・学生の卒論から若手の研究者の業績まで、携帯電話やインターネットをテーマにするものが多い。それだけ身近なものであり、また注目に値するものであることは否定しない。けれども、そのあまりに近視眼的な発想や関心の持ち方にうんざりすることも少なくない。彼らの主張は要するに、携帯電話やインターネットが人間関係やコミュニケーションの仕方を根底から変えてしまった、あるいはしまいそうだということにつきる。確かにそういう一面は目立つのだが、だからこそ、さまざまなコミュニケーション手段の開発のたびに同じような指摘がくり返されてきたことを、歴史を辿って見直してみるべきだと言いたくなる。
・目新しいものを見るときには、かえって古いものに目を向けて新旧の比較をしてみる必要がある。最近そんな思いをますます強くしているが、本書はそのような関心にぴったりの本である。それは何よりタイトルに示されている。『古いメディアが新しかった時』。明解でしかも好奇心をそそる題名だと思う。著者のキャロリン・マーヴィンはアメリカ人で、彼女が注目するのは一九世紀末に普及した電気とそれを使ったさまざまな技術である。電信、電話、電灯、映画、あるいは蓄音機………。この本を読んでまず気づかされるのは、百年前の人びとが新しい技術に出会ったときにもった驚きや疑問、あるいは考えや行動が、現在の携帯やインターネットのそれに奇妙なほどに類似していることである。
・たとえば、今ここにいない人の声を聞くことができたり、人やものの動きがスクリーンに映し出されることに驚く人はすでにいない。しかし、持ち運びできる小さな電話の出現やパソコンの登場、あるいはインターネットの普及に際して感じた驚きや疑問や不安は、多くの人に共通した経験として今なお進行中のことである。その間にすぎた百年が示すのは、技術の進化であって、人びとが実感する、新しいものに対する驚きや疑問、あるいは不安ではない。この本を読んで感じるおもしろさは何よりそこにあるし、新しいメディアの研究には、古いメディアが新しかった時代を知ることが不可欠であることをあらためて教えてくれる。
・パソコンの普及時によく見られたのは、パソコンの知識や技術による階層化だった。コンピュータのハードやソフトの専門家がいて、それを雑誌や新聞でわかりやすく解説する人がいる。次にいるのはそのような知識をもとにいちはやくパソコンを自分の道具として使いこなす人だし、その外側には使いたいけどむずかしそうと、しり込みする人たちがいた。そしてさらにその外側には、拒絶する人や無関係な人がいる。そんな階層化のなかで人びとがする議論や吹聴や言い訳がおもしろかったが、この本の中でも、一九世紀の末には電気や科学技術をめぐっていくつもの階層化が出現したことが指摘されている。
・耳慣れない専門用語とそれを翻訳することばによってできあがった区分けを、この本では「テクスト共同体」という用語で説明している。専門用語をめぐるエリート層の形成とその大衆化の関係、いちはやくそのノウハウやリテラシーを身につけた者の優越感と得体のしれないものに対して不信感をつのらせる者。今では古くなってしまったメディアや技術が新しいものとして登場したときに与えた衝撃は、最近のITの比ではない。膨大な資料から掘りおこした多くの実例を読むと、そのことがよくわかる。
・本書には電信や電話、電灯、ネオンサイン、あるいは電気そのものについて、作り話ではないかと思わせるような笑い話がいくつも紹介されている。色恋沙汰のうわさ話が電話によって村中にあっという間に広まる話。モールス信号をつかったひそひそ話。病気が電話で感染するのではという恐怖。階級や家庭の垣根をたやすく越えるという不安感。電気カクテル。ボトル詰めされた電気砲弾。街や遺跡や商店のライトアップ。あるいは月面への光の投射や宇宙人との交信………。
・電気技術がもたらす豊かなコミュニケーションが世界中の争いごとを解決する。こんな予測もまことしやかに語られたようだが、二〇世紀には二つの大戦があり、ナショナリズムやイデオロギーの対立が続いた。あるいは、映画、ラジオ、テレビのようなマス・メディアが発達し、メディア研究もマスに偏重しておこなわれた。そこからさらに、イデオロギーの終焉やボーダレス化が指摘され、携帯やインターネットがメディアの主役になろうとしている現在に続く。この本を読むと、そんな長い時間でメディアを考え直してみたくなるが、それだけに、一九八八年に書かれたこの本は、できればもう少し早く、携帯やインターネットが普及する前に翻訳してほしかったと思う。
(この書評は『図書新聞』の依頼で書いたものです。) (2003.11.03)