2007年7月8日日曜日

フラガール

 

・ゼミの学生にさまざまなテーマや書き方を指定して作文を書かせている。その中に、最近の邦画人気を話題にしたものがあった。2006年度の興行収入が洋画を越えたことが書いてあって、ちょっと信じられない気がして質問すると、ネットで探したという。出所はきちんと書くようにと指摘したが、さっそく自分でもグーグルしてみた。
・「日本映画製作者連盟」によると、邦画のシェアが最低だったのは2002年で27.1%、それが2006年度に逆転したというのだから、確かに、急激に盛り返していることになる。原因はテレビ局が制作していること、シネコンなど上映館が確保されてきたこと、観客のニーズをつかむ努力をしていることなどのようだ。ただし、映画観客自体がふえたわけではなく、興行収入の総額は横ばい状態だから、アメリカ映画に飽きたことも大きな理由になっているようだ。
・2006年度の興行収入1位は「ゲド戦記」で、そのほかドラえもんやポケモンなどのマンガが並んでいる。僕がみたものというと「THE有頂天ホテル」だが、笑いネタが上滑りしてちっとも面白いと思わなかった。しかし60億円の収入で3位というから、ちょっと驚いてしまう。邦画が元気といってもこの程度か、などといいたくなるが、面白いものもたしかにあった。
journal3-88.jpg ・「フラガール」は福島の常磐炭坑が舞台になっている。僕は、パートナーが近くの出身ということもあって、「ハワイアンセンター」には何度か出かけている。だから、懐かしさもあったし、その誕生の経緯自体にも興味を覚えた。付近にはもともと温泉があるし、広い館内を常夏にする石炭も豊富にある。きわめて合理的な発想だが、炭坑からハワイアンセンターへの転換は、当時としては奇抜だから、ずいぶん反対も強かっただろうと思っていた。
・映画は、そんな炭坑の閉山と娯楽施設への転換をめぐる、関係者の対立を中心に話を展開させている。抗夫やその家族のなかには別の炭坑に仕事場を求める者もいる。しかし、この地にとどまるかぎりは、別の仕事をしなければならない。映画では、そのとまどいや不満が、若い娘たちを集めて踊り子チームを作るプロセスに焦点を合わさて描かれている。「結婚前の娘に裸踊りなどさせるわけにはいかない。」そんな意見に、一度手を挙げた娘たちのほとんどがやめざるを得なくなる。で、最初は、落ちぶれて都落ちしたダンサーと素人娘たちの絶望的なほどにまとまりのない練習からスタートする。
・話は紆余曲折があって、何とか開場にこぎ着けてめでたしめでたしとなるのだが、映画を見た後で、あらためて、このあたりの地図や、閉山と開場のいきさつ、あるいはその時代(昭和40年前後)のことが知りたくなった。映画には当時を感じさせる風景が随所に登場した。しかし当然だが、ロケ地は 1カ所ではない。「映画『フラガール』を応援する会」のサイトには撮影場所を記した地図が載っていて、いわき市やその周辺をあちこち探し回ったことがよくわかる。映画やテレビは、それらしく感じられるものを求めて嘘をつく。それはドラマに限らずドキュメンタリーでも変わらない。もちろん、そのこと自体は非難されることではない。
・常磐炭坑は戦時中にでき、京浜工業地帯にもっとも近いところにあったから、50年代には活況を呈した。しかし、硫黄を含んでいて質は悪く、炭層が掘りにくく、温泉が大量に噴出するなどしたから、石炭需要が石油への転換で減り始めると、将来の見通しに陰りが見えるようになる。「ハワイアンセンター」の開場は1966年で、その意味では、いち早い転換を象徴するものだが、それで抗夫の多くが職替えできたわけではない。むしろ大多数は、茨城県から福島県にかけての新産業都市、東海村やそのほか数カ所の原発施設などに吸収されている。
・その意味では「フラガール」はことの一部だけ捉えたロマンチックな物語だといえる。とくに夕張市の財政破綻といった現状と同時期に上映されたから、常磐炭坑の決断の確かさがいまさら強調されもする。けれどもそれはまた、石炭の質の違いや大都市との距離の違いにこそ、大きな原因があったはずで、戦後の日本がたどった東京への一極集中や、経済大国化がもたらした二つの局面のようにも見えてくる。
・もちろん、こういったことは、映画のおもしろさを減じさせるものではない。面白いと感じたからこそ湧いた興味や疑問。今はもう義母も死んで、知っている人はだれもいないけれども、もう一度「ハワイアンセンター」(スパリゾートハワイアンズ)に行ってみたい気にもさせられた。

2007年7月2日月曜日

河口湖と七福神


・漫談家の綾小路きみまろは富士河口湖町の特別町民である。住まいは僕の家の近くにあり、住民登録もしているようだ。彼は2004年度の山梨県長者番付で2位になっている。河口湖町にとっては福の神で、財政面でも話題づくりの面でも貴重な人となっている。
・そんな重要人物が最近、所有している銅製の七福神を町に寄付して、町議会を混乱させている。町長はその寄贈物を公開するために、新たな施設をつくることを考えたのだが、町議会で政教分離の原則に反するという批判が出て、否決されたのである。
・七福神の寄贈や、それを展示するための町の施設づくりを、政教分離を理由に反対するのは奇妙だが、怒った町長は、これまで慣例として行われてきた富士山の山開き神事や河口湖湖上祭の水難供養などの神事や仏事にも、金も人も出さないことにすると反撃したそうだ。特別町民である人気タレントの善意の寄贈がとんだ問題を引き起こしている。報道されたところでは、当のきみまろも困惑しているという。

・この問題をどう考えたらいいか。町政は今、そのことで混乱しているが、僕は当事者全員に対して、腹立ちというより呆れの感想を持っている。だいたいきみまろは、なぜ河口湖となんの関係もない七福神を町に寄付しようと思ったのだろうか。そして町長はなぜ、それを、施設をつくって展示をしようとしたのだろうか。あるいは町議会はなぜ、政教分離などという奇妙な反対理由を出したのだろうか。河口湖町には富士浅間神社がいくつかあり、富士山や河口湖とは切っても切れない関係にある。年中行事に町が深く関与してきたことを考えれば、おかしな理屈であることはわかっていたはずである。
・議会は町長の提案に対して、富士山や河口湖と七福神は無関係だから展示する意味はない、といえばよかったはずである。観光地として魅力あるものにするためには、何よりイメージが大切で、七福神を飾るのはくそも味噌も一緒の発想だ、といえばよかったのである。そう言えない理由は、人気者で高額納税者であるきみまろに遠慮した以外の何者でもない。同様の遠慮は、おそらく町長の対応にも大きく影響したはずである。だとすれば、きみまろは「困惑」などといって町の対応のせいにするのではなく、自分の行為のとんちんかんさを反省して、寄贈をやめるべきだろう。特別町民などとおだてられて天狗になっている。そんな批判が強くなる前に、「ちょっと冗談が過ぎました」といって取り下げるのが、笑いを売り物にする人の対応としては懸命のように思う。

・彼は、最近、美術館などが建ち並ぶ湖北の観光スポットにグッヅや焼酎を売る店や焼き肉レストランを出した。河口湖に七福神がふさわしいのなら、自分の店に展示すればいい。しかし、そんなことをしたら、店のイメージが台無しになる。何しろ彼が店を出した地区は、河口湖美術館、オルゴール美術館、久保田一竹美術館などが並び、小ホールなどもあるきわめておしゃれな地区にあって、それなりに工夫した雰囲気を売り物にしているのだから。
・町長は長年、河口湖の観光地としての魅力づくりに手腕を振るってきた人である。次期には立候補をせず引退をするようだ。彼の任期中にできた施設を見渡せば、彼が河口湖周辺をどのようなイメージで作りかえようとしてきたかがよくわかる。その成功は、他の観光地化をめざす自治体の手本にもなっているようだ。
・観光地であれば、一つの明確なポリシーを打ち出して、それに沿ってイメージを作り、環境を整備する。もちろん、個々の施設だけでなく、全体の景観にも注意をめぐらす。河口湖にはまだまだ余計なもの、ちぐはぐなものが目につくが、よそよりはかなりましな町づくりをしてきたことは感じられる。
・きみまろ御殿は富士山と河口湖を見おろす高台にある、彼はその景色に惚れて、そこに家を構えた。であれば、自分をその自然にとけ込ませるようにすることが大事であって、異物のように悪趣味に目立たせてはいけないはずである。

P.S.
・一度否決された提案が再提出され、今度は承認されたようだ。
・いま、河口湖はラベンダーの花盛りで、それを見にやって来る人たちでにぎわっている。富士山と河口湖とラベンダーを一望できる大石の自然生活舘は見事だが、そこで同時に数年前から「花のナイアガラ」という奇妙なイベントが行われている。プランターを階段状に摘んだものなのだが、目立つのはプランターばかり。「関東最大の花のナイアガラ」と書いた看板が湖畔中にたてられているが、「関東最悪の花のナイアガラ」と読み替えたくなるほど趣味が悪い。せっかくのラベンダーが台無しで、こんなセンスで七福神を飾られたらと思うと、ぞっとしてしまう。やれやれ………

2007年6月25日月曜日

学生のブログ


・2年生のゼミでは、毎年、ホームページをHTMLで作成させてきた。今年は大学のサーバーに "Movabletype"がはいったので、とりあえず、HTMLの基本を練習した後で、ブログをつくらせることにした。手順は大学の指定の頁に書いてあって、それに沿ってやればいいのだが、早い学生もいれば遅い人もいて、なかなか次に進めず、公開するまでに何時間もかかってしまった。
・責任はもちろん僕にもある。去年の秋に、現4年生と一緒に、ブログの作成をはじめたのだが、それから半年たって、基本的な手続きを忘れてしまっていた。だから、手順をうっかり一つ飛ばして指示、なんてことがくりかえされた。ブログは既成のサイトを利用すれば簡単にはじめられるが、 "Movabletype"はむずかしい。それでもちろん、ブログの仕組みの一端が理解できたりもするのだが、頻繁にやる設定の変更箇所を除けば、たいがい一度かぎりだから、すぐに忘れてしまう。

・それはともかく、学生に自分のサイトを作らせると、それなりにおもしろがるし、興奮もする。HTMLで適切に指示すると、意図した通りの頁が表示される。背景の色、文字の大きさ、文章の位置、それに画像とやっていくと、はまってしまう学生も何人か出てくる。その様子とつきあって、もう10 年以上続けてきたが、ブログにすると、そこにコメントのやりとりという楽しさが加わって、ホームページ以上に、学生は興味をもったようだ。
・カウンターをつけて訪問者数がわかるようにしたから、それを励みにせっせと更新したり、他の人のブログにコメントを書きこんだりする学生がいて、一度つくったら大半がそのまま、という昨年までの学生のホームページとは、あきらかに違うことがわかった。学生たちにとって、ネットの魅力が表現よりはコミュニケーションにあることが、あらためて確認できた気がした。実は2年生のゼミは、もうひとつ、課題を出して文章を書かせ、それにコメントをつけて書き直しをさせるという作業もやっている。「その文章をブログで発表してもいいんだよ」と言ったのだが、公開しようという学生は出なかった。自信がない、あるいは単に恥ずかしい。理由はいろいろあるだろう。

・もちろん、学生たちは、文章力を身につけたいと思っている。見たこと聞いたこと、感じたこと、考えていることなどを、どうしたら的確に文章に表現することができるか。しかし、そもそも「なぜ」書きたいのか、「何」を書きたいのかという問いかけには、首をかしげて黙ってしまう学生が少なくない。特に主張したい、表現したいことや理由はないけれども、何かを書いてはみたい。そんな欲求は当然、表現よりはコミュニケーションの方に関心を向かわせることになる。だからブログなのか、と思うと、学生たちのやる気も合点がいく。
・たがいにコメントをつけあうと、それが励みになって、また更新する。だけどこういうパターンだと、自己主張の少ない、当たり障りのない話題だけがやりとりされがちになる。もっとも、ゼミで一緒になったばかりの学生たちは、おたがいに自発的に話しあうことがほとんどないから、ゼミ内での関係を促進する役割はあるだろう。

・一方、院生たちもブログをやり始めて、こちらはせっせと勉強の成果などを書くようになった。論文を書き、学会発表をする。本を書いたり、これから書こうと準備している人もいるから、表現活動は、いわば自分の存在証明や自己確認の行為で、僕も前からせっついてきたのだが、やっとやるのがあたりまえという状況になった。中には長文を毎日更新、なんていう学生もいて、しばらく見ないと読むのに一苦労なんてこともある。
・で、コメントは、と見ると、やっぱり仲間同士がほとんどだ。たがいに感想を書きあって、やる気を刺激しあう。そのことはもちろん悪くはない。しかしそれなら、顔をあわせてゼミや勉強会でやっていることと変わらない。直接ではなく、ブログという場では、ちょっと違うやりとりができるのだろうか。
・ブログとは不特定少数に向けた表現やコミュニケーションの呼びかけではなく、特定少数に向けたもの。学生たちのブログを見ていると、そんな特徴を強く感じてしまう。

2007年6月17日日曜日

松本でアイリッシュ音楽を

 

The Chieftains

chieftains1.jpg・チーフタンズはアイルランドを代表するケルト音楽のバンドで、ぼくも何枚かアルバムをもっている。その6年ぶりの来日公演のスケジュールを見つけた。東京や大阪の他、各地で9回のコンサートが予定されていた。東京だけだったら、今回も、行きたいけど、ちょっと面倒、と思ったはずだ。しかし、中に「松本市民芸術館」という日程を見つけて、その気になってしまった。6月9日(土)6時半開演、 6500円で、東京より2000円も安い。
・ロックの有名どころなら、最近では大都市だけでしかやらない。しかし、それほど有名でなく、しかも若い人だけが相手というのでなければ、結構、地方でもやっている。あらためてそんなことに気がついた。たとえばチーフタンズは今回、東京で2回、大阪、福岡、広島で1回の他に、愛知の長久手町、岐阜の可児市、茨城の筑波などでもやっている。客が集まるのか疑問だが、これまでの来日でも、全国の地方都市でやってきているようだから、それなりの目算はあったのだろうと思う。

marumo.jpg・開演は6時半だから、朝家を出て、八ヶ岳や諏訪湖に立ちよって、のんびりドライブしながら夕方松本へ、と考えていた。しかし、朝起きると雨。天気予報は局地的な大雨や落雷に注意と言っている。チケットは当日でも買えたが、念のためにと前日に電話で予約をした。席の様子だとあまり売れていないようだ。行くのも一苦労、となるのではと心配をしたが、高速道路の様子を確認して昼過ぎにでかけた。幸い雨はたいしたことなく、4時前には到着して、傘をさして市内を散策した。この街を歩くのは久しぶりで、ずいぶん変わったと感じたが、学生の頃に入ったことがある民芸喫茶の「まるも」は、たぶんそのときとほとんど同じだった。ここで珈琲を一杯。

morrison3.jpg・チーフタンズの存在を知ったのはヴァン・モリソンの "Irish Heart Beat" を通してである。北アイルランドのベルファスト出身のヴァン・モリソンが1988年に出したアルバムで、トラディショナルにチーフタンズのバックというのが、それまでのアルバムとはずいぶん違う趣で、驚いたが新鮮な感じもしたのを覚えている。ただし、何度も聞きかえしているうちに、それはやっぱりモリソンのアルバムそのものになり、同時に、ケルト特有の楽器や節回しにも馴染むきっかけになった。
・ちなみにアイルランド紛争が沈静化しはじめたのは1997年以降だから、アイルランドのチーフタンズと北出身のモリソンが一緒になって、トラディショナルを歌っているというのは、強いインパクトを与えたのではなかったかと、今さらながらに思ってしまう。

chieftains2.jpg・コンサートにはメンバーが全員そろわなかった。2002年に死んでいる一人は別にして、二人が体調不良で、創設時のメンバーでリーダーのパディ・モローニのほかに、中途参加の2人だけ。その代わりに、補充メンバーと若い二つのバンドがサポートした。アイリッシュダンスを披露したし、日本人の林英哲の和太鼓や元ちとせの歌など盛りだくさんで、決して多くはない会場の観客たちを盛り上げた。
・チーフタンズはよく、アルバムの共演者の豪華さによって評価されることが多い。ライブでもそのことは意識されていて、スティングやローリング・ストーンズ、それにもちろん、ヴァン・モリソンの名前を挙げて、それぞれの曲を演奏し、歌った。盛りだくさんにちょっとうんざりしたけれども、モリソンと共演した "Oh, shenandoah" が聞こえたときには、わざわざ松本まで来た甲斐があったと思った。

chieftains3.jpg・チーフタンズのアルバムで一番好きなのは "Santiago"。タイトルはスペインの北西端にある巡礼の地の名前である。フランスからピレネー山脈を越えてイベリア半島を横断する。このアルバム自体もそういう行程にそって曲目を選んでいる。スペインとアイルランドというとフラメンコとケルトの合体のように連想しがちだが、けっしてそうではない。ケルト人は古くはヨーロッパ中にいて、現在でも、スペインにはケルト系の人たちが住むところがいくつもある。バグパイプに似たガイタという楽器も使われていて、アイリッシュとはひと味違う、変わった雰囲気が出たアルバムになっている。
・たぶん、このアルバムからも1曲演奏したと思う。しかし、残念ながら、サンチアーゴの雰囲気は味わえなかった。やっぱりメンバーや場所が大事。聞きながら、ダブリンで偶然出会ったコンサートでの感激を思いだしてしまった。しかし、東京ではなく松本で聞いたのは正解で、闇夜にうっすら浮かぶ山なみや夜景を見ながら、ipodでもう一回、余韻をじっくり楽しむことができた。

2007年6月10日日曜日

ムササビの災難

 

forest60-1.jpg・今年の春は天気のよい日が多かったが、降ればかならず土砂降りで、しかも強風に雷がともなった。時には台風以上の時もあって、松の大木が大きく左右に揺れ、枝が屋根につぎつぎ落ちる。バキン、ゴトンという音、それにゴーゴーという風やざわざわと騒ぐ葉音には、恐怖感さえ覚えることがあった。
・そんな日が何度かあったが、中でもとりわけすさまじい風が吹いた日の明け方のことである。ぼくはイビキをかいて夢の世界にいたから見ていないのだが、パートナーが屋根でおこったムササビの災難をカメラにしっかり記録した。

forest60-2.jpg・1階の屋根のはじっこにムササビが2匹うずくまっている。後ろの木は枝がしなり葉が裏返っていて、それを見れば、猛烈な強風だったことがわかる。カメラのフラッシュで2匹の目が光っている。風に吹き飛ばされまいとして屋根にしがみついていて、身動きがとれないようだが、今にも落ちそうなところにいる。
・わが家の屋根裏に住みついたムササビはしばらく前に追い出しに成功している。しかも1匹だったはずで、2匹ということは雌を連れて、古巣に避難しようとしてやってきたのだろうか。

forest60-3.jpg・少しからだが小さいようだから、子どものムササビなのか。そうすると、親はいったいどこにいるのか。2匹がピッタリよりそって必死になって上に進もうとしている。風がなければ軽快に屋根を走りまわり、ドンドンと足音を立てるのだが、このときばかりはそういうわけにはいかなかったようだ。
・で、風がやんでうごきだした次の瞬間に、突風が吹いて、飛ばされて落下。滑空できるほどの高さではないから、そのまま真下に落ちたようだった。

forest60-4.jpg・朝、目を覚ますと、パートナーにトイレの窓から外の下を見てごらん、といわれた。なにか茶色い毛の固まりが二つある。呼吸をしているように体が動いているが、うごきだす様子は全くない。「何?」「どうしたの?」と聞くと、ことの顛末を嬉々としてはなしてくれた。
・ムササビは夜行性だから、明るいところではうごきようがない。しかも、地面には滅多に降りないから、じっとしている以外に行動のしようがない。町役場に電話をすると、野生の生き物はケガをしていないかぎりは手を出さないのが原則だという。しかし、頼んで保護をしに来てもらうことになった。やれやれ………。
・やってきた人は、小さな段ボール箱に無造作に2匹を放り込んだ。保護したムササビは子どもで、近くの山に放すという。まだ親と一緒だったはずだから、生き延びることができないかもしれないという。飼いますか?慣れてかわいいですよ、といわれたが、遠慮しとくことにした。
・住んで7年になるが、最近おこる野生の生き物との遭遇は、はじめてのことばかりが多い。周囲の環境の異変、気候の異常なのかと思うと、その変わりようが目に見えているのが何とも恐ろしい。そういえば、今年は田植えの時期になっても農鳥があらわれない。富士山はいまだに雪がたっぷり残っている。農鳥がでない年は凶作。いまだに灯油のストーブをつけたりしているから、気象庁がいうように猛暑になるとはとても思えないのだが………。

2007年6月3日日曜日

ニール・ヤングの懐かしいライブ

 

Neil Young "Massey Hall 1971"
"Live at Fillmore East 1970"

young3.jpg・ニール・ヤングのライブ盤がつづけて発売された。1970年と71年のもので、片方はソロのアコースティック、もうひとつは「クレイジー・ホース」をバックにしている。70〜71年というと3枚目のソロ・アルバム "After the Goldrush" と4枚目の "Harvest" の間の時期に当たる。ニール・ヤングの人気が出はじめたときで、二つのアルバムはかれの初期の代表作になっている。実際、新しく出たライブ版では、おなじみの曲が次々と歌われ、演奏されている。ただしかれの代表作にはソロ活動をする以前のBaffalo Springfieldの時代や、CSN&Yのアルバムで発表したものもすくなくない。 "Massey Hall 1971" では、それらがたった一人で、ギターとピアノで演じられている。1993年にMTVで放送されて、CDでも発売された"Unplugged"よりもずっとシンプルで、懐かしいというよりは、新鮮な気持ちで何度も聴きたくなった。
・ニール・ヤングはずっと聴き続けているミュージシャンの一人だから、それぞれの時代に出されたもののなかには、いくつも印象にのこる歌がある。けれども、このライブ・アルバムを聴いていて、特に気に入っているのが初期の頃のものであることに気づいた。で、そもそもどのアルバムに最初に発表されたのか調べたい気になった。
・"On the Way Home" と "I am a Child" はバッファローの時期で、"Helpless" と "Ohio" はCSN&Yで出したアルバムが最初だ。それまでに出した3枚のソロアルバムでは2枚目からは" Cowgirl in the Sand"など3曲で、3枚目の "After the Goldrush" からは2曲。ソロ・デビュー "Neil Young" からは1曲も選ばれていない。一方で、翌年発売された "Harvest" から4曲が使われている。ちょっと気になって、かれの伝記『ニール・ヤング 傷だらけの栄光』(デヴィッド・ダウニング、Rittor Music)で、当時の様子を読みなおしてみた。
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・「バッファロー・スプリングフィールド」はスティーブン・スティルスが中心のバンドで、1965年に結成されたが、ニール・ヤングとスティルスはたえず衝突して68年に解散している。 "Massey Hall 1971" で歌われている "On th Way Home" と "I am a Child "はこのバンドの3枚目のアルバムに収められているが、アルバムが発売されたのは解散した後のことである。バンドとはいえ、すでにバラバラで、録音も別々にやったようだ。
・ソロのデビュー・アルバムが出るのは翌年の69年で、ソロ活動もするのだが、このアルバムはほとんど話題になっていない。その打開策が自らのバンド「クレイジーホース」の結成で、2枚目のアルバムをたった2週間でつくったようだ。ミュージシャンとして認められ、注目されるために、かなり焦っていた時期なのかもしれない。喧嘩状態のスティルスと一緒に "CSN&Y" をつくったのも、音楽的なことより、もっと売れるためといった気持ちが強かったようだ。
・思惑通り、 "CSN&Y" はスーパー・バンドとして注目され、脚光を浴びるようになる。このメンバーで出演した「ウッドストック」で、その人気と実力は確固としたものになったが、ヤングはバンドやそのファンたちに距離を感じ、疎外感を味わった。たとえば、『傷だらけの栄光』には、次のようなヤングのことばがある。
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 「ぼくがCSN&Yのメンバーだからという理由で、ぼくと接触しようとする人びとというのは、クレイジーホースを通して知り得た人たちと比べると、とにかく変な人種だった。………そんなこんなで、一日が終わると、ぼくはもう完全に混乱状態だったよ。」

・"Live at Fillmore East 1970" は、2種類の音楽と仲間に囲まれて、忙しく過ごした、そんな時期の記録である。それは、"CSN&Y"で鬱積した不満を爆発させる瞬間だったが、彼がそれ以降、現在まで一貫してつづけてきたスタイルを見つけだした時でもある。

・売れれば、当然お金が入る。ヤングはサンタ・クルーズに34万ドルで豪邸を購入する。コンサート活動が忙しくなって、結婚していたスーザンとの間に隙間ができ、気持ちがすれ違うことが多くなっていた。家の購入には、そんな関係を立て直す意図があったようだが、二人はすぐに離婚することになる。
・ニール・ヤングは大男だが病弱で、子どもの頃に小児麻痺を患っているし、ミュージシャンになってからもしばしば、癲癇(てんかん)の発作に襲われている。そういう病気を克服してという一面があるのだが、"After the Goldrush" が大ヒットした直後に、椎間板にひびが入るけがをして、数ヶ月の入院生活を強いられている。しかも、退院した後も、コンサート活動で無理はできない。 "Massey Hall 1971" はそんな時期に、たった一人で座りながら演奏し歌った記録である。そこはトロントで「ぼくはカナダに帰る」という台詞がある "Journey Through The Past" では、客席から大きな拍手が起こった。


 「コンサートは、ぼくひとりの本当に個人的なもので………、聴いている人と一対一で向かい合ってやっているような感じだった」

・ニール・ヤングには二つの音楽と顔がある、といわれる。最近出た二つのアルバムはその二面性をよくあらわしたものだが、それは、ちょうどこの時期に、かれの身体や家庭環境、そしてもちろん、売れることとやりたいことのずれのなかから見つけだされたものだ。そんなことを考えながら聴きくらべると、その間にある距離の意味が感じ取れるような気がしてくる。
・ちなみに、二つのライブ盤で共通して歌われているのは2曲だが、その "Down By The River" の時間は、4分8秒と12分24秒、"Cowgirl In The Sand" は3分45秒と16分9秒である。その時間差がクレイジーホースとの長い間奏にあることはいうまでもない。
・狂気と沈潜。ぼくはやっぱり、後者の方が好きだ。

2007年5月28日月曜日

「場所」と「社会」

 

ジョン・アーリ、『社会を越える社会学』
『場所を消費する』『観光のまなざし』法政大学出版局

・「場所」ということばが気になっていた。じぶんが今どこにいて、何をしているのかといった感覚が不確かになる。電話がつながっているときに、私は今、どこで相手と話をしているのか。ここなのか、あそこなのか。もう20年も前に、電話というメディアについて考えたときに不思議に思った感覚のひとつがそれだった。(『メディアのミクロ社会学』筑摩書房)J.メイロウィッツの『場所感の喪失』(新曜社)はそれをテレビというメディアとの関係で分析していて、おもしろいなと思った。これは翻訳がいまだに半分だけだが、書かれたのは 1985年で、ぼくが不思議さを感じた時期と重なっている。
・同様の不思議さは、それ以降強くなるばかりだ。インターネットをはじめたばかりの頃に感じた奇妙な感覚。テレビのライブ放送が日常化して、世界中どこからでも、さまざまなニュースやイベントが飛び込んでくる。衛星放送が本格化して、ドキュメンタリーや旅行番組で世界中の場所や人びとにふれることも多くなった。あるいは、海外に出るのがジャンボ・ジェットで数時間で数万円。ついでにいえば、ぼくは家と職場の間(100km)を高速道路をつかって往復しているし、京都から東京に1年間、新幹線通勤をした経験もある。居ながらにしてあらゆる「場所」がやってくる。あらゆるところにいる人とつながる。そしてあらゆるところに出かけることができる。そんな時代になったことが、実感として十分すぎるほどにわかる。

place1.jpg ・ジョン・アーリの『社会を越えた社会学』は、社会学がそんな変容を十分にとらえきれていないと指摘している。「社会的なもの」がつくりかえられ、「社会としての社会的なもの」から「移動としての社会的なもの」へと再構成されている。そこを見つめなければ、社会学はその対象を見失うというわけだ。たしかにそのとおりだと思う。
・ただし、社会学はそもそも、近代化した社会を考察する学問としてはじまっているから、移動や変容こそが前提にあった。人びとの田舎から都市への移動と、それによる生活空間の変容、職業や結婚が選択事項となり、ライフスタイルや生き方に個人の主体性が必要になった。アーリは、そのあたりについてさまざまに分析されて積み重ねられてきた社会学の仕事を丁寧に、網羅的に取り上げ、うまく交通整理をしている。
・社会にしても、コミュニティにしても、そして人間関係にしても、それが自明で自然なものであれば、わざわざ自覚的に対処する必要はない。社会はどうあるべきか、人間関係は、と考えたところから近代が始まったとすれば、社会学はそもそも移動と変容をあつかう学問だったはずである。ただし、アーリがいうように、移動そのものに強い関心が向けられてきたわけではない。たとえば、「鉄道」についてはシヴェルブシュの『鉄道旅行の歴史』以外にはめぼしい仕事はないし、「自動車」については本格的なものはほとんどないのが現状だろう。アーリはその移動と場所の社会学のフィールドを「観光」に求めていて、『観光のまなざし』という本も書いている。

place2.jpg ・場所をとらえるための切り口として、アーリは「時間」と「空間」の概念に着目している。たしかに、「場所感」にゆがみを生じさせているのは、時間と空間の間にあった常識的な関係の崩れにあるからだ。移動する時間の短縮は、自動車、高速道路、あるいはジェット機などによって飛躍的に加速化したし、インターネットによって、情報だけなら瞬時で世界中を駆けめぐることも可能になった。誰もが気楽に、物理的な移動やバーチャルな回遊を楽しむようになると、出かける場所もまた、あらたに生みだされることになる。アーリは観光地を、そんな「消費されるためにつくられた場所」としてとらえている。
・社会がある程度固定した場所と、そこでの人間関係をよりどころにして実感できるものだったとすれば、「移動」を常態化する社会のなかでは、人はどのようにして「社会」を確認するのだろうか。スタジアムの観客として、繁華街を遊歩する人混みとして、有名人を取り囲むファンとして、観光地に殺到する旅行者として、あるいはBBSに書き込みをする人として………。そんな束の間の実感は、また一方で排他的で狭窄的なナショナリズムを増殖させたりもする。
・アーリの本はどれも網羅的に文献をあたるといったものだから、話題に沿って別の本に「移動」してまたもどるといった読み方をしたくなってしまう。ひとつの場所に落ち着いて一気に読むというわけには行かない本である。