2003年3月3日月曜日

Steave Earle "Jerusalem"

 

・スティーブ・アールは地味なカントリー・ミュージシャンだが、新しいアルバムでは、ずいぶん思いきったメッセージを送りだしている。アルバムのタイトルは「イェルサレム」。同名の曲が最後におさめられている。収録曲には、ほかにも「アメリカV.6.0 われわれにできる最善のこと」「共謀理論」「なんて単純なヤツなんだ」「真実」と、題名だけでも、その姿勢がはっきりわかるものが多い。疑問を投げかけ、批判しているのはもちろん、最近のアメリカ(人)の態度や感情である。


earle1.jpeg 朝起きると悪いニュースばかり
殺人兵器がキリストの地を徘徊している
しかし、テレビは、いつもこんな感じだという
そして誰も何もしないし何も言わない、と
それを聞いて、呆然とした
で、我にかえって自分の心に聞いてみた "Jerusalem"

・スティーブ・アールは1955年生まれで、ヴェトナム戦争の時代に少年期を過ごした。今までそれほどメッセージ色の強い歌を歌ってきたわけではないが、最近の状況から、アメリカに対する矛盾した思いを強く感じているようだ。で、『イェルサレム』である。
・邪悪な国をやっつけなければ、危険が戸口まで来てしまう。だからアメリカからはるか彼方の地に55000人(今回は20万人)もの兵隊を送るのだ。それに同調できないものは反愛国者。彼はそんな空気に強い違和感や孤独感を持っている。アメリカの意図は間違っていて、その歴史にも多くの人が目をつむって知らぬ振りをしている。アメリカが好きであればこそ、そうではいけないのだと彼は歌う。カントリーはアメリカ人の心の歌で、彼はそれを10代の頃からずっと歌い続けている。そのような共感と愛着が、今のアメリカの世論や時代感覚とぶつかり合う。スティーブ・アールの低音のだみ声には、そんな苦悩が強く感じられる。

earle2.jpeg おれは正真正銘のアメリカン・ボーイ MTVで育った
ソーダ・ポップの広告にはそんな子供がたくさん登場する
だが、おれはそんな誰とも違う
薄暗がりに灯りを探しはじめた
で、モハメッドのことばがはじめて
意味のあるものにきこえてきた
彼に平和を "John Walker's Blues"

・このアルバムはアメリカでは放送禁止になったようだ。それを聞いて僕は、ヴェトナム戦争時にヒットしたバリー・マクガイアーの「イブ・オブ・ディストラクション」を思い出した。どちらも、正義を掲げて狂気に走るアメリカの状況を素直に批判した歌、という点で共通している。もっとも、「イブ・オブ・ディストラクション」は放送禁止にもかかわらず大ヒットしたが、「イェルサレム」はあまり話題になっていない。これは、シンガーの話題性の問題なのか。それとも、戦争に批判する人たちの量の違いなのか。
・ヨーロッパはもちろん、アメリカでもイラク攻撃に反対する人たちのデモがニュースになっている。アメリカでも反対する人は多いはずだが、たとえば坂本龍一の次のようなことばを耳にすると、ヴェトナム反戦の声とは性質がかなり違うのだという感じもする。「僕が懸念しているのは、デモする人も、かたや何の疑いもなく政府の方針に従う人も、論理ではなく情で動いていることです。イラクで核弾頭が見つかったり、新たなテロが起こったりしたら、一挙に戦争賛成に回る可能性がある。これが怖い。」
・アメリカは移民による新しい国だが、その新しさは、先住民を追放し、抹殺してできたものでもある。それがアメリカ人の心に原罪として取り憑いていると指摘する人がいる。アメリカはそれを反省し、償いの気持を持とうとするが、自分の存在を脅かすものが現れると、また、ヒステリックにその掃討に走ってしまう。潜在化した原罪が呼び起こす反復強迫。
・なぜ、今、イラクを攻撃しなければならないのか。アメリカ人以外の人たちには、その理由ははっきりしない。しかし、はっきりしないのはアメリカ人とて同じなのではないか。なのに攻撃はますます現実化している。その怖さにアメリカ人自らが気づくこと。スティーブ・アールの歌がもっとアメリカ人の耳に届くといいと思う。
 

2003年2月24日月曜日

TVの50年


・NHKがテレビ放送をはじめて50年。それを記念する特別番組がにぎやかだった。どれもこれもかつての人気番組を登場させるもので、それはそれで懐かしい気がしたが、またノスタルジーでおしまいでは何とも能がないとも感じた。テレビの50年、ということは20世紀の後半という時代を、テレビを軸に考え直してみる。NHKにはそんな意欲があってもいいし、考える責任があると思った。
・テレビが茶の間に欠かせないものになったのは60年代。そのテレビに対して大宅壮一が「一億総白痴化の時代」と警鐘を鳴らしたのは、あまりに有名な話である。テレビは新聞に比べて、ラジオに比べて、映画に比べて二流のメディア。浅薄で貧弱。じっくり視聴する価値のないもの。テレビはずっとバカにされ軽視されつづけたが、人びとの生活の中に、そして意識の中には着実に浸透していった。
・そんな批判が聞こえなくなり、その存在感をいっそう強くしたのは80年代以降である。邪魔なものでしかなかったCMに関心がむけられたり、テレビ放映を目的に映画が作られたりするようになった。あるいは新聞の役割、雑誌の特徴と競合する番組が注目されるようになり、流行の発信基地にもなるようになった。
・バブルの頃はもちろん、それがはじけた後もテレビだけは好景気を持続し続けている。もちろん、BS放送の開始や地上波のデジタル化で相当の資金も必要とするようになったし、インターネットの急速な普及がテレビを脅かすのではないかということも言われている。けれども、今のところテレビが揺らぐ気配はない。在京の民放局はどこも新社屋をつくり、より大規模化させている。まさにテレビの時代と言えるのである。
・そのテレビの時代にあって、一番存在感をなくしたのが知識人と呼ばれる人たちだといっていいかもしれない。今テレビによく登場するのは、歯切れのいい経済学者やテレビ映りのいいわずかの文化人だけで、ほとんどの人はおよびでない。もっともかつては知識人たちがテレビによく登場していたというわけではない。彼らは最初からテレビには馴染まない人種だったのである。そのことを三浦雅士が次のように説明している。

知識人がテレビによって変容したのは、しかし、不特定多数の視聴者を相手にしなければならなくなっただけではなかった。テレビの画像によって、その権威を完膚なきまでに剥脱されたからである。理由は簡単だ。テレビはその卑小な画面において、政治家も、大学教授も、芸能人も、官僚も、時には犯罪者さえも、みな等し並に扱うからである。(『考える身体』NTT出版)

・彼は知識人をシャーマンにたとえる。身体のない観念だけの存在。それは身体をまるごと曝すテレビの前では、逆に空虚な存在でしかない。知識人が生きる場は新聞や書籍といったメディアだが、それもまたテレビによって存在感の薄いものになってしまっている。その意味では、大学生が本や新聞を読まないというのは大学生にとっての問題というよりは、彼らに何かを教えることでその存在を確認する大学教師の問題だといえるかもしれない。実際学生は教師のする話しに興味をもたないし、興味をもっても、その教師が書いた文章を読んでみたいなどとは思わない。三浦によれば、それはまた、話す内容ではなくパフォーマンスの問題である。

テレビは、何よりもまず、その画面転換のリズムによって、呼吸によって、見るものを支配する。とりわけコマーシャル映像のリズムによって。また、番組の配列のリズムによって。さらに、登場するアナウンサーの、キャスターの、タレントの呼吸によって、語り方の速度によって、支配するのである。(同書)

・学生たちはテレビでおなじみの顔を目の当たりにすると、本当に目を輝かして見つめ、耳をそばだてる。そんな彼や彼女たちを見るたびに、時代のリズム、呼吸、話し方、物腰、動作、表情、つまりパフォーマンスのすべてがテレビによって形成されていることを感じる。まるで、テレビは新たなシャーマニズムであり、そこに登場する人気者は新たなシャーマンとして存在するかのようだ。
・僕はこのような傾向に無関心ではないし無視もしないが、しかし、積極的に取り入れようとも思わない。自分を知識人などという一段高いところに置きたいとは思わないし、人からえらい人間なのだなどと見られたくもない。といってタレントのように、人の関心をひきつけるエンターテイナーになる気もないし、第一、なろうったってなれるものではない。

2003年2月17日月曜日

ETCに変えた


・ETCといってもエトセトラではない。高速道路の料金自動支払いシステムのことである。高速道路の渋滞にはいろいろ原因がある。しかし何といっても一番大きいのは料金所。日本道路公団はその解消策としてETCを導入して、全国ほとんどの料金所で利用可能にした。ところが、利用者はいっこうに増えない。僕は毎月2000kmも高速道路を利用しているが、ETCにしてみようかという気にはならなかった。


・理由ははっきりしている。デメリットばかりでメリットがなかったからだ。たとえば、ETCのための道具は自分で買ってとりつけなければならない。購入やとりつけ、さらにはセッティングに数万円のお金がかかる。といってその自己負担を解消できるようなサービスはない。普及を呼びかけたって無視されるのはわかりきっているのに、お役所仕事では対応策が生まれない。高速道路の問題が大きく取り上げられ、赤字路線やむだ使いが指摘されていても、利用者サービスの向上といった発想は皆無なのである。


・公団が重い腰を上げてハイウェイカードと同じ割引率を適用しはじめても、僕にはまだ魅力的には思えなかった。同じなら、カードを買う方がはるかに簡単で余計な費用もかからないからだ。なぜそういう気持ちが分からないのか、まったく信じられない。だいたい、道路が混むのは休日で、その時利用する人たちはETCにするほど頻繁に高速道路は走らない。逆に定期的に利用する車が走る平日は、料金所も混むことはない。ETCの普及を望むのは公団であって利用者でないことはわかりきったことである。
・なのに、公団は税金を使って新しい道路を作ることしか頭にない。あるいは政治家の発言にしか聞く耳を持たない。そういう体質はETCにたいする姿勢を見ても一目瞭然だ。公団とその関連会社には仕事をしないで高額の給料や退職金を取る天下りがたくさんいる。僕は高速道路にも定期券で利用したいと思っているから、むだ使いには本当に腹が立っている。何しろ1日通勤するだけで5000円の通行料を取られているのだから。
・だったらなぜ、ETCに変えようと思ったかというと、5万円のハイウェイカードがニセモノの横行に対処しきれなくて廃止されることになったからだ。カードは2月の末で販売停止になり、1年後には使用もできなくなる。これもまた、利用者ではなく公団の都合だから、僕はいい加減にしろと言いたいが、5万円のカードを1年分買いだめするのもばからしいからしぶしぶ決断した。


・ところがである。このETCの手続きがまた、何とものんびりしている。せっかくインターネットでの手続きを取り入れているのに、申し込んでからETCカードが送られてくるまで3週間近くかかった。何でこんなに時間がかかるのか、まったく不可解である。ETCの車載機はカー用品店や車メーカーのディーラーで設置してくれる。僕はスバル山梨の富士吉田営業所でとりつけてセット・アップをしてもらったが、僕がはじめての客だったそうである。これは数時間ですんだが、カードが送られてくるまでは、その予約もできなかった。で、ここまでで約一ヶ月。


・とりつけてセット・アップをすれば、それで利用は可能になる。しかし、ハイウェイカードと同じ割引率で料金を支払おうと思えば、その手続きをまた、インターネットでやらなければならない。手続きにはETCカードの番号とETC車載機の番号を入力しなければならないから、これも事前に登録することができないのだ。で、登録。しかし、そこですぐに利用可能というわけではない。登録IDと仮パスワードが送られてくるまでまた数日。それが届いてインターネットで5万円の前払いをして、やっと完了。


・1カ月ほど前の朝日新聞の投書欄に僕と同じように腹を立てている人がいて、申し込んでから使いはじめるまでに8週間かかったと書いてあった。すべてを郵便でやればたしかにそのくらいかかる。僕はインターネットだったから5週間弱だが、それでも決してスピーディとは言えない。これでは普及しないわけである。


・JHはやっぱり絶対に民営化すべきである。国鉄がJRになって文句を言う人は、少なくとも利用者にはいない。JHだって今よりずっとましになることはあきらかだ。僕は民営化されたら、走行キロによって割安になるサービスが絶対にできると思っている。「マイレージをためる楽しみを高速道路に」である。その一点だけで「小泉ガンバレ!」だ。


・ところで肝心の、利用しての感想だが、たしかに簡単になった。ときどき現金を出しておつりをもらったり、財布を捜して座席でもじもじしているドライバーに出会う。あるいは入り口でカードを取り損なう人もいて、その待ち時間に、後ろでイライラしてしまう。そういうストレスはなくなるが、夜、高速の出口(河口湖)で料金所の人に「お疲れさまでした」と言ってもらえなくなった。くたびれて帰った時に、その一言がほっとする瞬間を作りだしてくれたから、これは残念。寒いところ(マイナス10度にもなる)で次から次へと来る車に一言声をかけている料金所の人の仕事ぶりは、JHの体質とは対照的なものだ。たまにはその声が聞きたくて、現金を払いたくなるのかもしれない。

2003年2月10日月曜日

ネットで買い物

インターネットで買い物をすることが当たり前になった。最初はAmazon comでアメリカからの荷物(書籍)の到着を待ったから、着くかどうか心配だった。値段の安い船便を使ったためだが、それでも書店を通して注文するのよりは数倍も早く届いた。おまけに値段は嘘のように安い。洋書の取次店にとっては屋台骨を揺さぶられるような流通革命だったが、逆に言えば、あまりにもマージンを取りすぎていたのだから、さほど同情もしなかった。


Amazon comが日本に支社を作ってからは、洋書も国内での買い物になって、早いものは数日で届くようになった。大きな書店などにはめったに行く機会がない僕には、これはもうなくてはならないショッピングの場だ。家に届けてくれるのはいつも同じ人で、雨の日でも雪の日でも配達してくれる。この前も雪が20cmも積もっているのにやってきた。「雪が止んでからでもいいですよ」と言ったが、来た荷物は即配達。便利さとスピードがネット販売のメリットならば、そういうわけにもいかないのが仕事の厳しさなのである。


ネット販売の魅力はスピードだけではない。たとえば神田の本屋街を何軒も回ってやっとみつけられるような本を簡単に探し出せたりする。あるいは秋葉原に行かなくても、パソコンの部品も調達できる。しかも、値段の安いところを探すのも簡単だ。そんなふうにして、ここのところよく買い物をするようになった。PDAはPalmのカラーにしたし、その後も携帯との接続機器やメモリー・カードを買い足した。研究室に必要だと思っていた空気清浄機もネットで探して、一番評判がよくて値段の安いものを安い店で買った。


今年は特に雪が多くて寒いから、外に出るときには防寒の準備が必要だ。たとえば防寒の長靴は近くのホームセンターで買っていたのだが、一冬履くと穴があいてしまう。チェーンソウや斧を使うことが多いから、どうしても傷つけてしまうのだ。それに寒い日にはやっぱり足の指先が冷たくなる。もっと丈夫で暖かいものがほしい。そう思っていたらカナダにBaffinというメーカーがあることを知った。通販のカタログにあったのだが、ネットで検索すると国内ではサイズにあうものは売り切れだった。そこで、カナダのメーカーのサイトに行くと、種類の多いのにびっくり。マイナス20度から100度まで寒さに合わせて何種類もある。形もいろいろだ。一番シンプルな長靴だけと思っていたのだが、ついつい半ブーツも注文してしまった。


届いたのは10日後。足に合わなかったらどうしようかと心配だったが、履いてみるとぴったり。ラフな梱包だったが、中にはサイズが合わなかったら送り返してくれれば別のものを届けると書いてあった。そういうケースも多いせいだろうが、なかなか良心的だ。体に合うか合わないか、品質は大丈夫か。これはネット販売の弱点だから、ケアをきちっとしなければ商売は成り立たないのかもしれない。


そのBaffinの長靴だが、なるほど暖かいし頑丈だ。その分ちょっと重いが、雪の中に何時間いても暖かい。半ブーツも暖かい。試しに履いて車を運転して東京まで行ってみた。さすがに東京では物々しい感じがしたし、暖かいというより暑かった。
ネットで買い物をすると在庫があるかどうか、金額がいくらになるか、発送はいつか、問い合わせ先はどこかなど頻繁にメールが届く。Baffinのブーツは最初、サイズがないから別のサイズにするか別の商品、あるいはキャンセルしてほしいというメールが入って、どうしようかと思っていたら、数時間後に倉庫に一足だけ見つかったというメールがまたやってきた。在庫を一生懸命さがした様子が想像できておもしろかった。


ところで先週書いた除雪機だが、ホンダのを買ってしまった。これもネットで家の近くの取扱店を調べて、そこに出かけていったのだ。除雪機はもうシーズンの終わりで在庫はほとんどないのだが、たまたま試運転して返品された機械があって、少し安くしてくれるという。前の購入者はもうちょっと大きなものに買い換えたのだ。除雪機は毎年8月ぐらいから予約を受けつけて販売する商品で、新品で注文してもすぐに手にはいるかどうかわからないという。今年はどこも雪が多いから生産が間に合わないほど売れているらしい。富士吉田や河口湖周辺でも、もう十数台売れているようだ。


付近の残雪で試して見たのだが、雪は勢いよく10mほども飛ぶ。なかなかおもしろい。そうなるとげんきんなもので、雪が待ち遠しい。30でも40cmでも降ってみろという気持だが、このまま暖かくなって雪解けなんていうのがオチなのかもしれない。しかし、使うことがあったら、写真館ででもじっくり紹介するつもりだ。

2003年2月3日月曜日

また雪か………


snow4.jpeg・今年は雪が多い。12月に早々降ってから、もう6、7回にもなる。富士山も河口湖も美しいが、何より家の中から見える御坂山系の風景が素晴らしい。薪ストーブで暖かいリビングのソファーに寝そべって、何分でもじっと見入ってしまう。ひょっとしたらこれは天国の景色かも、とふと思ったりする。


・けれども、雪が降れば、また、その度に雪かきをしなければならない。家のまわりに道をつけて、道路までの通路をつくる。車の雪を落として、駐車場全体を除雪する。町のブルが除雪に来るのは待てないから、車を駐車場にいれるために必要なスペース分だけ道路の雪も取りのぞかなければならない。余力があれば、もうちょっと先まで道路をきれいにする。20cmぐらいまでなら車がはしるのに支障はないが、タイヤが踏み固めた雪は、その後凍ってつるつるになってしまうからだ。


・こんな作業に少なくとも2時間はかかる。汗びっしょり。ちょうどいい運動だ、などといっていたのは最初の数回で、今では雪の予報が出ると憂鬱になる。だから今一番ほしいのは雪かき機。さっそくネットで調べた。コマツのは大きくて話にならないが、ホンダもヤマハもだしている。なかなか格好いい。けれども、値段を見てびっくり!一番安いので10万円。馬力の大きいのやいろいろ機能を備えたものは60万とか70万円もする。小さいものでも 30cmぐらいの雪ならokのようだから、ほしいなと思うが、購入はちょっと考えてしまう。暖冬の年なら一度も使わない、などということもあるだろう。それにバイクほどの大きさがあるから、野ざらしではまずい。実は愛用のバイクも、今は雪に埋もれて動かしようがない状態なのだ。バッテリーは上がっているだろうし、どこか故障もしているかもしれない。

forest22.jpeg・雪かきが原因ではないが、しばらく前から気になっていた50肩が、だんだんひどくなって右手が後ろに回らなくなってしまった。それを忘れて手を動かすと、息が詰まるほどの痛みが走る。薪割りなどのタテの動きは何ともないから、ついつい動かしてしまう。歯もダメ、目もだめ、肩も腰もダメ。それに慢性化した胃や十二指腸の痛み。からだはもう完全に中古品だ。


・話がへんな方向にそれた。雪が難儀なのはそれだけではない。1月、2月は大学の試験シーズンで、監督、面接、採点など、休むことのできない仕事が連続する。だから雪でも出かけるのだが、今年はチェーン規制の高速道路をもう何回も走っている。4駆でオールシーズンのタイヤを履いた車だから、スリップして恐いといったことはないが、スピードが遅くなる分、かなりの時間がかかる。一昨年に9時間かかって帰宅したようなめにはあっていないが、倍の時間がかかっても、相当の長旅になってしまう。


・この前も、定期試験の監督のために朝早く出校しなければならない日があった。雪はすでに5cmほど積もっていたが、予報では途中から雨に変わるという。大丈夫だろうと出かけることにした。車が少なくて高速まではいつもより5分ほど余計にかかっただけだったが、高速に入ってしばらくすると渋滞。雪上車が車線を塞いで作業中だった。でPAで止まって大学にメールを出した。「遅れるかもしれません」。道路は都留を過ぎると積雪もなく、後はスムーズ。1時間ほど余裕を見て家を出たおかげで、大学には無事10分前に到着。やれやれ。


・こんなことがあって、携帯メールに定型文を登録しておこうと思いついた。以前から仕事が終わって家に帰るときには「カエルメール」を出すことにしている。「今から帰ります」。これをその都度打ちこんでいたのだが、まずこれを登録。次に「雪のため遅れます」「雪のため欠席します」。ついでに「風邪のため欠席します」もいれた。もっとも、僕はこのところほとんど風邪をひかない。今年度も体調を崩しての休講は0。対照的に学生はよく風邪を理由に休んでいる。これは都会の空気の汚さのためか、それとも不規則な生活や食事のせい?いやいやずる休みの口実か?


・ 今週から来週にかけてはほとんど出ずっぱりの日程になる。天気予報では雪もあるようだ。仕事とあれば休むわけにはいかないし、遅れるのもだめ。仕事は辛い。今の季節はそんな思いをいっそう強く感じてしまう。

2003年1月27日月曜日

声とことばと歌、音楽


・僕が一番嫌いなのは、フォークやロックの名曲といわれるものを、日本人が英語で歌うこと。歌に自信のある歌手たちが懐かしそうに和気あいあいと歌っているのを見ると、嫌悪感さえ感じてしまう。NHKの歌番組におなじみのシーンだ。


・理由はもちろんいくつかある。まず第一に、歌や曲そのものが評価の対象になるクラシック音楽と違って、ポピュラー音楽は、オリジナルを歌う歌手の声や歌い方、あるいは演奏の仕方が大事だということ。それを、ただきれいに、うまく歌えばいいという発想でやるから、味も素っ気もないものになってしまう。


・クラシック音楽では作品は作曲者によって代表される。演奏家や歌手はあくまで、その作品を上演する道具に過ぎない。もちろんその道具は人間だから、指揮者に顕著なように、それぞれに個性をもつ。けれども大事なのは、あくまで作者が書き残した楽譜である。反対にポピュラー音楽はそれを歌う人、演奏する人で代表されて、作者は影に隠れる。だから曲や歌詞よりは声、歌い方、演奏の仕方で聴かれ、判断され、記憶される。


・S.フリスはそれについて「レコーディングがパフォーマンスを出発時点から財産にした」からだという("Performing Rites"1996)。同じ言い方をすれば、クラシック音楽が財産になったのは、それが楽譜として記録され商品化されたからだ、ということになる。


・フォークやロックは作る人と歌う人、演奏する人が一緒の音楽だ。シンガー・ソング・ライター。ここには作る人と歌う人の分離、とりわけ音楽の商品化にともなって顕著になった分業のシステムに対する批判があった。つまり、自分がやる音楽は商品である前に自己表現であるという発想だ。


・自分で作ったものを自分で歌い、演奏する。作品の実体は歌われ、演奏される瞬間にあって、ことばもメロディもアレンジも、その声や歌い方や演奏の仕方と切り離せない。だから当然、そこにはミュージシャンの個性、というよりは人物像、ものの考え方や感じ方、あるいは生き方が色濃く映しだされることになる。


・このような姿勢で作りだされた歌や音楽が一大産業化した歴史は矛盾だし、皮肉だが、のこされた歌や音楽には、商品という枠を越えて表現されたものが少なくないし、またそれを受け取って聴く者も、そこにシンガー・ソング・ライター自身の存在そのものを感じとろうとしてきた。要するに、フォークやロックは個々の作品を独立したテクストとしてではなく、コンテクストとして聴く音楽なのである。


・そのようなポピュラー音楽の歴史もすでに半世紀になって、フォークやロックにもクラシックとかスタンダードとして扱われる作品が数多くなった。当然、一つの作品をコンテクスト(その作者、歌い手、演奏家、時代状況等々)から切りはなして、テクストとして再現することが多くなったし、そこに何のこだわりも躊躇も感じられなくなった。


・そこに僕が違和感をもち、嫌悪感さえ感じるのは、たぶん、作品をテクストとして孤立させたときに現れてしまう味気なさのせいだし、そのことに無頓着に歌う歌手やミュージシャンたちの鈍感さや能天気さのためだろうと思う。誰かの作った歌を歌うということは、その歌がもっていたコンテクストからテクストを取り出すということだから、そのテクストを新しい自前のコンテクストの中に置かなければ、その歌には命が吹き込まれない。


・これは言い過ぎかもしれない。けれども、その歌が英語で、歌詞についてのコメントが何もなかったりすると、歌っている人たちは一体、それによって何を表現し、誰に、何を伝えようとしているのか、皆目分からなくなってしまう。あるいは、単なる物まねのコピーや昔を懐かしがっての再現というのもある。これはテクストだけではなくコンテクストまで借用しようとする試みだが、物まねや懐メロはまた、それだけのものでしかない。


・誰かの作品を自分で歌い演奏するということは、そこに自分なりの解釈と表現を盛りこむこと。当たり前のことだが、これを自覚する人は現在のプロの歌手やミュージシャンにはほとんど見あたらない。もっとも、自分のかつてのヒット曲を昔のままにそっくり再現することに何の疑問ももたない人が多いから、僕の言いたいことは何も理解されないのかもしれない、とも思う。

2003年1月20日月曜日

パトリシア・ウォレス『インターネットの心理学』 (NTT出版)

インターネットは小さなネットワークがつながってできている。個々のネットワークには守らなければならないルールがあり、それを破れば参加資格は奪われる。ネット同士をつなげば、参加者は別のネットに入りこむことができるようになる。当然、ネット内で守らねばならないルールはネット間にも摘要される。ただし、制度ではなくマナーとして。少なくとも、インターネットの初期はそうだった。だから「ネチケット」ということばも生まれたのだ。
ところがインターネットは瞬く間に世界中に張り巡らされ、さまざまな人々が自由に参加できるようになった。人種も国籍も言語もそれぞれだし、使う目的も多種多様。ところが、インターネット内で統一された法律や制度はなく、相変わらず,ネチケット程度のマナーで利用されている。まあまあスムーズに行っていること自体が驚きだが、当然、問題も多い。コンピュータ・ウィルス、ネットワークへの不法侵入、HPの改竄、掲示板荒らし、あるいはジャンク・メールの山………。
パトリシア・ウォレスの『インターネットの心理学』は新しい形態のコミュニケーション手段であるインターネットの特徴を、人間の心理面から考察した力作である。インターネットは既存のマス・メディアとは違って、受け身一方ではなく、誰もが発信者になれるし、相互のやりとりもできる。しかも自由度がかなり大きい。けれどもその可能性が、コミュニケーションにおける衝突や混乱、迷惑等々をひきおこす原因にもなる。どんな社会や集団にも、それを支える秩序やルールがあって、そのために、それなりの自由がひきかえにされる。インターネットにも当然、秩序やルールは必要で、ウォレスはそれを「インターネットのリヴァイアサン」と呼んでいる。
トーマス・ホッブスは、リヴァイアサンを「永遠の神のもとでわれわれが忠誠を尽くす現世の神であり、それが平和であり、防御である」と概念づけ、提唱した。簡潔に言うと、リヴァイアサンとは、公正に争いを解決することを期待して人が権能を委ねる統治の仕組みである。(93頁)
「リヴァイアサン」は一つの社会、集団、あるいは関係を「秩序」あるものにしたいと願うときに現れる。インターネットにはその「リヴァイアサン」は存在するのか。あるようでない。ないようである。ウォレスはそれをとらえどころのないものだという。もちろん、その理由の一つは、普及の早さと世界を一つにしてしまう規模の大きさ、中身の多様さにある。けれども、もっと考えなければならないのは、インターネットの世界が現実とは違うヴァーチャルなものであること、つまり架空の世界であるように感じさせながら、同時に一つの実体ももつ、その特異性にある。現実の世界で起こること、できることはインターネットでもできるし、起こる。しかし、二つのあいだには、同じものとして考えることのできない違いもある。そこをどう明確にしていくか。『インターネットの心理学』の狙いは、まさにその点に向けられている。
インターネットでのやりとりはたいがい視覚も聴覚も欠いている。匿名でのコミュニケーション、演技的な自己呈示が簡単にできる。現実の世界にも虚構は入りこむが、完全な虚構とのあいだには高い壁がある。しかしインターネットではその壁は薄い浸透膜に変質する。しかも、インターネットの世界は決して虚構の世界ではない。もちろん、このような特徴はインターネットではじめて経験されたものではない。同様のことは、ラジオやテレビ、あるいは電話などによって少しずつ、もたらされたことだ。けれども、インターネットはそれを一気に加速化させた。それはインターネットのリヴァイアサンだけでなく、現実社会のリヴァイアサンの混乱やその再考という問題をもたらしつつある。
ウォレスの興味深い指摘は他にもある。コンピュータによる会話が意見の不一致や論争を招きやすいこと。しかも、それはわずかな差異でも起こること。ところが他方で、似た者を探したがり、仲間と確認すれば集団としての凝集性が高まること。しかも、仲間内では、意見は中庸にではなく極端な方向に流れやすいこと。「人は似た態度や考えをもつ人に好意を抱く傾向がある」(魅力の法則)。「誰かが自分を好きになると、自分もその人を好きになる」(螺旋的関係)。これらはもちろん逆方向の動きと合わせて理解する必要がある。
このような指摘を確認していくと、それはネット上の人間関係の特徴ばかりではなく、現実に目にする関係の特徴であることに気づく。もちろん、身近で毎日接触している学生たちの行動の話である。