2011年9月26日月曜日

Brandi Carlile

 

"Brandi Carlile""The Story"
"Give up the ghost "

brandi1.jpg・Youtubeで原発関連のビデオばかり見ていたが、ふとカントリーが聴きたいと思って、エミルー・ハリスを検索して何本か見ていると、若いミュージシャンと一緒に歌っているものを見つけて、今度はそのミュージシャンを聴いた。Brandi Carlile。もちろん、はじめて聞いた名前で、シェリル・クロウやジョン・プラインと一緒のライブもあった。なかなかいい。そう思って、すぐにAmazonに3枚注文をした。何しろ、ipadをwifiで使っていると、このプロセスは瞬時のうちにすんでしまうから、うっかりすると次々買ってしまいそうだ。それにしても、円高のせいかCDが安い。どれも1000円前後の定価がついている。

brandi2.jpg・彼女はもちろん、最近デビューした新人というわけではない。最初のアルバムは2005年に出されている。シアトルの田舎の出身で、レズビアンであることを公言し、"The Looking Out Foundation"という名の環境問題に関わるNPOを立ちあげている。テレビドラマ「グレイズ・アナトミー」で使われた"the story" がヒットしてブレイクしたようだ。確かに手にい入れた3枚のうちでは"The story" が一番聴きやすい。ドラマは見たことがないが、聴いたことのある曲がいくつかあった。しかし、僕が一番気に入ったのは音が一番シンプルなデビュー・アルバムの"Brandi Carlile"の方だった。

brandi3.jpg・彼女も意識をしているようだが、シェリル・クロウのデビューの頃を彷彿とさせる。元気がいい、ちょっと突っ張った感じの女の子で、声も太くてハスキーなところがよく似ている。Youtubeで見たステージでの格好も、垢抜けないところはそっくりだ。
・彼女を見出したのはデイヴ・マシューズらしい。ジョン・プライン同様、Youtubeにも競演しているライブが載っているが、二人とも、アメリカではポピュラーな実力派で、娘と楽しく歌っているような感じがなかなかいいと思った。


橋が燃え落ちていないところを見つけるために
いくつの法律を破り
いくつの嘘をつき
いくつの道を変えるのだろうか
"What can I say"

2011年9月19日月曜日

韓流ドラマ批判よりずっと大事なこと

 ・フジテレビが韓流ドラマばかり放映しているという理由で批判され、お台場でデモまで行われたそうである。地上波を見ないのでわからないが、BSではどのチャンネルでも韓国のドラマをたくさん放映している。僕はほとんど見ないが、番組が多いということは見る人がたくさんいるわけで、それ自体を理由にテレビ局に対してデモをする理由が僕にはよくわからない。批判するのなら、韓流ドラマにかなわない日本のテレビドラマの貧困や、バラエティで埋めるしか脳のない番組編成の方にあって、それはしかも、文化批判として行われるべきもののように思った。

・夏に韓国を旅行して、明らかに韓流ドラマの影響と思われる日本人旅行者を見かけることがあったし、観光地での案内で、「日本でも見られている〜のドラマで登場した」などと、風景や建物などを説明することも多かった。僕はそう言われてもほとんどわからなかったが、それを見たり、体験したりすることを目的に来る日本人旅行者がかなりたくさんいることはよくわかった。

・韓流ドラマの人気やテレビ局の依存体制は、言ってみればそんな程度のことに過ぎない。ただし、お台場でのデモが千人規模の大きなものだったのに、フジテレビはもちろん、他のテレビ局もまったく報道しなかったのは、おかしなことと思った。原発事故以来、テレビや新聞の報道がいかに作為的なものであるかがあからさまになった。しかし、マス・メディアはそのことをあらためるどころか、一層露骨に続けるようになった。その好例は反原発のデモだろう。9.11には新宿で15000人集まって、警察の規制が厳しくて逮捕者も出たようだが、テレビのニュースはほとんど無視で、新聞でも大半がごく小さく扱われたに過ぎなかった。

一方で、政治家の発言に過剰なほどに反応して辞職に追い込むケースが続いている。所属を名乗らずに大臣を罵声する記者の存在にはあきれるが、問題になった大臣の発言の文脈もわからないし、どの記者に対してなのかもわからない。「放射能をつける」は明らかにオフレコで大臣と記者との間のプライベートなやりとりのはずで、そんなことが記事になること自体がおかしな話なのだから、問われるべきは一斉に報道して問題視したメディアの方なのである。

・「死の街」発言も、何が問題なのかよくわからない。どのような文脈の中で出てきたものかがはっきりしなければならないのに、ただ「死」と言ったことが悪いとされている。本当の理由は辞任した大臣が脱原発を推し進めたり、経産省の人事の刷新を考えていたところにある。こんな裏情報に接すると、メディアに対する批判を強め、そのことを理由にテレビ局や新聞社にデモを仕掛けなければいけないという思いを強くしてしまう。

・それにしても、新聞もテレビも、もうどうしようもないほどダメなところに来てしまっている。それは、政治家(政党)、官僚、そして電力業界のひどさと同レベルで、個々の出来事や人間を非難してすむようなものではなく、制度の根幹に原因があることが自明になっている。誰もがどこもが、保身にしか意識が向かなくて、既得権の確保にばかり精を出している。目を向けるべきものは、けっして韓流ドラマなどではなく、この国が陥っている現実そのものなのである。

2011年9月12日月曜日

韓国旅行

 

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光州博物館で見た仏像。お地蔵さんのよな柔和な顔。


11日間の韓国旅行が終わって、撮った写真の整理をした。時差もなく、仕事もしているから、国外に旅行したという感覚は薄いのだが、辛くて甘くてしょっぱい食べ物の影響がいまだに体に残っている。焼き肉もキムチも好きだが、毎食、辛くて味が濃いものしか選択肢がないのには閉口した。
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ソウルは東京みたいで、釜山は神戸や横浜より大きな港町だった。地下鉄、高速道路、KTX。一昔前の日本のように成長経済が目に見えるようだった。対照的なのが慶州。京都や奈良と比較される古都だが、観光に力を入れているようにも見えなかった。若者たちのファッションは、日本と変わらない。チマチョゴリを見る機会はほとんどなかった。
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のんびりできたのは済州島。石像のトルハルバンは蒙古に支配されていた頃の名残とか。元寇の頃だから鎌倉時代だ。東にある対馬は日本にとって最果ての過疎の島だが、済州島は韓国唯一の南国リゾート地で、漢拏(ハルラ)山と城山日出峰は絶景だ。
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2011年9月5日月曜日

初めての韓国

・ぼくにとって韓国は沖縄同様、近くて遠い国だった。歴史や政治問題に関心を持てば、観光気分で行くことは躊躇してしまう。だから、韓国や沖縄が手軽な旅行地になってからは、余計に行く気になれなかった。その沖縄に3月に観光旅行に出かけ、そしてこの夏、韓国に出かけることにした。きっかけは、息子が宮古島で結婚式をしたことにあった。それに、アメリカの友人が日本に来て韓国に行くという予定を伝えてきた。都合で行けなくなったのだが、それでは代わりに行ってやろうか、という気になったのである。

koria1-2.jpg・ソウルは羽田から2時間ちょっとしかかからない。空港についてもほとんど日本人と変わらない顔つきや体つきをしているから、国内旅行をしているような気にもなる。けれども、耳に聞こえてくることばの違いやハングル表記の看板や表示板などを見ると、やっぱり外国に来たことを実感してしまう。韓国は中国や日本と並んで漢字文化圏にあったはずなのに、漢字をきれいさっぱり払拭してしまったようである。このハングルを出かける前に少しでも理解しておこうと思ったのだが、勉強し始めてすぐに諦めてしまった。単純な表音文字を合成させて、漢字一字文の音を一つの文字として表記する仕方の複雑さは、にわか勉強ではとてもマスターできるものではないのである。

koria1-1.jpg・飛行機がソウルの金浦空港に降り立つときに目についたのは、林立する高層住宅だった。その細くて高い形が日本で見慣れた高層住宅とどこか違う気がしたのだが、その後歩いているときに、どの建物にもベランダがないことに気がついた、ベランダがなかったら閉塞感を持ってしまうだろうにどうしてなのだろうか。そう言えば、ソウルや光州の地下鉄駅のホームはどこにもシールドがあって、電車が止まったときだけドアが開くものだった。思い過ごしかもしれないが、自殺予防?という理由がすぐに浮かんできた。

koria1-3.jpg・韓国と言えば焼き肉とキムチ。毎日ではかなわないが、数日なら食べ続けてもいい。そんなふうに思っていたのだが、最初の晩に食べたキムチの辛さにまいってしまった。焼き肉にかぎらず、どんな店に入って何を注文しても、キムチはもちろん、漬け物や煮物の入った小鉢がテーブルをいっぱいにするほど並べられる。辛さもしょっぱさも甘さも強いのだが、それとは別に味噌がつき、生のニンニクや生の唐辛子がついてくる。だから早くも二日目にホテルの日本食レストランで松花堂弁当を食べたのだが、三日目に思い直して焼き肉を食べた。骨付きカルビをハサミで切って金属の箸で食べるのだが、ここでもやっぱりいくつも小鉢が並べられ、食べたことのない葉野菜に肉と一緒に包んで食べた。

koria1-4.jpg ・若い人たちのファッションはどこに行っても同じようなものだ。そのことはソウルや光州でも再確認したのだが、光州の地下鉄や中心地の文化殿堂で見かけて気づいたのは、40 歳ぐらいを境目にして、今昔の違いがはっきりわかるということだった。韓国が軍事政権から民主化したのは90年代で、経済成長もそれ以降のことである。だから豊かな社会を生まれながらに享受しているのは20代で、民主化を勝ち取った40代以下と50代以上の人たちの間には世代間の大きな断絶がある。日本からは20年遅れてやってきた現象だ。そんなことを勝手に考えたが、それが当たっているかどうかはわからない。

・もうひとつ、アメリカやヨーロッパではよく見かけたのに、韓国では日本の自動車はほとんど走っていない。もともとは日本と提携して成長したメーカーがいくつもあるが、よく見るのは現代自動車だ。反対に日本で韓国の自動車を見かけることもほとんどない。アメリカでは仲良く並んで走っていたり、駐車してあったりするのにどうしてなのか。これも近くて遠い国の一例だろう。ちなみに運転の仕方も怖くなるくらいに荒っぽかった。

2011年8月29日月曜日

沖縄についての2冊の本

 

奥野修司『沖縄幻想』(洋泉社)
松村洋『唄に聴く沖縄』 (白水社)

・3月に沖縄に出かけたが、その前後に何冊かの本を買って、ほとんど読めないままにきた。夏休みになって、気になっていた本を何冊か読んでみた。沖縄は40年近く前に出かけて以来だったから、その変容に驚いたが、ここで紹介する2冊を読みながら、その理由をあらためて考えてみた。
・始めて沖縄に行ったのは1974年で、復帰後の大イベントとして催された海洋博に反対するグループに帯同してのものだった。工事による海洋汚染、オニヒトデの大発生と珊瑚礁の被害などが話題になり、復帰後の沖縄の開発の仕方に強い批判が向けられていた。反海洋博のグループには日系米人も数名いたから米軍基地周辺や伊江島の射爆場に行き、これも建設中だった平安座の石油コンビナートにも出かけた。僕にとっては観光とはまるで違う、義務としての旅だったが、ことばも食べ物も人びとの気質もまるで違う世界には、大きなカルチャー・ショックを受けた。

okuno1.jpg ・37年ぶりの沖縄はまったく違う世界だった。高い建物の林立する那覇の街並みや国際通りの変容はもちろん、高速道路や北部のヤンバルと呼ばれる地域にできた道路網、小島との間にできた橋、それとは対称的な、嘉手納基地やキャンプ・ハンセン周辺の寂れ方など、驚きの連続だった。
・奥野修司の『沖縄幻想』には、復帰後の沖縄の変容が国からの莫大な補助金と三度のバブルによると書かれている。復帰後に当時の田中角栄内閣は「沖縄振興計画」をたて、「本土との格差是正」と「自立的経済発展」を目指して「沖縄振興開発特別措置法」を策定したが、海洋博は目玉のイベントだった。その2年前に大阪で開かれて大成功した万博の再現を狙ったのだが、入場者は予測を下回り、かえってその後に不況をもたらした。
・その後沖縄が注目されたのは80年代後半のバブルの時期で、大型リゾート開発ラッシュになった。沖縄の音楽や歌が注目されたのもこの時期で、本土のグループであるThe Boomの「島唄」が大ヒットして、すっかりポピュラーになったが、経済は本土と同様にバブルがはじけると沈滞した。

・2007年にやってきた三度目のバブルは、近くて安く海外より安全な観光地として、あるいは別荘地として本土から注目された結果だった。ここにはリーマンショック以前のアメリカのバブルによる外資の進出といった要因もあったようだ。いずれにしても、この三度のバブルによって沖縄が大きく変わったことは間違いない。ただし、その変容はけっして好ましいものではない。「自立的経済発展」は達成されないままで、ただ土建業だけが突出して多い現状は、道路や箱物ばかりを増やす公共工事や外からの観光開発の繰りかえしに費やされてきたことを証明するものだし、「本土との格差是正」は基地負担の見返りとしての補償費に頼りきっている。『沖縄幻想』を読むと、復帰後の沖縄の疲弊ぶりがよくわかる。

matumura1.jpg ・松村洋の『唄に聴く沖縄』 は沖縄の歌や音楽を通して、この島の歴史や風土、そして人びとの暮らしぶりの中にある魅力を解き明かそうとする内容である。沖縄は琉球王国としての歴史を持っている。中国の明や清の時代に属国として貢物を差し出していたが、その見返りに絹織物や陶磁器が下賜され、貿易も盛んに行われた。三線も中国伝来のもので、主に琉球王朝の上流社会で使われてきたようである。
・沖縄の音楽には、この中国の影響を受け洗練された宮廷芸能と、人びとが仕事の際に歌うところから生まれた民謡があった。現在では欠かせない三線が民謡の中で使われるようになったのは、それが働く場を離れ、プロの歌い手が登場するようになってからのようだ。宮廷芸能と民謡の間には、その価値に基づく格差があって、民謡は軽蔑される音楽だった。
・薩摩藩に占領され、さらには明治時代になって琉球王国が沖縄になる「琉球処分」を経て、沖縄の人びとが本土や海外に移住をしはじめると、歌や音楽もまた、外に出るようになった。松村は沖縄の唄の中にある外国はもちろん本土との違いを訴える「アイデンティティ」の希求に注目するが、それは何より、外に出ること、そして中に侵入されたことから生まれた意識だと言う。多数の島によって成り立つ沖縄には、もともと個々の島やその中にある小さな集落ごとに、それぞれ特徴的な世界があり、唄に代表される文化があって、そこには沖縄全体を自らの地として考える発想はなかったのである。

・沖縄の文化や人びとの気質が島ごとに違うことは、今回の短い旅でも強く感じたことの一つだった。けれどもまた、いかにも観光客向けに強調された「沖縄らしさ」や、本土と同じように近代化された風景や暮らしぶりも目につき、それがあまりに雑然と混在していることが気になった。『唄に聴く沖縄』は、変容しながら魅力を失わずに歌い継がれてきた沖縄の音楽に注目する。しかし、沖縄という地とそこに生きる人たちは、大きな変化の中で、沖縄という地とそこに生きる人たちの現在や未来にとって不可欠な独自な「アイデンティティ」をどう見定めているのだろうか。この2冊を読むと、その音楽と現実との間にある断層の大きさが一層強調されて伝わってくる。

2011年8月22日月曜日

残暑お見舞い申し上げます

・昨年に続いて厳しい暑さになりました。いかがお過ごしでしょうか。

・ぼろくそに言われ続けた菅首相が、とうとう退陣することになりました。辞任要求にははっきりした理由がわからないのに、大半の人が当然視するというおかしな事態でした。特に脱原発を支持する世論が7割を超えていて、その声を自らの政策に積極的に取りこもうとしたのに、支持率が下がり続けたことは、理解に苦しむ現象だったと今でも思います。次の首相が誰になっても、脱原発の政策はトーンダウンが明らかですから、その真意はさっぱりわからない気がします。とは言え、ふり返れば、鳩山前首相も同じようにして政権の座を追われ、彼が主張した普天間基地の国外、あるいは県外移転は雲散霧消してしまったのですから、まったく同じことがくり返されたことになります。

・僕は人間として、政治家の力量としての鳩山や菅を支持するわけではありませんが、彼らが掲げ、実行しようとした政策の多くは、今でも支持し続けたいと思っています。それは「沖縄の基地負担軽減」「脱原発」「子ども手当と高校授業料の無償化」など、多くのものがあって、そこにはあるべき社会の姿を考えたビジョンと理念があると思うからです。そして、この2年間、国会はもちろん、メディアにも、民主党が掲げた政策について、その理念をもとにした議論はほとんどなかったように思います。

・沖縄にある基地を本土並みに減らすことは、アメリカとの関係をどうするのかという問題につながります。そのことは、鳩山前首相の腰砕けを批判したところで、けっしてなくなるわけではありません。彼は強硬なアメリカの姿勢に屈服したという以上に、既存の状態を保とうとする政治家や官僚の「抵抗勢力」に負けたのです。

・菅首相の「脱原発」政策は3.11以降の深刻な福島原発事故の影響から生まれたものでした。それ以前には、原発をクリーン・エネルギーとし、CO2削減のために将来的には電力の50%を原発でまかなう計画を掲げていました。しかし、自民党政権時代には民主党は原発を過渡的なエネルギーとして規定していましたから、政権を取ったことで、やっぱり、政官財の保守勢力に妥協した結果だったのです。

・原発事故がもたらした被害、これから起こるであろうさまざまな影響の前に、大半の人びとは原発に依存しない社会を未来に期待しています。それに向けて、「再生エネルギー法案」などのいくつかの法律が国会を通りました。しかし、その多くは骨抜きというほどではないにしても、エネルギー政策の大転換というにはほど遠いものでしかありません。政治に妥協が避けられないのは確かなことでしょう。しかし、これで多少とも流れが変わるという見通しが立たないのでは、何ともやりきれない思いが残ってしまいます。

・「子ども手当」や「高校授業料無償化」は自公両党からばらまきとして批判され、民主党も大きく譲歩せざるを得なくなりました。しかし、この政策が、「子どもを育てる責任が親や家庭だけでなく社会にもある」という理念に基づくものであることが、ほとんど議論になりませんでした。長期政権をばらまきによって維持してきた自民党に言われる筋合いのない批判だと思いますが、政策ではなく政局と数の論理に明け暮れた国会の象徴と言えるものだった思います。

・次の総理を選ぶ民主党代表選の立候補者は「馬鹿野郎」だそうです。馬淵、鹿野、野田に陰で動く小沢一郎で、これに経産省の操り人形でしかなかった海江田も手を上げました。「馬鹿野郎」が冗談や皮肉ではなく事実ですから、とても笑う気にはなれません。

2011年8月15日月曜日

夏の訪問者たち

 

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・震災後の対応で忙しかった前期の授業が終わった7月の末から、つい数日前まで、何人もの人たちが入れかわりたちかわり訪れた。その度に、にぎやかに話し、食べ、飲んだ。我が家に泊まったら、西湖でカヤックを漕ぎ、自転車を走らせる。これはもてなしだが、人によってはノルマのように感じたかもしれない。普段使わない筋肉を使うから、確実に筋肉痛になる。涼しさのせいもあるが、我が家に泊まった人の大半は、朝食を告げるまでぐっすり眠っていた。

・自転車には速度計をつけているから、必死で漕ぐ人もいる。西湖の周回道路はおよそ10キロだから、平均20キロで走ると30分ほどで一周できる。最速は院生のY君で23分だったから、平均27キロぐらいで走ったことになる。留学生のL君は、そのY君のタイムを聞いて、負けじと張り切って出かけたが、いつまでたっても戻ってこなかった。帰ってから聞いたら、周回道路ではなく、精進湖や本栖湖に行く139号に出て大回りをしてしまったようだ。長い坂道の上り下りがあるから、これだと倍の時間がかかるのも無理はなかった。

forest94-2.jpg ・カヤックはアルミの棒を組み立てるのだが、長年使って、棒を繋ぐゴムが何本も切れてしまっている。だから、どの棒とどの棒を繋ぐかで手間取って、最近ではずいぶん時間がかかるようになった。水に浮かぶ心地よさのせいか、留学生のRさんは見えなくなるほど遠くまで行ってちっとも戻ってこなかった。一方で、別の日に来た同僚のKさんは、後ろ向きで漕ぎだして、そのまま進んでいるから、自転車で追いかけて、前向きに漕ぐよう大声で叫んだ。

forest94-3.jpg・カヤックやカヌーはボートとは違って、前を向いて進む。懸命に漕ぐ人、のんびり佇む人。一人で、そして二人で。小学生の男の子二人を連れてきたKさんは、Y君とS君をそれぞれ前に乗せて、右、左と呼吸を合わせて漕ぎだした。ライトブルーのレガシーB4で関西からやってきたOさんは、カヤックや自転車では、ドライブとは違ってのんびりモード。自転車もカヤックも今まで多くの人を乗せてきたが、人それぞれなのは、その度に、見ていてもおもしろいと思う。

forest94-5.jpg ・もうひとつのもてなしは食事だが、大人数になると、数日前からの仕込みが必要になる。冬ならストーブでじっくり煮込んだカレーやシチュー、あるいはパスタのソースになるのだが、夏は七輪に炭火をおこしてコトコトやることにしている。夜のバーベキューも、たき火でできた熾火を七輪に移して肉や野菜を焼く。これがなかなか好評だった。カボチャのコロッケ、芦川産のこんにゃくと鳥肉とゴボウの煮物、イカと茄子のパスタ、そしてかき揚げ天ぷらとソバ。大人数の食事作りは大変だが、わいわいやるのはやっぱり楽しい。

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