石橋克彦の『大地動乱の時代』(岩波新書)
小出裕章『隠される原子力・核の真実』(創史社)
広瀬隆『東京に原発を』(JICC出版局)
古長谷稔『放射能で首都圏消滅』(三五館)
・地震と原発のことが気になって、何冊か本を読んだ。石橋克彦の『大地動乱の時代』(岩波新書)は1994年に書かれている。日本列島には繰りかえし巨大地震に見舞われてきた歴史があり、そこにはかなり規則的な周期がある。この本が注目しているのは、その中でも、いつ起きてもおかしくない首都圏直下型と東海、東南海、そして南海地震である。首都圏直下の大地震は1923年に起きた「関東大震災」で、その後、90年の時が経っている。しかし、この地震は70年程度の周期で規則的に起きていて、この本は、ちょうど70年にあたる時点で書かれたものである。また、東海地震は幕末の「安政地震」が最後だが、これは「宝永地震」との間に150年の間隔があり、これもまた、ほぼ規則的に起きてきた。だから、東海地震もまた、いつ起きても不思議ではない時期になっているのである。20世紀の後半は異例に大地震の少ない時期であり、その間に発達した都市や原発などの施設は、現実には、大地震に耐えるようにはできていないのである。(→「原発震災」)
・小出裕章は京都大学原子炉実験所の助教で、一貫して「原子力をやめることに役立つ研究」をおこなってきた。大震災と原発事故以来、テレビはもちろん、新聞にもほとんど登場しないが、ネットでは、YoutubeやUstreamなどによって、原発行政や電力会社に対する強い批判はもちろん、事故に対する対応のまずさや情報隠しを指摘し、原発事故がもたらす最悪のシナリオとその回避策について語っている。僕はその真摯な態度と発言の的確さに納得して、この本を読んだ。地震列島に原発を50以上も作ってきた国や電力会社が、その危険性よりは経済性を表に出し、地震や津波に対処する想定基準を下げ、原発で起こった事故を隠し、使用済みの核燃料を再処理できずに蓄積させ、さらには、プルトニウムを使う高速増殖炉が失敗続きであることや、ウランにプルトニウムを混ぜて既存の原発の燃料にするプルサーマルの危険性に蓋をしてきたことなどが、わかりやすく書かれている。彼は僕と同い年だが、現在の職に就いてから40年近く助手(助教)のままである。(→「隠される原子力」)
・広瀬隆もまた、原発事故以来注目されている人だが、彼が30年前に出した『東京に原発を』(JICC出版局)は、人口の少ない過疎の地に原発を作り、大都市に電気を供給することの理不尽さ、エネルギー効率の悪さなどを辛らつに批判したもので、出版当時は大きな話題になったものである。豊かで便利な都会暮らしを可能にしたいのなら、原発で発電することが避けられないのなら、それは大都市に作るべきである。東京に作るとしたら、どんなものにしたらいいのか。この本には、そのためのデザインが詳細に書かれている。そこで基本にしているのは、巨大なものではなく、小さな原発をいくつも作ること、電気だけではなく、大量に生まれる熱水を利用すること、遠くから運ぶことで生まれる電力ロスを少なくすることなど、きわめて合理的な考え方である。しかし、この本が逆に非現実的でブラック・ユーモア的な提案として受けとられたのは、原発が事故を起こしたときの被害の甚大さがわかっていたからである。
・しかし、東京から遠く離れたところに作られている原発でも、いったん大事故が発生すれば、壊滅的な被害を及ぼす危険性がある。古長谷稔の『放射能で首都圏消滅』(三五館)は中部電力の浜岡原発が地震や津波に襲われたときに、その被害がどの程度の範囲でどんな大きさでもたらされるかをシミュレーションしたものである。浜岡原発は静岡県の御前崎の西にある。50kmほどのところに70万人を越える静岡や浜松といった都市があり、名古屋圏は100km、首都圏は200kmのなかに入ってしまう。浜岡原発は『大地動乱の時代』がもっとも危険だと警鐘を鳴らした東海地震の震源に近いところにある。浜岡原発は東海地震の危険性が指摘される前に作られた、けれども、地震の危険性が指摘された後も、新しい原発が作られ、現在廃炉となる1,2号機の代替として6号機の建設が発表されている。(→「心からの叫び!」
・国と電力会社とマス・メディアが一体になって作りあげてきた原発の安全神話が崩壊したにもかかわらず、福島原発の事故がもたらす被害や人体への影響については、相変わらず、原発を推進してきた経済産業省の中にある、原子力安全委員会が基準を出し続けている。首相が内閣官房参与に登用した放射線安全学の研究者が、安全基準の甘さを批判して辞任をした。基準を厳しくすれば、福島県内の小中学生は、より少ない被爆で済む場所に疎開をさせなければならない。そうしたときに起こる混乱を防ぐための安全基準の甘い設定だとすれば、まさに場当たり的だといわざるを得ない。ここに取りあげた人たちが原子力安全委員会のメンバーになるようでなければ、本気で議論して、現状や将来について考えた提案や基準などは出るはずもないのである。