1998年8月26日水曜日

Lou Reed "Perfect Night Live in London"

 

・ルー・リードの新しいアルバムを聴いているうちに、ニューヨークのことを考え始めた。そうしたら、メジャー・リーグのことが気になった。今年は吉井正人がメッツに入った。だから、ヤンキースの伊良部とあわせてニューヨークからの中継を見ることが多くなった。そんな感じでスタートしたら、途中から野茂もメッツに移ってきた。で週に3回、ニューヨークからの中継を見ている。あいにく、3人ともスカッとする試合をなかなか見せてくれないが、スタジアムを通して、ニューヨークはすっかりなじみの街になってしまった。

・ニューヨークは変な街だ。アメリカを象徴するようでいて、ここだけがまた、アメリカではない。ヨーロッパからの移民が最初に見るのが「自由の女神」と「マンハッタン」。世界中から、そしてアメリカ国内からも、その景色を求めて大勢の人がアメリカを目指してきた。人種や文化がごちゃごちゃに入り乱れた場所。成功者と敗北者。自由と平等を基盤にした熾烈な競争が生み出す不自由と不平等。もっともアメリカらしくて、またそれだけに、他の土地とは異質になってしまう都市。

外に出ると夜は明るい、リンカーンセンターのオペラに
映画スターたちがリムジンで乗りつける
撮影用のアーク灯がマンハッタンのスカイラインを照らし出し
けれど卑しい通りでは明かりが消えている
幼い子どもがリンカーン・トンネルのそばに立ち
造花のバラを1ドルで売っている
道路は39丁目まで渋滞し
女装した売春夫が警官にひとしゃぶりどうと声をかける
            "Dirty BLVD."

・ウォール街は史上空前の景気に沸き立っている。さっそうと歩くビジネスマンと路上生活者、そしてドラッグ中毒の子供たち。夢に憧れてやってくる人たちは跡を絶たないが、大半は夢破れて退散するか、のたれ死ぬ。ルー・リードはそんなニューヨークの人間模様や風景を繰り返し歌う。彼は、そんなニューヨークを嫌悪しながら、なお愛し続ける。この新しいアルバムはロンドンでのライブだが、伝わってくる情景は、何よりニューヨークそのものだ。

・以前にアメリカに行ったときに、ぼくはノーフォークから飛行機でニューヨークに移動した。飛行機は自由の女神の真上を飛んで、マンハッタン島の摩天楼を左に見ながらシェア・スタジアムをかすめるようにしてラガーディア空港に着陸した。内野席が何層にもなっているのに外野席がほとんどない、馬蹄形をした奇妙な球場だった。実際にぼくは野球を見たのはヤンキースタジアムだったが、飛行機からのニューヨークの眺めがすばらしくて、メッツの本拠地の印象もかなり強く残っている。

・ぼくはニューヨークはあまり好きではない。とても住みたいとは思わない。野球ファンも辛辣というよりはせっかちに結果に反応しすぎるようだ。けれども、ルー・リードの歌を通して感じるニューヨークの哀感には、時折ふれてみたい。とはいえ、日本人メジャー・リーガー達が挫折して傷心の帰国、などといった光景だけは見たくないものだ。

1998年8月5日水曜日

清水諭『甲子園野球のアルケオロジー』(新評論)

 

・ 甲子園で毎年くりひろげられる全国高校野球大会は、一言でいえば「青春のドラマ」である。「ひたむきさ」「純真さ」「汗と涙」といった形容には、ぼくはもうかなりうんざりしているが、テレビの中継や新聞報道に関するかぎりでは、それは今でも人の心に共感をあたえる大きな要素になっているようだ。そんなドラマがどのようにして演出されるのか、それは当の高校野球の選手や注目された地元の人びとにどんな影響をおよぼすのか、あるいは、日本の高校野球のはじまりのきっかけは何で、誰が「青春のドラマ」に仕立てあげていったのか?清水諭の『高校野球のアルケオロジー』は、このような問題意識を軸に考察された好著である。
・清水はテレビ中継のケース・スタディとして1986年の第68回大会準決勝戦(松山商業対浦和学院)をえらんでいる。球場にもちこまれたテレビカメラはおよそ15台。それがゲームはもちろん、スタンドの応援席や試合後のインタビューなどにふりわけられる。クローズ・アップやスロー・ビデオ、あるいは過去のゲームや郷土の様子を収録したビデオを駆使した演出、そこにアナウンサーと解説者の言説、そしてフィールドやスタンドから生ずるさまざまな音が挿入される。こうして、風物詩としての「青春のドラマ」がくりかえし上演されることになる。
・ 毎年、甲子園でおこなわれる野球大会はもちろん現実だが、テレビや新聞をとおして人びとがうけとるイメージは、選手はもちろん、高等学校やそこにかよう生徒たち、あるいは地元の人びとの実像とはずいぶん異なっている。清水はそれを「さわやかイレブン」として有名になった徳島県の池田高校の取材によって確かめている。時間の制約などのためか、ちょっと表層的な印象を受けるが、しかし、メディアによって作られたイメージがやがて現実の姿になったと話す地元の人たちのことばや、蔦監督の、虚像につられて集まってくる扱いにくい野球少年についての話はおもしろいと思った。
・ 日本の野球はすでに130年に近い歴史をもっている。もちろんアメリカ人によってもちこまれたのだが、それは東京大学の前身である開成校からはじまって、旧制一高と、主に高等教育の世界で広まっていった。その過程のなかで、徐々に「遊び」が心身鍛練の「道」に変容していく。野球はやがて人気のある大学スポーツになり、早慶戦といった花形カードが生まれるが、勝負にこだわる戦いぶりや応援合戦のエスカレートに批判が起こり、「野球害悪論」が新渡戸稲造などの識者や朝日新聞社によって喧伝されるようになる。相手をペテンにかける「巾着切りの遊技」、野球選手の不作法、あるいは勉学への支障を心配する父兄の懇願。そして、もちろん野球擁護もあったが、清水はそのあたりに「青年らしさ」の物語の起源を読みとっている。
・ ところが、害悪論の旗振り役をしていた朝日新聞は、その数年後には全国中等学校野球大会の主催をするようになる。それは清水によれば、野球害悪論キャンペーンによって朝日新聞の購買数が急減したことへの善後策から生まれた提案だったという。そこに阪急電鉄の前身であった箕面有馬電気軌道株式会社の小林一三の企業戦略が重なりあう。「青春のドラマ」の演出は、また、きわめてビジネスライクな理由によってはじまったのである。
・ 高校野球にお馴染みのメッセージは「純真溌剌たる青少年」「若さと意気」「明朗闊達」「雄々しさ」「男らしさ」、そして「フェアプレー」や「地方の代表」といったものである。甲子園野球のはじまりの経緯を知ると、そこで作り上げられてきたイメージに今さらながらに空々しさ強く感じてしまうが、このようなイメージが今でも高校野球が依拠する大きな基盤であることはいうまでもない。だから、野球部員はもちろん、高校生が起こすさまざまな出来事が不祥事として取り上げられ、それがクラブの活動停止や甲子園大会への参加辞退といった結果がくりかえされることになる。
・ 甲子園野球について出版された本は、けっしてこれが最初のものではない。特に歴史的な経緯については類似書ですでにふれられていることも多い。しかし、現実的なテレビ中継の仕組みや池田町のケース・スタディと重ねられることで、高校野球について、いっそうはっきりした像を映し出すことに成功していると思う。けれどもまだ、アルケオロジー(考古学)してほしいところはたくさんある。たとえば、不祥事を起こして処分を受けた高校や野球部員についてのケース・スタディもほしいし、純真な高校生が数千万とか億単位の金をもらってプロ選手になってきた歴史や現状についても知りたい。
・ 特定のイメージを作り上げてそれを美化すれば、当然、それにそぐわないものは排除され、また批判される。そのような仕組みへの批判の目は、光の当たる部分よりはむしろ影になったところへのまなざしによって輝きを増す。このような注文は無い物ねだりかもしれないが、筆者の力量からすれば、それほど難しいことではないように思う。
・ 最後に、高校野球について一言。200球を越える投球数に「熱投」などというばかげた賛辞を送る習慣と、一人のエースだけを頼りに優勝を目指すような体制は、すぐにでもやめてもらいたい。将来のある選手にとって甲子園が一つの通過点にすぎないことは、野茂や伊良部によって、高校生にも自覚されはじめてきたきたのだから。(スポーツ社会学会紀要 書評)

1998年7月25日土曜日

四国・四万十川 その3

 


◆四万十川→高松(7/25)
  • 朝起きると、川は激流になっていた。昨日いっぱい泳いでいた鮎はどこに隠れているのだろうか。などと心配するが、差し迫っているのは、今日のルートをどうするかということだ。宿の人に聞くと、まだ道路が通行止めになったという連絡は入っていないという。天気予報では大雨洪水警報が高知南部に出たと言っている。今日はまっすぐ北上して四万十川の源流と四国カルストを見たい。一刻も早く出発した方がいいようだ。
  • 出発するとすぐにバイクがこけていた。おじいちゃんが小さな落石につまずいたようだ。幸いけがはしていないようなので、バイクを起こすのを手伝い、エンジンがかかるのを確かめて別れた。「道の駅・大正」から梼原川をまっすぐ439号線を北上して東津野村に向かう。川は昨日とは一変して茶色の濁流になっている。見ていると思わず飲み込まれそうな気になってくる。道は狭く、曲がりくねっている。対向車に気を使うが雨が激しくてワイパーもきかないほどになる。
  • いくら走っても同じような道が続く。正直怖かった。いつ石が落ちてくるやもしれないし、路肩がゆるんでいるかもしれない。第一、道幅がよく見えないこともあるのだ。行き止まりになったら、この道を戻らなければならないし、帰り道だってふさがれてしまう。いい歳して無茶なことやるとつくづく思った。子どもを連れて長期のドライブをずいぶんやったが、そのときは、もっと注意深かった気がする。その子どもたちも、もう一緒に行くとは言わないから、最近ではもっぱら旅行は夫婦二人だけ。のんびりというよりは、気楽さからややもすると冒険指向になったりする。
  • 2時間ほど走って、やっと小さな集落にたどり着く。窪川町への、そしてまた梼原町への分かれ道。少し道が広く、くねり方も緩やかになる。東津野村。何とか四万十川源流の町にたどり着いた。カルスト台地などをゆっくり散歩する時間も余裕もない。この雨では牧場に牛の群などといった風景もないだろう。ほとんど休むことなく北上を続ける。長くて真っ暗なトンネルを抜けると、四万十川源流地点に向かう道があったが、そこもパス。いつの間にか川が反対に流れるようになった。分水嶺を越えたのだ。この川は仁淀川に合流して高知に流れ注ぐ。
  • 仁淀村にたどり着いたのが11時過ぎ。走りはじめてから4時間弱たっていた。喫茶店でコーヒーを飲む。ほっとした。ついでに昼食もここでと思ったが、全然空腹感はない。まだ緊張状態はとれていないようだ。コーヒーは無農薬だった。そういえば、店の感じもそれなりの趣がある。中年の女性が一人でやっている。高知で出会った若い子達の雰囲気が京都や大阪とほとんど変わりがないことに興味を覚えたが、流行や時代の傾向、好みは今や時差なく日本全国に行き渡る。そんなことをボーとしながら考えた。

  • 1998年7月24日金曜日

    四国・四万十川 その2


    ◆高知→四万十川(7/24)
  • 朝7時に出発。まっすぐ南下して桂浜へ。坂本龍馬記念館は9時開館なのでパス。桂浜でしばらく波と遊んで、海岸沿いに須崎に向かう。天気はすごくいいのだが、早朝のテレビでは、これから大雨が降るという。今晩キャンプするか宿を取るかは、もう少し空模様を見てから決めることにする。海岸沿いの道路はすいていて快適なのだが、堤防が高くて海は見られない。仁淀川の河口が広い。
  • 須崎でスーパー・マーケットを探す。だいたいみやげ物は地元のスーパーに限る、というのがこれまでしてきた旅で得た大きな知恵である。上げ底の、どこで作ったのかわからない土産物にごまかされる心配がないからだ。で、びっくりしたのが鰹のたたき。大きな鰹の半身がたたきになっていて380円。京都で買ったら、半分の大きさでも1000円はする。キャンプができれば今夜のメイン・ディッシュは決まりなのだが、あいにく空模様は予報通り怪しくなってきた。昼飯に鰻の寿司を買って、とりあえず四万十川の上流を目指すことにする。
  • 四万十川は中村市で太平洋に注ぐが、いくつもの支流がある。東津野村から出発する本流ははじめ南に流れるが、窪川町で大きく西に方向を変える。その流れはまた西土佐村で南に方向を変えて、中村市に向かうのである。今回目指したのは大野見村。東津野村と窪川町の中間に位置する。まだ上流だが、すでに川幅はかなり広い。しかし、水の流れは緩やかだ。道路におもしろい表示。
     「大飲み村-晩酌は-お家に帰って-母ちゃんと」
  • キャンプはあきらめたのでタープだけ張って昼飯にする。川の水はきれいだが、それほど冷たくはない。しばらくしているうちに、パラパラときて、やがて本降りになり始めた。張ったばかりのタープをたたんで、大正町に向かう。
  • 今日の宿は大正町。一支流の葛籠川にある一ノ谷渓谷の温泉にした。川を挟んだ急傾斜地に宿が作られている。本館と別館が川を挟んで建てられていて、間には、屋根がつき、ソファーやテーブルが備え付けられた大きな橋、それに丸木橋が二本。いかにもといった趣の旅館で、「いい旅夢気分」などといったテレビの旅番組がいくつも取材に来ているようだ。有名タレントの色紙や写真があちこちに貼られている。しかし、これはない方がずっといい。
  • 夕食は当然、鮎の塩焼き、それに虹鱒のさしみ。ごちそうなのだが、残念ながら、ぼくは川魚が苦手なのだ。とはいえ、すべて食べたのは言うまでもない。夜になると雨は一層激しくなる。

  • 鮎がいっぱい

    1998年7月23日木曜日

    四国・四万十川 その1

     


    ◆京都→高知(7/23)
  • 夏休みに入ってすぐの、3泊4日のドライブ小旅行。四万十川でのキャンプが第一の目的である。1日目のコースは明石大橋を渡って淡路島から鳴門、徳島から室戸岬を経由して高知まで。
  • 朝早かったせいもあるが、山陽自動車道から明石大橋への連絡道路にはほとんど車がない。橋を渡るときも写真の通り、がら空きの状態。走っていて気持ちがいいし、形もいい。けれどもやっぱり、通行料が高すぎる。茨木インターから徳島まで8900円だった。
  • 四国に入ると朝の交通渋滞。徳島から阿南まで1時間もかかった。阿南市には今年卒業した宇都宮さんがいる。市役所の市民生活課で働いているので訪ねたのだが、あいにく外出中だった。来たことを書き置きして案内係の人に渡す。市役所の入り口には七夕の大きな飾り。
  • ぼくは四国は2回目だが、高知県ははじめてだ。地図で海岸沿いを走ることに決めたが、実際には室戸岬までの道路からは海岸はあまり見られなかった。急な山や断崖が続くからだが、ぼくは四国の東側がこんなに険しい地形だとは思っていなかった。四国というとどうしても瀬戸内の景色が頭に浮かぶ。南側はずいぶんちがうな、という感じが早くもし始めた。
  • ところで、ぼくの乗る車はレガシー・ツーリングワゴン。初代のモデルですでに8年目、もうすぐ10万キロを越える。ずいぶんあちこち壊れてなおしたが、エンジンは相変わらず快調だ。今年3代目のニュー・モデルが登場して、ぼくはランカスターが気に入った。営業の鶴見君が車の様子を聞きに来ながら、それとなく買い換えを勧めるが、ぼくは乗りつぶす主義だから、エンジンがだめにならない限り乗り続けるつもりだ。
  • 朝6時に出発して、室戸岬に着いたのは12時半。さっそく鰹のたたき定食を食べた。おいしかったが、生ニンニクのうすぎりがごっそり入っているのにはびっくりした。香川の出身の同僚の原田さんが、高知は生ニンニク食べるから四国じゃないと言っていたことを思い出した。実は同僚には高知出身の山本さんもいて、高知までは車で5時間ぐらいと聞いていたのだが、この分では8時間はたっぷりかかりそうだ。いったい彼はどんな運転をして高知まで5時間で行くんだろうか?
  • 室戸岬の灯台は小高い丘の上にあった。道路は岬の先端部分をUターンするように走っている。山本さんに岬を越えると日差しが違うと聞いていたが、これは本当で、車のガラスを通してもじりじりとする。エアコンなど関係なく、Tシャツの背中が汗で濡れる。途中安芸市を通る。タイガース・タウンなどという看板は無視して、一路、高知市へ。
  • 高知市内に入るとまず目についたのがチンチン電車。行き先が「ごめん」となっている。出会う早々謝られては、遅くてじゃまだなどとはいえない。ホテルにチェック・インして、さっそく、おいしそうな居酒屋探しに向かった。決めたところは『一本釣』、「さえずり」(鯨の舌)などという珍味を口にした。
  • 1998年7月22日水曜日

    "A Family Thing"

     


    ・アメリカを人種の坩堝の国だというのは正しくはない。サラダ・ボールなどという形容もきれいごとにすぎる。確かに、ニューヨークやロスの街を歩く人の肌の色は多様だ。映画やテレビ番組でも、あるいはバスケットボールやベース・ボールの試合でも、さまざまな人種の混在する様子をよく目にするようになった。ロックといえば白人の音楽だという常識も、とっくに通用しなくなっている。しかし、それは日常生活や人々の意識の中で、肌の色が、同時に生きる世界の違いではなくなったことを意味するものではない。
    ・ "A Family Thing"は南部に住む初老の白人の男が、母の遺言として、実の母が黒人であったと知らされるところから始まる。父親の浮気でできた子供であること、その黒人の母は、出産直後に死んでいること、そして異父兄弟の兄がいて、シカゴで警官をしていることなどが告げられる。もちろん、主人公の男には、黒人の血を受け継いでいることを示す特徴は、外見的には何もないから、彼にとっては母の告白は信じられないことである。
    ・男は黒人の兄を探しにシカゴに出かける。兄は白人の弟の存在を知っていたが、もう二度と会いたくはないと冷たく応対する。弟とはいえ、父は浮気相手の白人で、そのために母親は死んだのである。けれでも結局、ちんぴらに絡まれてけがをし、トラックを盗まれた弟を、自分の家に同居させる。家には母の姉である叔母と別居中の息子が住んでいる。地下鉄の線路に面した狭い住居。そこで奇妙な同居生活が始まる。
    ・ 自分の生い立ちを調べ、そこで分かった事実をもとに、アイデンティティを確立し直す。あるいは、今まで異質で無縁だと考えていた人々との関係を親密なものとして再確認する。そのような作業の前に立ちはだかる垣根を乗り越えることは決して容易ではない。何しろ主人公は、アメリカの南部で生きてきた白人で、しかももう60歳になろうとしているのだ。けれども、そこを解決しなければ、この先、生きていく道筋やはもちろん、自分自身のことがわからない。
    ・この映画を見ながら、正直言って、こんな映画をアメリカ人でも作るのだな、と妙な関心をしてしまった。華やかなもの、派手なもの、楽しいものは何もない、きわめて地味な映画。しかし、そのテーマは限りなく重い。この映画で扱われるような事例が一つ一つ積み重なってゆけば、たぶん、アメリカは人種問題は解決の方向にゆっくりと進むだろう。そんな印象を持たされた映画だった。
    ・白人の弟がアーカンソーに帰る日、黒人の兄は見送りに出て、そのままトラックに乗って故郷に帰り、母の墓を弟と探すことになる。幼い頃の話をしながら、二人が、草に埋もれた母の墓を探す。最近では滅多にないことだが、ぼくは目頭が熱くなってしまった。

    1998年7月15日水曜日

    平野さんの 講義ノート

     

  • 僕がホームページをつくったのも、メールをはじめたのも、きっかけは、平野さんだった。だから、ぼくは彼をパソコンの先生だと思っている。もっとも、彼にとっては、ぼくは好き勝手なことをやる扱いにくい生徒でしかない。
  • 平野さんはコンピュータを何よりその仕組みから理解しようとしている。秋葉原で部品を買い集めて、オリジナルの機械を作っているし、図形や動画などをプログラミングによって描き出すことも朝飯前のようだ。
  • ぼくにとってパソコンは便利な既製品の道具でしかない。しかも、カウンター・カルチャーの臭いがして、画像や音の処理やDTPを最初から売り物にしたマック以外には、今でもほとんど興味がない。
  • 平野さんのホームページに刺激されてHTMLをおぼえ始めたときに、彼は、これは立派なプログラミング言語で、興味がないといっていたその世界にあなたは入り込んでしまったのだと言った。そんなものかと思ったが、しかし、ぼくの関心はもっぱらホームページの中身に向けられて、HTMLはやっぱり、そのための道具にしか感じられなかった。だから、ハードの仕組みやソフトの原理は相変わらずブラックボックスのままである。この点は正直言って、かなりしゃくである。
  • しかし、内容については、英語だけでほとんど更新しない平野さんのページよりはずっと充実していると自負してきた。ところが今年の5月頃から、ゼミや講義を登録している学生向けのページができて、それが頻繁に更新されるようになった。講義ノートや質問への返答、あるいはゼミでの議論の紹介。詳しいことは是非直接アクセスして読んでほしいが、その分量や守備範囲の広さには、今さらながら驚き、あきれてしまった。
  • たとえば「比較文化講義」には、ダーウィンやライプニツ、レヴィ=ストロースの『野生の思考』、フレーザーの『金枝編』、あるいは中国演劇史の本、デュルケム、マルクス、ガーフィンケル、それにもちろんユーエンの話なども出てくる。「認識と態度」「自然と文化」「システム」「文化と個体」「時間のイメージ」「循環と祭祀」........。学生のメールなども含めて、読んでいるうちに、授業に出席しているような感じになった。
  • 平野さんはプログラミング実習の授業も担当しているようだ。で、ここでは、CPUのオーバークロッキングが話題になったりしている。クロックスピードは現在、パソコンを差別化する重要な要素になっていて、250と300では、それだけでパソコンの値段が一挙に5〜10万円もちがったりする。彼は、設定を変えることによってクロックスピード200のCPUが233になるなどという、ぼくから見れば恐ろしくなるような話を学生にしているのである。ぼくにはRAMの増設だってびくびくものの作業なのにである。
  • 大学の講義やゼミは、きわめて閉鎖的な世界となっていて、現実には今だって、大学間はもちろん、教員間でさえ、互いに何をやっているのか見えないのが常識である。教員同士は、学生を通じた話しとして互いの授業内容を知る。もちろん、論文や著書を通して誰が何を研究し、どんな講義をするのか知ることはできる。しかしなぜか、講義の内容や、やり方、ゼミの進め方について直接話をしたり見学しあったりすることはめったにない。
  • ぼくは、ホームページを作り始めてすぐに、こんな慣習に風穴をあけたり、個々の大学の垣根を取っ払ってしまう可能性があることに気づいた。その新鮮さやおもしろさが、毎週の更新を面倒に思わない一番の理由だった気がする。けれども、そんな方向でも、また平野さんに一歩先を越されてしまった。わー、すごいと思い、よーやるとあきれ、また、こんちくしょうと歯ぎしりもしてしまう。おかげで夏休みに考えることがまた一つ増えてしまった。