1999年4月28日水曜日

Alanis Morissete (大阪城ホール、99/4/19)


・大阪城ホールはスティング以来だから5年ぶりぐらいだろうか。一部の超大物(?)を別にすれば、行ってみたいコンサートはほとんど2000人以下の場所でしかやらなくなった。
・たとえばこの欄でも取り上げているルー・リード、パティ・スミス、Yes、そしてボブ・ディラン。その誰もが、会場を一杯にすることができなかった。他方で大阪ドームといったばかでかいイレモノができて、そのチケットがすぐに売り切れたりする。フェスティバルや厚生年金でやるのは舞台との距離が短くて音もいいから、ぼくには好ましい。そして大阪城ホールまでなら許されると思っているが、ドームが音楽を聴く場であるとは全然思えない。話題性や有名性の一点で二極分化してきた傾向とコマーシャリズムの行き過ぎは、ぼくにとっては気分がいいものではない。

・ というわけで、ひさびさの大阪城ホールだが、コンサートは15分ほど遅れてはじまった。待ちくたびれたわけでもないのだろうが、途端にアリーナはもちろん、ぼくのいたスタンド席まで立ち上がった。「うわー、やばい」と思ったが、座ったままで聞き続けた。2時間もたちっぱなしで聴いたのではぎっくり腰が再発してしまう。人の谷間からのぞき込むのは面倒だが、どうせ舞台のアラニスは豆粒ぐらいにしか見えないから、ぼくは会場全体をきょろきょろ見回して客の生態を観察することにした。

・立つのは踊りたいからなのだろう、と思ったのだが、大半はただ突っ立っている。理由のわからない行動だと気になった。そんな人たちがスタンド席でも半数以上。体を揺らして踊っているのが2割、ぼくのように座っているのが3割ほど。アラニスの歌は何より歌詞の良さにある。だからじっくり聴きたい人が多いだろうと思っていた。しかし、舞台のアラニスは飛び跳ねたり、くるくる回ったりと忙しい。その元気に応えるように踊っている人が2割で、それはそれで自然な感じがした。ぼくの前の席の女の子二人はアラニスに負けないほど元気だった。で、ぼくの目は思わずその娘たちのお尻の動きを追いかけてしまった。

・けれども、やっぱり立ちんぼうの5割も気にかかった。踊るわけでもなく、座るわけでもない。その中途半端さは、時折座りかけてはまた立ち上がるといった行動で、さらにいっそう顕著になる。もっと体を動かしたいのにできないのか、それともまわりが立ったから何となく立って、まわりが座らないからそのままでいるほかなかったのか。あるいはアラニスに対する儀礼なのか。理由がわからなければ、何とも言えないが、ご苦労さんだなと思った。そんな観察にも飽きて、ぼくは後半を最後列の空き席に移動して聴いた。アラニスの姿はもっと小さくなったが、歌に集中することはできた。

・話は横道にそれてしまったが、最後に肝心のコンサートの話。彼女のパフォーマンスは1時間ちょっとでサヨナラになったが、その後3回もアンコールに応えて5-6曲を歌い、客の反応の良さに満足しているようだった。よく動き回って、ギターやハーモニカまでやって見せた。2枚のアルバムにおさめられた曲のほとんどが歌われた。イントロにインド風のサウンドを使って、CDとは異なる雰囲気を作りだそうともしていた。精一杯の演出とパフォーマンスだったと思った。が、それだけに、物足りなさも感じた。たぶん彼女はあと10年ぐらいたったら、もっともっと味のあるライブをやるだろう。しかしこれは、誰より同世代のミュージシャンに関心をもつぼくだけの印象なのかもしれない。

・6月にNHKのBSで東京でのライブが放映されるようだ。それが早くからわかっていたら、聴きに行かなかったのにと思った。コンサートはミュージシャンと聴衆の相互作用だから、そこに違和感を感じてしまっては、やっぱり、楽しい時間を共有することはできない。1枚のCDで気に入ったからといって、うかつにその気になってはいけない。これからは、気をつけてチケットを買おう。そんな教訓を持ったコンサートだった。 (1999.04.28)

1999年4月20日火曜日

M.コステロ、D.F.ウォーレス『ラップという現象』(白水社)ジョン・サベージ『イギリス「族」物語』(毎日新聞社)

 

・音楽と若者の風俗の変遷は、50年代のアメリカ以来、ずっとくり返されている現象だ。今はなんといってもラップとヒップ・ホップ。発信源はニューヨークのハーレムだが、音楽にかぎっていえば、ここ数年はグラミー賞を総なめするような勢いで、日本でも、ちょっとそんな雰囲気を感じさせる宇多田ヒカルが奇妙なほど受けている。理由は日本人離れしたリズム感とかつての演歌の女王・藤圭子の娘であることらしい。

・『ラップという現象』は1990年に出版されている。翻訳が出たのは去年(98)だから、そこには10年近いタイム・ラグがある。しかしそれだけに、まだまだマイナーな音楽だったラップがもっていた魅力や毒についての記述があって、ぼくはとてもおもしろいと思った。たとえば、次のような文章。


「たとえ僕らの外側の世界のできごとではあっても、僕らに十分感じとれる生身の人間の生きざまの真剣な表現」
「シリアスなハード・ラップを通過することで、白人市民も鬱積し破裂せんとするアメリカの都市内奥部のコミュニティが直面する、生/死の苦悶をダイレクトに知ることができる。」


・ラップは「黒人のあいだで完結した、白人にとって<他者>である音楽」として生まれ、存在し続けてきた。それは何よりアメリカが人種によって分離されてきた国だから生じた特徴で、「公民権運動」の過程で強く批判されたところだが、この本の著者たちは、ラップがパワーをもった音楽になりえたのは、黒人たちがその「円環」のなかに閉ざ」されてきたからだという。

・ラップは基本的には、早口でまくし立てることば(しゃべる歌詞)とサンプリングによって作られたリズムで成りたっている。セックス描写、金やモノに対する欲望、そして白人攻撃......。そのあまりに露骨なことばに白人たちは嫌悪感をもつが、同時に、そのリズムにはからだを反応させてしてしまう。怖さや気持ち悪さの感情を持ちながら、同時に窓の外からのぞき込みたい衝動に駆られるできごと。

・若い黒人たちにとってもラップは単に自己表現の音楽というだけではない。それは何より金や名声を得るための手段である。だから誰もが、メジャーのレコード会社と契約し、マスコミに取り上げられ、人種の垣根を越えて、自分の歌がアメリカ中や世界中でヒットすることを夢見ている。光の当たった「ポップ」の世界を否定しながら同時に、「ポップ」の舞台に登場することを目指す音楽。

・ラップにまつわる「アンビバレント」な要素はまだまだある。たとえば、きわめて単純で無骨にすら思える歌詞とデジタル技術を駆使した音づくりなど。それは何よりラップが90年代になってポップの1ジャンルとして確立していった理由の一つだが、同時にポップの歴史の中ではまた、それぞれの特徴に見られる「アンビバレント」な側面というのが、新しい現象が生まれたときには必ず見られた大きな特徴でもあった。たとえば、50年代に登場した黒人の R&Bとそれを模倣した白人のロックンロール、あるいは60年代のロック、そして70年代のパンクやレゲエ。

・もう一冊『イギリス「族」物語』は、60年代から70年代にかけてイギリスに登場した若者のサブカルチャー、たとえば、「テディ・ボーイ」「モッズ」「ロッカーズ」「スキンヘッズ」「グラム」、そして「パンク」などを取り上げている。上野俊哉が解説で書いているように「戦後のイギリスにおけるサブカルチャーのスタイル、風俗、身ぶり、儀礼的な慣習行為の細部」を丹念に追った本であることはまちがいない。しかし、読んでいて、S.フリスや D.ヘブディジが必ず問題にする「階級」という視点がないのがもの足りなかった。これでは、風俗の詳細はわかってもそれぞれの関係の社会的背景は見えてこない。

・学生とつきあっていると今のはもちろん、時折、60年代や70年代の若者のサブカルチャーに関心をもつ学生が現れる。で、その理由を聞くと、というより問いつめると、結局好みの問題として逃げられてしまうことが多い。ぼくはそんなときに、単にサウンドやファッションだけでなく、自分が生きている社会との状況の違いまで理解してほしいと思ってしまうが、そのために役に立つ本はまだまだ豊富だとはいえない。(1999.4.20)

1999年4月13日火曜日

職場が変わったことへの反応など

 

  • 4月から職場が変わったので、ずいぶんメールのやりとりがあった。一つはお叱り。これにはただただ「ごめんなさい」と謝るしかなかった。とりわけ追手門学院大学社会学科の1年生と2年生。「入門社会学」や「基礎演習」、それに「コミュニケーション論」を履修していた学生。大学を変わるのを直接話したのは3年生のゼミの学生だけだったから、4月になって気づいた人も多かったようだ。「先生のゼミに行こうと思って追手門に来たのに」などと言われると、あらためて、彼や彼女たちを裏切ってしまったのだなと、反省してしまった。
  • 同様のメールは学外からもあった。高校や予備校の先生で、このホームページやいくつかの新聞記事から生徒達に追手門の社会学科を推薦したのに、突然いなくなったのでは、文句を言われてしまう、という内容のものだった。予備校が「偏差値ではない大学選びを」と言い、別冊宝島が『学問の鉄人』という特集をした。それに合わせていくつかの新聞が研究室訪問といった連載をした。そんな場で紹介され、ぼくのHPに訪れる人の数も1週間に500人を越えるようになっていた。
  • 大学がどんなところで、どんな先生がいて、何を勉強し、経験できるのか。ぼくはそんなことを直接、受験生や高校の先生に発信することを意図してHPを作りはじめた。インターネットの高校への浸透度は、まだまだ低いものだが、ほとんどの高校生が自由に使えるようになるのにそれほどの時間はかからないはずで、その時になってあわてて対応しようとしても、間に合わない。そんな見通しがあった。反応を実感することはほとんどなかったが、職場の変更が、このHPの影響力を表面化させることになった。しかも、「予告もなしに突然いなくなったのでは困る」という言い訳のできない文面で.......。何とも複雑な気持ちに襲われた。移籍をHPで予告することはできないし、また、HPを理由もなしに終了させることもできなかった。
  • インターネットやHPがこんなにポピュラーにならなければ、たぶんこんなケースは起こらなかっただろう。それぞれに閉じられた組織や集団に所属する者が直接コミュニケーションをする。それは、立場やさまざまな垣根をいとも簡単に乗り越える。そのおもしろさや可能性に夢中になれば、当然、それゆえに生じる問題からも無関係ではいられない。
  • ただ、言い訳になるかもしれないが、その気になれば、HPやメールによって関係は持続できるわけだし、直接会うよりもっと有効なコミュニケーションができる。そんなことを実感させるメールのやりとりも出来はじめている。講義を聞いていた顔もわからない学生から「先生、梅田で〜という映画を見ました」といったメールが届くと、ぼくは何はさておき、うれしくなってすぐ返事を書いてしまう。卒論の相談だって遠慮なくしてくれたらいいなと思う。けれども、追手門にはいい先生がたくさんいるから、そのうちにぼくがいたことなど気にする学生はいなくなってしまうにちがいない。それはそれで、ほっとするような、またちょっと寂しい気になる予測だが......。もっとも、東経大の学生からもメールが来はじめていて、それはそれで楽しいから、忘れてしまうのはぼくの方が早いのかもしれないが、そんなことはしてはいけないと戒めている。
  • シニード・オコーナーのCDを欲しがったフィンランドの青年に「ぼくのを譲ってもいい」と書いたら、待ちきれなくてインターネットで探して手に入れたという返事が来た。忘れていたわけではなかったが、忙しかったし、見つからなかったから3ケ月もほったらかしにしてしまった。悪いことをしたけど、とにかく手に入れることができてよかった。
  • もうひとつペルーのリマ大学で「カラオケ」を卒論のテーマにしている学生から、日本での歴史についての文献をたずねるメールが来た。南米からははじめてで女性だったから、何とかしてあげようとも思ったが、あてがなかったのでこれは粟谷君にふることにした。
  • 1999年3月24日水曜日

    バイクで京都から東京まで

     

  • 3月18日に京都から東京までバイクで行った。4月から2泊3日の東京暮らしがはじまるので、バイクをその足代わりにするためだ。運送屋さんに頼もうか、誰かに乗っていってもらおうか迷ったが、思いきって走ってみることにした。長距離のツーリングは久しぶりだし、中央高速道路をバイクで走るのははじめてである。しかも1週間前から気にしていた天気予報はずっと「雨」、不安でいっぱいだった。
  • 前日の17日に天気予報が晴れに変わった。しかし日替わりの予報で安心できず、今日行ってしまおうかと思ったが、教職員有志が送別会を開いてくれるという。出ないわけには行かなかった。暖かくて明るい天気が何とも恨めしかった。と思いつつ、家に帰ったら午前様だった。
  • 7時前に起床すると、雲一つない天気。8時に出発。京都南インターから名神に乗ると、かなりの交通量、ほとんど数珠繋ぎで80kmほどのだらだらとした走りではじまる。バイクは車と違ってエンジンを高速で回転させる。80kmだと5000回転、90kmで5500回転、100kmで6000回転と10km速くすると500回転づつ上がる。久しぶりの高速運転だから、100kmを超えたあたりでしはじめるエンジン音に何となく不安を感じる。風圧も、段違いに強く感じる。先は長いからゆっくり行こうと思うが、トラックや軽自動車の後ろにつくと、ついつい追い越してしまいたくなる。強気と弱気、不安と快感。
  • 栗東、彦根、関ケ原と次第に交通量が少なくなって、流れが100kmに近くなる。路肩にバイクを止めて伊吹山をビデオで写す。だんだん慣れてきたところで養老SAでの最初の休憩。温かい珈琲を一杯。大垣、岐阜、一宮、そして小牧。ここで中央高速に入る。
  • ぼくは車で東京に行くときにはほとんど中央高速を利用する。交通量が少ないし、何より景色が全然違う。多治見、木曽(中津川)、恵那山トンネル(8500mほど)を10分弱で抜けると飯田の町と南アルプスが見える。車の時は120〜30kmほどでクルージングするから、制限速度80kmの中央高速では監視カメラの場所を気にしないわけにはいかないが、バイクで100kmならその心配もない。第一、バイクのナンバー・プレートは後ろだけだから、捕まらないのではないか?そんなことを考えると、ついついスピードを出したくなってしまう。6000回転のエンジン音に慣れると、次は7000回転。珈琲が効いたせいか恵那、駒ケ根と続けて止まる。ついでにガソリンの補給と昼食。500kmの行程のちょうど半分を走って11時半。ここまで3時間半である。


  • 名神高速道路京都南インターチェンジ

    北陸道分岐点から伊吹山

    駒ケ根SAから駒ケ岳を望む↑
    駒ケ岳と中央アルプス↓


  • 高遠、辰野、諏訪湖。両脇に山脈が迫るこのあたりの風景が、ぼくは大好きだ。フォーク・シンガーの三浦久さんがこのあたりの短大で教えている。小淵沢に来ると左に八ケ岳、右に甲斐駒ケ岳、そして真ん中に富士山が見える。下り坂で気がつくと速度は120km、走りはじめの不安感や慎重さは、もうすっかり忘れてしまっていた。しかし、肩が凝り、お尻が痛くなりはじめた。また路肩に止めて八ケ岳と甲斐駒ケ岳をビデオに撮る。うっすら霞がかかって甲斐駒ケ岳はよく見えないが、それもまたなかなかいい。
  • 韮崎、甲府。甲府南インターで降りて上九一色村から精進湖へ向かう。暖かくて防寒用のパンツを脱いだのだが、山登りをするうちに足下が冷えてくる。峠のトンネルを超えると、精進湖と富士山。ここのところいつ来ても天気が良くて富士山がよく見える。西湖、河口湖。富士山と河口湖を背景にバイクをビデオにおさめた。関係ないけど井上陽水の「ドレミのため息」
    ♪〜根室の空を飛んだり
    西湖で富士を見てたり
    目黒へ迷い込んだり
    馬込に電話をかけたり


  • 八ケ岳↑
    甲斐駒ケ岳方面↓

  • 再び高速に乗る。河口湖インターで時間は1時半。道はほとんど下りばかり、スピードが出るが風が強くなって、横風に吹かれることがたびたび。それに肩の凝りやお尻の痛さがいっそう気になってくる。
  • 京都を出てから一度もバイクを抜いたり抜かされたりしたことがなかったが、河口湖から八王子までは何台にも出会った。アメリカンスタイル、レーサー・レプリカ。横風もどこ吹く風ですっ飛ばしていってしまった。ぼくはゴールの見えた残りの行程を踏みしめるようにゆっくりと走る。談合坂、小仏トンネル、そして八王子、ここからは首都高速で、調布インターでゴールイン。時間は2時半、全行程6時間半のツーリングだった。
  • ところで、使ったガソリンは23リットル、燃費は22km/L。バイクとしては高燃費とは言えないが車に比べたらざっと半分。しかし、高速料金は軽自動車と一緒だから1割ほどしか安くはない。一人しか乗れないのにこの料金はどう考えても不当だ。平日に乗る人が少ないのは当たり前とはいえ、高速道路にバイクが少ないのはそのせいかもしれないと思った。


  • 愛車、河口湖、そして富士山

    1999年3月5日金曜日

    ジム・カールトン『アップル 上下』(早川書房)


    ・ぼくはもう10年を越えるマック・ユーザーで、ウィンドウズなどはいまだに使いたくないと思っている。使い慣れていることが一番だが、こだわるのは、情報操作の巨大な装置だと考えられていたコンピュータを、個人が自己表現やコミュニケーションに使う道具としてつくりかえたのが「アップル」だったことにある。その発想の中に、60年代のカウンター・カルチャーの思想が感じられたのが、ぼくが飛びついた最大の理由だったからだ。その「目から鱗」といった衝撃の体験が忘れられない。
    ・パソコンの形を作った「AppleII」から最近の「i Mac」に至るまで、アップル社にはさまざまな出来事が起こり、作られた製品にも出来不出来があった。熱心なファンの一人として、ぼくは時にユーザーであることを鼻高々に吹聴し、また胃に潰瘍ができるほどイライラさせられた。その10年間のつきあいを、ぼくはきわめて貴重なものとして感じている。実際「Macintosh」と出会わなければ、この10年は、まったく違ったものになっていただろうと思う。
    ・ジム・カールトンの『アップル』は、アップル社の創業者でマックの生みの親であるスティーブ・ジョブズが解任される前後、つまり80年代の後半から、現在に至るパソコン界の動向をアップルを軸に追ったきわめて面白いレポートである。アップル社にずいぶん厳しく、ビル・ゲイツに好意的だという不満はあるが、アップル社やパソコンのもつ意味について、ずいぶん貴重な示唆を与えてくれる本だと思った。
    ・パソコン市場を自覚させたのが「AppleII」だったとすれば、現在のような操作方法を方向づけたのは「Mac」だった。「Mac」は、さらに、コンピュータが文字入力や計算ばかりでなく、映像や音声、あるいは出版編集に有効なことを実現させた。その「Mac」がなぜ、パソコンの標準機になれなかったのか。著者によれば、それは何よりも歴代の経営陣がとった戦略の失敗にあったという。
    ・たとえば、ビル・ゲイツは「Windows」開発前後に、「MacOS」のライセンス公開をジョン・スカーリーに申し出ている。それに応じていれば、「Windows95」などは登場しなかったか、あるいは「MacOS」を大幅に取りこんだものになっていたかもしれなかった。そうなればもちろん、ハードもDos機と同様に、さまざまなメーカーが生産していただろう。あるいは、ウィンドウズ3.1が市場で受け入れられたことに危機感を持ったアップル経営陣が、インテルのCPUでも動くMacOSを独自開発したそうだ。「スターウォーズ計画」という名だったが、完成目前で中止されている。
    ・このような話が『アップル』には次々と出てくる。日本の家電メーカーとの提携、IBMとの合併話、あるいはサン・マイクロシステムズの買収やその逆のケースなどなど。そのすべてが成立直前まで行って頓挫した。その間に馬鹿にする対象でしかなかった「Windows」に追いつかれ、小型軽量の「PowerBook」は開発できず、インターネットで出遅れることになる。企業経営や市場競争のゲームという点から見れば、ジム・カールトンが描き出したように、アップル社は、最高の技術を最低の経営戦略でだめにした驚くべき会社ということになるだろう。けれども、ぼくはこの本を読みながら、それがまたアップルの宿命だったのではと思った。
    ・アップルの歴代の経営者がこだわったのは、何よりアップルやマックのアイデンティティである。ヒッピー青年だったジョブズとウォズニアクが自宅のガレージで作った道具。その手作り的で自由、つまり反管理を精神にした創造的な機械。アップルやマックの魅力の核心を保ちながら、パソコン市場を支配する。しかし、この本来相容れない目標を両立させるのは不可能である。ビル・ゲイツはMsDosの開発からウィンドウズやインターネット・エクスプローラーに至るまで、すべてを買収やパクリで手に入れ、経営戦略と法廷闘争の巧みさで業界標準に仕立て上げた。それはまさに、思想の違いというほかはないものだが、その両立という使命に、アップル社の歴代経営者は呪縛され続けてきた。
    ・そのアップルの生みの親であるスティーブ・ジョブズが戻ってきて「i Mac」を作り、落ち続けたシェアが回復しはじめた。彼の戦略は、全機種を青や赤のスケルトンにしたかわいらしいマックで巻き返しをはかるというもののようだ。かわいらしくて使うのに恥ずかしさを感じるぼくとしては「ちょっと待ってくれよ」という気がするが、おもしろくなったことはまちがいない。ぼくは、ジョブズが作ったんだから彼が最後につぶしたっていいではないかと思う。けれども、できれば、マイノリティではあっても、独創的な道具を生みだす企業としてずっと元気でいてほしいと願っている。たぶんそのことはビル・ゲイツだって望んでいるはずだ。独禁法もあるが、彼には漁夫の利を得るセカンド・ランナーという役割しかできないのだから。

    1999年3月2日火曜日

    石田佐恵子『有名性という文化装置』勁草書房

     

    ・テレビの時代が英雄を有名人にかえ、旅を観光に変容させることをいちはやく指摘したのはD・J・ブーアスティンだった。彼は、それを「疑似イベント化」とよび、人物や場所、あるいは出来事はもちろん、思想や宗教など、ありとあらゆるものにおよぶ現象として批判的に論じた。そのブーアスティンの指摘から40年近くがすぎて、「疑似イベント化」の様相は、それがあたかも「自然」であるかのようになってしまっている。本書はその変容を「有名性」をキイワードにして読みとこうとする意欲作である。
    ・「有名」であることは、必ずしもそれを裏づける根拠を必要としない。ブーアスティンはそれを「有名人は有名であるから有名なのだ」というトートロジーでしか定義できないものとした。テレビはまさにそのような実態をもたない「有名性」を生産するあたらしい「文化装置」として登場したのだが、そのブーアスティンの時代からいったいなにがどのようにかわったのだろうか。
    ・テレビはますます肥大化し、人びとの日常生活の必需品となった。本屋の店頭にならぶ雑誌の種類の多さはもちろん、情報入手やコミュニケーションにつかうメディアも多様化して、携帯電話をもちパソコンでインターネットをすることがあたりまえになった。都市の変容、地縁・血縁関係の希薄化や崩壊、さらには直接的なコミュニケーションが苦手で、すぐに「むかつき」「きれる」世代の登場………。かつての人間関係のもち方の衰退や機能不全と、それにかわるあたらしいネットワークの興隆。そして「アイデンティティ」の変容。メディアの問題がひろく社会や文化、そして個人といったテーマと連動させて論じなければならないテーマになったことはまちがいない。
    ・そのような状況変化をどうとらえたらいいのか。著者は「メディアによる共同体」ということばをつかい、そこで人びとをたばねる役割をするものとして〈有名性〉を位置づけている。私たちは日々の大きなニュースや生活情報はもちろん、流行やゴシップ、さらには雑学的な知識の大半を、テレビや雑誌や新聞からえているが、その価値を、情報や知識それ自体よりは「みんな」と今を共有しているという実感にもとめがちある。それはまるで、直接的に経験できる世界での共同体感覚にたよれない代償に、「メディアの共同体」を存在基盤として感じているかのようである。テレビのワイドショーは直接つきあう人びととの間で確実に共有できる話題である以上に、近隣のうわさ話そのものなのである。
    ・本書では、このような視点から、「ワイドショー」のほかに、情報誌と都市空間の関係が「〈有名性〉にあふれる場所」としてあつかわれているし、青年(若者)の外見へのこだわりが、身体の記号化とメディア体験の共有の関係として分析されている。そして、後者についてはさらに、それが、「アイデンティティ」の問題ともふかくかかわりあっていることが指摘されている。「〈有名性〉をめぐる欲望がメディア崇拝に転化している時代において、特定の個人や集団のアイデンティティが語られるとき、それを語るのが当事者であろうとなかろうと、その社会の中に既に大量に蓄積されている〈有名性〉とかかわることなくそれを行うのは、きわめて困難なことになっている。」ぼくもまったくそのとおりだとおもう。
    ・本書は、その後半で、著者が依拠する「カルチュラル・スタディーズ(CS)」についても論じている。内容はCSの紹介と日本の大衆文化研究との比較といったものだ。CSはアカデミズムの中での最近のはやりであり、著者は、その流れを代表する一人である。したがって〈有名性〉についての分析がCSを土台にしたものであることはいうまでもないのだが、CSの理論紹介が中心であるぶんだけ、前半との間にずれを感じさせてしまっている気がした。
    ・そのような不満は当然、〈有名性〉にもっとこだわった章が後半でも展開されていたらといった注文につながる。「アイデンティティ論」はほんの序の口のようであるし、情報誌論も表層的な印象を受けた。あるいは、すべてが〈有名性〉によって認識され評価される時代の到来を受けいれたとしても、やはり、そのような傾向に批判的な目を向けることが必要だが、そのような視点の希薄さも気になった。「文化装置」の商魂たくましさや、それにとらわれることへの批判、あるいはメディアにたよりながら、〈有名性〉にとらわれない生き方やアイデンティティの模索………。
    ・〈有名性〉を共通の知識にすれば、多様性や広がりを可能にするどんなメディアも、同質性にしがみつく自閉的な回路になってしまう。たとえば、世界中に無数に存在するホームページは新しい情報誌だし、衛星放送やケーブルテレビの普及によって多チャンネル化してきたテレビは、その見方によってまったくことなるメディアになる可能性をもっている。ぼくはその取捨選択に、〈有名性〉によって一元化されるものとはちがう「アイデンティティ」や「メディアの共同体」を夢想したくなるのだが、ここでも〈有名性〉は異質なものとのコミュニケーションを妨げる壁になりはじめている。ぼくはそのことにかなりいらついているのだが、著者はいったいどう考えているのだろうか。(図書新聞書評)

    1999年2月25日木曜日

    崔健『紅旗下的蛋』

     

    tsui1.jpeg・昨年の秋頃から崔健のCDを探しているのだが、全然見つからない。で、アメリカ村の中古のCD屋さんまで出かけた。ここはワールド・ミュージックが国ごとに並んでいて、特色のある品揃えをしている。そこで、やっと一枚見つけた。『紅旗下的蛋』で英語の題名は"Balls under the Red Flag"。すでに4年ほど前に出た彼の三枚目のアルバムで映画『北京バスターズ』の中で歌っていた曲も入っている。
    ・歌詞は当然中国語だが、たとえば、アルバム・タイトルの「紅旗下的蛋」は次のような内容である。


    突然の開放だ/実は突然でもないが
    さあチャンスの到来だ/だが何をしたらいい
    赤旗はまだひるがえり/くるくる向きを変えている
    革命はまだ続いていて/老人たちは力を増している

    現実は石みたいに硬い/精神はタマゴみたいにもろい
    石は硬いけれども/タマゴには命があるのだ
    お袋はまだ生きている/親父は旗ふりをやっている
    俺たちは何なのだと聞くなら/赤旗の下のタマゴだと
    橋爪他訳


    tsui2.jpeg・崔健は中国の開放政策が生んだ反逆児だ。共産党による一党独裁体制を崩さずにいかにして資本主義化するか。中国の開放政策はきわめて矛盾に満ちたものだが、彼を生みだし、大きくしたのはまさにその矛盾に他ならない。橋爪大三郎がまとめた『崔健』は、インタビューを中心にした内容だが、崔健はそこで次のようなことを言っている。

    人びとははっきりした生活の目的がない。はっきりした価値観もない。しかも、みんなこうした話題を恐れている。こうしたテーマから逃避しているんだ。
    芸術を自由にしてやれば、若い人びとが何を考えているかをわかることもできる。若い人びとはいままで、自分を見る窓がなかったんだから。そのせいで彼らは、ますます盲目になり、ますます愚かになり、ますます未来がなんだわからなくなる。

    ・崔健はロックを自分の存在証明のためにやる。だから、どんなに不自由でも、外国から誘いがあっても中国にとどまり続けるという。「アイデンティティの音楽としてのロック」。ぼくはこれこそ、その源流からはじまって、どんなにサウンドや人や場所が変わっても伏流水のようにして流れ続けるロックの精神だと思う。
    ・つい最近、彼の新しいアルバムが出たようだ。香港やシンガポール経由で日本にやってくるのだが、熱心なファンが日本語訳をつけてアルバムに同梱したのだそうだ。もちろん注文したのだが、残念ながら、入荷したという連絡はまだ来ていない。