1998年11月25日水曜日

パティ・スミスとニール・ヤング

 

・とにかく忙しい。18日にゼミの4年生の卒論が提出された。これから、読んでコメントをつけて返し、また書き直したものを再提出。こんなやりとりが一ケ月ほどつづく。それに各種入試がはじまって、20日の論文入試の試験監督と採点にかり出された。おまけに、22-23日は関西学院大学で日本社会学会。ぼくは「文化・社会意識」の部会で司会を指名された。
・ こんな具合で、これから冬休みにはいるまで、週末も雑用に追われることになってしまう。毎年恒例化している胃の痛みが、早くも数日前から出はじめていて、病院に行く日もつくらなければならない。それでもホームページの更新は休みたくはない。実は、本もCDも新しいものが手元にたまって、レビューの順番を待っているのだ。
・そんなとき、たまたま「京都みなみ会館」でニール・ヤングとクレイジー・ホースのロード・ムービー『Year of the Horse』をやることを知った。監督はジム・ジャーミッシュ。「パティ・スミスと仲間たち展」が京都駅ビルではじまっていたから、21日に両方一緒に見に行くことにした。
・ 「パティ・スミスと仲間たち展」はパティ・スミスの絵とREMのマイケル・スタイプの写真が展示してあった。パティ・スミスが絵を描いていることは知らなかったが、彼女は美大の出身だから、考えてみれば何の不思議もない。どんな絵を描くのか非常に興味があった。
・で、見ての印象だが、額縁に納まってミュージアムに飾られているからそれらしく見えるが、ほとんどは落書きといった感じのものだった。紙もたまたま手元にあったもので、しみがついたり、しわになったり、破れたりしていた。絵の評価はぼくにはわからないが、ぼくにはそんな絵がおもしろく感じられた。鉛筆でさっと描きあげて、色を塗ったり塗らなかったり、時にはそこにことばを書き加えている。インスピレーションのおもしろさと彼女の繊細さがあらためて実感された気がした。
・駅ビルで昼食をとって、次は東寺近くの南会館へ。『Year of the Horse』は1997年の作品だが、中身は最近のライブと25年前のものをだぶらせる形で進行させている。間に、ニール本人やクレイジー・ホースのメンバー、それに父親へのインタビューが挟み込まれる。メンバーの死と交代など、彼らの歩んできた歴史がよくわかる。当然若くて格好よかった昔と、太って頭のはげた現在の姿が対照的になってしまう。しかし、コンサートでのパフォーマンスは相変わらず名前の通り「若い」ままだ。
・監督のジム・ジャーミッシュは『ストレンジャー・ザン・パラダイス』で脚光を浴び、そのあと『ダウン・バイ・ロウ』や『ミステリー・トレイン』を作った。ニール・ヤングのファンで以前にレビューで紹介した『デッド・マン』の音楽を頼んだのがきっかけで、このロード・ムービーが作られた。
・ぼくはこの映画をずっと見たいと思っていたが、おなじ「京都みなみ会館」で来週4日間(11/29-12/2)だけレイトショーで上映される。見に行く元気があればいいのだが......。見たい映画はそれだけではない。年末にかけてウッディ・アレンの『ワイルド・マン・ブルース』『地球は女で回ってる』、それにマイケル・スタイプが製作総指揮をした『ベルベット・ゴールドマイン』などが公開される。本当になぜこんな忙しいときにと泣きたくなってしまう。

1998年11月18日水曜日

『八日目』『女と男の危機』

 

・映画館で公開されるのはアメリカ映画ばかりだから、ついついフランス映画のことなど忘れてしまいがちだが、衛星放送をこまめにチェックすれば、最近のものを結構見ることができる。で、わりとおもしろい。
・『八日目』は1996年の作品で監督はジャコ・ヴァン・ドルマル。聞いたことない人だが、それは出演者についても同じだ。話は妻子が出ていってひとりぽっちになった男と、施設をぬけだしたダウン症の青年の出会いからはじまる。男は最初、母に会いたい青年をしぶしぶ車で送り届けようとする。母親はすでに死んでいることがわかると、男は頭にきて青年を置き去りにしようとするが、気になって引き返してしまう。そうすると、激しい雨の中で青年が立ちつくしたままでいる。「戻ってくると思った」と言う青年の笑い顔に男は心を開かれる。
・別居の原因は男の身勝手さにある。だから、妻と子どもが住む家をたずねても、妻はもちろん、子どもとて喜びはしない。せっかくここまできたのにと思うと怒りが爆発してしまうが、それこそ、男の身勝手というものである。彼は、ダウン症の青年の純真無垢さ、人を信じる心にふれながら、しだいに妻や子どもたちが去った理由に気づくようになる。で、子どもの誕生日のプレゼントに花火をたくさん買い込んで、家の前で一斉に点火させる。危うく火事になりかけるが、それで、妻や子どもの心を向けさせることに成功する。
・『女と男の危機』もテーマや設定がよく似ていた。1992年の作品で、監督はコリーヌ・セロー、出演はバンサン・ランドン。こちらもぼくには知らない人ばかりだった。
・弁護士の主人公が朝目を覚ますと妻がいない。子どもたちがバカンスに行く日なのにである。義母に任せて出勤すると、解雇通知が机の上に置いてある。上司に悪態をつき、相談に乗ってもらおうと友人を訪ね回るが、誰も彼も自分の抱える問題で手一杯で、話すら聞いてくれない。男はその冷たさを非難する。ここらあたりの会話のすさまじさは、映画を見続ける気さえなくさせるほどで、フランス人てこんなに激しかったのかとあらためて思ってしまう。
・酒場で隣り合わせた男がビールをおごってくれと言う。文無しの風来坊。見るからに風采が上がらないが、それに輪をかけて頭も悪そうだ。しかし、主人公が自分の話をぶつけることができたのは、彼が最初だった。ちょっと落ち着いた気分になって酒場を出ようとすると、その風来坊もついてくる。
・実家にかえって親に相談しようとすると、母が10歳も若い男と不倫をして家族会議の最中で、自分の話などは持ち出せない状況だった。母親は夫のため、子どものためばかりに生きてきて、自分を取り戻したくなったのだと言う。そのことばに、男は妻の家出の理由を見つけた気がした。
・登場人物の誰もが高慢ちきなエゴイスとばかり。ただ一人風来坊だけがちがう。その社会から取り残された人間だけがかろうじて人間性を失わないでいる。自分の生活が破綻しなければ、見向きもしない人間に救われていく。二本の映画に共通したテーマは、けっしてフランスだけの特殊な状況ではない気がした。
・誰もが生き残りをかけたサバイバル・ゲームのなかにいる。関わる人は誰であってもまず、自分にとって役に立つとか、ためになるとかいう、エゴイスティックな理由で選ばれる。友人、結婚相手、そして子どもや親とて例外ではない。仕事だって、いったい何をやっているのかあらためて考えたら、モラルも社会的意味もなくなっていることに気づくばかりだ。で、誰もが、そのことに気づかないふりをして、誰より自分自身をごまかしている。そのためのさまざまな破綻。実際今怖いのは経済不況よりはこっちの方だと、映画を見ながらつくづく考えさせられた。

1998年11月11日水曜日

元気の出るメール


  • ホームページ開設2周年の文章で「アクセス数の増加とは対照的に大学生からのメールが少なくなった」と書いたら、続けていくつかのメールがやってきた。
  • まず、以前に「書評ホームページ」をやってらした岡本真さん。彼は現在、メール マガジン"Academic Resource Guide"を編集・発行していて、ぼくの書いた「ホームページ公開2周年」をそこに再録したいということだった。
    「珈琲をもう一杯」公開2周年にあわせて著されたこのお原稿は、「広がりが同時に薄さを引き起こしているのでは」というお言葉に示されているように、見事なまでにインターネットの学術的な利用の現状を鋭く衝いているのではないかと思います(この思いは、一年前に先生が公された「ホームページ公開1年」を併読すると、一層強まります)。
  • ちょっと誉められすぎで「WWW上の学術的なリソースを紹介・批評」といった趣旨のWeb Magazineに載せてもらうのはくすぐったい感じがするが、彼の志には最初から共感しているので、もちろん承諾した。
  • 一度メールを送ってくれたことがあるHさんからも次のようなうれしい感想がきた。彼は大学4年生だが、来年から大学院でアメリカ地域(現代)研究をやることになったそうだ。
    卒論を『Bob Dylan in the 60s`』(仮題)として書いている私は、以前から先生の著作はいくつか読ませていただいていたのですが、インターネットを本格的にやるようになってから、このページは非常に参考になる部分が多いのでよく見にきています。今回は、このページの参考文献のリストを見まして、素晴らしいページだと改めて思ったので、思わずメールを書いてしまいました。今後もしばしばこのページを見にくると思います。
  • 以前に紹介したことがあるG君も久しぶりにメールをくれた。彼は同志社から中大に移ったが、テーマは同じ山田村をフィールドにしたコンピュータ文化論だ。彼は、表面ばかりで中身のお粗末なコンピュータ文化の現状について学会や大学、マスコミ等々をあげて批判していた。
    マスコミ自身がネットの世界に疎いというのは僕も感じています。富山で、山田村や県全体の情報化事業の推進を報道しているのは北日本新聞という北陸の地方紙なのですが、メールすら使えない(気軽に使える環境でない)記者がいる事に多少の驚きを覚えます。
  • その他卒論の相談が数件、それに久しぶりの卒業生からも何通か。あらためて、多くの人に読まれていることを実感した。このHPの映画の題名リストのデータを作った平川さんからは次のような近況が届いた。なかなかおもしろいことをやっている、と思ったら、ぼくまで楽しくなってきた。
    私は、いまCS実験放送のプロジェクトのスタッフになっています。これは何かと申しますと、将来的に聾唖者や失聴者にむけ、専用のCS番組を作ろうという全日本聾唖連盟の指揮のもと取り組まれているプロジェクトです。健聴者には実感しにくいことですが、聾唖の人達は映像からリアルタイムの情報を欲しています。ニュースを見ればいいじゃん、といっても彼らにとって現在の民放ニュース番組は口ぱくぱくで、どんな情報を流しているのか理解できない映像でしかないのです。とにかく字幕を、手話を充実させた番組がもとめられています。
  • 1998年11月6日金曜日

    名神高速道路(山崎から茨木)


  • 名神高速道路の京都と吹田ジャンクションの間は、いつも混んでいる区間でしたが、最近拡幅工事が完了して、ずいぶんスムーズになったようです。もっとも、どういうわけか天王山トンネル付近では事故が絶えず、そのための渋滞は相変わらずのようです。、一説によると、合戦で死んだ武士の亡霊たちの怨念のせいのようですが、もちろん、真意はわかりません
        山崎から天王山方向→
  • ぼくはその天王山近くに住んでいて、茨木市にある大学に通っていますが、幸か不幸かインターチェンジがないので、この区間はほとんど使ったことがありません。しかし、拡幅工事のために作った側道が開放されたため、混雑するR171を通らずに通勤できるようになりました。
  • この側道は所々でちょんぎれていて、そのたびに細い道をこちょこちょ走らなければなりませんが、渋滞回避の抜け道としてはなかなか便利です。まず、天王山トンネルの大阪側入口から梶原トンネルまで。この道には水無瀬川の土手道を西山に向かって走ると入れます。
  • 島本町から天王山↑

    ↑梶原トンネル大阪側、穴が四つになった。
  • 梶原トンネル手前でいったん細い旧西国街道に出なければならいのはちょっと面倒です。しかし、トンネル出口から成合までの側道は快適です。成合から一部大阪行きの一通なって、行き帰りの道を違えねばならず、ここもすこし不便です。しかし、後は奥天神から芥川、そして南平台を越えるところまでほぼ一直線。
        高槻奥天神の陸橋から成合方面→
  • 阿武山団地の南端は京都方面への一通になっていますが、側道は愛威川を越えて勝尾寺川までつづいていています。現在、川にかかる橋を建設中ですから、それができると茨木インター入口まで行けることになるでしょう。トンネルもついでに作ってくれていたら、R171のバイパスとしてずいぶん便利になったのに、などと思いますが、住宅地が隣接してますから、反対運動が必ず起こります。
        高槻奥天神の陸橋から茨木方面→
  • 実は今、山崎に大きなジャンクションが作られはじめています。中学校をかすめることもあって、町では反対運動も始まっています。何しろ、それを当てこんで、もうホテルの建設がはじまったりしているのです。地元住民としては当然、反対すべきなのかもしれませんが、しかし、ぼくの気持ちは複雑です。なぜ開通時から、ここにインターチェンジをつけなかったのか、疑問に思ってきたからです。
        南平台から→
  • ふだん、車やバイクを乗り回しているぼくとしては、道がよくなることは大歓迎です。しかし、便利になれば、それだけ交通量も増えて、すぐにまた混雑してしまう。当然環境は悪くなり、住み心地も悪化する。車に乗らない人には申し訳ない気がしますが、けれども、便利になってほしいという気持ちは抑えられそうにありません。インターチェンジができれば、通勤時間は半分になるのです。だから、やましい気持ちを抱きつつ、反対の署名にはまだ一度も応えていないのです。
      茨木インター近く、芥川に架かる橋→
  • 1998年11月4日水曜日

    Bob Dylan Live 1966 The Royal Albert Hall Concert


    ・ディランのブートレグ・シリーズの続編が出た。1966 年にロンドンのロイヤル・アルバート・ホールでおこなったコンサートのライブ盤である。ぼくはディランを1965年にはじめて聴いて、それ以来のファンだが、このコンサートがもつ意味の重さを知ったのは、それから10年近くたってからのことだった。その海賊版が出ているといううわさを聞いてレコード屋を探し回ってやっと見つけたときの感激を、今でもはっきり覚えている。真っ白いジャケットにGWW(Great White Wonder)のハンコ、それに小さなThe Royal Albert Hallと曲目が書かれたコピー。確か2枚組で4000円ほどした。学生の身分ではけっして安い買い物とは言えなかった。たぶんその頃、かなりきつい肉体労働をしても、バイトでもらえる金は一日わずか2000円ほどだった。けれども、それを買うことに、ぼくは何の迷いもなかった。

    ・コンサートの海賊版は会場での隠し取りが多い。だから、当然、音は悪い。けれども、殺気だったディランのパフォーマンスから、オフィシャルなレコードとはまたちがう印象を受けることが多かった。この66年のツアーのバックはホークス(ザ・バンド)。曲の合間にしゃべるディランはろれつが回らないようで、ドラッグをやっていることがよくわかる。それが歌いはじめるとものすごい迫力の声になる。そのあまりの落差に驚き、客とのピリピリしたやりとりにドキドキする。会場から"Judas!"とヤジが飛ぶと、拍手や笑い声がおこり、ディランが"I don't believe you!"とやりかえす。そして"You are lier!"と吐き捨てるようにつづけて、最後の"Like a Rolling Stone"を歌いはじめる。ぼくはもう恍惚として涙を流さんばかりになった。もう、ディランがすべてという時期は過ぎていたが、それでも、その時の興奮は尋常ではなかった。

    ・1965年にもディランは長期のヨーロッパ・ツアーに出ている。ソロで生ギターだけだが、その時のドキュメントが"Don't Look Back"という題名でビデオ化されている。これを手にいれたのは、海賊版からさらに10年ほどたった頃。ジョーン・バエズがいつも一緒で、楽屋にはドノバンやアニマルズのメンバーが訪れたりしている。会話のやりとりはいつでも誰とでもとげとげしいが、とりわけインタビューを試みる新聞や雑誌に対しては挑発的で、敵対的だ。それにマリファナの回し飲みなどもやっている。ロイヤル・アルバート・ホールのコンサートにはビートルズの面々も聴きに来ているが、彼らにドラッグを教えたのも、このときのディランのようだ。

    ・ボブ・ディランは生ギターとハーモニカで演奏するフォーク・シンガーとしてデビューした。そのアバンギャルドな詩や独特の歌い方が主に政治や社会に自覚的な大学生に支持されて、またたく間に人気者になった。けれども、その堅苦しさにうんざりして、ディランはエレキ・ギターを手にしてロックンロールをやりはじめる。その変質にある者はとまどい、またある者は非難の声を浴びせた。1966年のヨーロッパ・ツアーはまさに、そんな騒ぎの最中におこなわれたものである。だからコンサートはどこでも罵声と歓声がいりまじる緊張したものになった。まじめなインテリの聴き手にとってはまさに「裏切りユダ」だったのである。しかし、これこそがまた、フォーク・ソングとロックンロールの出会い、あるいはディランとビートルズの融合でもあった。20世紀後半のポピュラー音楽の歴史の上で、最も重要な出来事が、このツアーのなかにはあったのである。

    ・その、伝説のコンサートが32年たってやっと、公式に発売された。今あらためて聴いてみると、当然だが、音はきわめてクリアだ。二枚組の CDの一枚目は生ギターのフォーク・ソング、そして二枚目はロックとはっきりわけられている。前に買った海賊版とは曲目が少しちがうから、海賊版はいくつかのコンサートを寄せ集めたものかもしれない。クリントン・ヘイリンの『ボブ・ディラン大百科』(CBSソニー出版)によると、観客との険悪なやりとりはどこの会場でも見られたものらしい。そして、ディランが何を言ったかによって、どこのコンサートであるかがわかるそうだ。で、最後の曲の前にやっぱり「おまえはうそつきだ」ということばを発してディランが"Like a Rolling Stone"を歌いはじめた。

    ・ファンだったことを差し引いても、やっぱりすごい時代のすごい音楽、そしてもちろんすごいミュージシャンだったなとあらためて思う。歴史としてでもいいから、若い音楽好きの人にはぜひ関心をもってもらいたいアルバムである。

    1998年10月21日水曜日

    YES(大阪厚生年金ホール、98/10/14)


  • 厚生年金ホールでコンサートを聴くときには、近くの居酒屋「もだん」で腹ごしらえをすることにしている。開場時間になってから入口に行っても、開演までの時間をゆっくり迎えることができる。そんな予定だったが、今回は雰囲気が少しちがった。ホール前の公園に4列に並べというのである。確かに長蛇の列ができている。車に気をつけろとか、列を乱すなとか、持ち物の点検をするからバッグの口をあけておけとか、バイトの係員がことこまかな指示をしている。ぼくはあほらしいから入口脇の階段に腰掛けて列の様子を眺めていた。
  • これはロック・コンサートを聴きに来た人びとの集まりなのに、どうしてみんなこんなに素直なんだろう。これではまるで朝の電車のホームやバス停じゃないか。そういう日常から離れるためにロックを聴きに来てるんじゃないの。そんなことをぶつぶつつぶやきながら、結局、階段で30分近くも座り続けた。若い人が割に多くて、"YES"もまだまだ人気があるんだなー、と思いながら場内にはいると、1階席と中2階席がいっぱいになっただけで、2階席はがらがらだった。入口でのテープやカメラの検査はそんなに厳密ではなかったから、何でこんなに時間がかかったのか不思議な気がした。わざわざ手間をかけて、無駄なことをやっただけじゃないのか。せっかくビールでいい気持ちになったのに、はじまる前にすっかりさめてしまった。
  • ぼくの席は2階席の右の袖で前にかなりつきだしているから、すぐ下にステージが見える。数日前にチケットを買ったからだが、ぼくはこんな席が好きだ。とはいえ、9000円は高すぎる。最近聴きたいコンサートが少ないし、あっても、大阪ドームでやったりするから買ったが、こんな値段にすると、ますます客は集まらなくなる。ごく一部の一瞬の大物だけがドームを満員にして、あとは2000人も集まらない。こういう状況は、けっしていいことではない。もっともっと聴きたいミュージシャンはたくさんいて、その人たちが日本に来てくれることを願っているが、現実的には逆に難しくなるばかりなのかもしれない。
  • ところで肝心のコンサートだが、すごくよかった。昔のものから最近の曲までたっぷり2時間半もやって、ステージ・パフォーマンスもサービス精神にあふれていた。ぼくはプログレは割と好きでピンク・フロイドやキング・クリムゾンなどのコンサートにも行っている。どちらもしっかりとしたサウンドでよかったが"YES"もやっぱり職人肌の音楽集団だった。中心メンバーの二人(ボーカルとギター)以外は頻繁に交代してきたようだ。ジョン・アンダーソンのかすれた高音の声は50代の半ばをすぎたとは思えないほどみずみずしい。スティーブ・ハウは生ギターをもって何曲もソロでやったが、スパニッシュ風の曲("The Clap")の時には観客が総立ちになるほどだった。
  • ぼくがプログレのコンサートに好んでいくのは、席を立って踊り出す客が少ないからだ。邪道だと思うが、ぼくはロックは腰掛けて聴くのが好きだ。特に最近は、そうでなければ行く気がしない。学生たちに言うと馬鹿にされるが、足踏みや拍手程度で十分ノッた気がする。"YES"のコンサートではフィナーレとアンコール以外は誰も立とうとしなかった。それでも、客のほとんどがノッていることは会場の雰囲気でわかった。それも、楽しい時間を過ごせた理由だった。ジョンも今日の客はすばらしいというようなことを口にして「夕焼けこやけの赤トンボ〜」を歌って観客に一緒に合唱しようと呼びかけた。
  • というわけで、9000円も高くないかと思って会場を出たのだが、ひょっとしたら、気持ちのいい雰囲気は、言われるままに整列した若い人たちの素直さが作りだしたのかもしれないななどと考えて、ちょっと複雑な思いにとらわれてしまった。 

  • 1998年10月14日水曜日

    栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス) 大島豊『アイリッシュ・ミュージックの森』(青弓社)

     

    irish1.jpeg・今一番行ってみたいのはアイルランド。そんなふうに思わせる本を2冊読んだ。ぼくにとってのアイルランドへの関心のきっかけはもちろん、ヴァン・モリソンやU2だが、紛争の絶えないぶっそうなところだから、行きたいなどとはちょっと前まで考えもしなかった。映画の『父の名において』とかNHKのドキュメントで見る限り、のんびり旅行者が出かけるようなところではない気がしていた。

    ・イギリスのブレア首相とIRAとの間で平和協定が結ばれた。少しは安全になったのかなといった程度のものとして考えていたが2冊の本を読んで、ずいぶんちがった印象をもった。一つは栩木伸明『アイルランドのパブから』(NHKブックス)である。

    ・仲間とパブへくりだしたばあい、あるいはその場で知り合ったどうしが三、四人で飲んでいるとしよう。ぼくの目のまえのグラスが空に近くなると友人のひとりが「もう一杯やるかい」とたずねてくる。こうたずねるのがエチケットだからだ。ぼくが「イエス」と答えると、彼はほかの友人たちにも同じことをたずね、バーまで立っていき、みんなの飲み物を買ってくる。次は誰か別の人物の番だ。………結局はおごりっこを順番にしながら、誰も損も得もしないことになっているのだ。

    ・このようなパブでの儀礼を「ラウンド」と呼ぶらしい。この本の最初のところで、著者はパブで隣り合わせた老人に「アイルランドでは宗教改革も産業革命も経験しておりません。近代化はついこのあいだはじまったばかり。ダブリンは都市に見えるかもしれませんが、じっさいは巨大な村ですよ。」と言われるたと書いている。『アイルランドのパブから』は、そんな巨大な村にいくつもあるパブで出会った人びとや人間関係や音楽、そしてもちろんギネス・ビールについての本である。著者はそれを「声の文化」と呼んでいる。知らない者どうしがすぐに知り合いになって、ビールをおごりあい、いつの間にかはじまる音楽に耳を傾け、一緒に歌う。アイルランドはまさにフォーク音楽が生きている世界である。ぼくは酒に強くはないし、ことばだって不安だ。それに、人見知りが激しいから、パブで知らない人と一緒にうち解けることはできそうもない。けれども、何となくいいなーと感じてしまうのも確かだ。

    ・しかし、アイルランドは一方では辛酸をなめ続けた歴史をもった国でもある。ノルマン人やヴァイキングの侵入、イギリスによる支配、 19世紀の中頃に起こった飢饉とアメリカへの移民によって、人口が一挙に3割ほどに減ってしまうという時代も経験している。中等教育が義務教育として制度化されたのがやっと60年代になってから、そして経済的な発展が本格化するのは、初の女性大統領メアリ・ロビンソンが登場してからである。

    irish2.jpeg・もう一冊の本『アイリッシュ・ミュージックの森』には最近のアイリッシュ・ミュージックについての記述が詳しい。ぼくはそのほとんどのミュージシャンや音楽を知らないが、次のような話には思わず、うなってしまった。

    ・ 1922年にアイルランドが独立したとき、政府は独立を支える文化的支柱を必要としたが、そこで使われたのはアメリカから輸入されたSP盤の伝統音楽だった。
    ・アメリカからのSP盤がほぼ全国的に伝統音楽のかたちを統一するほどの影響を及ぼしたのは、そこに録音されていた音楽が並外れて質の高かったものであったそのほかに、まずそれがすべて善きものの源泉アメリカからの到来そのものであったためであり、二つ目には教会の弾圧によって音楽の名手はみなアメリカに行ってしまったという残った人びとの劣等感が裏書きされたからだろう。

    ・さらに、アイリッシュ・ミュージックが一層盛り上がるのは、ロックンロールの流行と、その世界でのアイルランド出身のミュージシャンたちの活躍が引き金になる。このような経過を指摘しながら、著者はアイリッシュ・ミュージックを昔ながらの様式や素材に固執した伝統音楽ではなく、むしろ時代の流れに敏感に呼応するところから再生した音楽だと言う。「周縁ゆえに、辺境ゆえに伝統は『近代』の侵攻をこうむらず、その力を温存してきた。時を得て、伝統は『近代』のシステムを逆用し、新しい存在として生まれ変わる。」

    ・ぼくはこの本で紹介されているCDがたまらなくほしくなった。またTower Recordで散財してしまいそうだ。