2015年4月20日月曜日

「粛々」という傲慢な態度

・「粛々」ということばは「鞭声粛々夜河を渡る」という詩吟で知られている。頼山陽作で信玄と謙信の川中島の戦いを詠ったもので、「馬を叩く鞭の音も立てず」という意味のようだ。山梨県に住んでいると、たまに聞くフレーズではあった。広辞苑には、(1)つつしむさま、(2)静かにひっそりしたさま、(3)ひきしまったさま、(4)おごそかなさま、とあり、「葬儀は粛々とおこなわれた」などと使われる。あるいは「粛」一つを使ったことばとしては「自粛」「粛正」「粛清」「静粛」「厳粛」などがある。どのことばも冷たいし、息苦しく恐ろしい。

・「粛々」は多くの政治家に多用されてきたようだ。そして安倍首相や菅官房長官はこのことばが特に好きらしい。そこからは「周囲の雑音に惑わされず、決められたことを不動の姿勢で貫く」といった意味が読み取れるが、このことばが飛び出す状況を考えると、たとえば普天間と辺野古基地については、民意などは無視して、決まったことを断行する、という姿勢であることがよくわかる。選挙結果でも、反対運動の盛り上がりからも、沖縄県民の民意が普天間基地の即時廃止と辺野古基地建設反対であることは、すでに明らかである。

・だからこそ翁長知事はそのことを伝えるために何度も上京したのに、政府は無視して会わずに、そのたびに工事を「粛々」として進めるという発言を繰り返してきた。知事が、やっと会えた席で「粛々という言葉には問答無用という姿勢が感じられる。上から目線の粛々という言葉を使えば使うほど、県民の心は離れて怒りは増幅される。絶対に建設することができないという確信を持っている」と強い批判を浴びせたのは当然の姿勢なのである。

・菅官房長官はそれに応えて「粛々」を使わないと言ったのだが、福井地裁で出た「高浜原発再稼働を禁じた仮処分」に対して、封印したはずの「粛々」をまた使って「世界で最も厳しいと言われる規制の結果、大丈夫だと判断された。(再稼働は)粛々と進めていきたい」と発言した。ほかにことばを知らないのだろうかと疑うが、しかし、この発言は法の裁きも無視して再稼働の準備を進めると言っているわけで、三権分立を無視した暴言だと言わざるを得ない。

・民意も法の裁きも無視してやりたいことをやる。「粛々」にはこんな姿勢が露骨に表現されている。これはもう「暴君」の発言と行動だと言わざるを得ない。実際、この政権がやろうとしてることは「集団的自衛権」にしても「秘密保護法」にしても「原発再稼働」にしても、世論は反対意見の方が多いし、売り物のはずの「アベノミクス」だって、収入増を実感できない人が大半なのである。そしてメディアがそれを批判すると、「公正中立」に報道しろと恫喝し、「放送法」を盾に、免許の取り消しをちらつかせる。

・訪米を控えた安倍首相が翁長知事とやっと会った。首相にすれば、会ったという事実だけが目的だったのかもしれないが、知事は、沖縄県民の意思が辺野古反対であることをオバマ大統領に伝えるよう釘を刺した。さて、安倍は何と説明するのだろうか。地元は反対だが政府は工事を「粛々」と進めると言うのだろうか。この場合は上から目線ではなく、「アメポチ」の上目遣いである。

・他方で、高浜原発の再稼働は関西電力が上告したから、その判決が出るまでは「粛々」と準備をすることはできなくなった。原子力規制委員会の基準自体が不十分であるという判決なのだから、高裁だって、逆の判決を出すのは難しいだろう。そもそも、普通に考えれば再稼働などできる状態ではないことは明らかなのである。行政の横暴を司法が断罪する。三権分立がまだ機能していることが証明された出来事で、これこそ、権力に屈せず「粛々」と裁判をおこない判決を下したと言うべきものだろう。

2015年4月13日月曜日

手摺りをつけた

 

forest124-1.jpg

forest124-2.jpg・冬が終わって、やっと春らしくなってきた。富士山には「農鳥」らしきものが早々出たし、庭には片栗の花が咲いた。数えたら65で、去年は50だったから、毎年少しずつ増えている。楽しみだが庭一面になるのはいつのことか。と思ったら、今年度初出校日はまさかの雪。片栗もすっかり戸惑っている。
・パートナーがリハビリ病院から帰って、慌ただしい日が続いている。車の運転ができなかったから、病院やリハビリの送り迎えをしなければならなかったし、京都での個展もつきあった。家事は少しずつ任せるようにしているし、車の運転も練習しはじめている。大学が始まったので、リハビリ通いも食事の支度も自分でやってもらわなければならなくなった。

forest124-3.jpg ・退院前にもやっておくべきことがいろいろあった。リハビリ病院の療法士に階段と風呂場に手摺りをつけた方がいいとアドバイスされた。玄関とバルコニーの階段は傷んで僕が作り直したものだから、そこにつける手摺りも自分で工夫しなければならなかった。おおよその形をイメージして、ホームセンターで材木と留め金やボルトを購入した。ついでにバルコニーの柵も新しくしたから、結構な時間がかかった。
・屋内の階段と風呂場の手摺りはアマゾンで見つけたものをつけた。ネジで取りつけるだけの簡単なものだったが、丸太にキリで穴開けしてからでないとネジが入らなかったから、相当の力仕事だった。
・ついでにウォシュレットやドアフォンも新しくした。これもアマゾンで買って自分でやった。ドアフォンは電話と連動だからメーカーに電話をして適合機種と設置の仕方を問い合わせた。ウォシュレットは新しいパイプでは水漏れしたから、設置した後に古いものにつけなおした。面倒だったがネットを駆使すれば、おおかたのことは自分でできる。そんなことを改めて実感した。

forest124-4.jpgforest124-5.jpg
forest124-6.jpgforest124-7.jpg

・もちろん、例年通りの仕事もあった。今年は雪が少なかったから薪割りも順調にこなして、ほぼ終了というところまできた。これで来冬の暖房の備えもできたが、家の中をもっと暖かくするために床の断熱を補強しようと思っている。これは自分ではできないので業者に頼むつもりだ。歳を取ってきたから住みやすくする工夫をもっともっと考えなければならない。大変だけどおもしろい。そんな気持ちのうちは、まだまだここに住める。何より、これからの季節がすばらしいのだから。

2015年4月6日月曜日

メディアの自由度

 


Reporters_Without_Borders.png

・国境なき記者団が毎年発表している「世界報道ランキング」では、日本は61位となっている。最近のメディアの状況を見れば、さもありなんという印象だが、2011年は11位だったし、09年は29位、10年は17位、12年は22位だった。つまりランキングが高かったのは、失われた3年などと言われている民主党政権の時期で、自民党が政権を奪回した時からランキングが急降下していることがわかる。ちなみに14年は59位、13年は53位で、民主党政権前の08年は37位、09年は51位である。

・理由ははっきりしている。安倍政権がやってきたことは「特定秘密保護法」の成立であり、戦争をするための「集団的自衛権」、原発の再稼働とそれを批判する声の封殺など枚挙にいとまがないからだ。このコラムでも書いたが、NHKは安倍専用の広報機関(AHK)に成り下がったし、ほかのテレビはもちろん、新聞も自粛や萎縮でびくびくしている。

・僕は山梨県に住んでいてテレビ朝日は受信できないから、「報道ステーション」での古賀茂明の発言はYoutubeで聞いた。官邸からの圧力を明言したもので、これに対して菅官房長官は事実無根としながら「放送法に抵触」と放送免許の更新に影響するかのような発言をした。しかし、民間放送が政府の認可によること自体がメディアや報道の自由度にとって大問題で、それを前提にした報道の中立公正などありえないのである。彼や安倍にとって中立とは、自分の気に入らない放送をしないことなのだろう。

・こんなメディアの状況についてほとんど無自覚なのは、鳩山元首相がロシアとクリミア半島に出かけたことに対する強烈なバッシングだった。「宇宙人」「馬鹿」「国益を損ねる行為」とネットをふくめてメディアの大合唱だったが、今ロシアやクリミアに出かけることが無謀だというのは現政権にとってであり、それを支え先導する外務省の意向であり、ひいてはアメリカの思惑を前提にしたものにすぎないなのである。

・そもそも鳩山元首相は沖縄の普天間基地をできれば国外、最低でも県外へ移設と主張して、沖縄の人たちの目を開かせるきっかけを作った人である。外務省や防衛省の役人にハシゴを外されて、恥をかかされるような結果に終わって、その時にも「宇宙人」とか「馬鹿」と罵倒されたが、今度のロシア訪問は、そんな役人に対するしっぺ返しといった思いがあったのかもしれない。

・思い返せば鳩山だけでなく、菅元首相に対するバッシングもひどかった。扇動したのは読売や産経だったが、安倍と比べたときに、ひどいどころか、ずいぶんまともな政治をやろうとしたことがよくわかる。そして、そんなことを指摘して政権批判をするメディアはほとんどない。もっとも民主党自体が、政権を取った時期をふり返って、良かったこと悪かったことを洗い出す作業をしないから、ダメな政党だというレッテルは当分は剥がせそうもない。

・報道の自由度が国外から見てこれほど落ちているという指摘についても、ほとんど無視されている。一方で日本人ほどメディアを信用する人が多いのは先進国の中では特殊だから、自粛と萎縮が蔓延するメディアの状況などには無自覚で無関心なのかもしれない。

2015年3月30日月曜日

京都個展界隈

 

photo73-1.jpg

K's工房の個展会場は寺町通りと夷川通りが交差する近くにある。寺町は名の通り寺が多いが、夷川通りは家具の通りと言われてきた。最近では家具屋はかなり減ったようだが、まだまだ老舗の店もある。それ以外にも、とうふ屋、薬屋、竹材店、紙器店、柿渋店など、町屋が歯が抜けたように壊されているが、昔ながらの街並みも健在だ。あるいは、観光街として新しい店も増えている。昔懐かしい感じもするし、新しいとも思う。

桜にはまだ早かったが、宿泊したホテルの隣に咲いているしだれ桜が満開だった。旧有栖川邸を移築した場所で、夜もライトアップをしていた。しかし、温かかったためか、個展の間にあちこちの桜も咲き始めた。帰り際には桜見物ができるかもしれない。





photo73-2.jpgphoto73-3.jpg
photo73-4.jpg
photo73-5.jpg
photo73-6.jpg
photo73-7.jpg
photo73-8.jpgphoto73-9.jpg

2015年3月23日月曜日

K's工房個展案内

 

「ソレデモ ワニハ キョウモ ユク」

2015年3月27日〜3月29日 京都「id Gallery」(中京区夷川通 寺町西入南側)

k's15-1.jpg

・一年おきに東京と京都で開かれているK's工房の個展が、今年は京都の「アイディ・ギャラリー」で開かれます。今回のテーマは「ソレデモ ワニハ キョウモ ユク」。最初は「ソレデモ」に特に意味があったわけではありませんでした。ところが正月に脳梗塞で倒れ、中止を考えましたが、2ヶ月以上の入院・リハビリを経て、何とか開催にこぎつけることができました。「ソレデモ ワタシハ キョウニ ユク」というわけです。いつもより遅く始まり、早く終わると思いますが、是非お出かけください。






k's15-2.jpg
k's15-3.jpg
k's15-12.jpgk's15-5.jpg
k's15-6.jpgk's15-7.jpg
k's15-8.jpgk's15-9.jpg

k's15-10.jpgk's15-11.jpg

2015年3月16日月曜日

ジャクソン・ブラウンのコンサート

 

  • 3月11日、渋谷オーチャード・ホール

jacksonbrowne1.jpg・ジャクソン・ブラウンは真面目な人だ。彼のライブを初めて見聞きして、改めてそう感じた。もちろん貶しではなく、褒めているのである。飾り気もなく、派手さもない。ただ淡々と持ち歌を歌う。曲の間には客席からのリクエストに逐一返答をする。で、歌の説明とそれに関連した話題。貧困や災害、ゴミや原発の問題等々……。この日はちょうど4年目の3.11で、そのことにも触れていた。

・スプリングスティーンのように派手なパフォーマンスで客を乗せるわけでもなく、ディランのように一言も話さずに、教祖のような雰囲気でただ歌うというわけでもない。普段着のままという感じ。だから超ビッグにはなれないのかもしれないけれど、だからこそ、デビュー以来、40年以上も同じ姿勢、同じ声、同じ体型でいられるのかもしれない。

・当日唄ったセットリストを載せたブログを見ると、最新アルバム『スタンディング・イン・ザ・ブリーチ』から7曲のほかは、70年代から最近までの歌を満遍なくやったようだ。しかし、どの歌にも不思議なほど古くささも懐かしさも感じない。彼自身のメッセージをこめて今を唄う。客席は静かで立ち上がる人は誰もいない。といって、つまらないわけではなく、じっくり聴こうという姿勢だった。

・7時から始まったライブは途中の休憩をはさんで10時近くまで続いた。さすがに最後の方では手拍子を打つ人、立ち上がって手を上げる人が多く出た。ハイチの大地震をテーマにした「スタンディング・イン・ザ・ブリーチ」の前には、今日が大震災のあった日であることを話し、アンコールで唄った「ビフォー・ザ・デリュージ」の前には、それが79年にニューヨークのマジソン・スクエア・ガーデンでおこなわれた「NO NUKES」で唄った歌であることを話した。客席は総立ちで、その歌に対面した。

夢を見た人もいれば、アホだった者もいる
無知の力で未来を考え計画を練る人もいれば
自然に帰る旅を模索して道具を集める人もいる
大洪水が来る前のやっかいな歳月の中で
心を込めて、避難のために互いの心をあてにする人もいる
さあ、この音楽で魂を高く保たせよう
子どもたちが濡れないように建物へ
やがて、消えてしまった明かりが空に届く時に
そろそろ、天地創造の秘密を明らかにしよう

・「NO NUKES」はスリーマイル島の原発事故後におこなわれた原発に反対する運動を支援するためにおこなわれたコンサートだった。彼は仲間のミュージシャンと「M.U.S.E.」(Musicians United for Safe Energy)を立ち上げたが、東日本大震災後にも、同じ趣旨でチャリティ・コンサートを主催している。その一貫した姿勢に共感するのはもちろんだが、彼の歌には単なるメッセージを越えた説得力があった。最後はもちろん僕も立ち上がって、"Bye and bye"を口ずさんだ。音楽や歌と政治的・社会的メッセージとの見事な混交を久しぶりに味わった。

・ところで、このコンサートには脳梗塞のリハビリで入院中のパートナーと一緒に行った。車椅子をM君に押してもらい、人びとでごった返す渋谷の町を歩いた。車椅子があることで、いつもとは違う風景に感じられて、その意味でもおもしろい一日だった。病室に帰って、彼女は夢のような24時間だったと言った。

2015年3月9日月曜日

宮入恭平編著『発表会文化論』青弓社

 

miyairi8.jpg・発表会と言われて思い出すのは、子どもが幼稚園の時にあった「生活発表会」ぐらいで、およそ縁がなかった。だから興味もほとんどなかったのだが、編者をはじめ書き手の多くが僕のゼミに参加をして、報告などもしていたから、「発表会」という仕組みが日本の現代文化にとって無視できないものであることに気づかされた。そのいくつかの報告を中心に一冊の本にまとめたのが本書である。

・「発表会」はこの本によれば、明治時代に勉学の習得度を確認するために学校制度の中に取り入れられたもののようである。それは保護者や地域の人にとって、「運動会」と共に楽しみな年中行事としておこなわれてきた。もちろん、このような催しは現在でも学校でおこなわれている。そしてこの形式は音楽や踊り、美術などを習う教室のイベントとなり、練習や製作に励むための最大の目標になっているし、自治体が主催する文化教室的なものにも定着しているようである。

・「発表会」はそれが何であれ、素人が日頃の練習の成果を披露する場であり、その保護者や友人・知人が参加して、その成果を体験する機会である。だから、基本的には閉ざされていて、部外者が参加することは想定されていないし、また覗いてみたいほど興味のある内容でもない。そして会を催すために必要な費用は、私的なものであれば、その当事者か保護者が負担することになる。本書によれば、それはバカにならないほどの金額(数万円以上)のようである。

・もちろん、やりたい人たちが自分の意志でやっているのだから、それでいいじゃないか、と言われればその通りだが、編者の宮入恭平は、この本を作るきっかけになったのが、ライブハウスのノルマ制度にあったと書いている。つまり、ライブハウスはプロだけでなく、アマチュアのミュージシャンがパフォーマンスをすることができる場であり、ミュージシャンとは直接関係のない、たまたまライブハウスに集まった客が、その歌や演奏を楽しむ場であったはずなのだが、今や、ステージに立つ者と観客が関係者に限られた、閉ざされた空間に変質しているというのである。パフォーマンスをしたければ、店の採算に合うお金を払い、それをチケットとして売らなければならない。だから客の中には積極的にと言うよりは義理で買ってやってきたという人も少なくないようだ。

・それはライブハウスが店の運営を安定させるために導入したシステムで、ミュージシャンを育てたり、新しい文化を生もうといった目的とは無関係で、むしろ阻害するものでしかない。しかし、このような「発表会」システムは美術の世界で実力を評価する日展や二科展などにも見られることだという。受賞者や入賞者の枠が審査以前に主催者達の中で決められていて、それが事件として取り上げられたこともあったようだ。これでは優秀な新人の発掘や新しい流れは生まれようもないが、お茶やお花といった古くからある習い事のなかでは、きわめて当たり前のシステムでもあったから、特にやましい気にもならずにおこなわれるようになったのかもしれない。

・あるいは「発表会」には、政治や社会の問題を持ち込んではいけないといった不文律もあるようだ。また、学校や習い事の発表の場であれば、習ったとおりにやることが望まれていて、自分らしく好き勝手にやることは御法度らしい。だから我が子や恋人や友人でもなければ、見る気にも聴く気にもならないのが当然なのである。そんな人畜無害で無味乾燥な会なのに、けっしてなくならない。それどころか、今や一大文化産業として繁盛しているのだと言う。それはなぜか。答えは是非、この本を読んで見つけてほしいと思う。

・著者達の中には編者自身がミュージシャンでもあることのほかに、大学院生になってもピアノ教室に通っていたという、想像だにしなかった驚きの告白をした人(佐藤)もいる。あるいは、地域の合唱クラブで楽しくやっている人(薗田)もいる。その意味で、研究者であると同時に当事者でもあるという参与観察がうまくできていて、それが本書の大きな魅力にもなっている。