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仲良しモードというのは危険だ。甘えというのは「ある集団における一体感を楽しむ」ということだ。簡単には勝てない戦いが続く現場では、集団における一体感を楽しむのは罪悪となる。それは客観的な批評を排除し、敵との距離や戦略を曖昧にする。(32p.)
日本人初の快挙という言い方に代表される閉鎖性を嫌う若いスポーツ選手は増えていくだろうと思う。それは実によいことだ。実はスポーツに限らず、そういう、閉鎖性を実感として嫌う意識を持てなければ、この国に第二の復興の可能性はない。(79p.)
中田と現地ペルージャの日本マスコミとの対立は象徴的だ。中田は日本の文脈から個人として飛び出してしまった人間であり、現地マスコミは(メディアという言い方よりマスコミのほうが彼らをより表していると思う)日本的な集団の価値観の中にとどまっている。だから必ず衝突する。(218p.)
ネットショッピングはAOLとマイクロソフト陣営の主戦場になっており、本人確認の利便性などで客や業者の囲い込みが激化。将来的に利用者の多い方が業者などから有利な条件で手数料を取れると期待されているため、マ社陣営がパソコン基本ソフト「ウィンドウズ」で新規客を獲得し、AOL時婦負はアマゾンのような有力企業と関係を強めて対抗している。(朝日新聞、2001年7月25日)
テープを聞いてみると、私はただ「ワッハハ」「ガッハハ」と笑ってばかりいる。しかし松下さんには『これは井上さんへの遺言状です』という決意があり、それは私も十分にわかって聴いたつもりである。
・夏休みになったらヘンリー・D.ソローの本を読みながら、森の中であれこれ気ままに考えてみたい。そんなふうに思っていたが、できなかった。本を読むよりは動き回っていることが多かったし、客もあった。バルコニーに座って木漏れ日の下での読書、という格好いい空想も、工房の建築工事や雷雨続きで、一度も実現しなかった。
・要するに、ソローの世界に入り損ねたのだが、気にはなっていたから、枕元に置いて、寝る前の時間を『ウォルデン』の読書に当てた。しかし数ページと進まないうちにいつでも睡魔におそわれた。だからいまだに、500ページほどの文庫を読み終えられないでいる。
・とは言え、この本は一気に読むようなものではない気もする。数ページ読んでは立ち止まり、ソローの発想を心に留めて反芻する。そうしながら夢の中………。そんな読み方がかえって、ゆっくり考える機会を作りだす。何しろこの本は1世紀以上も前に書かれたものであり、その時間の経過を埋めながら読まなければ、とても今の世界にあてはめることはできないからだ。しかし、中にはまさに核心をついた現代批判と言えるようなことばもある。たとえば、次のような文章。
ぼくらはメインからテキサスまで電信を開通しようとおおわらわだが、しかしメインもテキサスも、おそらくは通信に価するほどの情報を持ち合わせてはいまい。どちらの地域も、たとえば耳の不自由な名流婦人に紹介してほしいと熱望しながら、いざ面会がかない、彼女のらっぱ型補聴器のいっぽうの先端を手渡されると、言うべきことを持ち合わせない人と同様の苦境にある。知恵あることを語るより、口早に語ることのほうが主な目的とでも言わんばかりだ。(74p.)
・1世紀前の世界では電信、そして電話が敷設されはじめていた。つまり最初のIT革命である。ソローはそれを使っていったいどんな情報がやりとりされるのかと言う。本当に必要な情報ではなく、また本当に大事なコミュニケーションでもない、ただただ急ぐこと、あるいはつながることだけに対する脅迫観念と、それを実現していることでもつ安心感。それは何よりインターネットと携帯電話に向けられるべき批判でもある。
望遠鏡や顕微鏡ごしに世界を眺めるが、おのれの肉眼で見ることはない。化学は勉強しても、おのれのパンの作られるすべを知らず、いくら機械学を学んでも、パンを手に入れる手だては分からない。海王星の新しい衛星を発見しても、おのれの目の塵は見えず、おのれ自身がどういう無軌道な無法者の衛星であるかも見破られない。………自分で掘り出し、溶解した鉱石から自分用のジャックナイフを、そのために必要な本を読破して作った青年と、そのひまに大学の冶金学の講義に通い、父親からロジャーズ製の小刀をもらった青年と、いったい一ヶ月たったらどちらが大きく成長しただろう。(73p.
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・こんな一文に出会うとまったく耳が痛い気がしてくる。僕らは自分では何一つできなくなってしまっているくせに、ほしいもの、やりたいことに対する欲望ばかりが膨れあがっている。もちろん、問題は複雑で、ソローの指摘を鵜呑みにして社会批判をしたり、自己反省をしても、何かが変わるというものでもない。けれども、時流に乗り遅れまいと流れに身を任せてばかりでは、自分のいる場所を落ち着いて見定めることは難しい。世を捨てるというのではなく、世間から離れて一人になることで生まれるあらゆるものに対する距離感。
・ソローはボストンのコンコードに住んでいたが、そこから数マイルほど離れたウォルデン湖のほとりに小さな小屋を建てて数ヶ月暮らした。『ウォルデン』はその時の経験の記録である。この本を読むと、ソローがけっして「孤高の人」とか「文明を拒絶した生き方をした人」でないことがよく分かる。彼は最新の技術に常に注目し、それに翻弄される人びとに警鐘を鳴らした。
・ぼくはとてもソローのような高潔な人間にはなれそうにない。けれども、彼のとった姿勢をちょっとだけ引き受けて、自分の経験の中で再現のまねごとぐらいはできるかもしれない。ソローが生きた時代から100年たった世界を、ソローの目と感性と思考を頼りに見つめ直してみたい。このコラムを思い立ったのはそんな意図からだった。どこまで続くか分からないが、しばらくはソローの本につきあってみようと思う。
日時: 2000年09月25日
・嘉手苅林昌は沖縄を代表する三絃の弾き語りだった。1920年生まれだが、三絃を手にしたのは7歳だったという。教えてくれたのは歌好きの母親だった。農業の手伝いのために10歳で学校へ行かなくなり、14歳の時に家の金を手に大阪に出た。徴兵、そして招集。クサイ島で負傷し、捕虜となって敗戦。戦後は大阪で闇物資の取引や沖縄一座の地謡をした後沖縄に帰る。1950年に初レコーディング。その後は主に、村の行事や祝いの座で歌い、沖縄中を回る。最初のLPを出したのは1965年。琉球放送のレギュラーや民謡クラブで歌い続ける。1999年、逝去。
・ジルーは嘉手苅林昌の童名で、本土で言えばジロー。年表によれば、死の直前まで歌い続けている。その童名をタイトルにした「ジルー」にはその足跡をたどるように1950年の初レコードから1975年までに録音された歌が20曲収められている。もちろん最初のものはSP盤で後はLP、すべて廃盤になっていたものをCDとして復刻している。
・聴きながらまず思ったのは、これが沖縄の民謡を集めたアルバムであるのに、喜納昌吉や林賢バンドとほとんど同じ感じで聴けたことだ。もちろん、ロックではないから8ビートはないし、英語も混じったりはしない。しかし、この二つの音楽には、確かに切れ目なく歌い継がれてきたものがある。そんな印象を持った。
・理由の一つは、沖縄の歌が歴史や時事的な物語の語り部として生き続けていること。それは、沖縄の自然や神話、あるいは昔話に触れ、戦争について歌う。古い言い伝えが生き生きとよみがえり、悲しい歴史が反芻される。あるいは何より多い恋歌は、どれもが春歌のようで開放的だ。沖縄の若いミュージシャンは、新しいリズムや楽器を取り入れ、時代に合わせたメッセージや物語を歌にするが、歌う姿勢に何ら違いはない。そんな印象が強い。
九年母木ぬ下をて 布巻きちゅる女(ミカンの木の下で布巻きしている女)
あっちぇーひゃー あんし美らさぬひゃー(あっぱれ、あんな美しい人ははじめてじゃ)
………
ちゃーならわん でぃ先じしかきてんだ(どうなろうとまずは行動あるのみ)
一番始みは我んから しかきら(はじめはおいらがナンパしてやる)
初みてどやしがよ 年幾ちなゆが(はじめてだけど彼女年幾つ)
十七、八やらや 我んね三十(十七八頃かな俺は三十)やれー何やが やなうふじゃー小よ(だったら何なのさ いやなおっさん)
其処うてぃーふぇー じゃーふぇーしいね(此処でなんやかやしてたら)
仕事んならん(仕事できないじゃない) 「九年母木節」
・Wowowでは毎月二日、第一土、日曜日に、その月に放映する新しい映画をまとめて放送している。「最強宣言2days」。ずっと見逃してきたのだが、たまたまつけておもしろそうだったので何本も続けてみてしまった。今回紹介するのはそのうちの2本である。
・「バッファロー66'」は奇妙な映画だ。無精ひげのいかにもさえない感じの男が、ゴムまりのような女の子を誘拐する。彼は刑務所を出たばかりで、両親の元に行くのだが、結婚したと嘘の手紙を書いてしまっていた。で、それらしい女の子が必要だった。一見ストーカーふうに見える男は、実は異常にシャイで、途中立ち小便をするシーンでも、彼女に何度も、「絶対に見るな!!」と繰り返す。
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家に着くと両親が暖かく迎えてくれるが、会話の端々に、男が育った親子関係のありさまが垣間見えてくる。母親はチョコレート・ケーキを出すが男は食べない。「好きだったでしょ!」というが男は否定する。「チョコ・アレルギーだった」。母親はそれを知ってか知らずか、男に食べさせ続け、彼はそのたびに顔を腫らしたらしい。回想シーンになると突然スクリーンの中心から別のウィンドウが現れ、そこに少年時代のシーンが映し出される。すぐに激昂する父親。フットボール観戦になると我を忘れる母親。誘拐された娘はしだいに男に好意を寄せるようになり、両親に妊娠しているなどと適当なことを言い始める。父親は理由を付けては娘を抱き寄せる。4人が囲むテーブルを、カメラはいつでも、誰かの視線で3人を映し出す。これもおもしろいカメラ・ワークだと思った。
・男は刑務所に入る原因になった奴を殺しに行く。娘が同行するが、モーテルではもちろん一緒に寝ようとしない。風呂に入っているのを覗かれるのさえ嫌うが娘は一緒に入りたいという。そんなおどおどした男だが、ボーリングをするときだけはさまになっている。で、殺しの実行、というところなのだが、空想だけでやめて、モーテルに帰る。彼女の大きな胸に顔を埋めたところでおしまい。
・リトル・ヴォイスは自閉症気味の女の子の話。好きだった父親が死んでから、彼女は部屋に閉じこもって、父親が集めたレコードを聞いているばかり。外にも出ないし、母親の呼びかけにも応えない。ところが、父親の幻影が現れると、レコードそっくりに歌い出して、周囲を驚かせる。ジュディ・ガーランド、マリリン・モンロー、シャーリー・バッシーと誰の物まねでもやってしまう。場末のナイトクラブのオーナーと落ちぶれたプロモーターが売り出しにかかる。少女はたった一回だけの約束で歌うことにする。客席に父の幻影を見つけた彼女は、とりつかれたように次々と歌って客席を魅了する。
・味を占めた大人たちは、彼女をスターにすることを空想する。しかし、どう説得されても、脅されても彼女はその気にならない。予定したショーが台無しになり、漏電で家が焼けた後、母親は彼女をののしるが、逆に少女は父親の死の原因が母にあること、それが原因で自分が小さな世界に閉じこもってしまったことを母親に吐き捨てるようにいう。彼女が心を開いたのは、鳩が好きで無口な青年だけ。
・前者はアメリカ、後者はイギリスだが、共通点の多い映画だと思った。マザコンの男とファザコンの女。どちらもきわめて感受性の高いナイーブな若者が主人公で、それゆえに屈折した育ち方をしている。そしてその原因の多くはもちろん、親にある。夫婦、親子の関係の難しさと、それを正直に反映する形で成長する子どもたち。どちらも地味な映画だが、問いかける問題は日本にも共通する、今日的で普遍的なものだと思った。
・「バッファロー66'」は題名の通り60年代だろうが、「リトル・ボイス」の設定はたぶん現在である。しかし、少女の家にはやっと電話が取り付けられたところだ。田舎町で労働者階級の住む地域のせいかもしれない。歌われる歌とあわせて昔懐かしい感じのする世界。そこでそれぞれの主人公がそれぞれの仕方で救われる。映画にありがちなエンディングといってしまえばそれまでだが、殺伐とした少年犯罪が頻発する現在の日本では、そんな懐かしさや救いは求めようがない。求められないとわかっていても、それでも求めてみたい救いの手。見終わって浮かんだのはそんな感想だった。