2007年8月20日月曜日

BSと地デジ

 

・NHKBSのアナログ・ハイビジョンが9月末で終了する。独自開発もデジタルに負けてとうとう消滅というわけだ。デジタル・チューナーがあるから不都合はないが、アナログの画面の良さを感じていたから、ちょっと残念だ。ぼくは、デジタルののっぺりした画面は好きではない。ハイビジョンでもアナログは、近づいて見ると細かな画素の集合であることがよくわかる。ディジタルはその情報を省略するから、一見きれいに見えても、深みがない。両方を見比べていると、そのちがいがよくわかる。だから、液晶大画面のテレビなどは、できれば買いたくないものだと思っている。
・現在見ているハイビジョン・テレビを買ったのは98年だ。もう10年近くなるが、その時の印象をこの欄でも書いている。NHKと民放が共同で実験放送をやっていて、まだまだ手探りの番組づくりの段階だったことがよくわかる。BSのデジタル放送が始まった 2001年にBSチューナーを買った。各民放が放送を開始したからだ。山間部の難視聴地域にあるわが家では、地上波はざらざらで色なしといった画面で、見るものがあまりなかった。この欄には、その時の様子も残されている。
・BS放送については、それ以降も何度か取り上げているが、放送内容もずいぶん充実してきているし、地上波の番組も放送しているので、最近では地上波は民放のニュースぐらいしか見なくなった。どうせバラエティ番組ばかりで何の不満もなかったのだが、肝心のBSチューナーが壊れてしまった。で、仕方ないから電気屋に行くと、地デジとBS、そしてCSも見られるものがあった。というよりは、それしかなかったといった方が正確だろう。

・デジタル化は地上波でも進んでいて、4年後の2011年にはアナログ放送が廃止されるようだ。大画面の液晶テレビが一般的になってきたが、普及は予想ほどではないらしい。古いテレビでもチューナーを買えば見ることができるとか、そのチューナーを格安で売るような行政指導があったとか、いろいろ話題になっている。地デジはもちろん、ケイタイでもカーナビでも見ることができるから、地上波がますます身近なものになるのかもしれない。
・ところが、わが家はやっぱり地デジでも視聴できない地域ということになっている。いずれにしてもアンテナをつけ替える必要があるし、CS も今のBSアンテナではダメなようで、用のないものが多いとは思ったが、BSが見られなければ不便なので、チューナーを買いかえることにした。
・例によってテレビやビデオとの接続は煩雑で、反応がない、音しかでないといったことがあって、イライラしながらあれこれつなぎ直して、やっと見ることができると、CSもちゃんと見える。へエーと思ったが、ほとんどが有料で、しかも特に見たいものはない。MTVは昔ほどおもしろくないし、 MLBを全中継といったって、野茂がいなければ、どうしても見なければということもない。映画はWowowでさえ、最近は何日も見なかったりもする。

・NHKは受信料の不払いや、チャンネル数の削減要請などがあって、BS放送にかなりの力を入れている。実際、わが家ではほとんどの時間、NHKBSに繋がっている。ここのところは、見逃した番組の再放送が多いし、意欲的な番組も目につく。
・たとえば小田実の追悼番組として、彼がベルリンを訪れた『世界・わが心の旅「ベルリン 生と死の推積」』。先週のコラムにも書いたように、『何でも見てやろう』を読みなおしていたので、いっそう興味深く見た。ナチの収容所ではベルリン陥落の直前まで処刑がおこなわれ、しかも、処刑をするとその家族に処刑費の請求が行われていたそうだ。唖然とする話で、彼はそのことを涙ぐみながら話した。
The Chieftansのコンサートで紹介した"Santiago"をなぞるような番組もあった。毎回楽しみに見ている「世界ふれあい街歩き」が地中海に近いフランスのモンペリエ、ピレネー山脈の東にあるトゥールーズ、スペイン北部の古都レオン、そしてサンティアーゴと続けて放送した。数百キロから千キロを超える道のりを歩いて、ヨーロッパ中からさまざまな人びとがやってくる。出会った人たちの話を聞いていると、宗教的というよりは、じぶんを見つめ直す旅という意味合いが強かった。
・旅番組を見ていると、たまらなく、じぶんも出かけたくなる。しかし、次はどこに行こうかでは夢中になれても、いつ?になると困ってしまう。2週間ほどの休みがとれるのは夏休み以外には難しいし、夏休みは飛行機もホテルも高すぎるからだ。

2007年8月13日月曜日

追悼!小田実

 

『何でも見てやろう』講談社文庫

oda1.jpg・小田実が死んだ。ぼくは彼を個人的に知っているわけではないが、その報に接して思いだすことがいろいろあった。彼はベトナム戦争に異議申し立てをした「ベ平連」のリーダーで作家だが、ぼくにとっては、まず、『何でも見てやろう』との出会いが強烈だった。読んだのは高校生の時だったと思う。もう40年も前の話だ。
・世界中を貧乏旅行をして回る若者たちは、今ではさほど珍しい存在ではない。そのためのガイドブックや旅行記がいくつも出ているし、ネットという情報ルートもある。けれども、ぼくが『何でも見てやろう』を読んだ時代には、外国へ行くこと自体が特別の出来事だった。しかも、ぼくが読んだのは、この本が書かれてから10年近くたった時だったから、出版時の衝撃は、もっと強いものだっただろうと思う。当然、ベストセラーになった。

・彼が死んだことを聞いて、その『何でも見てやろう』をあらためて読みなおしてみた。その行動力やタフネスさには今さらながらに驚くが、一人の若者の目を通して眺められ、体験された第2次大戦後10年ほどたった世界の状況がきわめて新鮮なものとして感じられた。
・アメリカの50年代は戦後の好景気に沸き、豊かな暮らしが大衆レベルにまで行き渡るようになった時代である。ぼくはそのことをD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』で認識したが、同様の様子が、日本人の目を通して見えてくることに興味を覚えた。彼がとまどい、考えるのは、たとえば黒人の公民権運動そのものよりも、それに対する日本人の立場の曖昧さといった点だ。つまり日本人は、白か黒かにはっきりと区別されたトイレやホテルやレストランのどちらにはいるのか迷ってしまったということだ。しかし、彼はその二重性を逆手にとって、旅をいっそう豊かなものにもしている。白人が行けない場所に行き、また、黒人が行けない場所にも行く。小田が経験したアメリカ社会は、肌の色ではっきりと区別された二つの世界を自由に往還することによって、きわめてユニークなものになっている。
・同様のことは、ニューヨークのグリニッジヴィレッジで出会うビート族にもいえる。50年代はアメリカ人の多くがおなじような家に住み、おなじようなしごとをし、おなじようなものを食べ、おなじような遊びをするようになった時代だが、ビート族はその「画一主義」を拒絶して、貧乏生活に興じて、自前の快楽を模索した。小田は、ビート族の若者と大勢知り合いになる。しかし、彼はそのような行動に共感よりは違和感をもち、彼や彼女らを「さびしい逃亡者」といい、「甘えん坊のトッチャン小僧」と批判する。日本人である彼にとってはアメリカの豊かさは、反感よりは驚きであり、憧れのようにも感じられたからである。
・フルブライト留学生として渡米した小田は帰国の際にヨーロッパからアジアを貧乏旅行している。その各国の様子も、今とはずいぶん違っていておもしろい。しかも、徹底した貧乏旅行だから、どこに行っても、その最底辺の生活を覗いているし、インテリだから、中流の知識人とも沢山出会っている。

・ぼくは浪人中に代ゼミで小田実の授業を受けている。とはいえ、彼が出てくることはめったになく、いつも旅行中で、小中陽太郎が代講していた。たまに授業があるとベトナムの話で、ぼくは受験勉強そっちのけで彼の『義務としての旅』などを読み、そのほか、政治や思想や哲学の本を読むようになった。
・小田実は、その後も精力的に行動し、本を書いたけれども、ぼくは『世直しの倫理と論理』以外には読んでいない。そういう意味では、彼の考えや行動にそれほど強い影響を受けたとはいえないかもしれない。けれども、『何でも見てやろう』を読みなおすと、そこには、ぼくが今でもかわらずに持ちつづけている関心が随所にちりばめられていて、ぼくの出発点にいた重要な人物の一人であったことが、あらためて実感される。もちろん、今、若い人たちが読んでも、十分に新鮮で教えられることが多い本だと思う。

2007年8月6日月曜日

夏の旅

 

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・今年の夏の旅は信州と越後、それにアルペンルートをつかって立山まで。3泊4日の行程だった。パートナーと一緒にする国内の旅行は、最近ではもっぱら石や粘土を探すものになっている。ほとんど興味はなかったが、花崗岩とか安山岩とか聞いているうちに、その組成や成分がなんとなくわかるようになってきた。
・で、1日目は野尻湖と妙高、黒姫、斑尾といった高原地帯。ドライブと散策、それにカヤック。台風が近づいてフェーン現象のせいか、やたらと暑く、カヤックを組み立てるだけで汗びっしょりになってしまった。しかし、湖に出ると、風は心地よく、水は冷たい。

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・2日目は日本海をめざした。ほんとうに何十年ぶりかで見はじめたNHKの大河ドラマ『風林火山』では、ちょうど上杉謙信(長尾景虎)が出はじめたところで、その春日山城址を見た。今回の旅程は、家から甲府に出て、諏訪から長野(川中島)と来たから、信玄の辿った道と重なっている。
・泊まったのは親不知にある古いホテル。断崖絶壁の上にあり、海岸に降りる階段の途中で、旧北陸本線のトンネルを見つけた。そういえば、現在の北陸本線も北陸道も、すぐ近くの土中を通っている。北アルプスが日本海まで貫いて、越中と越後を分断しているさまがよくわかる。泊まった部屋からは夕焼けも日の出も見ることができた。ということは、海岸線がちょうど東から西に走っているということになる。


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・ホテルの前に「栂海新道登山口」の標識があった。ここから登って朝日岳や白馬岳、あるいは上高地まで行ける登山コースのようだ。白馬までなら1週間、上高地だと2週間以上もかかるという。海抜0Mから3000M。歩いてみたい気はしたが、その道のりを想像することもできない。家に帰ってグーグルすると、やっている人が確かにいた。「白馬岳〜日本海」「親不知〜北鎌尾根〜上高地縦走」。すごい人がいるものだ。

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・3日目は糸魚川から信濃大町まで戻り、立山アルペンルートを弥陀ヶ原まで。といっても途中歩くところは黒 4ダムだけで、あとはトロリーバス(扇沢〜黒4ダム)、ケーブル(〜黒部平)、ロープウエイ(〜大観峰)、トロリーバス(〜室堂)を乗り継いで、2時間もかからずに3000mの世界へ。台風が接近中なのに視界は良好で、黒部平からは黒部湖のむこうに赤沢岳、遠くには鹿島槍ヶ岳まで見え、ロープウエイの乗り場からは立山連山が手に取れるほど鮮明にそびえ立っていた。ここまで自分の足で歩いてきたわけではないが、やっぱりそのすばらしい景色には感激した。

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・室堂には極楽と地獄がある。信仰の山だが、実際に来てみると、たしかにそう思う。富士山と違って山頂まで緑におおわれている。残雪も多いし、雪解け水をたたえた池がいくつもある。あたりは一面の高山植物だが、他方で、ガスが吹き出る場所もある。幾つもの山に囲まれた別天地で、重いリュックを背負って2時間ほど散策した。連山の所々に山小屋があって、何日もかけて歩くコースもできている。紅葉の頃にまた来てみたいし、雪の景色も見てみたい。翌日は台風で視界0だっただけに、余計にそう思ってしまった。

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2007年7月30日月曜日

多湿日照不足

 

forest61-1.jpg・7 月に入って雨ばかりの日が続いた。おかげで家の中は湿っぽくて、布団乾燥機を毎週使ったりしている。庭の紫陽花は鮮やかな色で咲いているが、家の中は日中でも薄暗い。ログが水分を目一杯吸って、時々大きな音で割れている。冬場の乾燥したときにも時折生じるが、今年の梅雨はいつも以上に烈しい。ポルターガーイストのようだから、始めてきた人は驚くだろうと思う。
・ドアが閉まらない、窓が開かないと、この時期はいろいろ不都合なことが起こるが、湿度によって木が膨張と収縮をくりかえすのは、しごく当然のことだ。だから、よっぽど不便や不安を感じなければ、何もしないことにしている。

forest61-2.jpg・とはいえ、日照不足は極端で、ソーラー式で人が近づくと点灯する夜間照明がまったくつかなくなってしまった。実は最近買い換えたばかりなのだが、夜、帰宅してもついてくれない。で、ソーラーの場所を一日中日の当たるところに変えることにした。
・日照不足の影響は、近所の田んぼにも出ている。稲の葉がまだらに黄色くなって、小さな虫がびっしりついている。いもち病なのだろうか? ここ数日は、太陽が出るようになったから、持ち直すのだろうが、何年か前にあった米不足の再来を思いだしてしまった。

forest61-4.jpg・例年なら連休明けぐらいに形がはっきりする農鳥が6月になってもあらわれなかった。いつまでも富士山に雪が降ったせいだが、夏の登山が解禁される7月1日にあわせて、あまり聞いたことがない雪かきもやったようだ。7月の半ばになっても、富士山には雪が沢山残り、農鳥が「ひよこ」程度に見えた。もちろん、こんなによく晴れた日は数えるほどである。農鳥が田植えどきにあらわれない年は天候不順で凶作。気象庁の「今年は猛暑」などという長期予報より、よっぽど信憑性のある、昔からの言い伝えだ。

forest61-3.jpg・こんな季節になっても、山には食べ物が乏しいのか。あるいは里に出ることが習慣になってしまったのか。猿の群れが付近を徘徊するのをよく見かけるようになった。ぼくは仕事で留守をしていたが、一度はわが家に押しかけて、木を揺すり、屋根を飛びまわり、おもけに白樺で作った犬の首をもぎ落としていった。本物の犬とまちがえたのだろうか。3匹が襲撃され、2匹は修復したが1匹はダメ。白樺は油分が多いせいか、腐るのも早い。コルクのようなすかすか状態で、釘がささらないほどだから、いずれまたバラバラになってしまうだろうと思う。

forest61-5.jpg・雨ばかりの7月とはいえ、ここ数日、やっと夏らしい天気になり始めた。東京に行くと熱風のような暑さにうんざりするが、河口湖では、太陽の日差しが懐かしい。もう終わりに近いラベンダーがよく匂う。すっかり湿っぽくなった家を開け放って、湿気を飛ばしている。
・秋に出版予定の本『ライフスタイルとアイデンティティ』の初稿が届いた。世界思想社の校正は例によって、細かくて厳しい。逐一、悩みながら直していくと、とても数日で片づけることはできない量だ。

2007年7月23日月曜日

Ry Cooder "My Name Is Buddy"

 

ry1.jpg・ライ・クーダーの"My Name is Buddy"はジャケットが絵本になっている。猫のバディが住み慣れた村を離れて旅に出る話だ。相棒はネズミのレフティで、二匹は村を通る線路で待って、貨物列車に乗り込む。旅が、アルバムに収められた曲の順番で進んでいく。20世紀初頭のアメリカの話である。
・炭坑町で下車すると、坑夫たちがストライキをやっている。安全と賃上げを求めて歌う人たち。そこに警官がやってきて、みんなを牢屋にいれてしまう。だけど歌声はやまない。歌うことが危険だったときで、ジョー・ヒルが殺人罪で不当に処刑された。
・二匹はそんな出会いをしながら旅を続ける。誰もが貧しく、不条理な生活を強いられている。「団結」がみんなを鼓舞する新しいことばとして登場し、集まりにはかならず歌があった。アメリカにフォーク・ソングが生まれた時代である。

・ディランやスプリングスティーンを初めとして、アメリカのミュージシャンにポピュラー音楽を原点に帰って見直そうという流れがある。ライ・クーダーのこのアルバムにも、そんな志向が強くうかがえる。それを猫の物語にして、絵本のような装幀にしたのは、なかなかしゃれた発想だと思う。ピートとマイクのシーガー兄弟も参加して、サウンドも原点そのまま、きわめてシンプルである。

ry4.jpg ・ぼくがライ・クーダーを知ったのは喜納昌吉の「ブラッドライン」が最初だった。デビュー作の「ハイサイおじさん」とは違って、ハワイで録音されたせいかアメリカ的なサウンドになっていて、そのギターが小気味よかった。
・録音は80年で、ぼくはLPレコードでしか持っていない。久しぶりにかけるとざらざらとかなり痛んでいる。たぶんよく聞いた一枚なんだと、あらためて思った。ライ・クーダーの参加に特に興味を覚えたわけではないが、今にして思えば、ライが昔からさまざまな音楽に興味をもっていたことがわかる。そういえば、"My Name is Buddy"のなかには、沖縄を感じさせるメロディの歌がある。バンジョーを蛇皮線のように鳴らして、ホームレスが住む「段ボール通り」を歌っている。

ry2.jpg・ライ・クーダーについての印象は、ヴィム・ヴェンダースが監督した『パリ・テキサス』(1984)のサウンドトラックが強烈だ。放浪癖のある男と失踪した妻、そして置き去りにされた幼児。売春宿かストリップ小屋のマジックミラー越しに話をする二人。パリとは名ばかりの、乾いて荒れたテキサスの風景に、独特のスライド・ギターの音が鳴り響く。僕は今でも、時々、このギターの音が聴きたくなる。
・ただし、ライ・クーダーといえばスライド・ギターという印象が僕の中にはずっとあって、何枚か買ったアルバムにそのサウンドがなくてがっかりしたことが何度かあった。で、半ば忘れていたのだが、ヴェンダースと一緒に作った『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』で、また驚かされた。

ry3.jpg・『ブエナ・ビスタ・ソシアル・クラブ』は全編、キューバの音楽で溢れている。キューバ以外ではほとんど無名の老ミュージシャンたちが作り出す、生き生きとして熱い音楽で、ライ・クーダーが旅行した際に出会った人たちだ。それをヴェンダースがドキュメンタリー映画にした。
・「音楽は国籍や言語を越える」とはきわめて安直につかわれるセリフだが、ライ・クーダーには、あらゆるボーダーを超えていいものをみつける音楽的嗅覚がある。"My Name is Buddy"が越えるのは、時の経過と音楽状況の変化がつくったコマーシャリズムという壁だ。そこには、虚飾を取り去った時に聞こえてくる音とことばがある。

2007年7月16日月曜日

トクヴィルとアメリカ

 

トクヴィル『アメリカの民主政治・上中下』講談社学術文庫
宇野重規『トクヴィル平等と不平等の理論家』講談社選書メチエ

journal1-101-2.jpg・トクヴィルを読むとアメリカのことがよくわかる。くりかえし言われてきたことだが、最近あらためて実感している。そのキーワードは「自由」「平等」「自立」、そして「分権主義」。「ライフスタイル論」を書くために昨年、トクヴィルの『アメリカの民主政治・上中下』(講談社学術文庫)を熟読した。部分的には以前に読んだこともあったし、アンドレ・ジャルダンの『トクヴィル伝』 (晶文社)などの伝記は読んで、おおよそは知っていたのだが、『アメリカの民主政治』を読みながら、そこで指摘されているアメリカやアメリカ人の特徴が、現在にも通じたもっとも根本的なものであることを痛感した。

・アメリカは移民によってできた国で、ヨーロッパの国とは違って、それ以前の歴史をもっていない。だから、アメリカの歴史は出発点が明確で、「説明できない一つの意見も、一つの習性も、一つの法律も、一つの事件もない」。移り住んできたのは、祖国では実現できない理想をもった人、宗教的な迫害を逃れた人、そして貧困からの脱出を求めた人たちで、だからこそ、何より「自由」「平等」「自立」の精神が大事なものとされた。そのような意味でアメリカは、白紙の状態から「理想」を設計図にして偶然生まれた国にほかなならない。
・トクヴィルがアメリカを訪れたのは1830年で、彼はこのとき25歳だった。わずか半年あまりの旅行体験で彼が感じとった特徴は、その後の歴史はもちろん、現代のアメリカやアメリカ人にも強くみられるものである。というよりは、アメリカがたどった軌跡や現代のさまざまな局面でみられる発想や行動をトクヴィルの視点から解釈すると、何ともすっきりと合点がいく。
・それは、当のアメリカ人にもいえるようだ。『アメリカの民主政治』は、誰よりアメリカ人によって読まれ続けてきた。それはこの本が、アメリカ人に、アメリカの原像や建国の精神を思いださせ、何よりその自尊心をくすぐるノスタルジックな姿を感じさせてくれるからだ。もちろんそこには、古き良きアメリカが失われつつある、という危機感があって、その意識には右や左の区別もないようだ。

journal1-101-1.jpg/・宇野重規の『トクヴィル平等と不平等の理論家』は、トクヴィルのアメリカ論、デモクラシー論が、ヨーロッパ、とりわけフランス人に向けて書かれたものであることを強調している。近代以降の世界の流れが「デモクラシー」という概念を通して展開されてきたとすれば、アメリカ以外の場所では、むしろそれ以前の社会制度や人びとの中に染みこんだ習慣とのかねあいや軋轢が問題になる。だから、なにより大事なのは、「アメリカの制度や発想をアメリカ以外の場所に移し替えるとき、それらを支える諸条件があるかどうか、またそれがないとしたら、他の条件によっていかに代替するかを検討しなければならない」ということになる。
・トクヴィルが言いたかったのは、アメリカの民主主義が、あくまで一つの特異な形態だ、ということだった。それを知ってほしかったのは誰よりフランスをはじめとしたヨーロッパ人たちだったのだが、『アメリカの民主政治』はつい最近まで、フランスでは忘れられた存在だったようだ。他方でアメリカでは、自国の歴史を知る必読書として親しまれ続けてきた。そして、その読み方には、トクヴィルの意図が抜け落ちている。「一つの特異な形態としてのデモクラシー」。アメリカ人にこのような意識が欠けているのは、ブッシュ大統領がフセインにしかけた戦争が「イラクに民主主義を実現する」といった大義名分のもとに行われたことからも容易にみてとれる。

・とはいえ、20世紀後半の世界の趨勢は、政治や経済はもちろん、社会や文化の面でも「アメリカ化」という色彩を色濃くしたもので、それは 21世紀になっても変わっていない。世界の警察国家として、デモクラシーの伝道者として、市場経済の煽動者として、映画や音楽、あるいはスポーツやファッションの発信者として、アメリカはますますその力を強めている。それを今支えるのは、ネット社会の拡大や強大化だが、それはまた、きわめてアメリカ的な「理想」や「野心」から生まれ、発展したものである。

・ネット社会をトクヴィルの視線を通して見つめ直してみる。僕の夏休みのテーマである。

2007年7月8日日曜日

フラガール

 

・ゼミの学生にさまざまなテーマや書き方を指定して作文を書かせている。その中に、最近の邦画人気を話題にしたものがあった。2006年度の興行収入が洋画を越えたことが書いてあって、ちょっと信じられない気がして質問すると、ネットで探したという。出所はきちんと書くようにと指摘したが、さっそく自分でもグーグルしてみた。
・「日本映画製作者連盟」によると、邦画のシェアが最低だったのは2002年で27.1%、それが2006年度に逆転したというのだから、確かに、急激に盛り返していることになる。原因はテレビ局が制作していること、シネコンなど上映館が確保されてきたこと、観客のニーズをつかむ努力をしていることなどのようだ。ただし、映画観客自体がふえたわけではなく、興行収入の総額は横ばい状態だから、アメリカ映画に飽きたことも大きな理由になっているようだ。
・2006年度の興行収入1位は「ゲド戦記」で、そのほかドラえもんやポケモンなどのマンガが並んでいる。僕がみたものというと「THE有頂天ホテル」だが、笑いネタが上滑りしてちっとも面白いと思わなかった。しかし60億円の収入で3位というから、ちょっと驚いてしまう。邦画が元気といってもこの程度か、などといいたくなるが、面白いものもたしかにあった。
journal3-88.jpg ・「フラガール」は福島の常磐炭坑が舞台になっている。僕は、パートナーが近くの出身ということもあって、「ハワイアンセンター」には何度か出かけている。だから、懐かしさもあったし、その誕生の経緯自体にも興味を覚えた。付近にはもともと温泉があるし、広い館内を常夏にする石炭も豊富にある。きわめて合理的な発想だが、炭坑からハワイアンセンターへの転換は、当時としては奇抜だから、ずいぶん反対も強かっただろうと思っていた。
・映画は、そんな炭坑の閉山と娯楽施設への転換をめぐる、関係者の対立を中心に話を展開させている。抗夫やその家族のなかには別の炭坑に仕事場を求める者もいる。しかし、この地にとどまるかぎりは、別の仕事をしなければならない。映画では、そのとまどいや不満が、若い娘たちを集めて踊り子チームを作るプロセスに焦点を合わさて描かれている。「結婚前の娘に裸踊りなどさせるわけにはいかない。」そんな意見に、一度手を挙げた娘たちのほとんどがやめざるを得なくなる。で、最初は、落ちぶれて都落ちしたダンサーと素人娘たちの絶望的なほどにまとまりのない練習からスタートする。
・話は紆余曲折があって、何とか開場にこぎ着けてめでたしめでたしとなるのだが、映画を見た後で、あらためて、このあたりの地図や、閉山と開場のいきさつ、あるいはその時代(昭和40年前後)のことが知りたくなった。映画には当時を感じさせる風景が随所に登場した。しかし当然だが、ロケ地は 1カ所ではない。「映画『フラガール』を応援する会」のサイトには撮影場所を記した地図が載っていて、いわき市やその周辺をあちこち探し回ったことがよくわかる。映画やテレビは、それらしく感じられるものを求めて嘘をつく。それはドラマに限らずドキュメンタリーでも変わらない。もちろん、そのこと自体は非難されることではない。
・常磐炭坑は戦時中にでき、京浜工業地帯にもっとも近いところにあったから、50年代には活況を呈した。しかし、硫黄を含んでいて質は悪く、炭層が掘りにくく、温泉が大量に噴出するなどしたから、石炭需要が石油への転換で減り始めると、将来の見通しに陰りが見えるようになる。「ハワイアンセンター」の開場は1966年で、その意味では、いち早い転換を象徴するものだが、それで抗夫の多くが職替えできたわけではない。むしろ大多数は、茨城県から福島県にかけての新産業都市、東海村やそのほか数カ所の原発施設などに吸収されている。
・その意味では「フラガール」はことの一部だけ捉えたロマンチックな物語だといえる。とくに夕張市の財政破綻といった現状と同時期に上映されたから、常磐炭坑の決断の確かさがいまさら強調されもする。けれどもそれはまた、石炭の質の違いや大都市との距離の違いにこそ、大きな原因があったはずで、戦後の日本がたどった東京への一極集中や、経済大国化がもたらした二つの局面のようにも見えてくる。
・もちろん、こういったことは、映画のおもしろさを減じさせるものではない。面白いと感じたからこそ湧いた興味や疑問。今はもう義母も死んで、知っている人はだれもいないけれども、もう一度「ハワイアンセンター」(スパリゾートハワイアンズ)に行ってみたい気にもさせられた。