・アメリカによるアフガニスタン空爆がまだつづいている。今朝読んだ新聞には「破壊を破壊する」ということばがあって、まさにその通りと思うと同時に、たまらなく憂鬱になった。一方で、アメリカ国内では「炭疽菌」騒ぎが恐慌をおこしている。憎しみや妬みが怨念となって世界中に漂っていく。それとは対照的に日本では、恥をかくまいという一心で自衛隊を派遣しようとする法改正に賢明だし、片栗粉を封筒に入れた愉快犯が続出しているという。多くの人は対岸の火事とほとんど無関心のようにも思えるが、狂牛病と合わせて、不安感が充満していることは確かなようだ。
・ただただ爆撃だけがくりかえされる現状を見ていると、一体どこに、アメリカがアフガニスタンを空爆する正当な理由があるのだろうか、とあらためて考えてしまう。それで結局どうしようというのだろうか。どうなるのだろうか。どう考えても、暴力が暴力をひきおこし、憎しみが憎しみをつのらせるだけ、そして結局、破壊が破壊を生み、破壊を破壊と際限なくつづくだけなのに………。
・BSi(TBS)で坂本龍一がつくった、地雷廃絶のためのキャンペーンCD"Zero Landmine"の製作過程のドキュメントを見た。このCDは4月に発売されていて、一時ちょっとだけ話題になったが、後はほとんど注目されていないものだ。
・ぼくが地雷の問題に関心をもったのは、そんなに前のことじゃない。生前、ダイアナ妃がアンゴラまで出かけて、対人地雷廃絶を訴えていたのは何となく知っていた。ICBLという組織がインターネットで活動を拡大し、ノーベル平和賞を授与されたことも知っていた。しかし、この地雷の問題に深く動かされることになったきっかけは、某TV番組だった。それは、地雷撤去中に片手と片足を失った白人の男が、地雷の問題について自分の母校で、子供たちに教授するというものだった。その中で、白人の男は義手義足でフルマラソンを走っていた。ぼくはそれを見ながら、この白人男性の不屈の精神に感嘆した。(坂本龍一)
・坂本龍一はこのCDをつくるためにモザンビークに行き、地雷の被害にあっている国の人たち、とりわけ音楽家とコンタクトをとった。あるいは彼の友人に参加を呼びかけた。そうやってできたのが"Zero
Landmine"で、45分ほどの作品になっている。「イヌイットの少女の素朴な歌から始まり、………朝鮮半島を通り、カンボジア、インド、チベットを抜け、ボスニアでヨーロッパをかすめ、アフリカのアンゴラに行き、人類発生の地、東アフリカに位置する「大地溝帯」の南端、モザンビークに達する『音楽の旅』」。登場して歌い演奏し、話す人たちは数多い。その中でくりかえされる歌は次のように訴える。
ここがわたしの家 / おかあさんに育てられ
懐かしい兄や妹と / 遊んだところ
あなたにも見える? / 地面には木が根を下ろしている
暴力はもうたくさんだ / この地にもう一度平和を
ここはわたしたちみんなの世界で
わたしたちみんなの救いがある
だから、国も、国境も、関係がない
(「地雷のない世界」デビッド・シルヴィアン、村上龍訳)
・ジャケットには何種類もの地雷が並んでいる。形やデザインなどを見ていると、まるでブローチのようで、これが足や手を吹き飛ばす爆弾だとはとても思えない。人は、こんな残酷な兵器にさえも、デザインの工夫をしようとするのか、と思うと、何ともむなしい気がしてくる。もっとも、戦闘機や戦艦、あるいは鉄砲や刀も、形だけ見れば格好良かったり、美しかったりする。「殺しの美学」などという言い方もある。その道具としての野蛮さとの対照は、ひょっとしたら人間の本性を映しだしているのかもしれない。
# 美と醜、善と悪、真と偽、あるいは正と邪。人は価値を対照によって意識する。なによりこわいのは、価値の意識にはそれぞれ強い感情が伴うことだ。醜いものは消えてしまえ。悪いものは退治せよ。きわめて人間的な発想がおそろしく非人間的な心根をもたらす。だからこそ、地雷を踏んで手足をもがれる人、アフガニスタンで空爆される人から目を離さないことが大事だ。彼や彼女らは、そんな価値意識とは関係なく生きていて、不当に傷つけられたり殺されたりする普通の人間なのである。