2001年7月23日月曜日

ムササビが住みついた


・今年の夏は本当に暑い。夏休み前の最後の週、東京は37度の日が続いた。僕はもう車を降りた途端に気分が悪くなり、研究室に着くとすぐに冷房をいれたが、涼しくなるまでの間に、大汗をびっしょりかいてしまった。この時期の温度差10度は体にこたえる。だから、河口湖に帰ると、ほっとする。もうここに住みはじめたら、夏はどこにも出かけたくない。けれども、今年は、河口湖も30度を超える日がつづいている。カミさんは河口湖の ハーブ祭りに共同で店を出した。20日ほどの期間を分担で店番をしたが、連日の好天でテントの中はものすごい暑さになったらしい。
・河口湖駅近くにある川津屋(ここの蒲焼きはおいしい)の85歳になるおばあちゃんが、こんな陽気は生まれて初めてだと言っていたから、たぶん異常なのだろう。僕は2階のロフトを仕事場にしているが、お昼近くになると、蒸し暑くなって、午後にはいられなくなる。森の中だから30度を越えるほどではないが、それでも、こんな暑さは去年も一昨年もめったになかった。
forest9-1.jpeg・だから、仕事は午前中にして、午後は昼寝と決めた。それに夕方からカヤック。日が沈めば、さすがに風は涼しくなって気持ちがいい。確か去年は夜になると寒くて窓を閉めたはずだが、今年は寝室も開け放したままでいる。そんな陽気のせいではないと思うが、一月ほど前からムササビが住みつくようになった。たぶん屋根と壁の小さな隙間からはいって、屋根裏で寝ているのだ。
・ムササビは夜行性で、夜の8時から9時のあいだに出かける。ご帰還は朝の4時過ぎのようだ。「ようだ」というのは、僕は寝ていてほとんど気がつかないからである。しかしこの時間は毎日ほとんど決まっていて、出かけるときも帰ってくるときも、屋根をコトコト走り回る。後は木から木へ飛び移って移動して森を徘徊しているのだ。
forest9-2.jpeg・一昨年の夏、はじめて生活したときには、この家には日本ミツバチがいて、たぶん、巣は屋根裏だった。それが去年にはスズメバチに占領されて、巣でも作られたら困るな、と心配したのだが、今年はハチを見かけなくなったかわりにムササビがやってきた。いかにも森の生活らしい、といえば何となくいい雰囲気だが、屋根に穴でも開けたのではと心配になった。今年は空梅雨で6月中旬からほとんど雨は降っていなかった。夕立でもあって雨漏りでもしたら大変だと、「be born」の宮下さんに電話をした。忙しいようでそのうちにという返事だったが、ここ数日夕立があって、さいわい雨漏りはしなかったから、屋根に穴を開けたりはしていないようだ。
・しかし、図鑑で調べると、巣はくさいと書いてあるから、何とか追いだそうと思っている。昼に隙間をふさぐ工事をすると出られなくなってしまう。だから、たたき起こして追いださなければならない。それではちょっとかわいそうかな、という気もしている。たぶん僕の家にやってきたのは、今までの住みかを追われたためなのである。
・家の周辺では、確実に森の木が少なくなっている。去年の夏は僕の家の庭でも工房を建てるために10数本切った。今年になって、春には隣の林、そして6月の末にはちょっと離れたところで300坪ほどがきれいに伐採されて更地になってしまった。両方とも家を建てるためで、一つはすでに工事が始まっている。ムササビは時期からいって先月末に伐採された森に住んでいたのだろう。安住の木を追われてわが家の屋根裏に逃げ込んだ。そう思うと、追いだすのはちょっと身勝手すぎるかなと考えてしまう。
・ この周辺は別荘地として開発されたところで、できてからもう10数年経っているから庭に植えられた木も成長していて、どの家も森の中にあるという感じになっている。たぶん最初につくったときも、伐採する木は最小限に、というポリシーがあったのだと思う。それにバブルの頃で、とりあえず土地だけと思って購入した人も多かったようだし、そのあとの不景気で、土地は買ったけど家までは建てられなくなってしまったりしたのかもしれない。だからわが家の西側には手つかずの森が広がっていたのだが、そこが変わりはじめたのである。
・もちろん、それを非難するつもりはないし、困ったことだと言える筋合いでもない。森を荒らしているのはおたがいさまなのである。だから、ムササビが住んでくれるのなら、喜んで屋根裏を提供しなければならないところなのだが、はたしてそれでいいのだろうかとも考えてしまう。くさいにおいがしたり、虫がわいたりしたらかえって面倒なことになる。木に巣箱をつくって移動してもらおうかなどとも考えるが、そううまく気にいってくれるかどうかわからない。
・そんなわけで目下思案中なのだが、毎日決まった時間にコトコト歩かれると、「ムサちゃん」などといって話題にしはじめてしまっているから、決断は早くしなければならない。

2001年7月16日月曜日

MLBとNHK

  • テレビが「イチロー」ではしゃいでいる。新聞や雑誌も同様だ。確かにイチローは活躍している。アメリカでの人気もすごいものだ。うまいバット・コントロールや敏捷な動き、華麗な守備、強肩と三拍子も四拍子もそろっている。今さらながらに、すごい選手だったのだ、と認識させられたのは事実だ。アメリカのメディアでのイチローの形容もおもしろい。「魔法使い」「レーザー・ビーム」のような投球、ヒットにならない「エリア51」「ICHIRIFFIC(いちろ<おどろ>き)」となかなかしゃれている。彼の登場で、確かにメジャー・リーグがまたいっそうおもしろくなった。
  • しかし、である。それだけに、日本のメディアのはしゃぎすぎやミーハーぶりは不愉快になる。スポーツ新聞や民放のスポーツ・ニュースはさもありなんと、最初から予想していた。しかし、NHKの態度には不愉快を通り越して怒りさえ覚える。いったいNHKはいつから、視聴率ばかりを気にするチャンネルになったのか。
  • 何しろ今年のMLB中継はそのほとんどがマリナーズになって、去年まで楽しむことができた日本人選手の試合はほとんど見ることができなくなった。野茂の調子がNHKの予想以上によくて、マリナーズとかち合わないときには中継するが、それもあくまで、脇役にすぎない。僕はそのNHKの現金さ、薄情さ、ミーハーさにあきれている。メジャーリーグ中継をこれほどポピュラーにした野茂の功績を、NHKはまったく自覚していないのである。
  • ところが、そんな気持ちをもっているのが僕だけでないことがわかる番組があっておもしろかった。NHKはMLBのオールスター前に特集を組んだ。2時間の枠で、スタジオはイチローでもりあがっていた。で、いくつかの話題を視聴者に投票させて、そのベスト3を放送ということになった。たぶんNHKのもくろみは、イチローと佐々木、それに新庄だったのだろう。ところが結果は野茂が1位でイチローは2位。佐々木も新庄も圏外だった。
  • その結果が発表されたときにスタジオに生まれた一瞬の沈黙。そして、野茂のノーヒットノーランをもう一度見たい人が多いんでしょうね、という納得の仕方。ぼくは見ながら大笑いで、ついでに「ざまー、見ろ」と言ってしまった。野茂が1位になったのは、まちがいなく、日頃のNHKに対する不満を爆発させた野茂ファンの抵抗なのだ。何しろノモマニアは年季がはいっていて、インターネットにも慣れている。昨日今日のにわかイチロー・ファンとはちがうのだ。実はその日の朝、野茂はアトランタに勝って8勝目をあげたのにNHKは放送をしなかった。野茂を応援するサイトの掲示板では、NHKへの抗議を呼びかける書き込みがにぎやかだったのである。
  • 小泉人気もふくめて、人びとの関心がメディアによってつくりだされ、増幅されていることがあからさまになる状況が生まれている。それをファシズムなどと批判する人もいるが、僕はちょっとちがうと思う。何しろ、メディアの意図や魂胆は浅薄でまるみえなのだから。私たちは十分にシナリオを知っていながら、それに乗る。理由は一緒に楽しみたいからだ。だから、興味が失せれば、メディア以上に素早く、話題を捨て去りもする。メディアの影響力は確かに大きくなったが、それに対応する視聴者や読者の姿勢も変わってきた。
  • 日本の写真誌の取材の仕方に抗議して、マリナーズが日本の報道陣の取材を禁止したそうだ。野茂、伊良部、そしてイチローと、メジャー・リーグは身近になっても、日本のメディアの発想や姿勢は変わっていない。ケガで休んでいる新庄を追いかけ回す報道陣にうんざりして、新庄が「こんなところで何やってんの!?もう日本に帰れよ!!」と言ったことがある。海外へでたスポーツ選手が一様に感じる日本のメディアに対する不信感。サービス精神溢れる新庄も、ケガで休んでいるときにつきまとわれるのには腹が立ったのだろう。
  • しかし、そのコメントに自省の念をもつメディアはまったくない。蛙の面にションベン。相変わらずの井の中の蛙なのだから当然だ。どんな情報も日本のメディアを介さずに手に入れられる環境ができていることにいまだに危機感をもっていない。野球やサッカーをきっかけにして、受け手が井の中ではしゃぐ人たちと、その外に目を向ける人たちに二分されはじめているのはまちがいないことなのにである。
  • 2001年7月9日月曜日

    夏休みの仕事

     

    ・やっと、前期の終わりまで来た。とにかく忙しい気がして、落ち着いて本も読めない感じの数ヶ月で、夏休みの待ち遠しさは例年になく強かった。


    ・原因はいろいろある。4月から5月にかけては1年生のオリエンテーション・キャンプの準備、実施、後始末。僕は実行委員長なのだが、他にも、入試委員、メディア委員、大学院運営委員と、割り当てられた仕事は多い。大学院に博士課程ができて、院生の数もどんどん増える。学部の3つのゼミと合わせると、毎週顔を合わせる学生の数は70人近くになる。名前を覚えるのにも一苦労なのに、その一人一人の関心を聞いて、アドバイスをして、やる気を起こさせたりしなければならない。もちろんゼミのコンパもやりたがるから、それにもつきあわなければならない。大学の催しや教員とのつき合いもあって、東京泊まりの日も多かった。


    ・先日も会議が二つあって終わったのは8時前だったのだが、クソ暑い東京にはもう1分もいたくない気がして、空きっ腹を我慢して車をすっ飛ばして帰った。会議は一つが新学科について、もう一つは学内のコンピュータについて。後の方は2時間の予定が3時間半にもなった。


    ・東経大にはコンピュータについての委員会が二つある。最初、不思議な気がしたが、要するに、マックとウィンドウズの対立でできたという経緯がある。経済や経営学部が必要とするコンピュータの環境は文字と数字が処理できればいい。しかし、コミュニケーション学部では画像や音の処理もできなければならない。いろいろないきさつがあって、マックやその周辺機器の維持管理をするメディア委員会が電算委員会とは別に生まれたようだ。その二つの委員会とコンピュータがそれぞれまったく別個にあって、敵意にも似た感情がくすぶってきた。そういう状況を何とか打開しようという趣旨の会議だった。


    ・こういったウィンドウズ派とマック派の対立は前に勤めていた大学でもあって、僕は数少ないマック派を代表する情報センター委員だった。だから理解できないことはないのだが、マックとウィンドウズは今では、できることに大差のないコンピュータとして共存している。そういう変化に大学の組織やスタッフが柔軟に対応できていない。原因は既得権や怨念にも似た感情のしこりだ。正直言って僕はこういうことに巻きこまれるのは大嫌いなのだが、放っておくわけにもいかない。で、3時間半の議論というわけだ。


    ・しかし、夏休みである。もうしばらくは、大学のことは考えたくはない。学生とのつき合いからも解放されたい。今年ほど、こんな気持ちを強く感じた年はない。とはいえ、涼しい場所でのんびり静養などといってもいられない。夏休み中にやらねばならない仕事がいくつかあるからだ。メインは翻訳。D.Strinatiの"An introduction to popular culture"を『ポピュラー文化を学ぶ人のために』という題名で世界思想社から出す予定だ。来年の講義のテキストに間に合わせるためには、夏休み中に仕上げなければならない。関東学院大学の伊藤明己さんとの共訳で、負担は半分なのだが、時間的な余裕はほとんどない。


    ・内容はポピュラー文化を分析するために蓄積されてきた理論研究の紹介といったものだ。大衆文化論、フランクフルト学派、構造主義と記号論、マルクス主義とヘゲモニー、フェミニズム、ポストモダニズムとならべると難しそうだが、イギリスやアメリカの大学では基礎的なクラスのテキストとしてつかわれていて、けっして難解というものではない。出版されれば、カルチュラル・スタディーズの理論的な概説書として役立つだろうと思う。


    ・もう一つの仕事も世界思想社から。来年の3月に京都大学を退官される井上俊さんの記念論集に一本エッセイを書かなければならい。題名は『文学の社会学』。文学という制約があって何を書くかいまだに困っているのだが、とりあえずはP.オースターの小説を題材にしてニューヨークについて、と考えている。ウッディ・アレンやルー・リードとからませれば、何とか話を一つ作れそう、と漠然とイメージしているが、具体的な構想はまだできていない。締め切りは9月末である。


    ・京都に住んでいるときは、夏休みはどこかに出かける時とほとんど決まっていた。暑い京都で夏を過ごすことなどうんざりだったし、子どももいたから長期の旅行に出かけることが多かった。それが河口湖に来てから2年間、家に落ち着いて仕事という形になっている。何より涼しくて居心地がいいから、どこかへ出かける気がしない。そんな気持ちが一番だが、学校の仕事がある間は、本を読んだり、ノートをつくったり、あれこれ考えたりという時間が持ちにくくなった。


    ・こんなはずじゃなかったのに、と思っている。それだけに、夏休みは学校のことを忘れていたいと思う。とはいえ、お盆をすぎると、来年度の入試の用事がはじまるから、そんな時間もあっという間に過ぎてしまう気がする。ぼやぼやしていると、夏は夏でまた、時間を気にして過ごすのかと思うと、ちょっと憂鬱になる。
    ・さあ、今日も翻訳をがんばって、夕方になったらカヤックを漕ぎに行こう!

    2001年7月2日月曜日

    中野収『メディア空間』(勁草書房)

     

    ・ぼくにとって中野収さんは、日本におけるメディア論の先達である。 1975年に平野秀秋さんと共著で出版された『コピー体験の文化』(時事通信社)は、まさに目から鱗という感じだった。その後につづいてでた『コミュニケーションの記号論』(有斐閣)や『メディアと人間』(有信堂)も、コミュニケーション論やメディア論について考えるさいには欠かせないものだった。

    ・そんな大先輩が、メディアと社会の関係を、「メディア社会論」として本腰をいれて洗いなおしている。ここで紹介する『メディア空間』は、そのような構想のもとに書かれた前著『メディア人間』(勁草書房)の続編である。そして考察はまだまだ終わらないようだ。

    ・「メディア社会論」の構想はおおよそ次のようなものだ。

    ・50年代にはじまり60年代に本格化するテレビと、ラジオやオーディオ機器は、個室化という住環境の変容と相まって、それ以前にはない独特のコミュニケーション空間をつくりだした。つまり一人ひとりが個室にいて、さまざまな情報端末によって他人と、あるいは社会とつながるという感覚がひろまった。『コピー体験の文化』がいちはやく提示した「カプセル人間」の時代である。そのような傾向は70年代から80年代にかけて、たとえば電話の多様化によって促進され、90年代にはいってまたたく間に普及した携帯電話とインターネットによって決定的になった。

    ・このような現象は当然、個人や人間関係、あるいは社会のさまざまな側面に影響する。たとえば政治も経済も、その動向をメディアぬきに考えることはできない時代になった。『メディア空間』ではそのような変容を、経済については「広告」のもつ重要性という点から指摘していて、経済学が相変わらず、その広告の機能を軽視していることを批判している。

    ・同様のことは政治の世界についてもいえる。メディアは政治(家)をワイドショーのネタにするが、内閣や政党の支持率がメディアによって流される情報やイメージに左右されるのだから、政治(家)もメディアを無視することはできない。しかし、それで人びとの政治参加の意識が高まったかというと、そうではない。世論調査では選挙に行くとこたえる人がふえても、実際の投票率は下がり続けている。「メディア空間と」「現実」では、人びとは行動も感覚も変えるのである。

    ・社会はメディアを通してというよりはメディアという空間の中に存在する。そのような意識は個人のレベルでも変わらない。個室としてのメディア空間が移動できるもの、あるいは持ちはこびできるものになったのは、車やウォークマンの普及からだが、今では携帯や多様なモバイル機器によって当たりまえになっている。そのような個人とともに移動するメディア空間は、当然、人前や人混みのなかでも個室状態をつくりだす。社会空間が直接的なものとメディアを介在させたもので複雑に構成されるようになった。

    ・中野さんは電車の中での若い女性の化粧直しの様子に驚いて、そこに移動する個室空間とのつながりを読みとっている。「つめてください」という一言にむかついて死に至るほどの暴力を加える行動がニュースになっていることもふくめて、これは空間の私性と公共性という意味を考え直すおもしろい視点だと思う。

    ・前作の『メディア人間』もあわせて、力作、意欲作だと思う。この後に続くはずの作品にも期待したいと思う。しかし、読みながら気になるところも少なからずあった。

    ・たとえば経済と政治について前述したような論旨で多くのページが割かれているが、経済については広告にかたよりすぎ、また政治については執筆時点の政局にとらわれすぎという印象をもった。経済学が広告を無視しているという指摘には同意するが、経済がメディア空間に大きく左右されている現状は、そもそもバブル景気がそうだったし、最近の株の全体的な低迷や、乱高下する一部の株などにもっと典型的にみられるように思う。ネット・バブルにしても株の低迷にしても、その原因はイメージで、それを増幅させているのはメディアであり、しかも、その空間はグローバルな規模に広がっている。「マネー・ゲーム化」している現実の経済現象にとって重要なのは、むしろこちらの意味でのメディア空間に対する視線のように思う。

    ・政治は今、小泉や田中で注目の的、つまりはやりである。本書で取り上げられているのはもっぱら、前任者の森元総理だが、本が書かれて出版されるまでのほんの数ヶ月の間に、政治に対する人々の目は一変した。従って読んでいてどうしようもなく、例の古さを感じてしまう。それは、たまたまのタイミングの悪さだと思うが、それだけに、例の使い方には慎重さが必要だろう。何しろメディア空間では、話題は数ヶ月ともたないのだから。

    ・とはいえ、めまぐるしく変容するメディアやそれらがつくりだす現象に追いつくことにくたびれたり、飽きたりしてしまっている僕には、大きな刺激になった本であることは間違いない。

    ・このレビューは「図書新聞」に依頼されて書いたものです。

    2001年6月25日月曜日

    湖に浮かぶ


    forest8-1.jpeg・毎週1、2度カヤックに乗って湖に漕ぎ出すようになった。今のところ組みたてて漕ぎだす場所はほぼ一緒だから、乗るたびに時間は長くなっている。しかし、それでもゆっくりとした動きだから、まだまだ河口湖全体を漕ぎ回われていない。ぐるりと一周するためには、たぶん3時間ほどかかるだろう。それをやるためには、腕や胸、それに腹の筋肉がなまりすぎている。ここのところ腰の状態も不安定だし、もちろん手のひらにマメができるうちはだめだ。何より今のところ、半日の時間をのんびり過ごすゆとりがない。


    forest8-2.jpeg・とは言え、先日は河口湖大橋の下をくぐりに出かけた。週末は水上スキーや釣りのモーターボートで真っ直ぐ進むこともままならない。何しろ横波は禁物で、波が来るたびに直角に向きを変えなければならないからだ。だから遠出は平日の早朝ということになる。カヤックは風を背に受けるとほっておいても進む。橋まではのんびりした漕ぎ方でも簡単に行けた。ところが、そこでUターンをすると、今度は漕いでも漕いでも進まない。まるで腕立てふせを連続でやらされているようなしんどさだが、もちろん途中でやめるわけには行かない。漕がなければカヤックは風を受けて後退をはじめてしまう。まさに「行きはよいよい帰りは恐い」。たっぷり2時間。これでも湖の半分にしかならない。いつもの岸に戻った時にはもうバテバテだった。


    forest8-7.jpeg・湖から見える風景はやっぱり新鮮だ。新興宗教の建物、あるいは廃屋になったホテルや旅館や別荘。ふだんは近寄ってみることもない場所がかえって気になる。湖と富士山が見える露天風呂は、湖からはまるみえなんじゃないか。へんな好奇心につられて近づいてしまったりする。あるいは湖畔にすむ知人の陶芸家の家。もちろん、大橋の下をくぐったときはやっぱり感激ものだった。もっとも、梅雨に入ってからは富士山がほとんど隠れているから、富士に向かって漕ぐというシーンはない。
    ・梅雨空とはいえ、暖かくなってきたから、週末には釣り客で早朝からにぎわっている。だから糸を引っかけないように気をつけなければならない。もっともその釣り客が針や糸を捨てていくから、漕ぎだすときや戻るときにもカヤックに引っかけないよう辺りに気をつけなければならない。とにかく河口湖の週末はこみすぎている。

    forest8-4.jpeg・そんなこともあって日曜日の夕方、西湖に出かけてみた。大学のオリエンテーション・キャンプをやった「くわるび」のあたりには、ウィンドウ・サーフィンをする人がちらほら、釣り客も河口湖にくらべるとぐっと少ない。溶岩がむきだしの対岸まで漕いでみた。西湖は青木ヶ原の樹海の端にあたる。まだ明るさが残っているとはいえ、湖の真ん中あたりまで来ると、溶岩と樹海にちょっとたじろぐ感じがする。


    forest8-9.jpeg・「カントリーレイク」でカヌーの指導員をしている人は、一度、湖に落ちた方がいいという。ひっくり返ることになれておかないと、そうなったときにパニックになるからというのだ。たとえば水上スキーやウィンドウサーフィンをしている人は、水の中にいる方が多いんじゃないかと思うほどによくこけている。それを見ていると、ついつい笑ってしまうし、どうってことはないような気がする。落ちても必ず浮くように、ライフジャケットも着ているのだから、何も怖がることはないのだが、船体をわざと傾けるのは躊躇してしまう。


    ・しかし、もう少し暑くなったら、かならずやってみようと思う。西湖や本栖湖は水深があるから万が一の時のために経験は積んでおかなければならない。などと、我ながらだらしがない。

    2001年6月18日月曜日

    "The Hurricane"

     

    ・『ハリケーン』は世界チャンピオンだったボクサー、ルービン・カーターの物語である。彼は10代の大半を少年院で過ごし、また30代と40代を刑務所で過ごした。しかもどちらも、黒人差別に根ざした不当逮捕。獄中から何度も再審請求をし、モハメド・アリやボブ・ディランが支援したが、却下された。そしてその主張が認められて釈放されたときには。ルービン・カーターはすでに50代になっていた。『ハリケーン』はその実話にもとづく映画で、主役を演じるのはデンゼル・ワシントン。僕はディランの歌で、その話を知っていたから、楽しみにしていた。
    ・ 映画は一人の黒人少年に光を当て、ルービンが書いた自伝への関心と、そのあとに作られる二人の関係を軸に描かれている。同じように貧しい家庭に育ったが、環境保護運動をするカナダ人たちに引き取られて、高校に通う。その幸運に恵まれた自分の境遇とカーターの不幸の違いが少年の心を突き動かす。そして彼の気持ちを全面的にバック・アップするカナダ人たち。
    # 映画そのものはハリウッド映画の常套手段で、主人公の苦悩や挫折にもかかわらず黒人少年の献身的努力でハッピーエンド、例によっての法廷での感動的な弁舌といったもので、少年を支えるカナダ人はまったく非人格的といっていいほどに心の葛藤や日常生活を捨象して描かれているが、それでも、夢中で見てしまった。原因はやはり、ディランの歌にあったのだと思う。

    ピストルが響いた酒場の夜
    パティ・バレンタインが降りてきて
    バーテンが血の海に倒れているのを見る
    「たいへん、みんな殺されている!」
    というわけで、ハリケーンのはなしがはじまる
    彼こそ権力が罪を負わせようとえらんだ男
    なにもしなかったのに 独房にいれられた
    だがかつては 世界チャンピオンだったはずの男

    ・ 改めてディランの「ハリケーン」を聴きなおすと、この歌が事件の経過を忠実に物語っていることに気がつく。バラッドとはまさにこういう内容の歌をいうのである。「みなさん聞いてよ、こんなことがあったんだ」。と語りかけながら、ことの真相や問題、あるいは結末を歌う。バラッドは新聞が登場する以前からあったジャーナリズムの原初形態で、それがフォークソングやロックに引き継がれた。おもしろいのは、その形式がラップにもしっかり残っていることだ。映画に挿入された同名の曲「ハリケーン」を歌うのはヒップ・ホップのザ・ルーツ他。

    究極の犠牲を払うとはまさにこのこと
    ハリケーンはずっと投獄されていたのさ
    地獄の底に突き落とされ、刑務所の中で男は成長した

    彼は自分のやるべきことをやり、リングの王者になった
    話題になりはじめたハリケーンを当局の奴らは封じこめようとしたのさ
    ヤツらは彼を陥れ、牢獄にぶち込んだ

    ・ことばは映像と違って簡潔だ。「血の海」の一言に、凄惨なシーンをイメージさせるのは受け手の役目だからだ。もちろん、そのことばに送り手が感情を込めることはできるが、それはあくまで、受け手がそれぞれにイメージさせるものに働きかけるにすぎない。一方映画はイメージそのものをつくりだすことで成り立つ表現手段だから、受け手は現実に近いものに直接立ち会うように経験する。そこにことば以上のリアリティを感じることもあれば、またかえってうそっぽさや陳腐さを受けとることも少なくない。『ハリケーン』でも、そういった作りすぎの描写にしらけたり疑ったりすることもあったが、また映画ならではというシーンも多かった。
    ・シーンの多くは独房でのカーターの表情。デンゼル・ワシントンの顔の演技は見応えがあった。絶望や希望、不安や安堵、怒りや喜び、そういった感情を微妙な顔の表情でどう表現するか。これは映像ならではの描写だと思った。
    ・映画俳優の仕事の特異性は、その演技を観客に対してではなく、カメラという無反応の機械の前で演じるところにある。それをいちはやく指摘したのはベンヤミンだった。観客は、役者が機械を相手にした演技を、あたかも至近距離で見ているかのようにして経験する。映画はそれが作られる場と公開する場が断絶していることによって成り立つ表現手段。そのことを自覚するのは写し取られる者だけであって、ふつうは観客は無自覚に見てしまう。デンゼル・ワシントンの演技に惹きつけられている自分を自覚しながら、時にボクサーになったり、弁護士になったり、刑事なったりするする映画俳優の仕事の奇妙さについて考えてしまった。

    2001年6月11日月曜日

    アンケートで考えたこと

     

  • 大阪市大の学生から卒論用のアンケートの依頼が来た。卒論のテーマは「発表という行為の価値の自明性」。質問は次のようなものである。
  •  釈迦と言う人物は仏教でいう「悟り」を見い出し、そしてその教えを広めた人物で すが、この「悟り」を見い出したときのエピソードがとても興味深いのです。釈迦は「悟り」を見い出したとき、余りの喜びに、「しばらく誰にも言わないでおこう」と思い、しばらくの間、誰にもその「悟り」を伝えなかったのだそうです。
  • つまり釈迦は最初はその発見を発表しないでいたのです。このエピソードから私は、「なぜ発表するのだろう」という素朴な疑問を抱きました(もちろん釈迦に対してではなく、発表一般に対して)。そこで、実際に発表していらっしゃる方、特に新しい発表の場であるインターネットのホームページ上に論文をアップしていらっしゃる人に直接お聞きし、探っていこうと思いました。あなたのように個人でこのようなホームページを運営されていらっしゃる方が、このテーマにふさわしいと思います。

    1.あなたにとって発表とは何ですか?
    2.何故あなたは、発表をしようと思ったのですか?動機をお聞かせ下さい。
    3.発表をしたことによって、どのような変化・効果・などがありましたか?
  • で、ぼくは次のように応えた。
    1)「発表」ということばに違和感を覚えますが、他人とは違う自分の思いや考えを持っているという自覚が、それを形にして公表しようとさせるのではないかと思います。ぼくが考えることは釈迦の「悟り」などというだいそれたものではなく、極めて私的な戯れです。世の中を変えようとか人を導こうなどとは間違っても考えたことはありませんが、やはり、反応があってコミュニケーションがおこることには喜びを感じます。
    2)研究者であるぼくにとっては、考えたこと、作り上げたものは公表するのが基本です。いろいろ考えてみたいことがあったから研究者になった。なったからには、考えたことは公表する。ようするに、それを職業として選択したのだと考えています。
    3)一概には言えません。紀要などに論文を書く、雑誌や新聞の依頼に応えて原稿を書く、あるいは本にまとめる。また学会で発表というのもあります。発表する場の違いは当然、受け手の違いになります。したがって、発表のスタイル(文体)や内容も変えることになります。発表が何か変化や効果をもたらしたという実感はあまり持ったことがありません。個人的な関係が生まれることはありましたが……。
     実は、このような反応の少なさには以前から物足りなさを感じていました。インターネットの存在を知ったときにいち早くホームページを開設したのは、それまでの発表の場とは違うスタイルで異なる人たちと出会えるのではという期待を持ったからです。そのような期待はある程度実現していますから、休業状態にならないよう、せっせとHPを更新しています。
     ですから、HPにいわゆる論文のたぐいは載せていません。本にしても、紀要にしても、それは図書館に行けば手にすることができます。そういうスタイルではない公表の場、幅広い受け手を想定して、思ったこと、考えたことを気楽に書いていく場として考えています。
  • と、もっともらしいことを書いたが、「書くこと」とそれを「公表すること」については、ぼくはその姿勢をG.オーウェルの「なぜ私は書くか(Why I Write)」というエッセイから学んだ。というよりは自覚させられた。彼が考える「書く」動機は次の4点である。
    1)純粋のエゴイズム………賢い人だと思われたい、人の話題になりたい、死んでからも覚えていてもらいたい、子どもの頃自分をバカにした大人たちを見返してやりたい、その他いろいろの欲望。
    2)美的情熱………自分の外の世界の美しさ、または言葉とその適切な組み合わせの美しさを感じること。一つの音がもう一つの音に与える衝撃、よい散文の確かさとか、おもしろい物語りのリズムの楽しみ。
    3)歴史的衝動………物事をあるがままの姿で見たい、本当の事実を見つけて後世の使用のためにたくわえておきたいという衝動。
    4)政治的目的………ある方向に世界をおしていきたい、どんな社会を実現することを目標として努力すべきか、などについて他人の思想を変えたいという欲望。
  • どれもあたっているが、「エゴイズム」を最初にあげているところが「精神的誠実さ」を作家としての基本姿勢にしたオーウェルらしいと思う。「エゴイズム」がなければ、エネルギーは続かないが、またそれだけでは人には伝わらないし共感も影響も与えない。