2011年6月20日月曜日

Keith Jarrett Concert

 5/28 渋谷オーチャードホール

keith5.jpg・コンサートに出かけたのは4年ぶり。しかも前回はチーフタンズを松本で聴いたのだから、東京でのコンサートは2003年の武道館でのニール・ヤング以来で、8年ぶりということになる。コンサートからずいぶん足が遠のいたものだと、今さらながらに思った。もちろん、行こうかどうしようか迷ったミュージシャンはたくさんいたが、いつでも、コンサートが終わった後に、高速道路を走って帰宅するしんどさが邪魔をした。しかし、今回はめずらしく、パートナーも一緒に行くと言ったから、夜中に帰らずに、ホテルに泊まることにした。

・キース・ジャレットをよく聴くようになったのは去年からで、ライブで聴きたいと思ったのはYouTubeで演奏の様子を見てからだった。タイミングよく東京でコンサートをやることを知って、すぐにチケットを買ったが、直後に大地震があって、実際におこなわれるのかどうか心配だった。3ヶ月も先なのだから大丈夫だろうと思ったが、原発事故の終息は目処が立たず、ニュースは日本よりは海外の方が詳細に伝えていたから、キーズがやめると言っても仕方がないという気もしていたからだ。

・コンサート会場は渋谷のオーチャードホールで、僕にとっては初めての場所だが、実は渋谷の街に出かけるのも、もういつだったか忘れてしまっているほど久しぶりだった。だから駅に降りて見回す景色も、懐かしいと言うよりはまったく新しいと感じるものだった。雨が降っているのにハチ公前には大勢の人が人待ちをしていて、会場まで歩く道筋にも、やっぱり大勢の人が列をなすようにして歩いていた。だから思わず、つぶやいた。人が多い!多すぎる!!

keithtokyo.jpg・ホールに入ると、いろいろ注意書きがあって、今日のコンサートは録音をするので、物音を立てないようにというアナウンスがくりかえされた。ケータイの電源を切ること、傘は床に寝かしておくこと等々、事細かな注意を聞かされ、薄暗い席やピアノが一台置かれただけの殺風景な舞台を見ているうちに、だんだん音楽を聴きに来たことを忘れるような、変に緊張した気持ちになった。で、ジャレットの登場である。

・ピアノの前に立って、客席に向かって深々とお辞儀をして、ピアノに向かい、鍵盤の上に手をかざすようにして、曲を弾き出す。どれも即興のはずだから、もちろんはじめて聴くものばかりだが、中に一曲、途中でやめて「バイバイ」と言って、別の曲を弾き始めたことがあった。即興であればそういうこともあるのか、とそこで改めて彼の演奏の姿勢に触れた気がした。

・ピアノの音の心地よさに目を閉じて聴いているうちに、緊張がほぐれたのか、眠りかけてしまったらしい。隣の席のパートナーが肘で突いてきた。「寝てないよ」と言ったが、寝息が聞こえてきたようだ。疲れがたまっていたせいもあるが、キースのピアノが子守歌になったのかもしれない。休憩をはさんで後半の部が始まると、腰を浮かして弾く様子や、時折彼が発する声が聞こえてきたり、リズム感のある曲には足踏みをしてみたりといった様子が見えて、聴衆もリラックスをして聴くようになった。

・アンコールが5曲ほどあったが、その度にキースは舞台から引っ込み、また出てきては深々とお辞儀をした。即興ばかりだった本編とは違って、アンコールには既存の曲が弾かれた。「オーバー・ザ・レインボー」しか名前はわからなかったが、聴いたことがあるメロディで、即興を弾くのとはずいぶん違う、リラックスした演奏で、その雰囲気は聴衆にもすぐに伝わった。彼のピアノ演奏は、手を鍵盤にかざしたときにはじめて、空から降り注いでくるようにしてやってくる。だから、聴衆には、絶対に邪魔をしてはいけないという緊張感が襲ってくる。だからこそのアンコール5曲のサービスだったのかもしれない。彼にとって今日の聴衆は満足のいくものだったのだろう。

・この夜彼の指に降り注いだ音楽は、僕には心地よく聞こえたが、どんなものだったかと言われると、よく思い出せないものでしかない。CDが出たら是非買って、何度も聞き返したいものだと、今から楽しみにしている。

2011年6月13日月曜日

レベッカ.ソルニット『災害ユートピア』(亜紀書房)

 

solnit.jpg・大きな災害に不意に見舞われたとき、人びとはどのような思いに囚われ、どのように行動するか。このような問に対して、もっとも一般的な答えは、我を失った人びとが起こす集団的なパニックという現象だろう。だから、国の政府や自治体は、そうならないように情報を管理し、警察や消防、あるいは軍隊(自衛隊)を出動させて、パニックによる大混乱という事態を避けようとする。

・それは、東日本大震災と福島原発事故への政府の対応を見ても明らかだ。幸い、今回の大災害では、どの時点においてもパニックによる大混乱は起きなかった。そのことに驚き、日本人の冷静さを賞賛する声も、海外から多く聞かれた。けれども、福島市や郡山市の放射線量は、とっくに避難しなければならないレベルに達しているのに、場当たり的に許容量をあげたり、データ収集に不熱心だったりして、多くの人びとは不安をかかえながらも日常生活をしている。

・レベッカ・ソルニットの『災害ユートピア』は1906年に起きたサンフランシスコ大地震から2005年にハリケーン(カトリーヌ)に襲われたニューオリンズまでの五つの事例をもとにした、人びとの行動の分析である。著者がどのケースにおいても注目するのは、パニックではなく、被災した人たちの中に自発的に生まれる「相互扶助」の気持ちと、それによって出来上がる「ユートピア」である。著者はその点を力説して、原題を「地獄にできた楽園」と名づけている。

・どんな災害であれ、被災をした人たちは、たちどころに衣食住のすべてを失って、途方に暮れてしまう。政府や自治体などの公共機関や私的な援助活動が動き出すまでには時間が必要で、それまでの間のひもじさや寒さ、そしてもちろん不安や恐れの感情を和らげてくれるのは、同じように被災した人たちの相互の助け合いである。そのことによって、普段はほとんど無関係に暮らしていた人たちの間に、同じ地に住む者同士という「コミュニティ」の意識が実感されたりもする。ソルニットがそれぞれの事例について、膨大な資料をもとにして強調するのは、パニックや無法地帯における暴動ではなく、人びとの中から自然発生的に生まれる「ユートピア」なのである。

・ところが、大災害時における国家の災害対策は、何よりパニックによる大混乱の回避に重点が置かれる。その過剰な取り締まりや情報の統制が、かえって暴動の原因になり、人びとに恐怖や不安の気持ちを募らせる。で、多くの人が捕らえられ、殺されもした。1906年にサンフランシスコ大地震で起きたことが、その1世紀後のニューオリンズでもくりかえされた。人びとの間に生まれる相互扶助の気持ちは、いわば既存の秩序が崩れたときに人びとの間に自覚されはじめる「自生の秩序」である。このことに気づかず、あるいは過小評価し、さらには意図的に覆い隠し、妨害しようとするのは、誰より権力の座にある者たちと、マスメディアなのである。要するに、為政者やメディアは、自らの力で統制できない人びとの動きや考えには、それが何であれ、無視したりつぶしたりしたいのである。

・この本を読むと、3.11以降の政府や東電の対応と、被災した人びとが抱いた思いや行動、そして関係の取り方との間に生じた大きなズレがよくわかるように思う。原発事故の実態について情報隠しをしてきたのは、それによるパニックや風評被害の拡大を恐れたからではなく、自らの責任を免れたかったからである。震災から3ヶ月目の11日に全国各地で反原発を訴えるデモがおこなわれた。主催者が目指した100万人規模の行動になったのかどうかはわからないが、これほどのイベントをテレビのニュースはごく簡単にしか触れなかった。その代わりに、電力会社が発する夏の電力不足とそれに対応するための原発の再運転については、コメントなしに大きく報道したりもしている。

・この本にはメキシコ市で1985年に起きた大地震がメキシコの圧政に対する批判を引き起こして、民主化に向かう大きなきっかけになったことが指摘されている。それを読んで思うのは、原発事故をきっかけにして気づかされた原発の怖さや、それを過小評価して原発を推進してきた国の政策に対する批判をもっともっと大きなものにする戦略だろう。それは第一に、人びとの中から自生する意見として集約されるべきものであって、政治家やメディアによって啓蒙されるものではない。

・退陣を迫られている菅首相は、日本全国の原発の即時停止と原発政策の白紙撤回、そして発送電の分離を政策として提案し、国会での批判が強ければ、それを理由に内閣を解散したら衆議院の選挙は原発を巡る国民投票というはっきりとした論点になる。そうなって困るのは、被災地の人びと以上に政治家や関連企業、そしてメディアであるはずなのである。

2011年6月6日月曜日

不信任決議と政策

 ・唐突に菅内閣を不信任する動きが起こり、民主党内からもそれに賛成する発言が噴出して、一気に衆議院に提出されて決議という事態になった。震災の復興も、原発事故の対応も全部ダメだから、今すぐ内閣を変えるべきという大合唱で、一時は決議が成立して衆議院が解散するのではという方向になった。当日になって流れが急展開して、菅内閣が近く退陣することで、民主党の議員の大半が反対し、決議案は否決された。

・テレビや新聞はどこも、政局を巡って争っている場合ではないと批判をし、政策をぶつけ合う必要性を力説していた。被災地の人たちにマイクを向け、怒りやあきらめの声を聞き出して、政治家の身勝手さを叱責させるのはわかりやすいが、メディアのどこからも、今はっきりさせるべき政策について、明確な指摘は見当たらなかった。

・しかし、今、菅内閣を倒さねばならない理由は、いったいどこにあるのだろうか。復興の遅れや原発事故処理の不手際は、首相が変われば改善されるとは思えない。そもそも、次に誰を首相にしようというのだろうか。1年ごとに首相を変えて、次は6人目となる。国民がそんなことを望んでいないのは、最近の世論調査でも明らかだ。だとすると、この時期に唐突に不信任決議が出てきた裏には、出所も狙いも明らかな理由があるはずなのである。それは、5月に管首相が発言した原発や電力についての政策と、それに反発する原発推進派議員の最近の動きを確認すれば、はっきりしているように思える。

4月4日 自民党原発推進派「エネルギー政策合同会議」(朝日新聞5月5日記事)
 26日 チェルノブイリ事故25周年
5月6日 菅首相、浜岡原発4.5号機停止要請
 10日 菅首相、エネルギー政策見直し発言 
 16日 森喜朗元首相、大阪市で内閣不信任決議案について発言
 18日 菅首相、発電送電分離発言
 24日~29日 管首相G8サミット出席(エネルギー基本計画、原子力安全基準強化発言)
 24日 小沢、鳩山、輿石3者会談で政府を批判
 28日 小泉元首相、脱原発提唱 
 30日 小沢一郎、脱原発宣言(AERA6月6日号)
 31日 地下原発議連勉強会
6月1日 自公不信任決議案提出
 2日 不信任決議案否決

・世論が原発反対に向いているときに表だって政策論争はできないが、現政権が世論を後ろ盾に脱原発政策に舵を切ることは阻止したい。原発を推進してきた議員やその後ろで後押しする企業や官僚、そして研究者などが、菅首相の発言に危機感を持つのは当たり前のことだろう。興味深いのは不信任決議案で揺れている時期に、「地下原発議連」という聞き慣れない集まりの勉強会が開かれ、森喜朗、安倍晋三、谷垣禎一、平沼赳夫、石井一、鳩山由紀夫、亀井静香といった人たちが党を越えて参加したというニュースだ。人類が経験したことのない原発事故の処理にめどが立たない時に、それでもなお原発に執着しようとする政治家が、元首相や党のトップにたくさんいるというのは、もう絶望的な事態だという他はない。

・他方で、小泉元首相の脱原発の発言や、小沢一郎の「脱原発宣言」(AERA)もあるが、小泉元首相は2006年に「原子力立国計画」を策定し、1982年に建設された原発耐震研究のための多度津工学試験場を「国費の無駄」と称して廃止したとされている。また、民主党が「過渡的なエネルギー」と位置づけていた原発を「基幹エネルギー」として位置づけなおしたのは、小沢一郎が代表だった2007年である。その自分が進めた政策についての反省や検証もなしに脱原発などと発言するのは、余りに無責任というほかないだろう。

・いずれにしても、今国会で激しく議論すべきのなのは、原発の是非であり、電力政策の転換についてであって、首相の首のすげかえでないことは確かなはずだが、新聞もテレビもけっして、そのことを声高に主張はしない。だからこそ思うのだが、菅政権は「エネルギー政策の見直し」を実行し、自然エネルギーの普及や、そのために不可欠な「発電送電分離」といった政策を法制化するところまでがんばるべきなのである。鳩山元首相の普天間基地問題の二の舞だけは避けて欲しい。バカだのぐずだのといった罵声には、聞く耳を持つ必要はないのである。


P.S.この文章をアップした後に、東京新聞が3日に「菅おろしに原発のかげ」という記事を載せていたことを知った。その記事を転載してコメントしているブログ「あしたのために 活動日誌」を参照。

2011年5月31日火曜日

ipad2とgroveのケース

・ipadが出たときに大学の同僚たちの多くが買っておもしろそうにいじっているのを見ても、まったく欲しいと思わなかった。仕事をするのもインターネットを使うのもデスクトップのパソコンでやるのが一番だし、持ち歩き用にもポータブルのMacbook Airを買ったばかりだった。持ってはいても番号をほとんど教えていないケータイは、使うことが滅多になくて、不携帯でもほとんどこまらなかった。大学のメールがGoogleのGmailになって、ブラックベリーでの送受信が便利になったから、実際、いつでもどこでも、ネットを使うことができるようになった。だから、もうこれ以上の道具は必要ないと思っていた。

・ところが、2月に我が家のネット環境が光になって、インターネットの使い方が激変した。さらに、3.11以降に、twitterとfacebookをはじめ、youtubeやustreamにアクセスすることが多くなった。そうすると、居間にいてもすぐにネットを利用したい気になってきた。タイミングよくipad2になって、ずいぶん使いやすくもなったようだった。残念ながら、大震災の影響で、日本での発売が延期され、いつ出るのかわからない状況がずいぶん続いた。そうなると、早く欲しいという気が募るようにもなる。で、発売と聞いてすぐにappleに注文を出した。

・去年の夏にポートランドの友人を訪ねたときに、そこの息子たちがiphone用の竹のケースを作って、それが人気を呼び、滞在しているときに、そのワックスがけを手伝ったりもした。しゃれたケースでいいと思ったが、残念ながらブラックベリー用のケースはなかった。けれども、彼らの作ったgroveという名の会社が第2段としてipad2用の竹と皮のケースを発売したから、これもあわせて注文をした。特別早くに送って欲しいとメールをすると、3ヶ月待ちになるほど注文が殺到していたのだが、夏に手伝ったおかげで特別扱いにしてもらい、ipadが届いてから4日後にケースも届いた。

slide1.jpg→grove

ambertan_ipad2.png

・居間のソファーやテーブルに置いて、皮の蓋を開ければ、即、ネットができる。蓋を閉じればスイッチオフだから、テレビのリモコンより楽だ。あちこち持ち運ぶのではなく、居間専用のネットサーフィン機。いまだに地デジ化していないテレビは、地上波のアナログ停止が2ヶ月に迫っている。画面には脅迫めいたお知らせが毎日繰りかえし示されるが、これならもう、地上波とは完全におさらばで、テレビはBSだけのつきあいだけで結構という気になっている。だいたいここのところ、福島原発関連のustreamやyoutubeばかり見ているのだ。固定カメラでただただおしゃべりだけの1時間といった番組に、テレビとは違う新鮮さを感じているし、何より、CMがないのが心地よい。

・もうひとつ、twitterとfacebookもipadの方がやりやすいようだ。僕はおしゃべり好きではないから、頻繁につぶやいたりさえずったりはしないけれども、1日一回ぐらいは、日記のつもりで書き込むことにしている。ツイート仲間やfacebookの友だちも、そんなにたくさんは欲しくない。だから、どこの誰だかはっきりしない人とは友だちにならないことにしているし、余りに頻繁につぶやく人は、フォローをやめてしまっている。facebookはtwitterとリンクさせているから、ここにはほとんど書き込んでいない。東経大のサーバーに載せているこのサイトとブログをメインにしているから、それ以上に発信するのは大変だからだ。

2011年5月23日月曜日

同じだけど違う

 

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forest92-2.jpg・連休の終わりまでに、薪を全部割って干せるようにしようと思っていたのだが、まだ少し残っている。理由はいくつかある。まず、今回届いた原木が太くて堅かったこと。震災の影響で大学の新学期が連休中から始まったこと。その分4月まで春休みが延びたのだが、役職についたから、会議のために大学に出かけることが多かったことなどである。もっとも、家のまわりに積み上げた薪は、ほぼ一杯になってもいる。去年より2立米多い8立米も注文したから、干せない分が少し残ることは、最初から予測されてもいたのである。


forest92-3.jpg・太くて堅い木は斧では刃が立たないから、楔を使う。けれども今度の木は、楔一本では割れてくれない場合が多かった。そうなると、刺さった楔をはずさなければならなくなって、これがまた大変な作業になった。そこで、楔をもう一本と思って、近くのホームセンターを回ったのだが、どこにもない。で、試しにと思ってアマゾンで探したら、チェーンソーのハスクバーナが出している、大きな楔があって、さっそく注文した。必要なものは何でもアマゾンで買える。こんな思いがまた、いっそう強くなった。


forest92-4.jpg ・こんなふうにして、いつもと同じように、森の生活を過ごしている。いつもと同じように、蕗の薹や片栗の花が出て、桜やタンポポが咲き、日陰で花の咲かなかった山ツツジも場所を変えて3年目の今年、濃い桃色の花を咲かせた。それに少し不格好だったが富士山に農鳥も出た。毎年訪れる春の様子だが、今年はやっぱりどこか違う。そんな気持ちを感じることが少なくない。そんな不安が、朝焼けや夕焼けのちょっとした違い、風の吹き方、そして富士山の雪の溶け方などに投影されて増幅されたりもする。


・そんな不安を感じる原因は、もちろん、福島第一原発の事故にある。事故処理に当たっている東電や政府の発表を信じることができない反面で、そんな信用できない発表されたデータをもとに頻繁に推測している京大原子炉実験所助教の小出裕章さんのことばを、ますますあてにせざるを得なくなっている自分がいるからだ。事故の終息にいたる工程表をそのままにしている政府や東電とは対照的に、小出さんは、すでに、どう対処していいのかわからない人類にとって未体験ゾーンに入ってしまっていると予測するようになっている。


・放射能は言うまでもなく、目には見えないし、臭いもない。だから原発事故の近くでも、晴れていれば空はきれいだし、海や川の水も澄んでいる。そして発電所の中の様子は事故処理にあたっている人たちにもわからない。だからこそ、不安な気持ちを目に見える、耳に聞こえるようなものから感じとってしまうようになる。いつもと同じだけど、どこか違う。そんな不安は、おそらく、これから何年も続くのだと思う。

2011年5月16日月曜日

拝啓 菅直人様

・菅首相の決断により浜岡原発が停止されました。これまでの彼の言動からすれば、テレビの臨時ニュースに目と耳を疑うほどの画期的な声明だったと思います。賛否両論あってにぎやかですが、僕はもちろん、大賛成です。

・僕は地震が多発する日本に原発を作ること自体にずっと反対でした。スリーマイルやチェルノブイリの事故があったときには、当時住んでいた京都で何度か、集会にも参加したことがあります。ただし、職場が東京に変わり、住む場所が山梨に変わってからは、オール電化やクリーンエネルギーを宣伝する東電のCMに反発しても、それ以上に原発について意識したり、発言したりすることはなくなりました。どうして忘れてしまっていたんだろうと、反省するところ大です。実際に原発事故が起きてしまった後では手遅れですが、それでも、これ以上の事故や被害を避けるためにも、できることはやらねばと思っています。

・原子力政策は中曽根康弘が先頭に立って進めて以降、自民党の主要な政策の一つでした。すでに54基もでき、建設中や計画中の原発も10基以上あるようです。フランスを除けば先進国の中で90年代以降に新しい原発を作った国はほとんどないのに、日本では将来的には電力の70%を原発でまかなう計画ができているのです。

・地震による福島原発の事故がいつ終息するのか、本当にできるのか、放射能が拡散して避難しなければ行けない地域は半径20kmと北西方向に飯舘村だけでいいのだろうか。実際には福島市や郡山市にいたる全域で、せめて子どもだけでも疎開をさせた方がいいのではないだろうか。こんな不安や心配が一方で指摘されてもいます。けれども、稼働中の原発をすぐに停めろという主張や議論は、国会の中ではほとんど起こりませんでしたし、そもそも原子力についての政策を一から見直そうなどと言う動きも、全く見られませんでした。

・原発はいったん大事故になれば、収拾がつかないほどの惨事になります。その危険性を目の当たりにしても、だからやめようとは誰も言い出さない。一度動き出した政策や計画は、その無用さや危険が明確になっても、なかなか停めることができないのです。これは原発に限らず、国の政策はもとより、自治体や企業や学校などにも共通した日本的な特徴だと言えるでしょう。

・だからこそ、やめると宣言した首相の決断は重いのだと思います。突飛だ、唐突だ、人気取りだと非難されましたが、根回しなどやっていたのでは棚上げにされたり、骨抜きにされたりするのは目に見えていたのです。そもそも、原子力の推進を党の方針としてきた自民党は、なぜ、福島原発の事故に関連して、自らの政策についての反省や、これからの方針を明確にしないのでしょうか。鳩山前総理は就任時の国会演説で、自民党の批判に対して「あなたたちに言われてたくない」と発言しました。菅首相は、自民党の批判に対しては、あなたたちのおかげで、今大変な思いをして事故処理に追われているのだと言えばいいのです。

・ここのところ毎日のように、京大助教の小出裕章さんの話をネットで聞いています。女川原発の反対運動に参加して以来40年間、「原発をやめさせるための研究をしてきた」と言う彼の発言は、その真摯な態度と相まって、今もっとも信頼できる人として、多くの人の支持を得ています。夏の電力が心配とか、経済的な沈滞を避ける必要があるといった理由とは関係なく、すべての原発をすぐにでも停める必要がある。それは誰にとっても、自分がどのように生き、どんな生活をしたらいいのかと問わなければならない問題である。彼の言うことは、「ライフスタイル論」などをテーマの一つにしてきた僕にとっても、胸に突き刺さるような問いかけとして感じられます。→原発「安全神話」溶融

・菅首相は、浜岡原発の停止要請の後に、エネルギー政策を白紙に戻して、再生エネルギーの開発や普及に力を入れるべきだという政策転換の発言もしました。太陽光や風力、地熱、そしてバイオマスによる発電は、国や電力会社がその気にならず、むしろ発展を抑えてきたから、日本では普及していないのが現状です。アメリカでは原発よりも再生エネルギーによる電力の方がコストが低くなるほどに、普及してきています。ドイツでも原発を廃棄して、再生エネルギー中心の方針に大きく方向転換をしました。日本でも、今こそ、原子力発電の廃棄に向けて、方向を転換する必要があると思います。

・浜岡原発をとりあえず防潮堤ができるまで停めるのは、あくまで原発を廃棄するための第一歩にすぎないのです。普天間は国外、最低でも県外と言った前首相の発言は、結局、強い抵抗にあって腰砕けになってしまいました。それだけに、菅首相には、エネルギー政策の大きな転換に本気になってがんばって欲しいと思います。

2011年5月9日月曜日

反原発の歌

 

"No Nukes"
忌野清志郎「ラブ・ミー・テンダー」「サマー・タイム・ブルース」
斉藤和義 「ずっとウソだった」

nonukes.jpg・何かことが起こると、それを批判する歌が生まれる。歌にはもともと、そんなメッセージを伝える働きがあり、人びとの心や考えを凝縮させ、エネルギーを生み出す力があった。そんな一面はフォークやロック音楽が商業主義化された後も、一つの伝統として守り続けられてきた。少なくとも欧米ではそうだった。
・たとえば、スリーマイル島の原発事故があった1979年には、事故があった3月から半年後の9月にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンで「ノー・ニュークス」という名の反核コンサートが5日間開催された。当時人気のあったブルース・スプリングスティーンやジャクソン・ブラウン、ジェームズ・テイラー、カーリー・サイモン、トム・ペティ、ライ・クーダーといったミュージシャンが大挙して出演し、その様子は2枚のCDになって残されている。VHS版として発売された実況録画をネットでも見ることができる。→"No Nukes"

・フォークやロックの音楽がJポップと呼ばれる日本の音楽の基本になっていることはいうまでもない。ところが、日本人のミュージシャンには、さまざまな出来事に際してメッセージを発するといった姿勢が希薄だという特徴があって、その政治意識の少なさは、ポピュラー音楽におけるガラパゴス化を象徴するものだと言えた。
・とは言え、メッセージを歌にして表現するミュージシャンがまったくいなかったわけではない。たとえば忌野清志郎は、折に触れてさまざまな主張を歌にして、その都度話題になってきた。原発に反対する歌も作っていて、プレスリーの「ラブ・ミー・テンダー」やエディー・コクランの「サマー・タイム・ブルース」の替え歌が有名である。


何言ってんだー、ふざけんじゃねー
核などいらねー
何言ってんだー、よせよ
だませやしねぇ
何言ってんだー、やめときな
いくら理屈をこねても
ほんの少し考えりゃ俺にもわかるさ 「ラブ・ミー・テンダー」

熱い炎が先っちょまで出てる
東海地震もそこまで来てる
だけどもまだまだ増えていく
原子力発電所が建っていく
さっぱりわかんねえ、誰のため?
狭い日本のサマータイム・ブルース「サマー・タイム・ブルース」


・清志郎はすでに3年前に癌で死んでいるから、これらの歌はもちろん、福島原発事故についてのものではない。作ったのはソ連のチェルノブイリで起きた原発事故だが、そこから日本の原発に目を向けて歌ったところが、いかにも彼らしい。しかし、どちらの歌も、彼が所属していた東芝EMIからは発売を拒否されている。言うまでもないが、EMIの親会社の東芝は、日本と言うよりは世界を代表する原発製造メーカーである。

・とんでもないことが起きているのに、そのことを歌にするミュージシャンはいないのだろうか、と思っていたら、斉藤和義が自分の代表曲である「ずっと好きだった」を替え歌にして「ずっとウソだった」を発表していることを耳にした。


この国を歩けば原発が54基
教科書もCMも言ってたよ安全です
俺たちを騙して言い訳は「想定外」
懐かしいあの空くすぐったい黒い雨
ずっとウソだったんだぜ 「ずっとウソだった」

・果たして、彼に続いてメッセージを発信するミュージシャンは出てくるのだろうか。さらには "No Nukes"のようなコンサートがおこなわれる可能性はあるのだろうか。清志郎が生きていれば呼びかけ人になったかもしれない。だとすれば、彼と同世代のミュージシャンには、何か行動する責任があるはずだ。

P.S.マグロで有名な青森県の大間に新しい原発が作られている。その建設の中止を求めたロック・フェスティバルが5月21-22日、現地の未買収地にある「あさこはうす」で開かれる。今年で4回目になるそうだ。世界で一番小さなロックフェスを、世界で一番大きなロックフェスへ。 「大MAGROCK vol.4」