2000年4月12日水曜日

春を見つけた




3月初めに京都から河口湖に引っ越した。湖は結氷していたし、雪も2度ほど積もったが、日に日に暖かくなるのが感じられた。それにしても冬の景色はすばらしい。なかでも富士山の姿が毎日違うのには驚いてしまった。下・左は開通したスバル・ラインの入口付近からで、抜けるような青空に真っ白い富士。右は御坂山系の大石峠から新道峠を縦走したときに撮った。こちらは曇り空で墨絵のようだった。6時間半もかかる行程で、最後は這うようにして家に帰り着いた。


庭に野鳥がやってくる。林檎やミカンを置いておくとついばみにくる。下の写真はヒヨドリ。しかし、鳴き声も姿もかわいいのはヤマガラやアカゲラ、コゲラ。アカマツやカラマツのてっぺんでコツコツとつつく音。シジュウカラは「ピース、ピース」と鳴いて集団でやってくる。木々に若葉がつきはじめた。「もうすぐ春ですね」とキャンディーズを歌いたくなった。

僕が入る墓は身延山にある。日蓮宗総本山の久遠寺。信心はほとんどないが、桜の咲く頃には、毎年両親と一緒に墓参りに行っている。今年もちょうど満開。久遠寺は境内のしだれ桜が有名で、観光バスに乗った人たちでごった返している。しかし墓の付近の桜並木に訪れる人はまばらで、隠れた花見のポイントになっている。



墓は墓地のはずれにぽつんとあって、近くにしだれ桜が一本。富士山は見えないが小高いところで眺めはいい。死んだらこの風景を見るのかと思いながら、毎年春に来ている。桜を独り占めだ。

3月初めに京都から河口湖に引っ越した。湖は結氷していたし、雪も2度ほど積もったが、日に日に暖かくなるのが感じられた。それにしても冬の景色はすばらしい。なかでも富士山の姿が毎日違うのには驚いてしまった。下・左は開通したスバル・ラインの入口付近からで、抜けるような青空に真っ白い富士。右は御坂山系の大石峠から新道峠を縦走したときに撮った。こちらは曇り空で墨絵のようだった。6時間半もかかる行程で、最後は這うようにして家に帰り着いた。

2000年4月5日水曜日

話すことと書くことの関係

  • 話すことと書くことには大きなちがいがある。ことば自体はもちろん、つかわれる場や関係など。しかし、それをはっきりさせる垣根がくずされているのが、最近の傾向のようにも思う。
  • たとえば、電子メールでつかわれることば。一概にいえるわけではないが、文字をつかった話しことばという印象をうける場合が少なくない。これが、ホームページの掲示板やチャットとなると一層はっきりしてくる。その逆、つまり書くように話すという特徴が敬遠されがちであることとあわせて考えると、この流れがおよぼす影響とその意味は、かなり大きなものになるにちがいない。

     話すことと書くこと
  • そもそも、話すことと書くことのちがいとは何か。たとえば、電車の中で急にひとりごとを呟く人に出会ったりすれば、私たちは、それを異様に感じて、意識的に無視したり遠ざけたりする。もちろん、携帯電話の普及で、隣の席に座った人が突然しゃべりだす、といった場面に出くわすことは珍しくない。けれども、それを異常だと思わないのは、私たちが電話の向こうに相手がいることを想像できるからである。あるいは逆に無言電話を考えてみてもいい。いるはずの相手がいないことで感じる気味の悪さ。話すとは会話をすることだとすると、話されることばには必ず確かな相手が必要なのである。
  • それでは、書くことはどうか。日常的におこなわれる書く行為の代表は手紙だが、ここにも読む相手が存在する。ただし、その関係には時間差があって、書き手にとっても読み手にとっても、相手の存在はみずから思い描くことによって登場させなければならない。手紙は、本来ならばそこにいるはずなのに事情があって遠く離れている人に向けて送られる。だからこそ「ごぶさた」とか「ひさしぶり」といったことばが必要になる。手紙の魅力が、この相手との物理的な距離の遠さやそのために生じる時間差と、それを縮めようとする気持ちから生まれることはいうまでもない。
  • もう一つの日記は、読み手を想定しない表現手段である。有名な小説家の書簡集が死後に出されたりする場合を別にすれば、日記は普通、誰にも読まれない。その秘密性が他人には覗いてほしくない自己の内面を吐露させる。現実の世界で思うように生きられる人は少ないから、日記の世界は得てして、叶わぬ夢と自己嫌悪や憐憫、あるいは虚構の世界での夢の実現といった性格を帯びやすくなる。日記を書く行為は基本的には独白のつぶやきなのである。

     書くことの日常化
  • 書く行為の代表を手紙と日記と考えると、それはいったいいつから日常化したのだろうか。例えば、手紙の特徴である「本来なら近くにるはずの人が遠くにいる」という状況を考えると、長い人間の歴史の中ではつい最近始まったことがわかる。生まれ育った場所を離れて暮らす。そのような人生は、もっとも早いイギリスでも、19世紀に盛んになり始めた。19世紀のはじめには8割以上の人が農村に暮らしていたイギリス社会は、20世紀の初頭には8割が都市生活をするほどに激変する。あるいは、ヨーロッパ各地からアメリカに移民する人たちが続くのもこの時代である。手紙がこのような社会状況の変化から必要になったコミュニケーションの道具であることはいうまでもない。
  • 手紙と同様に日記の日常化も、自分が生まれ育った土地や親や家の仕事を継ぐことに縛られなくなったことと関係する。ひとつの生活世界を共有する人たちは、いつでも同じ空間にいて、互いの存在を意識して暮らしてきた。けれども、一人一人の生き方に選択の余地が生まれはじめると、誰もがたった一人の世界をもつようになる。意識の中に他人とは共有できない部分が自覚されるし、その部分を広げたいと思うようになる。読み書き能力(リテラシー)を学習した人は、本や新聞で外の世界についての知識を得、自分一人での思考を日記によって鍛える。「近代的自我」の発見、あるいは青年期の成立にとって不可欠な要素としてよく指摘されてきたところである。
  • 書くことや読むことは話すことにも影響した。自分独自の考えをもてば、当然、他人との違いを自覚せざるをえなくなる。地縁や血縁の絆を離れて都市に住むようになった人びとは、基本的には異質な人間との関係の中に自分の場所を見つけなければならなかったから、たえずことばを交わして意志の疎通をしなければならなくなった。自己主張をし、他人と議論を闘わせる必要も生まれた。そのような新しい社交の場として生まれたのがカフェやパブである。

     記憶と記録
  • もちろん、文字は近代化以前から存在した。けれども、それをつかいこなせる人は一握りの特権階級にかぎられていた。たとえば近代以前のヨーロッパでは、書きことばはラテン語で、つかわれるのも政治や宗教の場が主だった。文字はいったん記録されれば改変は難しい。というよりは、犯しがたいものという性格をもった。それは何より権力者が発信するおふれ、あるいは公式の記録、そして約束や契約の証拠だった。
  • 聖書を例にあげてみよう。それはキリストの言動の記録であり、世界創造の物語である。中世の社会では聖書は教会や牧師の手に握られ、一般の信者達は教会で牧師の説教として、その中身を聞かされた。聖書の世界は教会という場でのみ知ることができるものであり、信者達は牧師のことばを信じて、自分の頭に記憶する他はなかった。だから、印刷術が普及したときに、教会の腐敗に対する批判が、記録されたことばに直接触れることで展開されたのは、書かれたことばと話されたことばのちがいを考えるうえで重要なポイントである。
  • もっとも、聖書を別にすれば、およそ物語といわれるものは、人の口から口に語り継がれ、記憶として保持されてきた。だから、伝えられる過程で話が変容することはもちろん、目の前にいる聞き手の反応次第で、物語は随時つくりかえられることにもなった。あるいは語り部の口調によっても、その印象はずいぶん異なるものになる。世界中に散在する説話や民話が、それぞれ地方によって多様な変種をもつのはそのためである。
  • 記憶されたことばの再現はイメージとしてその場に広がる。語り手と聞き手の間に共有される現実としての物語。一方、記録されたことばの再現は、意味として伝わる。書かれたものは過去の物語か、確定した客観的な知識。本が挿し絵や装飾文字で工夫された初期の時代から、やがて画一的な文字ばかりの世界になるプロセスは、書かれたことばがイメージを排除して正確な意味のやりとりだけを重視していく傾向を如実に表している。子どもの読み物としての絵本。それはまさに、近代化の要請そのものである。

     マスメディアとことば
  • 智恵は話しことばとして記憶され、知識は書きことばとして記録される。ローカルで主観的な智恵とユニバーサルで客観的な知識。近代化という社会変化が智恵の捨象と知識の蓄積によって達成可能になったことはいうまでもない。文学、芸術、哲学、そして自然科学に社会科学。知識はまたそれぞれに、ジャンルごとに整理された。その際、音楽は絵画や彫刻に比べて遅れて芸術として認知されたのだが、それは楽譜という音楽独自のリテラシーと記録方法の発明を待ったからだった。
  • 19世紀から20世紀の変わり目にかけて、写真や映画、あるいは電話やラジオやレコードが登場する。それは、イメージや声の文化の復活を実現したが、当然のごとく一段低いものとしてみなされた。だから教養や知識を身につけようと思えば、やっぱり書かれたものに一番の信頼がおかれつづけた。
  • とはいえ、新聞が数百万部の発行部数を出すほどに巨大化し、さまざまな雑誌が登場するのも、20世紀はじめに起こった現象である。客観的な情報や普遍的な知識よりは感情に訴え、絶えず目新しいもので刺激してくれるニュース。新しいメディアの登場と、それを受けとめる大衆の出現は、書きことばが客観性や普遍性にもとづく表現に限定された手段ではないことを明らかにした。
  • だからこそ、このような現象は、知識に価値をおく教養主義からは強い批判をされることになる。確固とした自己の確立と、それにもとづく理性的で合理的な判断。あるいは、崇高な芸術や文学を理解する能力。それは、マスメディアが作り出す粗製濫造の文化からは学べない。というよりは、妨げになるものとしてあつかわれつづけた。
  • 20世紀の中頃にはテレビが登場する。文化の一層の低俗化という批判にもかかわらず、テレビは人々の目を釘づけにした。コマーシャリズムの浸透と、豊かな消費社会の出現。さまざまな音響機器の出現とあわせて、文化は若者主導になり、ことばの主流も書かれたものから話されたもの、あるいは意味からイメージに方向転換することになる。

     ことばの現在と未来
  • ことばをめぐるここ2世紀ほどの社会や人間の変遷を、おおざっぱにたどってきた。ここからもう一度、現在のことばの状況にたちかえって考えてみよう。
  • たとえば僕は本に囲まれた空間にいる。映像や音のメディアも十分につかってはいるが、知識を支えるのは基本的には書かれたものだと思っている。ほとんど手にしない本を手近に並べているのは、本が自分を培ってきた知の記録だからである。だから、その本がなくなったら、僕は自分自身が消失したような気持ちになってしまう。
  • ところが、学生と話をしていて気づかされるのは、彼や彼女たちが、自分の空間に本を置かないことである。「じゃまくさい」「インテリア」にならない。本は読んだら捨てればいいし、図書館で借りてくればいい。あるいは、知りたいことや調べたいことがあれば、インターネットで検索する方がずっと簡単で便利だ。そんな理由だった。書くことや読むことを通して、あるいはそれを蓄積することで自分をつくりあげていく、という発想が薄れている。そんな感想をもった。
  • それでは彼や彼女たちは、どうやって自己確認をしているのか。携帯電話での声のやりとり、メール、ホームページとその掲示板、あるいはチャット。圧倒的に話しことばに偏っているし、書かれたものでも、その文体は会話そのものである。個人が出すホームページには日記がつきものだが、それは読み手を意識したもので、メールにもほとんど時差がない。独白のひとり歩き、あるいは文字によるリアルタイムの会話。
  • そんな傾向を見ていると、彼や彼女たちが求めているのは自己の確立でも、知識の獲得でも、異質な者とのコミュニケーションでもなくて、気心の通じる仲間探しと、その関係の絶えざる確認なのだということがわかってくる。ある社会学者がそんな特徴をさして「みんなぼっちの世界」と名づけた。ぴったりといいあてたうまい表現だと思う。
  • 若い世代の人たちにとって、自己と他者との間にある壁は、一方ではまるで透明なガラスのようで、端末同士でつながった関係には物理的にも社会的にも距離はない。他方で、物理的・社会的に近接する人間や環境との関係は希薄になるし、傷つくことを恐れる自我の存在は限りなくデリケートだ。
  • このような傾向が一時的なものなのか、あるいは大きな変化の兆しなのか、今ははっきりしたことは言えない。けれども、ことばの変化に注目して考え、想像すれば、それは大きな変化への予兆なのではと思ってみたくなる点が多い。
  • たとえば、読み書き能力の普及が近代社会の成立に果たした役割は大きかったが、それを可能にしたのは印刷技術と学校教育だった。「話す=聞くコミュニケーション」から「書く=読むコミュニケーション」への移行。それは16世紀に始まり、19世紀に本格化して、20世紀になって大衆化した。そこで近代社会が否定したのは、物理的に近接する人たちで完結した地縁・血縁の世界。重要な役割を果たしたのは他人の束縛に囚われない個人だった。
  • 話しことばと書きことばの混在という最近の現象は、映像や音声のメディアが登場した20世紀初頭からのものだが、顕著になるのは21世紀への変わり目に普及したインターネットや携帯電話である。これを印刷技術の次にやってきたコミュニケーション革命の流れと関連させて考えれば、若い世代に特有のコミュニケーションの仕方や対人関係の取り方には、この先の人間や人間関係や社会の有り様を暗示させるものがあるのかもしれない。
  • 「みんな」(伝統社会)でも「ひとり」(近代社会)でもない「みんなぼっち」の世界。それは直接接触とも間接接触とも違う、直接が間接で間接が直接であるような体験と、それを実現するメディアによってもたらされる。近代社会の基本である国家という枠組みの揺らぎが「ボーダーレス化」ということばで問われている。しかしこのようにとらえると、それは、国という大枠だけでなく、人間関係や個人の意識にも見られる現象であることがわかってくる。ここに可能性を見るか、危険性を感じるか。それは即断の出来ない難しい問題である。

    *この文章はNTTコムウェアが出す雑誌『てら』に依頼されて書いたものです。
  • 2000年3月29日水曜日

    鈴木裕之『ストリートの歌』世界思想社

  • 何年か前にテレビ朝日の番組「車窓」で南アフリカの鉄道をやっていてギターを弾く黒人の少年をうつしていた。聞き覚えのある音だなと思っていると、"the answer, my friend is blowin' in a wind"というフレーズが聞こえてきた。ボブ・ディランの『風に吹かれて』である。僕は思わず、「へえー」と声を出してしまった。アパルトヘイトの国にもディランがいた。意外な、と同時にやっぱりという不思議な感覚だった。
  • アフリカの音楽というと太鼓の響きを連想する。僕の認識には一面ではそんなイメージがまだまだある。もちろん他方で、ボブ・マーリーがコンサートをやったとか、反アパルトヘイトのロック・イベントがあったことも知っているのだが、それらがつながっていなかった。僕にとってはそれだけ、遠い世界だったのかもしれない。しかし、ロック音楽に関心があるといいながら、いわばその源流の地に対して、まったく無関心のままでいるのは鈍感という他はない。
  • そんな認識をあらためさせてくれたきっかけになったのは、マビヌオリ・カヨデ・イドウの『フェラ・クティ』(晶文社)である。アフリカにもジャズやロックに夢中になり、自らの状況を歌い、音楽的なオリジナリティを模索する人たちがいる。もちろんそこには国や資本家の弾圧があり、音楽はいわば抵抗の象徴として作り出される。最近の現象ではなく、70年代以降からつづいているナイジェリアの話だった。
  • その本の訳者がもう一つのアフリカの音楽シーンを教えてくれている。鈴木裕之の『ストリートの音楽』(世界思想社)。今度は西アフリカにあるコートジボアール共和国。そのアビジャンという都市には200万人の人が住んでいて、若者たちがストリート音楽を作りだしている。この本はそのフィールドワークである。僕はさっそく、地図で場所を確認してから読みはじめた。
  • コートジボアールは19世紀の半ばにフランス人によって植民地化された。珈琲、カカオ、アブラ椰子、ゴムの木の栽培と、もちろん、コートジボアールという名前が表すように象牙。それらの産物を運び出す港として作られたのがアビジャンである。街は当然、それまで住んでいた人たちを追い払って作られたが、さまざまな労働力として多くの人間を集めもした。白人が住む地区の周辺に、それとは対照的にスラムのような新しい街が生まれていく。アビジャンはそんなふうにして膨らんでいった大都会である。
  • アビジャンにはストリートで暮らす若者たちがたくさんいる。彼らは白人目当てに靴磨きをしたり新聞を売ったり、あるいは車の駐車スペースを確保してお金をかせいでいる。もちろん中には、スリや泥棒を仕事にする者もいる。そして、そんなところから歌が生まれる。
    俺は苦しみ、疲れてしまった、ここ、アビジャンで
    俺は殴られ、苦しんできた、ここ、アビジャンで
    アビジャンのゲットー、トレッシヴィルで
  • これはアビジャンのレゲー・シンガーであるイスマエル・イザックの『トレイシー・ゲットー』という歌だ。コートジボアールが独立した後もなお、貧しい生活を強いられる人たちの気持ちを代弁するミュージシャンとして人気をもっているそうだ。この本にはそのほかにも、同じように自分たちの日常を歌うラップ音楽なども紹介されている。たとえばロッシュ・ビーの『自動車見張り番のボス』 
  • 俺はアスファルトのボス
    アビジャン、プラトー地区、大蔵省の前で
    ナマ(自動車)を見張ってるんだ
    俺の縄張りに入った自動車に手をだすな
    俺の見張る自動車をだれも傷つけたりはしなかったぜ
  • ストリートには独特のことばがある。民衆化したムサ・フランス語や商業活動で使用されるジュラ語、それにストリートの公用語になっているスラングのヌゥシ。ヌゥシの話を読んでいると、その発生の仕方やつかわれ方がカリブ海のクレオール語と同じであることに気づく。多様な人間が集まって関係をもちあうために必要となることば。
  • ストリートから聞こえてくる音楽はレゲエとラップ。レゲエは植民地から生まれたロックだし、ラップはアメリカのゲットーからあがった声だった。その二つがアフリカの若者の心に共鳴する。この本を読むとそれがきわめて自然な反応だったことがわかる。
  • 読んでいるうちにどうしても聴きたくなって、探したがなかなか見つからない。仕方なしに2枚のCDを買ってきたが、確かにそれはレゲエが主流で、しかもなかなかいい。ひとつは"Rhythms of Africa"で、もうひとつは"So Why"。前者はアフリカの有名なミュージシャンを集めたもので、後者は「アフリカ人による、アフリカ各地の紛争に対するメッセージ・アルバム」である。
  • 今年のグラミーを独占したサンタナも一緒に買ったが、これは比較にならないほどおもしろくない。こんなものしか出てこない最近の音楽状況だと、僕はますます、アジアやアフリカや中南米に引き寄せられていく気がしている。
  • 2000年3月22日水曜日

    The Thin Red Line

  • 引っ越しがあって映画どころではなかった。山間部だからテレビの映りも悪い。BSアンテナを屋根の上に設置してもらってやっと衛星放送だけはきれいに見えるようになったが、昼間は片づけやストーブの薪づくりに時間を使ってしまうから、もう夜になると眠くなってしまう。しかし夜仕事をしなければ、頼まれている原稿も出来ないから、テレビもそこそこにパソコンに向かう。というわけで、本当に半月ぶりぐらいで落ち着いてWowowで映画を見た。
  • 『シン・レッド・ライン』は太平洋戦争を題材にしたジェームズ・ジョーンズの『地上より永遠に』を原作にしている。ガダルカナル島の高地に拠点を構える日本軍を殲滅する作戦。というと戦闘シーンを売り物にした映画のようだが、実際にはまるで違う。主題は、戦場で生死の淵をさまよう人間達の心模様である。監督はテレンス・マリック。映画関係者にカルト的な人気があるというが、僕はあまりよく知らなかった。
  • 映画は天国の島のようなガダルカナル島の風景と島民達の暮らしから始まる。そこに駐屯するアメリカ兵は、その平和な世界に心を洗われるように感じる。その光景と、いざ戦闘が始まってからの世界とのコントラスト。まさに天国と地獄。テレンス・マリックは映像表現に特徴があるようだが、そのようなことは見ていてすぐわかる。
  • たとえば、壮絶な戦闘シーンの中に、ワニやトカゲやオウムを映したシーンが挟み込まれる。人間達がくりひろげる狂気とは無関係にすぎる生き物の世界。鳥の雛が卵からかえって動き始める。撃ち合いがあってばたばたと兵隊が倒れた後に生まれる一瞬の静寂。すると雲に覆われていた戦場に日が射し込んで枯れ草が黄金に輝く。戦闘シーン自体に派手さは全くないが、このコントラストが戦争の無意味さを際だたせる。背景に流れる音楽は全編鎮魂歌のように静かで暗い。
  • 兵隊達はふつうの精神状態ではない。不安感や恐怖感に震えが止まらない者、胃を痙攣させる者、手柄のチャンスに行け行けとがむしゃらになる大隊長と、無益に部下を死なせたくない中隊長。妻との別れのシーンを時折夢想する兵士。彼には、別の男と恋に落ちたから離婚してほしいという妻の手紙が届く。ひとりの寂しさに耐えかねたから。それではジャングルで闘っている男はどこに救いを求めたらいいのか。
  • やっとの事で日本軍のトーチカを撃破すると、大隊長は前線基地までつづけて攻撃せよという。水はないし、兵隊の疲労は限界にきている。抵抗する中隊長と勲章を申請するからと説得する大隊長。瀕死の重傷を負った日本兵に「おまえはもうすぐ死ぬ」と語りかけるアメリカ兵。すると日本兵は「貴様もいつかは死ぬんだ」とくりかえす。アメリカ兵の頭に、そのことばがとりついて離れなくなる。
  • 戦争映画は、当然ながら、描かれているサイドにたって見る。しかし、相手が日本軍となると妙な気持ちになる。僕はそんな奇妙な感覚をノーマン・メイラーの『裸者と死者』を読んだときにはじめて体験した。この映画でも当然、同じような気持ちを感じたが、登場してくる日本兵がアメリカ兵と同じような心理状態であることで、敵味方の区別をして見る度合いが少なかった。互いに心をもつもの同士が殺し合う。そう描くことで一層、戦争のばからしさが際だってくる。
  • 『シン・レッド・ライン』はアカデミー賞の有力候補にあげられたが、結果はひとつもとれなかった。これだけアメリカ映画らしくなければ、それはそうだろうと思った。シーンが感じさせるのは何より、殺し合いの場に登場する人の正直な心と姿。これはアメリカ映画に一番欠けている特徴なのである。
  • テレンス・マリックは映画を3本しか作っていない。しかも前作は20年以上も前である。『天国の日々』。リチャード・ギアが初々しい。貧しい男女が金持ちの青年に近づく。青年は女に恋し、結婚を申し込む。一緒の男は兄だと偽って同居する。しかし、青年は疑いを持ち続ける。嫉妬に駆られた青年は、イナゴの大群から小麦畑を守る最中に逆上して、畑に火をつける。青年は銃をもって男を殺そうとするが、逆にピックで胸を刺されてしまう。ひととき豊かで楽しい生活を送った男女の逃避行。で、追っ手に見つかり男は射殺される。この映画も映像がきれいで、これはアカデミーの撮影賞を取っている。
  • それにしてもテレンス・マリックは20年間もなぜ映画を作らなかったのだろうか。2本続けてみても、20年という空白はまったく感じない。彼は次に映画をいったいいつ撮るのか。僕はこの監督に強い興味を覚えた。
  • 2000年3月15日水曜日

    第3ステージのスタート

    引っ越しをして1週間がすぎた。やっと段ボール状態を抜けだして、座って落ち着ける時間と空間がもてるようになった。それにしても腰痛が治らないままの引っ越しはしんどかった。で、いまだに腰は治っていない。それでも、薪割りはやりたいし、倒木を見つければ、多少無理しても木を担いだり引っ張ったりしてしまう。腰痛の原因は運動不足と年齢からくる腹筋や背筋の衰えだから、それは鍛錬にはなる。しかし、気をつけているつもりでも、ついつい無理をしてしまう。昔のようには意のままにならない体にじれったさを感じるが、やっぱり、歳相応の行動の仕方を見つけなければならない。
  • 僕にとって今回の引っ越しは、大きな方向転換になるものだ。まず、これは1年前からだが職場が変わった。大阪から東京。気の合う同僚と別れて新しい人たちとのつきあいをはじめた。教職員とも学生とも、つきあいの仕方で違うところがあったが、それにも慣れてきた。それほど違和感なく受け入れることができたのは、僕がもともと関東の出身だったからだと思う。しかし、関西を離れて思うのは、日常の関係の中にボケ役がいないこと、あるいはボケの演技をする人が少ないことだ。だからどうしてもやりとりがシリアスなものになってしまう。僕ももともと冗談を言ったりするタイプではないから、ボケのありがたみをしみじみ感じてしまう。日本人は一面で極めて同質的だが、地域、つまり関東と関西の違いも大きなものだと思った。
  • 転機の2つめは子ども達と離れて夫婦2人の生活に戻ったことである。生まれてから親と一緒に生活していた期間を第1ステージだとすると、結婚して子供が産まれ、その子ども達が巣立っていくまでは第2ステージ。別れてみると、その20数年があっという間だった気がするし、実際、人生の中のほんの一時期なんだということをあらためて思ってしまう。
  • 僕の家では子ども達を甘やかさないようにしてきた。かなり小さい頃から食後の片づけをさしてきたし、時には食事の支度もしてもらった。「よその家では〜}「誰々君のお母さんは〜」と言って、子ども達は何かと不平を漏らしたが、いずれは何でも自分でできるようにならなければと、方針を貫いてきた。もちろんその分、やりたいことがあれば、何でも自由にやったらよろしいし、家を出ていってもかまわない、といったことも小さい頃から話してきた。そのせいか、アパートを借りると、子ども達は、まるで新しい自分たちの部屋に移るような様子で、親よりも一歩早く引っ越しを済ませてしまった。
  • なかなかいい、と思った反面、親父としてはもの足りない気持ちも残った。親子の別れなんだから、もうちょっと「じ〜ん」とくる場面があってもいいのに、と。子どもにとっての親離れと、親にとっての子離れ。難しいのはやっぱり後者の方なんだなとつくづく感じた。とは言え、経済的な援助はまだまだ続いている。だから、親離れして好き勝手にやろうなんて思ったってそうはいかない。金を出せば口も出る。これは当たり前の話なのである。
  • 子どもが巣立った家(ホーム)には父親と母親という役割を終えた2人が残って、2人だけの生活が新しく始まる。僕らはその思い出の家を後にして新しい家(ハウス)に住み始めた。「まあ、ラブラブの新婚ね!」などと冷やかす人もいるが、それほど、いいことばかりではない。これをきっかけに離婚などという話をよく耳にするし、生き甲斐の喪失に悩む人も多いようだ。寿命が延びて、人生はまだまだ3分の1以上も残っている。これから先をどう生きるか。それは、はっきりしたものがまだ示されていない状況で、一人一人が模索しなければならないのが現実なのである。
  • 僕らは、その模索を楽しもうと思っている。そのための職場変更であり、田舎暮らしの選択なのだ。一からはじめたばかりで、わからないことばかりだが、この気分がまたなかなか新鮮で楽しい。『ライフスタイルの社会学』(世界思想社)を出したのはもう20年近く前だが、そのうちに続編でも書ければ、と思っている。もちろんそれは若者論ではなく、中高年の文化論や生活論になる。老人学はちょっと前から話題になってきているが、中年学はまだほとんど手がつけられていない分野である。ぼくはこのことに、ごく最近気がついた。
  • 2000年3月8日水曜日

    Stereophonics"Word gets around" "Performance and cocktail"


    stereophonics1.jpeg・今年のグラミー賞の主役はサンタナだった。クラプトンにディランとここ数年は大御所ばかりが目立っている。僕にとってはなじみがある人たちで悪いことではないが、逆に言えば、新人や若手に元気がないのである。というよりは新しい波が全然やってこない。実際、僕はRadio Head以来、新しいミュージシャンに興味を感じていない。ロックは20世紀の音楽で終わるのかもしれない。そんな気持ちになってしまう。ところが久しぶりに「あー、いいな」と思うバンドに出会った。Stereophonics。最初に2枚目の"Performance and cocktail"を買ったが、気に入って、すぐにデビュー・アルバムの"Word gets around"も手に入れた。で、毎日必ず一回は聴いている。
    ・きっかけはゼミの学生の報告だった。イギリスのウェールズの音楽について、その社会背景を中心に論文を書きたい。そんな内容の中で紹介されたのが、このバンドだった。イギリスのロックと言えば、リバプールやロンドンがあるイングランド、それにアイルランド、あるいは最近ではスコットランドも注目されている。しかし、ウェールズは仲間外れで大したミュージシャンは出ていない。そんな認識だったが、そんなことはないという話だった。「へぇ、そうなの」と思い、タワー・レコードで見かけた際にそれほど期待もしないままに半信半疑で買ってみた。

    stereophonics2.jpeg・ライナーノートによれば、Stereophonicsのデビューは1997年である。ところが日本での発売は契約の関係で1年も遅れたらしい。しかし、すでに日本にきてコンサートもやったようだ。「ステレオフォニックスが描写する世界には、些細な噂がうずまく小さな町があり、行き過ぎる人々、男と女、セックス、老人、アルコール、皮肉、ぬぐえない過去、不幸にもいまだに少年のままの『青年』、閉ざされた明日などが微妙に関わり合いながら現れては消えていく。嫌というほど見慣れた風景に隠された、そんな感情の物語。」たとえば、"Local boy in the photograph"は鉄道に飛び込み自殺をした少年の話のようだ。


    友達たちは土手に花を添えて、写真に映った少年の最後の姿について、何時間も酒を飲みながら話をする。彼は23のままで、最後に彼の服が見つかった場所を、今も列車が通り過ぎていく。

    ・あるいは、"Last of the big time drinkers"は週末に酒を飲むことにのみ生き甲斐を見いだしている。

    工場での一日が終わったら10分きっかりで、のどの渇いた犬のように酒を飲み始める。週末は何も食べないし、寝もしない。..............俺は仕事のために生きているんじゃない。週末を楽しく過ごすために働いている。

    ・ウェールズはイギリス本島の南西部にある。炭坑と工場。去年ラグビーのワールド・カップが開かれた。もうずいぶん前にジョージ・オーウェルの小説や評論を読んで、土地の雰囲気や労働者階級の人々の暮らしや気質に関心を持ったが、それ以上のことは知らないし、行ったこともない。しかし、 Stereophonicsの歌には、オーウェルが半世紀以上も前に描写したのと奇妙に重なりあう光景が感じられた。アイルランドやスコットランドとはまた違う、イギリスのもう一つの顔。階級の問題と、近代化の遅れ、伝統的な生活や人間関係とアメリカ文化の影。それはリチャード・ホガートが『読み書き能力の効用』(晶文社)で警告したイギリスの労働者階級文化の崩壊とアメリカ化という問題とも重なり合う。
    ・ロックはアイデンティティの音楽である。僕はこの点をくり返し力説しているが、それは自分の置かれた状況、つまり外の世界と、それに対する自分自身、つまり内の世界への強い関心から生まれる音楽であることを意味している。ヴィジュアル系などといって内面を問わない音楽ばかりが流行る日本の音楽状況を目の当たりにしていると、ロックの変質ばかりが目立つが、それは決して世界的に一様の傾向ではない。そんなことを本家のブリティッシュ・ロックから感じられるのはとてもうれしい気がする。

    2000年3月1日水曜日

    火に夢中 G.バシュラール『火の精神分析』せりか書房

  • もう何度も書いたが、昨年の夏からたき火のおもしろさを満喫して、冬からは薪ストーブ。薪割りは大変だが、火というのは、じっと見ていても飽きることがない。その不思議さに改めて夢中になっている。で、ちょっと考えてみたいと思って本を探したが、これが意外に少ない。しかし、ガストン・バシュラールの『火の精神分析』(せりか書房)はおもしろかった。
  • 人間にとって「火」の支配は生きていく上で必要不可欠のことだった。つまり、いつでも火をおこせるようにするための工夫を知らなければならない。たとえば、木と木を擦るやり方。細い棒を厚い板に押しつけて、両手で挟んでくるくると回す。板にできた穴と棒の擦れるところが熱くなってやがて煙が出て発火。バシュラールはその行為がセックスの比喩として、多くの文化の中に語り継がれてきていると言う。発火の瞬間はエクスタシー。うん、なるほどと、その類似を考えてしまった。棒を穴に当てて最初は優しく、そして徐々に激しく擦る。熱くなって発火。その瞬間に訪れる快楽。火への関心は性的なそれ。もうすでに若くはない今の僕にとっては、現実よりはイマジネーションとして納得できることといった方がいいのだが..........。もっとも、火は今では簡単に手に入る。マッチ、ライター、あるいはチャッカマン。火興し自体の省略は、セックスの手軽さ、あるいは不毛さを意味するのだろうか。世の中にセックスがこれほど反乱する時代はかつてなかったのに、男の子たちの何たる頼りなさ、覇気のなさ。そして屈折した心が起こす性的な事件や犯罪。
  • バシュラールは、たき火やストーブを支配することがヨーロッパではずっと父親の仕事であったと言う。火をつけるのは簡単になったとしても、その火を激しく燃えさせて、なおかつ安全な状態のままに制御する技術は簡単ではない。子供たちの尊敬を得る父親の証というわけである。しかし現在では、火は台所で使われ、スイッチやボタンで簡単に調節できる。担当するのは主に母親だ。そのような火の変容は男の強さ、そして父親の権威の喪失を意味するのだろうか。そう言えば、キャンプに行くと父親は喜々としてたき火をし、バーベキュウを取り仕切る。あるいは宴会の鍋奉行などといったこともある。それは、失われてしまった栄光へのノスタルジーなのかもしれない。
  • 息子が大学受験のために朝早く満員電車に乗って、おやじの臭いにムカついたと言った。僕はそのことばを聞いてキレてしまって、怒鳴りとばした。しかし、親や大人に対して若者たちが敬意を払う、そのよりどころがなくなっているのは事実だろう。父親やおじさん達は、その自信のなさをものわかりの良さで取り繕うとするから、余計に軽視される。とは言え、大人にしか、親にしかできないことへの憧れと敬意。それはどこからどんなふうにして見つけだすことができるのだろうか。火を眺めながら考えても、何も思いあたらない。
  • 残念ながら僕はもうすぐ子供たちとは別れて暮らし始める。子供にとってどんな父親だったか。何を伝え、教えることができたか。ずいぶんがんばったと思うが、まるで自信がない。田舎暮らしをもう10年早く始められていたら、たき火や薪割りやストーブなどを一緒にできたのにと、つくづく感じてしまう。もっとも子どもたちは、うるさいおやじからやっと解放されて、のびのびできると喜んでいるのだが........。
  • 横道にそれたが、今回のテーマは火である。ストーブはアメリカ製だが、つくづくうまくできていると思った。簡単に火はつくし、燃え尽きても、炭が残っていれば、薪を放りこむだけでいい。何より窓が大きくて、中の炎がよく見える。ものすごい火力でも、鉄の箱がそれをがっちり閉じこめる。暖かくなったらとろ火にして、ちょろちょろと立ち上る炎を見る。本当に何時間も飽きずに眺めている。山のような薪が翌朝にはわずかな灰になってしまう。大木でも燃やしてしまったら、ゴミ袋一つほどの灰。もののはかなさを感じるが、逆に言えば、木は水と空気と養分から、大木へと成長していくのである。僕だって死んで火葬されれば、小さな骨壺におさまる残骸でしかないが、子どもの成長は思い返せばあっという間の出来事だった。命の誕生と成長、それに死。ぼーっと火を見ながらの想像は新鮮な思いつきや意外な展開をして、まるで夢の世界のようでもある。
    京都最後の晩、つまり引っ越し前夜にアップロード