1997年10月17日金曜日

"Kerouac kicks joy darkness"


kerouac.jpeg・ジャック・ケルアックはビート世代を代表する小説家である。作品には『路上』『地下街の人びと』などがある。今年は同世代のA.ギンズバーグが死んだし、僕の知人の中山容さんも死んだ。ビート世代が注目されたのは50年代だが、それをリードした人たちが、ぽつりぽつりといなくなりはじめている。
・ビート世代の登場は、たとえばジェームズ・ディーンやマーロン・ブランド、あるいはエルビス・プレスリーといった若いヒーローの誕生と重なっている。彼らや彼らを支持した人たちにくらべたら、ビート世代は文学中心でロックンロールではなくモダンジャズを好んだ。ハイブロウでアンチ・マスコミ、反商業主義的だったが、二つはどこかでつながっていた。「接合」の条件は「若者」という世代への社会の注目かもしれないし、それを可能にした第二次大戦後の豊かな社会、あるいは戦争への嫌悪感なのかもしれない。
・だから、60年代になると、ロックンロールとビート詩、モダン・フォーク・ソング、あるいはブルースやモダンジャズの影響も受けたロックという新しい音楽が登場することになる。その音楽を支持したヒッピーと呼ばれた人たちのライフスタイルは、ビートそのものだった。ヴェトナム反戦や黒人の公民権運動、ドラッグと性の解放、ポップ・アート、そして、新しい巨大な市場としてのポピュラー文化。
・"Kerouac kicks joy darkness" には40人を越える人びとが登場する。作家、詩人、ロックミュージシャン、映画俳優、ジャーナリスト。それにケルアック本人。さまざまな人たちがケルアックの書き残したことばなどを朗読したり歌ったりしている。同時代の詩人であるA.ギンズバーグ、ローレンス・ファーレンゲッティ、ウィリアム・バロウズ。ロック・ミュージシャンではパティ・スミス、ジョン・ケイル(「ヴェルベット・アンダーグラウンド」)、スティーブン・タイラー(「エアロ・スミス」)、ジョー・ストラマー(「クラッシュ」)、それにフォーク・シンガーのエリック・アンダーソン。もちろんケルアックはすでに1969年に死んでしまっているが、若い人の参加も少なくない。たとえば、「REM」のマイケル・スタイプ、「パール・ジャム」のエディ・ベダー、「カム」『バスケット・ボール・ダイアリー』のジム・キャロル、映画俳優のマット・ディロン。そんな多様な人たちの多様なパフォーマンスを聴いていると、ケルアックやビートの影響が現代にも深く、広く及んでいることがよくわかる。
・日本版には中川五郎、高木完の二人が訳をつけている。ポピュラー音楽の訳詞は時にとんでもなくひどいものがあるが、二人の訳はなかなかいい。けれども、木本雅弘の写真など日本版につけ加えたものは完全に蛇足だ。


<マクドーガル・ストリート・ブルース>
イメージの海をかきわけて練り歩く
イメージ、イメージ、見つめる
見つめる.........
そしてみんながが振り返って
指さす
見上げる者もいなければ
覗き込む者もいない
.............以下略................
        中川五郎訳

<ウーマン>
女は美しい
けど
  君はふりまわされる
  ふりまわまわされる
  きみはまるで
  ハンカチみたく
    風ん中
      高木完訳

1997年10月1日水曜日

ジョン・フィスク『テレビジョン・カルチャー』(梓出版社)

 

・テレビはずっと二流のメディアと言われ続けてきた。ニュースは新聞、ドラマは映画や舞台、そして音楽は、コンサートやレコードとの比較で、いつでもけなされてきた。テレビは映画とちがって、俳優がそこで演技をする場所ではないし、コンサートともちがって歌や演奏によって自分の世界を表現する場でもない。どんな人でも、いわば素の顔で登場することを要求するし、そのつもりがなくとも裸にされてしまう。だからテレビには出ない俳優や歌手はアメリカにも日本にもかなりいた。

・そんなメディアに対する評価が変わりはじめたのは、日本ではたぶん八十年代になってからだろう。カラーの大画面、ヴィデオ、お金も手間もかかったおもしろいCM、ニュース番組の変化、種類も中継方法も多様化したスポーツ番組、そして衛星放送。ヒットする映画も音楽も、流行も、テレビが発信源である場合が少なくない。今やテレビなしには、文化はもちろん、政治も経済も語れない。そんな時代になった気がする。

・しかし、それはテレビというメディアから生産される番組が作品として充実してきた結果を意味するものではない。J.フィスクは『テレビジョン・カルチャー』のなかで、テレビの力は、テレビによってつくられるテクストの完成度によってではなく、むしろその未完成さによって生み出されるのだという。つまり、作品として完成させ、意味を確定するのは、最終的には視聴者に任されているのだという。

・たとえば、映画館にいる観客は、大きなスクリーン映像とスピーカーからの音響を集中して受け取り、それを一つの作品として味わう。あるいは小説の読者も、たとえ一気に読まなくとも、最初のページから読み始めて、最後に読み終わるまでを一つの作品として受けとめる。ところがテレビの視聴者は、たいがいテレビの前でじっとしてはいない。テレビから受け取るテクストは、視聴者にとって、現実の場におけるさまざまなテクストのなかの一部にしかなりえない。しかも視聴者は、気まぐれにリモコンで次々とチャンネルを変えたりする。すべてのチャンネルを一巡りさせるのに必要な時間は数秒だから、数分の間に何十回、何百回とチャンネルを変えることにもなる。視聴者にとって、一つの番組が一つの完結した世界であるという意識などは、最初からほとんどないに等しいのである。

・もちろんそんなことは制作者とて先刻ご承知である。というよりは、テレビ(商業放送)は、数分おきに挟み込まれるCMによって成り立つメディアとして始まったのである。CMの混入はシリアスなドラマであろうと、深刻なニュースであろうと関係ない。まさに「釈迦の説法、屁一つ」といったことが常態化しているのだ。だからもちろん、テレビは、社会的にはやっぱり、新聞にも映画にもレコードにもかなわない、ダメなメディアだとみなされている。ダメだといわれながらますます強力になるテレビ。

・フィスクはそのテクストとしての未完成さはまた、日常の世界で私たちがさまざまに人びとと関係しあったり、雑用仕事をしたり、ちらっと興味や関心、あるいは欲望を感じたりする、そのスタイルそのものだという。テレビは私たちの日常に、何の違和感もなく入り込み、そして私たちの日常そのものになってしまった、というわけである。

・ぼくはCMに邪魔されるのが嫌いで、BSで映画やスポーツやドキュメントばかり見ているが、たまに民放を見ると、やっぱり、リモコンが手から放せなくなってしまう。BSやCSとCMのはいらないテレビがますます増えてくると、テレビと視聴者の関係はまた、変わっていくのかもしれない。そんなことを考えながら、ぼくはわりと集中して今晩もテレビを長時間見てしまった。

1997年9月15日月曜日

『NIXON』オリヴァー・ストーン(監) アンソニー・ホプキンス(主)

  • ニクソンは、ぼくにとってはもっとも嫌なアメリカ大統領という印象が強かった。J.F.ケネディの敵役だったし、大統領になれたのは、JFKや弟のロバートが暗殺されたおかげだった。大統領になると、北爆やカンボジア侵攻で、ヴェトナム戦争を一層の泥沼状態にしたし、学生運動を強硬に取り締まった。そして最後は、ウォーターゲート事件。要するに、反共主義者で狡猾で汚い政治家だった。ちょうど時期的にも重なった、日本の田中角栄と共通点があったようだ。貧しい家庭に育ち、苦学して政治家になった。で、二人とも続いて中国と国交を回復させた。ただ、田中角栄は庶民派の政治家として、かなりの人気を得ていたから、暗い悪役のイメージのニクソンとは。ずいぶん違うという気もしていた。
  • ところが、そんなニクソンに対する印象は、1976年に発行されたE.ゴフマンの"Gender Advertisement"という本を見てすっかり変わってしまった。この本は新聞や雑誌の広告、あるいは記事の中で使われた写真を材料にして、主に男らしさや女らしさを表情やしぐさ、あるいはポーズといった点から分析したものである。ゴフマンがこの本に使った素材は、人が自覚してする行動ではない。ほとんど意図せず、また写真に撮られていることも気にせず写された一コマ。そこに、無意識のうちに現れる、習慣的な行動や、その時々の正直な胸の裡がよく読みとれる。そこから、社会的に身についた性の違いを読み解こうというのがこの本の狙いだった。
  • ニクソンはこの本の中で、はにかみ笑いや、ぶすっとした不機嫌な顔、娘の結婚式での照れ笑いなど、ずいぶんおもしろい一面を登場させている。ぼくはこれを見たときに、本当はずいぶん正直な人なのだな、と思った。彼がJ.F.ケネディと大統領選を争った時の敗北の最大の原因はテレビ討論会での印象の悪さだったと言われている。テレビでは、何を話したかではなくて、どう映ったかが強い意味あいをもつ。メッセージではなくてメディアの特質。真善美を兼ね備えたケネディと偽悪醜をさらけ出したニクソン。M.マクルーハンのこんな主張を納得させるのに、これほどいい材料はなかった。しかし、そうであれば、ニクソンの失敗の原因は彼の人格にではなく、印象操作のまずさに求められるはずだが、一般にはそうは理解されなかった。
  • この映画に登場するニクソンも、喜怒哀楽を素直に出す人物として描かれている。非常に強くて厳格な母親を聖女として慕い、また忠実な犬になると誓って恐れる。そんな母親のイメージが彼の妻にもダブる。家柄も学歴も格好の良さも比較にならないケネディに嫉妬し、恐れ、逆にそれへの反発心を政治家としてのエネルギーにする。ケネディとは違う現実を見据えた政治家。けれども、世論はそんな彼を最後まで支持しなかった。
  • 悪者のイメージをまとい、嫌われたままで大統領になった男。ヴェトナム戦争はケネディによってはじめられた。それが泥沼化して誰もがやめろと言いはじめた。しかし、アメリカにとっては敗北による幕引きはできない。映画の中のニクソンは、その名誉ある終結に至るシナリオを考えあぐねて苛立つ。それは、いわば、ケネディの尻拭いである。中国との国交も回復させたニクソンには再選に向けた大統領選挙の見通しは暗くはなかった。民主党の対抗馬は草の根民主主義をかかげ若者の支持を基盤にしたマクガバンだった。決して強力な対抗馬ではない。けれども、ニクソンは選挙に向けて、いろいろ策略をめぐらせた。選挙には大勝したが、その策略がウォーターゲート事件として発覚し、任期途中での辞任に追い込まれることになる。
  • 権力欲に取り憑かれた正直で、不器用で、小心な男の悲劇。ニクソンが大統領としてした仕事は、今まで思っていたほど悪いことばかりでなかったのでは。この映画を見て、あらためてそんなことを考えた。
  • 1997年9月8日月曜日

    Brian Eno "The Drop"

     

    eno2.jpeg・イーノは車を運転しながら聴くにかぎる。何年か前に京都の北山に紅葉を見に出かけた。空が真っ青で、山が緑と黄色と赤。その鮮やかなコントラストに見とれながら山道を運転している時に、イーノの『ミュージック・フォー・フィルムズ』をかけた。かけたというよりは、たまたまそのカセットが入っていたのだが、目の前の風景にぴったりあって、ぞくっとしたことを覚えている。それからは、どこかへドライブするときにはイーノのアルバムを必ず何枚か持っていくようになった。
    ・ブライアン・イーノの出発点は『ロキシー・ミュージック』のキーボード奏者である。だからプログレッシブなロック・ミュージシャンという一面を持つが、同時に「アンビエント」と呼ばれる新しいジャンル(環境音楽)を代表する人という側面もある。あるいは、さまざまなミュージシャンとの共作も多い。たとえば、デビッド・ボーイ、デビッド・バーン(トーキング・ヘッズ)、ジョン・ケイル(ベルベット・アンダーグラウンド)、ロバート・フィリップ(キング・クリムゾン)、そしてU2.........。もちろん、どれもなかなかいい。

    eno3.jpeg・イーノは自らをミュージシャンではなくてエンジニアと呼ぶ。彼は楽譜が読めないし、楽器を演奏することはしても、音楽作りの大半は時間もエネルギーもスタジオでのミキシングに費やすからである。ロックに限らず現代の音楽は、単に楽器だけで作り出されるものではない。というよりは、音は機械的な処理をすればどのようにでも変化させることが可能だ。その音をモザイクやコラージュのように組み立てて作る音楽。イーノの作り出すサウンドは一言でいえばそのようなものである。
    ・『ブライアン・イーノ』(水声社)を書いたエリック・タムはイーノのアンビエントを「音の水彩画」と言っている。とてもうまい表現だと思う。ただし、彼の音は最初に書いたように、現実の風景の中で聴いた方がより印象的になる。経験的な感覚から言えば、イーノの音楽には現実の風景を水彩画に変える力があるような気がする。まるで絵のような景色、と言うよりは、比喩ではなく、現実が絵そのものになるのである。
    ・もちろん、彼の作品のどれもが紅葉にあうというわけではない。硬質の感じの音は、街中の渋滞にぴったりという場合もあるし、何も見えない高速道路をすっ飛ばしているときにちょうどいいサウンドというのもある。けれども、彼の作る音は、基本的にはどんな風景も拒絶しない。つまり基本的には、いつどこで聴いていてもさほど違和感は感じない。これは、映画のサウンドトラックが場面やストーリーの展開、あるいは登場人物の心理描写を補強するかたちで使われるのとは、ちょっと違う意味あいがあるように感じられる。
    ・で、新作の『The Drop』だが、なかなかいい。ライナー・ノートによれば、このアルバムはタイトルが何度も変更になったそうである。「Outsider Jazz」→「Swanky」→「Today on Earth」→「This Hup!」→「Hup」→「Neo」→「Drop」→「The Drop」。つまり、イーノの作る音楽にはタイトルなどはいらないということなのだと思う。実際ぼくは「The Drop」というタイトルに近づけてこのサウンドを聴いているわけではない。やっぱり車で聴くことが多いから、音によってイメージされる水彩画は、そのときどきの現実の風景である場合が多い。彼の作る音はちょうど水のように、透明で臭いもなく、それでいていつどこにもなじんでしまう。けれども、決してイージー・リスニングではない。

    1997年9月3日水曜日

    高校野球について

      今年の夏一番時間をつぶしたのは、何といっても野球だろう。メジャー・リーグの野茂の試合はずっと欠かさず見てきたが、7月からは伊良部が加わった。ドジャーズもヤンキースもプレイ・オフに出場可能な位置にいるから、二人の登板以外の試合結果も気にかかる。ヤクルト・ファンだから、日本の野球も気にはなる。特に横浜が急追しはじめた8月は、こちらの試合もついつい見ることになった。それに甲子園。今年は京都の代表校が平安で、ピッチャーがNo.1の川口だったから、とうとう決勝戦までつきあってしまった。こんなわけで、日によっては、朝はメジャーリーグ、昼は高校野球、そして夜がプロ野球なんていう日が続く夏休みになった。もちろん、これは過去形の話ではなく、現在進行形である。
    高校生のぼくの子どもにはあきれられてしまったが、彼は野球部の練習に一日も休まず行って、メジャー・リーグも甲子園も、プロ野球もほとんど見ることはなかった。朝早くから出ていって、夜暗くなってから帰ってくる。顔の日焼けは黒光りという状態で、頬もげっそりこけてしまった。どうせ、地区予選で初戦敗退だったくせに、何もこのクソ暑い時期に一日中外で練習しなくたっていいものを、などと皮肉を言いつつ、ぼくはカウチポテトでテレビの前に寝転がってばかりいた。もちろん、ひと夏、がんばり続けた子どもの努力には感心したし、ぼくのぐうたらな生活にはちょっぴり罪悪感を感じないでもなかったが、それでも、高校野球やプロ野球には、言いたいことをいくつか感じた。

  • ぼくの子どもの高校は地区予選で初戦敗退した翌日から、新チームの練習を開始した。岡山県での合宿や他府県への遠征もやり、夏休み中の休養日はたぶん3日ほどだった。監督のかかげる目標は県大会のベスト8だそうである。費用も相当にかかるが、激励会だの試合の応援だのとよく声もかかる。公立高校で決して強くはないチームだし、クラブとしてたまたま野球を選んだだけなのに、監督は一体何を考えているのだろうと、入学早々から疑問を感じたし、機会があったら文句の一つも言ってやろうという気にもなっている。けれども「それだけはやめてくれ」と子どもが言うから、今のところは沈黙している。ちなみに、子どもはレギャラーはもちろん、ベンチ入りも当分、というよりは3年まで続けても無理なようである。
  • メジャー・リーグを見ていると、選手も観客も楽しんでやっていることがよく伝わってくる。テレビ中継に解説者などはいないことが多いから、日本のように技術論をペラペラとやることもないし、精神論や集団論を唱える人もいない。野球が大味だなどと言われるが、野球を野球として楽しむ姿勢には大いに好感が持てる。そんなスタイルに比べると、日本の野球は高校から、ただただ一生懸命で、そこに人生や人間性を読みとろうとしすぎるという気がする。勝つことばかり考えずにもうちょっと楽しく、時間も短く、体にも気をつけて、と子どもには説教めいて話すが、彼は鼻で笑って、そんなんではクラブをやる意味はないと言う。すっかり洗脳されてその気になってしまっているのである。
  • 今年の甲子園は川口の4連投でわいたが、高校生にあんなに投げさせることを批判する人は解説者にもいなかったし、新聞の記事でも見かけなかった。野茂が100球を越えるとぼちぼち交代かなどとやってるベースボールとどうしてこんなに違うのだろうか。監督に行けと言われても、「ぼくは連投はしません」と言う高校生が出てきたらおもしろいのになどと思うが、自分の子どもを見ていると、とてもそんな土壌ではなさそうだ。自主性を養って自分を大事にするといった発想は、少なくとも高校野球を見る限りでは、ほとんどないと言ってもいいだろう。
  • しかしこのような傾向は学校教育だけに限ったことではない。野茂や伊良部がメジャーに行くことについては、やれわがままだ、自分勝手だと、マスコミはこぞって感情的な批判をした。それで活躍すれば、大々的に報じてヒーロー扱いする。で、日本のプロ野球についての中継や報道はと言うと、優勝争いとは無関係に相変わらず、巨人と阪神ばかりである。野球はチーム一丸、和が大事、報道は寄らば大樹の陰。日本での試合をほとんどテレビでは見ることができなかった野茂や伊良部が今は全試合見ることができる。イチローも佐々木も我を通してメジャーに行けばいい。アメリカは遠いが、メジャーの試合はプロ野球よりも近い。「周囲の声や上からの命令に惑わされずに自分を大事にしろよ。」とぼくは伊良部の試合を見ながらつぶやくが、そのことを一番わかってほしい子どもは、今日も練習で暗くなっても帰ってこない。
  • 1997年8月26日火曜日

    ぼくの夏休み 白川郷、五箇山

     以前は、夏休みというと長期の旅行をしたものだが、ここ数年は、ほとんどどこにも出かけないでいる。理由の第一は、子どもが大きくなったことだ。クラブ活動が忙しくて時間がとれないのだが、本音は親と一緒にどこかへ行くのが嫌なのだ。で、親たちだけで一泊のキャンプ旅行に行った。実はテントを広げるのは2年ぶりである。ルートは名神を小牧で降りて、高山、白川郷か五箇山あたりでキャンプして、翌日、日本海へ抜け、富山か金沢から北陸道で帰るというもの。 結構いろんなところへ行って慣れているつもりだが、高速道路を離れてからの道は時間がかかる。朝5時半に京都を出て、小牧インターまでは2時間、そこから高山までが3時間、オークビレッジで昼食をとって、白川郷までがさらに2時間、そして五箇山のキャンプ場についたらもう4時に近かった。時間から言えば、高山に着く頃には、高速だけなら東京まで行ってしまっているし、夕方には仙台あたりまで行けているかもしれない。
    今さらながらに遠いと思ったが、キャンプ場に並ぶ車のナンバープレートを見て驚いた。多摩、名古屋、いわき(福島)とバラバラなのである。しかし、五箇山には名古屋は京都よりも近いし、東京だって松本まで中央道を使って高山に抜ければ、時間的にはほとんど変わらない。あるいは福島だって、北陸道に出れば、後は数時間の行程である。一泊ではちょっと強行だが、二泊なら十分ゆとりをもった日程になる。高速道路が整備されてくると、こんな集まり方ができるのだと、あらためて感心してしまった。もっとも現在、岐阜から高岡までの東海北陸自動車道が建設中である。これができると、一泊だけのキャンプでも、もっと遠くからやってくることができるようになる。
    白川郷や五箇山の合掌作りの家はほとんどが、みやげ物屋や食べ物屋、あるいは民宿だった。ダムに沈むはずの家を移築してまとめたのだから、考えてみれば当たり前だが、山間の一軒家というイメージからはほど遠い感じがした。その人工的な集落には、大きな駐車場があって観光バスが何台も停まっていた。実は僕たちが停まったキャンプ場にも移築された合掌作りの家がたくさんあって、宿舎や陶芸などの教室、あるいはトイレとして利用されていた。公営の施設だから、このかやぶき屋根の家の宿泊費は2000円、ちなみにキャンプ場の使用料は一人250円だった。
    道路が整備されれば大勢の人がやってくる。そのための投資の大きさは日本中どこへ行っても感じる。言うまでもなく補助金行政の結果だが、ただ道や建物があればいいというものではない。白川郷や五箇山は世界遺産・合掌作りの村がうたい文句である。次の日に富山に抜ける途中には和紙の里や木工の村があった。利賀村は芸術(演劇)村だし、山田村は全戸にマックがある電脳村である。ホームページも出していて、8月には全国各地から大学生が集まってイベントが開催されたようだ(URL=http://www/yamada-mura)。小さな村がその特色をだそうと一生懸命に知恵を絞っている。そんな様子が道々よくわかった。 僕らがキャンプに行くのは、ふだんとはちがう、自然に近い場所や歴史のある空間、あるいは非日常的な時間を求めるからだ。けれども、長い時間は使えないし、労力も節約したい。食料の調達などは便利なほうがいいし、トイレや炊事場などの設備はきれいにこしたことはない。木や土や紙、演劇、祭り、情報ネットワーク...........。そんな特色があって、手軽にふれられれば、なお結構。しかし、どこにでもあるようなものや、とってつけたようなちゃちなものでは満足できない。そんな横着でわがまま者たちをどうやって呼び込むか。交通と情報が便利になれば、それだけ特色を出して、なおかつ持続させるのはむずかしい。一泊だけの短い旅行だったが、そんなことを強く感じた。

    1997年8月17日日曜日

    ミッシェル・シオン『映画にとって音とは何か』(勁草書房)

     

    ・映画に音があるというのは当たり前だが、しかし、初期の頃の映画に音がなかったのもまた事実だ。『戦艦ポチョムキン』のビデオにはピアノの伴奏がついているが、これがいかにもとってつけたようで、ボリュームを絞って見たほうがずっと自然な感じがする。もっとも、映画の上映は初期の頃から、伴奏つきというのが一般的だったようだ。

    ・映画と音、これは考えてみれば、ずいぶんおもしろいテーマだが、そんなテーマを真面目に考えている本を見つけた。もっとも新刊本ではない。ミッシェル・シオンの『映画にとって音とは何か』は1985年に書かれていて、翻訳されたのは93年だ。

    ・この本を読んで「へー」と思った所がいくつかある。一つは、映画に音がなぜ必要だったかという疑問。シネマトグラフがはじまったとき、音楽はすでにそこにあった。それは映写機の騒音がうるさかったからだという説があるそうだ。音を消すために別の音を必要とした。ありそうなことである。しかし、もっとそれらしい理由は他にある。音のない世界では人びとが不安にかられたからである。それはちょうど暗闇にいると口笛が吹きたくなる心境に似ているという。

    ・サイレントがトーキーになると、音はあらかじめ作品の一部として組み込まれるようになる。しかし、一体音はどこから聞こえるのだろうか?もちろんスピーカーからだが、映画製作者の狙いはそうではない。音はスクリーンの特定の場所から聞こえてくる。例えば、声はスクリーンにいる人の口からだし、音楽は映っている楽器からだ。そして観客もそのように聞くことにすぐ慣れた。

    ・ドルビーのマルチサウンドでは音は四方八方からやってくる。宇宙船の音が後ろからして、やがてスクリーンに腹の部分が大写しされはじめる。そして彼方に飛び去っていく。音はそれに合わせて、スクリーンの背後に消えていく。ハイパーリアルなサウンドというわけだが、そんなことができない時代でも、観客はそのように聞いていた。ちょうど芝居のちゃちなセットや小道具を、あたかも本物であるかのように了解してくれるように。シオンは宇宙船のリアリティといっても、真空の宇宙では、実際には音はしないはずだという。映画は最初から、本当のことではなく、本当らしいと人びとが感じることを再現してくれるメディアだった。

    ・シオンは映画館で聞かれる音には三つの世界があるという。一つはスクリーンに映っている世界からの音。それから、スクリーンのフレームの中にはないが、その外にあると想像できる世界からの音。例えば誰かの声がして、やがてその人物がスクリーンに現れるといったような場合。音はもちろん、このフレームの内と外を自由に行き来して、それがかえってスクリーンの世界に奥行きを与えることにもなる。三つ目はスクリーンのフレームの内にも外にも存在しないはずの音。それは自然には存在しないが、スクリーンには不可欠の音楽である。状況や人物の感情などを代弁し、あるいは強調させる音。シオンはそれを、聞こえていても聴かれてはならない音楽であると言う。自然の世界に音楽はない、しかし映画には、意識されることはないが聞こえてくる音楽がある。不自然な話だが、そうであってはじめて自然になる。考えてみれば、映画は不思議な世界である。

    ・シオンはしかし、音楽がより深い意味を持つのは、それが場面や登場人物に対して無関心である場合だという。例えば、空に輝く星を見て、人はそこにロマンチックな思いを抱くが、星にとってはそんなことはどうでもいい。けれども、たとえそうだとしても、人は、やっぱり星を自分とのつながりや関係のなかでみたいと思うし、実際そのように考え、感じとる。この、星のような音楽こそが、映画音楽の真髄なのだというのである。確かにそんな気もする。映画の世界はあくまで、人間の目や耳や観念を通して描かれ、認識される世界なのである。

    ・けれども、そうでもないぞ、と思う映画もある。最近の映画にはロック音楽がよく使われる。それは星のように、こちらから思いを馳せるものではなく、向こうからやってきて、否応なしに耳から侵入して鼓膜をふるわせ、頭蓋骨を振動させる。例えば「トレインスポッティング」、あるいは「ブルー・イン・ザ・フェイス」(どちらもレビューで紹介済み)。ジム・ジャーミシュやヴィム・ヴェンダースの映画にもこの種の音楽がよく使われる。よく聞こえてきて、聴かれることをあからさまに主張する音楽。しかも、この音楽がなければ、映画に描かれる世界自体が成立しにくくなってしまう。一体この音は何なのだろうか?それは、この本には書かれていない、新しい疑問である。