1997年12月8日月曜日
テレビ批評はいかにしたら可能か?
1997年12月2日火曜日
やっと見つけた!!
- 「ホームページを拝見しました。やっと見つけた!というのが正直な感想です。12月に卒業論文提出を控えていますが、いまひとつCultural
Backgroundに欠けていると悩んでいます。私のテーマは「The Image and Lyrics of Black
Sabbath」です。Image、Lyricsとはいっても1970年代前半のロックカルチャーとコマーシャリズムの中でBlack
Sabbathのイメージがどのように作り上げられたのかが、私の論文の核にしたいところなのです。」
- 「先日ふとしたことから渡辺さんのホームページにたどり着き、万感の思いで拝見いたしました。実は、私は中学生の頃から中山ラビさんのファンでした。」
- 「私もラビさんの影響か、ボブ・ディランのファンでもあります。ラビさんが深夜放送でかけてくれた『One More Cup of
Coffee』を今でも忘れることはありません。最初に買ったディランのアルバムはDesireでした。10年前ディランが来日した時はコンサートへも行きました。学生時代、いつもこの『コーヒーをもう一杯』や『風に吹かれて』を口ずさみながら、日本中を旅した時のことも思い出されます。私、この20年の間、ずっと、ラビさんにもろもろの感謝の意をお伝えしたく、一度でよいからファンレターを出すことを、諦めながら、それでも、探しておりました。」
1997年11月24日月曜日
Patti Smith "peace and noise"
・パティ・スミスの新しいアルバムが一年ぶりで出た。「peace and noise」今年の一月に大阪でコンサートを聴いたばかりだったから、「おや?」という感じがした。何しろ、去年出たアルバム「gone again」は10年ぶりだったのだから。
・何かあったのかな、と思ったら、コンサート・ツアーで組んだバンドのギタリストのオリバー・レイと一緒に暮らしはじめたらしい。彼は 24歳だというからダブルスコア以上ということになる。ちなみにパティは50歳だ。この「peace and noise」ではオリバーが7曲も曲作りに関わっている。「愛は人をクリエイティブにする」ということだろうか?ぼくにはそんなエネルギーはないから、とてもできそうもない。だから、羨ましいというよりはおもわずすごいと言ってしまった。もっとも、当然のことながら、甘いラブ・ソングなどはほとんどない。相変わらず強いエネルギーのあるメッセージ。
・中国の江主席が先日アメリカに行ったが、チベットに対する弾圧への抗議やダライ・ラマを支持するデモが各地で起こった。中国の人権政策に対する批判はアメリカ人にとってはかなり敏感に感じられる問題のようだ。このアルバムにも、1959年の中国によるチベット弾圧とダライ・ラマの追放をテーマにした「1959」という歌がある。
中国は混乱を極め/狂気の沙汰が氾濫した
ダライ・ラマはまだ若かった
自分の国が炎に包まれるのを目の当たりにした/暗雲の縁に吹き倒されるのを
はなはだしい不名誉だ
そびえるヒマラヤの地平に/チベットは流星のような存在だったが
理性と協調は押し潰された/地上の楽園
・また、このアルバムには今年死んだアレン・ギンズバーグの詩を歌った曲「スペル」もある。
世界は神聖/霊魂も神聖/肉体も神聖
鼻も/舌もペニスも/手も肛門も聖なる部分
すべてのものは神聖/人間はみな神聖
いたるところ聖なる場所/毎日は永遠
すべての人間は/天使のように気高く燃え上がる力
狂人もあなたとおなじように神聖/わたしの魂か、それ以上に神聖
・このアルバムを聴いていると、歌はやっぱりことばだな、という気になってくる。一方ではきわめてパーソナルな世界。子どものこと、死んだ夫のこと、友人のこと、そして新しい愛のこと。また他方では今関心のある外の世界。チベットのこと、オカルト教壇のこと、そして、ビート詩人の死とビートの風化........。
・サウンドはオリバーのアレンジでちょっと耳新しいところもあるが、パティ節に変わりはない。けれども、そんないつもながらの彼女の声と歌い方が伝えるのは、彼女にとっての、悲しいことやつらいことや悔しいことや腹立たしいこと、そして楽しいことだ。たえず変わり続けている、彼女の経験する世界。それはやっぱり、歌詞を追うことでしかわからない。
1997年11月17日月曜日
中野不二男『メモの技術 パソコンで知的生産』(新潮選書)
・大学で講義しているときに見る学生の行動に、最近気になることがいくつかある。私語、携帯電話のための途中退出、再入場、あるいは手をあげての「トイレ行ってもいいですか?」。けれども、そんなことはたいしたことではない。うるさきゃ怒鳴って静めるまでだし、途中の出入りは無視することにしている。ところが、これは何とかしなければと考えてしまっていることが一つある。ぼくが一番気になっているのは、彼らがしているノートのつけかたである。
・最近の大学生は、ぼくが黒板に書いたことしかノートを取らない。まったく同じように写すから、ときどきおもしろがって赤や黄色のチョークを使うと、一斉に筆箱からマーカーやボールペンを取り出して、カチャカチャといった音が教室内にこだまする。しかし、そんな彼らをからかっているうちに、彼らがつけるノートとはいったい何なのか疑問に思うようになってしまった。ぼくは、黒板に書くことの4倍も5倍もの話をするから、黒板だけでは話の骨組みしかわからないはずである。その骨組みに、話を聞きながらメモを書き込んでいく。そうしなければ、ぼくの話は再現できないはずだが、学生たちはぼーっと聞いていることが多い。
・実はぼくの奥さんは予備校で英文法を教えている。彼女に学生のノートの付け方の話をすると、即座に「当たり前よ!」ということばが返ってきた。予備校では、テキストのどこに重要だという印をつけるのかまで懇切丁寧に指示するし、大事なことはすべて黒板に書いて、何度もくりかえし読んでは強調する。そんな話を聞きながら、あー要するに「指示待ち人間」という性格が人の話を聞く姿勢にまでしみこんでしまっているのだな、と考え込んでしまった。
・人の話を聞くというのは、同時に自分で理解するという作業をしなければ、ただ右から左に流れていってしまうばかりである。主体的な理解がなければ、疑問や批判も湧いてはこない。これでは質問や反論が出てくるはずもない。これははっきり言えば、小学校から高校までの授業での教え方に責任がある。しかし、そんなことを言っても仕方がないので、今さらやっても手遅れかもしれないけれど、メモの取り方を何とか教えて習慣づけなければならないと思った。
・学生は授業がおもしろくないと言うけれど、主体的に聞くという姿勢にならなければ、どんな授業も絵に描いた餅でしかない。本も同じで、学生たちは本を読むのはおもしろくないし、いやいや読まされるから嫌いだという。彼らに質問すると、レポートや論文を書くときに、大事なところを抜き書きしたり、書名や著者名、出版社名、それに発行年などをメモしたりはしないと言う。それでは、まともなレポートも論文も書けないはずだし、本のおもしろさも発見できないはずである。本のおもしろさは何より、主体的な「読み」のなかから味わえるはずのものだからである。そのようにして本を読めば、そこから、次に読みたい本や考えてみたいテーマが現れてくる。学生たちは、結局、このような基本的な技術を教えてもらわずに大学まで来てしまっているのである。
・と書いているうちに、ずいぶんな分量になってしまった。肝心のブック・レビューをするスペースがない。それでは、この本の著者に失礼というものである。しかし、けっして話のだしにするつもりだけでこの本をとりあげたのではない。
・この本には、物書きを本業にする人にとっての資料やデータ、あるいはさまざまな情報収集とその整理、そして文章にまとめあげるときのそれらの使い方などが書かれている。京大型カードからパソコンのデータベースへの移行といった道具の問題と、簡単なメモをどうとって、利用するかといったノウハウの問題まで、きわめてわかりやすく書いてある。これなら、大学生にも理解できるだろう、と思ったし、読みながら実践させれば、身に付くようになるかもしれないと考えた。来年のゼミではまずこの本をテキストにして、学生たちの受け身の姿勢を崩してやることにしよう。
1997年11月11日火曜日
永沢光雄『風俗の人たち』筑摩書房,『AV女優』ビレッジセンター
・おそらく「風俗」を研究対象にしやすいのは社会学が一番だろう。現実に、そのような題名の本はたいがい社会学者によって書かれている。けれども、そこに「風俗の人たち」のことが書かれるのは、めったにない。書かれたとしても、周辺をさっと撫でた程度で終わってしまうか、自分を無関係な場所に置いて、得意の客観的分析をするかのどちらかである。要するに、性の生態は、社会学者が自分の問題として正面から扱うことのほとんどないテーマだといってもいい。もちろんこれは、他人への批判である以上に、自分に向けるべきものである。映画のレビューはやっても、AVのレビューは気が進まない。第一、レンタルするのでさえ気が引ける。品位が邪魔するといえば聞こえがいいが、要するに勇気がないのである。けれどもわかったような顔はしたがるから、何ともずるい性根だと思う。
・永沢光雄の『風俗の人たち』は、『AV女優』につづくルポルタージュである。前作はずいぶん話題になって、ぼくもおもしろい本だと思ったが、今度の作品も、またなかなかの力作である。ぼくは2作とも社会学のフィールドワークとして見ても、傑出したものだと思う。
・『風俗の人たち』は雑誌『クラッシュ』に6年間にわたって連載されたレポートをもとにしている。雑誌やスポーツ紙の風俗レポートといえば、自らの体験をもとにするというのがふつうだが、永沢はそれをしない。いや正確にいえば一度だけしかしなかった。だから、読んで欲望を刺激させるような内容のものにはなっていない。次々と新手がでてくる風俗産業を訪ねては、それを仕事にしている人たちに話を聞く。そんなやり方で、およそ70回ほどのレポートが書かれた。
・
実践のない性風俗レポートなんて書いた本人と編集者しか読まない。永沢はあとがきで、そんな中途半端な記事が本になってしまった、と申し訳なさそうに書いている。謙遜ではなくて、たぶん正直な気持ちなのだと思う。何といってもこの文章が掲載された雑誌は、男たちが欲望をむき出して読みあさる種類のものなのだから。けれども、また、そんな雑誌にふさわしい内容のレポートだったならば、決して本になることはなかったはずである。実際ぼくも、こんな真面目なレポートがよくも6年間も続けられたものだと感心してしまう。そんな意味では、この本が生まれるうえで功績があったのは、作者以上にこの雑誌の編集者の見識と姿勢だといってもいいのかもしれない。
・性風俗のレポートを体験として書かなかったことについて、永沢は恥ずかしかったからと書いている。たぶん、このような感性の持ち主では、この種の雑誌のレポーターは勤まらないのがふつうだろう。けれども、その恥ずかしいという気持ちが、このレポートにまったく違うおもしろを生みだす結果をもたらしている。性に対する欲望とそれを何とか処理したいという気持ちは誰にでもあるものだが、ところが体面や自信のなさ、あるいは倫理観が、それを実行させにくくする。この本には、一言で言えば、そんな浅はかな男の性(さが)と心の揺れ動きをテーマにした私小説といった世界がつくり出されているといってもいいかもしれない。
・だから、このレポートにはセックスが好きとかテクニックが上手とかいうのとは違う女たちの正直な気持ちも描き出されることになる。たとえば永沢は、「今の少年少女たちは、性というフィルターを通して大人たちを軽蔑していることは確かだと思う」とドキっとするようなことを書いている。性と金を媒介にした男と女、大人と子どもの不信のドラマ。そんな傾向がますます強くなることに恐れながら、同時に性の欲望も否定できないアンビバレンス。この本には、そんな単純な性風俗レポートや、性の商品化を頭ごなしに否定する短絡的なフェミニズムとは異なる、きわめて説得力のある性にまつわる今日的なテーマが描き出されていると思った。
京都の秋
ここに載せた写真は、ディジタル・ビデオカメラで歩きながら撮り続けたものを静止画像として取り込んで、Photo Shopで加工をしました。水彩画風、切り絵風、あるいは油絵のタッチと、ちょっと手を入れすぎたかもしれません。したがって、実際の紅葉とは、ちょっと違った風景になってしまいました。 |
1997年11月10日月曜日
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