いかえを考えるようになった。
・どうせ変えるなら、メールを全て受け取れるものをと考えると、選択はかぎられてくる。iphoneだとソフトバンクに変えなければいけないのが面倒だし、キーボード付きでないのが気に入らない。そんなふうに思ってNTTのサイトを見ると、気を引く機種がひとつあった。Blackberry baldという名で、小さいけれどもキーボードがほぼフルで備わっていて、デザインもなかなかいい。で、さっそくDocomoショップに出かけて現物を確認することにした。

・僕はモノの選択についてはあまり迷ったことがない。一目で気に入れば即座に購入するし、迷うようなら買わないことにしているからだ。 Blackberry baldは見た瞬間にいいと思った。キーボードも小さいくせに確実に打てる。今までの携帯に比べたら月々の払いは増えるが、その場で契約することにした。
・使いはじめて2ヶ月近くになる。最初の一ヶ月は7000円近くもとられてびっくりしたが、二ヶ月めは半額で治まった。ネットにつなぐのはなるべく大学の研究室(wifi)で、メールの受信は題名だけで受信拒否もこまめに設定する。と、何とか使い方が落ちついてきた。16ギガの microSDカードを入れたからビデオも画像も音楽もかなり入るが、そうなるとデジカメやiPodを一緒に持ち歩くのが無駄に感じられてくる。実は Zaurusも使っていて、道具に使われている気がしないでもない。

macbookair.jpg ・主に出かける時にと買ったPowerbook(12インチ)が5年目に入った。泊まりがけで出かける時には必須の道具で、重さが気になっていたから、ちょっと前からMacbook Airへの買いかえを考えていた。で、Powerbookは父親にプレゼントした。喜寿の祝いにプレゼントしたiMacとプリンターが、どちらもくたびれていて、ネットを見たり、写した写真を印刷するのがままならなくなってきたからだ。
・Airは軽くてキーボードも使いやすい。しかし、液晶画面が光って見にくいのは、最近のマックに共通した特徴だ。研究室用に去年購入した IMacも、作業している自分の顔がうっすら見えて、時にうんざりしてしまう。軽くなったおかげでいつでもバッグに入れて持ち運んでいるが、鞄にはその他にZaurus、デジカメ、iPod、そして小さなハードディスクがあり、腰にはBlackberry。さらに首にはUSBをぶら下げているから、何ともにぎやかで、何でこんなに必要なのかと首をかしげてしまう。なくてもいいけど、ないと不安。

2008年10月27日月曜日

迷惑電話とスパム・メール

 

・ 研究室に勧誘電話がよくかかってくる。用件も聞かずに「お断り」しているのだが、くりかえしかけてくるしつこい電話がある。一声聞けばわかるのだが、とぼけて「初めてです」などという。だから余計に腹が立って、「ここは研究室で、そんな電話は迷惑」というと、「ではご自宅に」などと返してくる。さも自宅の電話も知っているかのような口ぶりだ。そういえば、仕方がないと用件を聞く場合があるのだろうか。「そんなのはもっとお断り」といって勝手に切ってしまうと、翌週にまたかかってくる。
・狙いはマンションの売り込みだ。この手の電話は他にもあって、「投資目的で買いませんか」といった話しが多い。ここ数年景気が上向いて、都心のマンションは上昇していたが、アメリカ発の株価暴落や大恐慌以来の不景気がやってくるのでは、といった状況で、マンションの値が急落しているようだ。売れないから何とかしていいカモを見つけようというのだろうが、ストーカーのようにくりかえし、しつこく電話したのでは、きらわれてしまうばかりなのに、と思うと、その必死さがかえって納得できたりもする。断る理由など話す気もないが、残念ながら、僕には東京にマンションなどまったく必要がないし、投資で金儲けといった話は大嫌いなのだ。

・電話での振り込め詐欺が急増して、被害者が後を絶たないという。「おれおれ」の次が「税金の還付」だという。うっかり欺されそうな話しをよく思いつくものだと思う。もっとも、税金の還付は、こちらが必要な書類をそろえて申告しなければ、まずありえないことだ。僕は毎年確定申告をして、しっかりとられすぎの税金を取りもどしているから、税務署の姿勢はよくわかっている。親切に、税金が還付されますなどといって電話をしてくるようなところではまったくないのである。とはいえ、詐欺はコミュニケーションとして考えるのにはきわめておもしろいテーマで、一度その手口を体験してみたいのだが、残念ながら、そんな電話は一度もかかってこない。

・もっとも電話に比べようもないほど、迷惑なメールは相変わらず、たくさんやってくる。メールソフトも大学のサーバーもしっかり選別してくれるから、来てもゴミ箱に直行して、ほとんど気にならなくなった。とはいえ、大学のサーバーに処理能力を超えるような大量のスパム・メールが送られてきたりもするようだ。そのために、必要なメールの遅延が生じたりもしていて、迷惑程度はかなり悪質化しているといった側面もある。で、迷惑としてはじく基準もどんどん高くなっているようで、大事なメールがスパムとして処理されるケースがよく生じている。主として英語でやってくるもので、ネットで予約した飛行機のチケットがゴミ箱に行ってしまって、届かないと問いあわせて再発行してもらったこともあった。
・最近でも、5月にやってきたカナダの友人から、メールをずいぶん前に送ったけど、届いていないのかといった電話がきた。会ったときにチャールズ・テイラーの話をしたから、役にたちそうなサイトを教えてくれたのだが、スパムでゴミ箱に直行してしまったようだ。こんなことがあるから、いつでもゴミ箱を点検しなければならなくなった。学生からのメールも発信場所によってはスパムと判断されてしまうことがあるようだ。自宅から大学経由でメールを出すことができなくなった面倒さも、迷惑メールを排除するためと納得したのだが、電話と同様、不愉快な思いをしたり、迷惑したり、こまったりすることは少しも解消されない。

2007年5月13日日曜日

迷惑トラックバック

 

・迷惑メールを排除するゲートが強固になって、やってくるメールの数は激減した。けれども、大学のアドレスで家から送信することもできなくなって、プロバイダーから新たにアドレスをもらわなければならなくなった。特に面倒なことはないが、受け取った方はとまどうかもしれない。もちろん、受信はどちらでもいける。けれども、学生のレポート提出については、大学宛にするようにと念を押している。大学のサーバーに一定期間残しておくためである。
・迷惑メールが減ったかわりに、ブログへの迷惑なコメントやトラックバックが増えている。特にトラックバックは、一人(ひとつ)がすべてのコラムにつけていったりするから、数時間のうちに数百や数千にもなってしまう。もちろんおなじ文面で、コラムの内容とはまったく関係がないものがほとんどだ。大学が提供しているブログは"Movable Type"でコメントやトラックバックの受けいれを細かく制御できる設定になっている。すべてを受けいれるとしなければ、迷惑と判断したものは、保留状態におかれるが、一日放っておけば、自動的に削除もしてくれる。だから、実害はないのだが、あまりの溜まりように腹が立って、その場で削除を実行すると、えらい時間ががかって、時にはエラー状態になったりする。だから、つい最近、トラックバックはすべて拒否という設定にしてしまった。
・こうすると、迷惑ではないトラックバックも排除してしまうわけで、閉鎖的な印象を与えかねないが、実際、いままでに来たものを見て、意味のあるものだと判断できたものはほとんどなかった。たとえば、たばこや嫌煙について書いたいくつかのコラムにきたものは、禁煙をビジネスにしているサイトだったし、団塊世代について書いたコラムにきたのも、やっぱり、この世代をターゲットにした商売を営んでいるものだった。だから、トラックバックの必要性が今ひとつわからないのだが、そのあたりについてグーグルしてみると、やっぱり世間でも問題になっているようだった。
・たとえば「Hello World! I am Habitat」という名のブログには、トラックバックを認める基準として、「1. 内容について何らかの言及がある。2. 当該記事へのリンクが貼られている。3. 当該記事で書かれていること以外に何かプラスアルファがある。」の三つがあげてあって、なるほどと納得した。特に3番目はいい。トラックバックをされた側として、じぶんが書いたこと以上のなにかがあったときにはじめてそれを受け入れるという姿勢をしめす。これはだいじな規準だと思った。で、それはもちろん、じぶんがだれかのブログにトラックバックをするときにもだいじな基準になる。


トラックバックを送るには、送信先のブログの読者がそのトラックバックを辿ってこちらの記事を読んだときに、何かしらのプラスアルファがないといけないと思うと、これはなかなか難しいものです。ある記事を読んでこちらが一方的に影響を受けたり、勉強になったというだけでは、ちょっと送るのを躊躇してしまいます。やっぱりそこに書かれていること以外の何かを書くとか、或いは異なる意見を述べるとか、そういうことができればいいんですけどね。それで結局いつも話はここに戻ってくるんですが、トラックバックを送るにしても貰うにしても、それなりの記事を書かないといけないということですね。

・同様のことは、コメントにも感じることが多い。このブログでは、コメントも書きこんだら自動的に公開という設定にはしていない。書き込みがあったらかならずメールでの通知があって、okでもnoでも、いちいち手続きをすることになっている。で、文面を読んで承認ボタンを押してはじめて公開、ということになるのだが、実際、なるほどと思えるようなものは多くはない。
・こんなふうに書くと、ますます敷居が高いサイトだと思われるかもしれない。学生にはずいぶん前から、そう言われてきているのだが、商売をしているわけでもないし、仲良し集めをしているわけでもないから、それはそれでかまわない。第一に、ぼくは、だれかの、どこかのサイトの掲示板やブログに書きこんだことなどほとんどないのだから。

2007年3月26日月曜日

地図、ナビ、Google Earth

 

journal4-101-1.jpg・車用に取り外し可能なナビを買った。ふだんは走り慣れた道だから無用だが、たまに必要に感じることがあった。道路地図を持ち歩いていたのだが、老眼で見にくくなったし、地図では細部はわからない。ただし、車に備え付けるものは面倒だし、値段が高すぎる。音楽はipodで聴けるし、テレビやDVDを車でみることはない。そんな気があって以前から「Gorilla」に注目していたのだが、地図の更新をSDカードでするナビ専用のモデルを見つけて買うことにした。
・4.5インチでちょっと小さめだが、とくに見にくいという感じはない。電話番号や番地で目的地を詳細に検索することはできないが、その周辺までは確実に行けるから、後は地図を見ながらじぶんで微調整すれば問題ない。何よりいいのは、いつでも地図帳として使えることだ。
・ただし、車のなかはにぎやかになって出発までに時間がかかるようになった。まず、ipodを接続して、次にナビ、そしてETCカード。さらにはオービス探知のレーダーである。これだけにぎやかだと駐車していても目立つから、とめているときは当然、全部を取り外してダッシュボードにしまったり、持ち歩くということになる。ナビやipodほしさに窓ガラスをたたき割るなんて話がよくあるからだ。

journal4-101-2.jpg・ナビもオービス探知レーダーもGPSを利用している。だから、いま車がどこにいるかが感知されるわけだが、その精度はナビをつかって改めて驚くほど正確だった。これを記録すれば、ぼくの車での行動はすべてあきらかになる。と考えると気分のいいものではないが、足取りはETCでも記録されていて、高速道路での走行は、料金や所要時間などがネットで確認できるようになっている。まさに管理社会で、それを強制されるのではなく自らすすんで求めているということになる。
・去年の夏休みにGoogle Earthを使い始めて、パソコン上でも地図で遊ぶ機会が増えた。ぼくの住んでいるところは田舎だから、家までは確認できないが、都市部だと自分の家の屋根までわかってしまうし、駐車場に止めてある車まで確認できる。海外旅行をして出かけた都市の泊まったホテルや歩いた通りなどが立体でわかったりするし、著名な建物だと実物そっくりにできていたりするから、ついつい時間を忘れてヴァーチャルな散歩をしてしまうことになる。
・各国のスパイ衛星が地球上のあらゆる地点を監視していて、その精度はたばこ大のものまで見分けるほどだという話を聞いて驚き、ぞっとしたのは何年前だっただろうか。今は、それに近いものがネット上でだれにでも使えるようになった。ナスカの地上絵を確認したとか、アフリカのサバンナでゾウを見つけたといった楽しみ方がある一方で、悪用される危険性もまた大きいのではないかと心配してしまったりする。
・便利になること自体は悪くはないけれども、その分、かならず、プライバシーをあからさまにしたり、それが別の形で利用されたり、じぶんではよくわからないブラックボックスが増えていったりする。それを自覚せずに便利さに流れると、いざ問題が起きたときに、どうすることもできない状況においこまれたりする。ナビやETCやGoogle Earthをつかっていると、その便利さやおもしろさと同時に、それと同じだけか、それ以上の不安も感じてしまう。

・ぼくは電車にはめったに乗らないのでSuicaなどのカードは必要ない。最近、どの電車やバスでも共通して使えるPasmoができて、切符を買う面倒がなくなったようだ。銀行のキャッシュカードやクレジットカードもふくめて、カードを使った履歴はすべて記録されていて、常にその情報が流出したり悪用される危険性をもっている。携帯もそうだから、じぶんのする行動のほとんどはデーター化されて残されていることになる。icチップはこれからもいろいろに使われそうで、図書館の貸し出しカード、スーパーのポイントカードから、本などの商品にまでつけられる可能性があるようだ。
・そんなふうに見回すと、もうすでに、とんでもない管理社会が実現していることに気づかされる。街路や建物には無数の監視カメラがあり、家の中には大画面の液晶テレビ。オーウェルの「1984年」そのものだが、それは強制されたのではなく、自発的に、望んで招き入れたものである。便利さや安心や確実さを求めてできあがるシステムには、かならず、それに相応した不便さや不安や不確かさがつきまとう。その負の側面がほとんど自覚されていない。「自由は奴隷、奴隷は自由」の社会。ナビをつかっていて、ふとそんなことを考えてしまった。