2000年6月19日月曜日

村上龍『共生虫』村上春樹『神の子どもたちはみな踊る』

 

・同世代ということもあって二人の作品はほとんど読んできたが、村上龍は決して気になる存在ではなかった。暴力やセックスに始まって描写のグロテスクさが僕の性分にはあわない気がしたからだ。反対に村上春樹にはずっと関心を持ち続けてきた。それがここのところ、変わりはじめている。きっかけは村上春樹のオウム真理教への関心と、村上龍の少年が起こす事件へのコメントだった。

・もうこのHPでも書いたが『アンダーグラウンド』も『約束された場所で』もおもしろい本ではなかった。もっともそのつまらなさは、インタビューを受けたサリン事件の被害者やオウム真理教の信者たちが持つ現実感覚の貧しさからくるもので、インタビューをした著者にとっては、その貧弱な現実感覚を描き出すことが目的だったのかもしれないと思った。

・現実と距離を置くことで生まれるリアリティの多元性。一言でいえば村上春樹の小説はそんな感覚がもたらすおもしろさにある。異なる世界を井戸や壁の穴やエレベーターによって行き来する時に生じる自由さと危うさの感覚。もちろんそれはフィクションとして作り出された世界で、現実の世界ではありえない。けれども、見方によってはいくらでも現実そのものに置き換えることができる。村上春樹の小説にはそんな知的遊びを楽しむゆとりが感じられた。

・一方、村上龍の小説が描き出すのは、人が持つ欲望がむき出しにされたところに生まれるどろどろとした世界。で、話はどんどん非現実的なところに突き進んでいく。一見安定して強固に見える現実が、実は薄皮一枚で支えられている。その表面的に取り繕われた現実世界の皮をはぐとどんな光景が見えてくるか。村上龍の狙いはいつでもそこにあったような気がする。

・村上春樹は阪神淡路大震災によって生まれ育った世界が瓦礫の山と化したこと、あるいはオウム真理教のサリン事件の発生などから、現実が虚構の世界以上にもろいものであることを実感する。そこから、現実と距離を置く姿勢ではなくもっと積極的に関わる方向へ転換する。そのプロセスの中から生まれたのが『アンダーグラウンド』であり『約束された場所で』だった。そして『スプートニクの恋人』と『神の子どもたちはみな踊る』。

・『神の子どもたちはみな踊る』は短編集である。で、どれもが、何らかの形で阪神淡路大震災に関連する。僕は正直言って、あまりおもしろいと思わなかった。現実(震災)への関与の仕方がものすごく薄いという気がした。震災との関連性があってもなくてもたいして違いはない。ただ一つ、カエルがミミズと戦って東京の大地震を未然に防ぐという話だけは、童話風だが、よくできた話に仕上がっていると思った。

・村上龍の『共生虫』は引きこもりの青年が殺人事件を犯す話である。ちょうど引きこもりの17歳の事件が連続したこともあって、そのタイミングの良さが話題になっている。そして、著者は現実が虚構に追いつき追い越してしまったことにとまどっている。村上龍はグロテスクな世界を描き続ける一方で、現代の社会の病理について発言することに積極的である。現実の重みが失われたこと、現実への適応がうまくできない若者が生まれてしまったことにたいして、彼は戦後の世界を作り上げ、子どもたちを育ててきた大人たちに批判の矛先を向ける。

・現実にたいして距離をとる姿勢、あるいは現実を維持する薄皮をはぐ行為。今それが、若い人々の共通感覚になってしまっている。二人の村上は一方では、そのことを自省する。しかし、そのような発言とは裏腹に、創作されるフィクションは相変わらず、現実との距離と現実暴露がテーマになっている。そのちぐはぐさに、僕は正直言ってとまどいを感じているが、そこには二人への批判というよりは、今のところそうとしか表現しきれないだろうなという了解も含まれている。実際、現実にたいして距離をとる姿勢にしても、現実暴露を面白がる態度にしても、僕自身がこれまでずっと示してきたものであって、そのことに肯定も否定もしきれないアンビバレントな感覚を持っているのは同じだからである。

・現実は、それが現実だと一般に了解されたフィクションにすぎない。しかし、この「現実」は単なるフィクションとして片づけることもできない。そのような微妙な姿勢をどうやって納得し、持続させるか。若い人たちに伝えなければならないのは何よりこんな感覚なのだが、それはいったいどう伝えたらいいのか。その難問に立ち往生しているのは、誰より僕自身なのである。

2000年6月12日月曜日

高速道路で聴く音楽

片道100Kの道のりを毎週2往復、高速道路で通勤している。だいたい1時間半。風景はほとんど山で高低差は750M。かなりの坂道とカーブで運転そのものもおもしろいが、やっぱり音楽も欠かせない。で、出かける前にCDを選ぶことにしているが、いつの間にか定番ができてしまった。ブライアン・イーノ、タンジェリン・ドリーム、ピンク・フロイド、キング・クリムゾン………。つまりプログレやアンビエントばかりになった。中でも、イーノは山の風景にあっているし、タンジェリン・ドリームは河口湖にぴったりだ。さすがにくりかえし聴くと飽きてしまうが、CDはいつでも持っている。運転しながらふと聴きたくなるからだ。そうそう、大事なのを一つ忘れていた。マーク・ノップラーの映画音楽。これは何度聴いても飽きないからいつでも持ち歩いている。 去年1年間は新幹線で通勤した。そのときも、MDウォークマンが必需品だった。新幹線の中での読書をしながらの聴取。ただしこのとき聴いていたのはヴァン・モリソン、ニール・ヤング、スティング、エリック・クラプトン………。同世代でがんばっているロック・ミュージシャンばかりだった。もちろん音楽の好みが急に変わったわけではない。以前から僕はどちらも好きだったし、家ではどちらも聴いている。変わったのは聴くシチュエーションで、その聴きたい音楽の変化に僕自身が驚いている。 たとえば、長い会議が終わって夜更けの新幹線に腰を落ち着ける。東京の夜景を眺めながら京都までの2時間半。くたびれた心身を癒してくれるのは誰よりヴァン・モリソンやニール・ヤングの声だった。そのとき視線はほとんどの場合活字を追っていた。それが高速道路では、声がじゃまな感じになる。シンセイサイザーが作り出す機械的な自然音。それがフロント・ガラスに映る風景にぴったり合う。あたかもその風景が自ら発している音であるかのような錯覚。 もちろん新幹線でも景色は眺められる。しかし、それはすぐに飽きるから、窓の外に視線を向けるのはほんのわずかになってしまう。高速道路も何往復かすれば、風景はなじみのものになる。しかし、フロント・ガラスから目をそらせるわけにはいかない。道路状況は刻一刻変化して、それにあわせて加速、減速、車線変更とめまぐるしく対応する必要があるからだ。新幹線では風景は見ても見なくてもいいもの。しかし高速道路では道路状況とその背景にある風景は必ず見ていなくてはいけないもの。 新幹線で本を読んでいるとき、頭はもちろん、本の世界に入りこんでいる。新幹線の中にいる僕は、同時にそこにはいない。景色ばかりでなく、隣に座っている人も前や後ろの席の人も、全く無視することができる。一方、車で運転をしているときは、周囲を無視することは片時もできない。頭は、持続性のない偶発的な想像力にまかせることはあっても、半ば反射的に道路状況に反応しっぱなしだ。そのせいか僕は運転しながら「どんくさいな」とか「あぶないな、あほ」とか「へたくそ」といった独り言をよくつぶやいている。新幹線と車の違いは、今自分がいる状況への取り込まれ方、あるいは関与の度合いの仕方の違いなのだろうか。 歌はことばによって歌われる。ことばには意味があり、歌にはそのことばにそった情感が付着する。歌い手の声の肌理(きめ)。それを味わうには散漫な聴取では十分ではない。他方で音楽は音の質やメロディ、あるいはリズムによって構成される。それを集中して聴くことはもちろんあるが、ことばがない分だけ、散漫な聴き方をすることもできる。 僕はたぶん新幹線の中で周囲の状況から離れるために歌を聴いていたのだと思う。そして、車の中では、周囲の状況に集中するために音楽を聴く。だから車の中で聴くのはメッセージのない風景と溶けあった音がいい。ピンク・フロイドは時に自己主張が強すぎると感じることがあるが、ブライアン・イーノやタンジェリン・ドリームはまさにぴったりだ。もっとも、どういうわけか、僕は自分の部屋で昼寝をするときにもイーノを好んでかける。すーっと夢の世界に入り込めるからだが、運転しているときにはそうではない。状況への関与の仕方と音楽の種類。これは考えてみればおもしろいテーマだと思う。

2000年6月6日火曜日

テレビと広告

 山間の家だから、テレビの映りが悪い。これは不便と思ってアンテナを高くあげたがほとんど改善されなかった。ケーブルテレビも調べたが、えらく高い加入費を取るし、ハイビジョンは見られないと言う。普及率が低くて経営状態はよくないようだ。インターネットへの接続サービスをしていれば、それでも加入をしたのだが、その予定も今のところまったくないらしい。しかし、BSアンテナをつけてもらうと、これはきれいに見えた。で、まあ、これでもいいかということにした。


だから、当然、テレビを見る時間は減った。週末はカウチ・ポテトでテレビということが多かったのだが、引っ越してからそんな時間の過ごし方をほとんどしなくなった。天気が良ければ外に出ているし、夕食も焚き火の前でしたりする。映りの悪い画面を凝視する気にはなれないから、ステレオでテレビの音声だけ流したり、CDをかけたり。いつの間にか、BSで映画を見ようという気もなくなってきた。


見なければ見ないで、別にどうということもない。今更ながらに、テレビ視聴が習慣的行動であったことを実感した。実は新聞も引っ越してから朝刊だけの配達になった。しばらくは夕方新聞がこないことに物足りなさを感じたが、慣れてくると、これもどうということはなくなった。と言うより、かえって、朝夕刊をまとめたほうが読みごたえがあっていいと思うようになった。何より広告紙面が少ないのがよい。BS以外はほとんどテレビを見なくなって気がついたのも、やっぱり、CMにふれなくなったことで、改めて広告って何なのか考えてしまった。

 
そんな僕の生活環境の変化とはもちろん無関係だが、テレビ放送会社が軒並み増収増益になったそうである。民放の収入源はいうまでもなく広告である。長引く不況の中、景気の回復をテレビによる宣伝にかけようという企業が多いのだろうか、中には前期比で60%増の利益をあげた局もある。シドニー・オリンピックで今年はさらに増収が見込めるそうだ。まさにテレビ頼みの時代のようである。


マスメディアとしての放送はもちろん、ラジオが先だが、ラジオとは無線を一方向の情報伝達手段に限定したメディアのことである。双方向の送受信ができる技術をわざわざ一方向に限定して、不特定多数の人に受信装置だけをもたせる。その普及を可能にしたのは番組として提供されたニュースや娯楽だし、それに対してお金を払わなくていいというシステムである。ただで、楽しい時間が過ごせる、あるいは役に立つ情報が手に入る。マスメディアとしての放送が大衆消費社会の幕開けと時期を同じくしているのは単なる偶然ではない。そして、テレビはラジオの手法をそのまま踏襲して、ラジオをしのぐ巨大なメディアになった。この意味ではラジオもテレビも、その使命は何より広告による消費の刺激にあった。だから、不況の時にテレビが儲かるのは当たり前のことなのである。

メディアが広告に頼ること自体を批判するつもりはない。けれども、最近の民放の景気の良さの裏には、広告収入を上げるための人気番組作りだけに励もうとする姿勢が露骨に見えてしまう。『21世紀のマスコミ』を考えるシリーズの中に「広告」に焦点を当てた巻がある。その序文で編者が問うているのは次のような問題意識である。

マスコミがジャーナリズムとメディア文化の健全な担い手であるなら、それは、政治・経済・社会の現実がいくら混沌たる様相を呈していても、そこに埋もれたままでは終わらず、そうした状況を目一つだけでもうえから捉え、相対化する作用を及ぼし、ものごとを批判的に考えるよすがを私たちに提供してくれるはずだ。だが20世紀末において<21世紀のマスコミ>のあり方を展望しようとするとき、いってみればそのような頼りになるマスコミの姿を、私たちは容易に発見することができない。(桂敬一他編著、大月書店)

ジャーナリズムの不在と、どうしようもなく質の低いメディア文化の中で、広告だけが自己主張をするテレビ。こんなテレビがかなりの視聴率を稼ぐことができるのは、私たちの視聴行動が習慣化して、他に目を向けたり批判的に見たりすることができなくなっているからなのだろうか。あるいは、先行き不安な現実からつかの間でも目を背けたいという意識でもあるのだろうか。しかし、実際には、民放だって安閑としていられない現実が迫っているのだ。


インターネットが普及してテレビを見る時間が少なくなっているのは間違いない。あるいは日本ではなかなか普及しないが、ケーブルや衛星によるペイ・テレビが近い将来増加することもはっきりしている。情報や娯楽をお金を払って選択して手に入れるのか、広告にまかせて垂れ流してもらうか。テレビは今、そんな分かれ道の前に立っているように思うのだが、民放の好景気は、そんなこととは無関係であるかのように見える。メディアの多様で広範囲な再編成を目の前にして、目先の利害にばかり注目する。全国ネットの総合テレビ局が21世紀に生き残れる保証はどこにもないはずだから、これはもう明らかにバブルである。銀行ばかりを批判している場合ではないのである。

2000年5月29日月曜日

携帯とメール


  • 携帯からのメールをはじめてもらったのは、もう2年ぐらい前になるのだろうか。わずか一行ばかりの文字だったが、メールの使われ方が変わることを予測させるには十分な出来事だった。実際、パソコンを持たない学生や卒業生ともメールのやりとりができるようになって、メールの有効性がずいぶん広がった。ただ入力しているところを見るといかにも面倒くさそうで、電話にほとんど用のない僕としては、携帯には相変わらず無関心のままだった。
  • しかし、最近、携帯からかなり多い文字数のメールが届くようになった。iモードという新しい携帯が売り出されたのだ。僕の無関心がちょっと揺らぎはじめた。一通数円というから、いちいちパソコンを立ち上げてプロバイダにつなげるよりは楽で得かもしれない。しかも、どこにいても送れるし受け取れる。新聞広告などに目を向け、カタログを集めてみると、液晶画面が大きく、しかもカラーになっている。インターネットにアクセスしてホームページも覗けるようだ。Power BookにつなげるPHSとくらべてみたりして、使い道を考え、買う寸前まで行った。が、やっぱりやめた。
  • iモードはしょっちゅうダウンをしていて、販売を控えているようだし、入力はやっぱり面倒なままだ。専用のキーボードなどを持ち歩いてまで使う気はない。PowerbookにつなげるPHSは先行きが不安だし、田舎暮らしをしているから、つながり具合が心配だ。人との待ち合わせや緊急の連絡にあったらいいな、と思うことがないわけではないが、学生たちのように社交の道具として使う必要性は全く感じていない。というわけで、まだまだ時期尚早と考えた。
  • 大学院の授業の一つで、今年は電話をテーマにしている。僕は10年ほど前に電話論を一本書いている。電話論ブームの先駆けになったと自負しているが、その後の電話の変容には全く詳しくない。授業はそのあたりの比較からはじめた。「電話の儀礼」「電話の演技」「沈黙と間」「匿名性と親密性」「声への限定が意味するもの」等々、僕が10年前に指摘した電話の特徴がほとんど無意味になっていたり、変形したりしていることに気づかされた。たとえば電話はベルの音だけでは誰からかかってきたかわからない。しかし、携帯では着信音で相手がわかるような機能があるという。かける時間も携帯なら24時間OKらしい。また、メール機能を使えば、声とは違う感覚で同時に近いやりとりもできる。僕は10年前に考えたことを話しながら、同時に、携帯の特徴について院生からいろいろ教えてもらって、遅蒔きながら認識を新たにした。
  • 携帯の台数が今年、家庭電話を上回ったという。一家に一台のほかに、それぞれ個別に数台。あるいは一人暮らしならば、携帯だけしか持たない人が増えたということだろうか。実際我が家でも、子どもたちは高校生の頃から持ち始めていて、家の電話と自分の携帯を使い分けていた。僕にはコミュニケーションごっこのようにしか見えなくて、「しょうもないことばっかりやってんじゃない」などと叱ったおぼえがあるが、そのしょうもないように見えるおもちゃが一般的な必需品になった。
  • 僕はiモードもしばらくは静観ということにしたが、ここ数年の携帯電話の変容を見ていると、そのうちパソコンにどんどん似てきて、どちらを選択するかという事態になるのではないかと思い始めている。パソコンは一方ではテレビに領域を侵されはじめているから、その価値はきわめて特殊なものになってしまうかもしれない。たぶん僕が携帯を手にするのはその時だろうと思うが、それでもパソコンが相変わらず必要な道具になっているのかどうかわからない。
  • 「IT革命」などということばが実体も確かめられずにひとり歩きをしている。株価の上げ下げの材料だったり、企業戦略の決まり文句だったりして、なにやら胡散くさげだが、メディアとコミュニケーションの状況は、一寸先が闇に感じられるほどに変化が加速化していることはまちがいない。
  • 2000年5月22日月曜日

    仲村祥一『夢見る主観の社会学』世界思想社

  • 仲村祥一さんは丑年だそうだから、僕よりちょうど二まわり上。つまり75歳である。その仲村さんから新刊本をいただいた。本を出すためには長い文章を書かなければならない。あたりまえだが、これがなかなかしんどい。40代の後半からそんな気持ちになっている僕には、70歳を過ぎてなお本を出そうという気力とエネルギーに驚いてしまうし、自分のだらしなさを反省してしまう。僕もがんばらねば!と思わされた一冊だった。
  • 僕にとって仲村さんは恩人である。なかなか大学のポストに就けない僕を引っぱってくれた。僕は30代の中頃までは非常勤であることを面白がっていた。書いた文章も、およそ論文とは言えないスタイルで、タイトルもわざと論文らしからぬ名前にした。だから、どこにアプライしても、必ず採用を反対する人がいた。最初のうちは「だから大学ってところはだめなんだ」と突っ張っていたが、30代の最後の頃になると、もうかなりくたびれてしまっていた。そこに仲村さんからの誘いがあったのである。
  • 仲村さんが僕を評価してくれたのは、たぶん僕が自分の経験を材料にして書くというスタイルをとっていたからだと思う。それは鶴見俊輔やジョージ・オーウェルから学んだ方法であり、またフォークやロックの音楽、そしてカウンター・カルチャーから受けた影響だったが、仲村さんもまた大学紛争の経験や社会問題への関わりの中で、自分の存在を自覚しながら考えることの必要性を実感されたようだ。『夢見る主観の社会学』を読むと、そんな仲村さんの歩いた「道筋」がよくわかる。
  • 僕は仲村さんと4年ほど同じ大学で過ごした。彼の期待とは裏腹に、僕は自分のことにはほとんどふれない文章ばかりを書くようになっていたから、たぶんがっかりされたことだろうと思う。大学で職を得ようと思ったら、やっぱりそれなりの業績を作らなければならない。30代の後半から、僕はメディア論を中心に文章を書くようになっていた。おまけにコンピュータに飛びついて、それに夢中になったし、メディア論の次はロック音楽論を始めたから、話し相手としては物足りなかったのかもしれない。残念ながら、パチンコは学生時代に卒業してしまったし、釣りには全く関心がなかった。
  • けれども、ものの感じ方や人や出来事に対する態度には、一緒にいるだけで、共感できる部分がずいぶんあることがわかった。役職に就くのをいやがり、セレモニーといった場所では居心地の悪さを態度に出した。何事に対しても斜に構えて、皮肉な目や辛辣な批評を口に出したが、本当のところは気心の通じる仲間や友達を求めている。人間関係や社会に対する理想も失ってはいない。そんなところに僕は似た者同士であることを感じたから、仲村さんと一緒に過ごせた時間はものすごく貴重だった。
    教員生活を50年してきたが、納得しがたい命令に従うのが嫌いでこの業界に入り、抵抗できる他者には我を通し、妥協の余地ない組織からは身をそらし、「思想の科学研究会」的な勝手連は別として、どのような政治団体にも加わらず、教え子たちにも我が見るところは明言しても好き勝手に勉強せよと励ます式に五つほどの大学を転々としてきた。私はしたくないことをできるだけ回避し、したいことが可能な方へと生活を導いてきたらしい。
  • 仲村さんは釣りをするために和歌山に近い大阪のはずれ(仲村さんによれば関西という扇風機のウラ)に引っ越し、長い時間をかけて大学に通ってきた。毎週大阪に一泊して大変だなと思ったが、僕も今、森の生活がしたくて、河口湖に住んで国分寺まで高速道路を使って通勤している。同様に東京で週一泊のスケジュールだ。この本を読みながら「したいことが可能な方へと生活を導く」ことを第一にしている自分は、仲村さんそのものだと、あらためて確認してしまった。
  • 共感できたところをもう一つ。50年生きてきて、友達といえるような人がいたのだろうかという思いである。気心が通じていてほどほどにつきあえる人は何人かいる。しかし、たとえば高校や大学で知り合った友人は、その後の道筋が違えば、お互いの意識はずれてきて、僕が近くに戻ったからといって、そのまま距離が縮まるわけではない。仕事を通しての仲間や知人には、最初からある程度の距離があって、その垣根を越えるのは難しいし、越えない方がいい関係が保てる場合が多い。それでもまあ、こんなものかという気がするし、同時に、本当はもっと別の関係があるのではという思いもある。
  • 僕は仲村さんのように、70代の半ばになってもまだ、あるべき関係について考えたり悩んだりするのだろうか。とてもそんな自信はないが、とかくしんどい人づきあい、だけど一人では癒されない心の置き所を狭く限定しないでおこうとは思っている。僕が東京に行くと言って挨拶したとき、仲村さんは「今生の別れになるかもしれん」とおっしゃった。ものすごく意外なことばに感じたが、別れを惜しんでくれたのかな、と今は勝手に解釈している。
    「舞台の上だけでなく楽屋裏や劇場の外にもはみ出しての社会学者の個人や自身との、できれば友情もかわしあいたい。そのための自己開示というのが私の思いなのだ。」
  • あとがきに書かれたこのことばを肝に銘じたいと思う。
  • 2000年5月15日月曜日

    森の生活

     河口湖のサクラは東京よりは一ヶ月遅れで満開になった。ソメイヨシノに富士桜。それに山ツツジ、山吹に雪ヤナギ。河口湖町は空き地に花壇を造ることを奨励し、無料で提供しているから、湖畔は本当にいろとりどりの花でいっぱいになった。ゴールデンウィーク期間中は釣り客ばかりでなく、カメラマンが大勢押しかけて、富士山と河口湖と桜の三点セットが撮せる場所が早朝から鈴なりだった。絵はがきのような写真を撮ってもしょうがないのに、と思ったが、それは僕の勝手な感想にすぎないのかもしれない。平日には年輩のカメラマンが目立った。退職後に見つけた趣味としては悪くない。たぶん僕もそのうちにカメラを片手に歩き回るようになるのかもしれない。あるいは五十の手習いでスケッチでも始めてみようか。河口湖にいると、素直にそんな気持ちが首をもたげてくるから不思議だ。
    引っ越しをしてから週末にはほとんど来客がいて、誰もが、都会の風景や日常生活とは違う世界に驚いたようだ。ゴールデンウィークのお客は追手門学院大学で同僚だった矢谷さんほか5人連れ。彼は雲國斉というくさい屋号を持ってお茶の道具をいつでも持ち歩く粋人だが、大学の近くで稲を作ったり、野草を食べる会を催したりもしている。その彼が薪割りの助っ人をするといって、オーストラリアで買ったという大きな斧を持ってきた。薪割りは力仕事で大変だが、もっと面倒なのは倒木を見つけて家まで運んでくることだ。庭の周囲の空き地の木をほとんど取り尽くしてしまったから、車で出かけていって運んでこなければならない。僕は矢谷さんのために湖畔に切り捨てられていた白樺の木を車に積めるだけもってかえって準備をした。 しかし、白樺をストーブで燃やしてしまうのはもったいない。大汗かいて運んできた僕の苦労など関係なく、パートナーからストップがかかってしまった。客たちも例外なく、鋸で薄切りにして持ち帰りたがるから、斧で割るのは芯の腐ったやつだけにした。だから近くで切り倒したばかりのアカマツとあわせても、薪割りは一日目の数時間ですんでしまった。それでも矢谷さんは満足したようだから、ひとまずは安心。もっとやりたければ、倒木探しから始めましょうと言ったが、やりたいことはほかにもあったから、斧の出番はそれ以後はなかった。

    後は野草の天ぷら。蕗のとうはもう時期遅れだが、たらの芽やウド、みつ葉やこごみが庭先で採取できる。アザミやあけびの新芽も食べられる。矢谷さんの指示で天ぷらの材料を集めたが、7人で食べても食べきれないほどの材料だった。この家の前の持ち主が植えたものもあって感謝、感謝だが、気をつけていないと山菜取りに来た人たちが庭に入り込んでくる。特にたらの芽には注意が必要で、ぼんやりしているときれいさっぱりつみ取られてしまう。前の持ち主の話では、カタクリの花が庭に群生していたのに、いつの間にか根こそぎ持っていかれたそうだ。今年はたった二つだけ花が咲いたが、群生していたらどんなにきれいだったか。腹が立ったが、人のことはいえない。僕だって誰の土地ともわからないところに生えているものを、お構いなしにとってくる。倒木などを見つければ、もう車に積まないではすまされない。 三日目の午前中に全員で裏山に登った。百メートルほどだが道が一直線についていてかなりきつい。上につくと富士山と河口湖が見える。その景色を見せたいと思ったのだが、尾根伝いに歩くと山椒や黒文字(和菓子などについている太い楊枝の材料になる木)がたくさんある。さっそく矢谷さんの指示に従って何本か根こそぎして、家の庭に植えた。ちょっと頼りなかったが、どうにか根付いたようだ。もし持ち主がいたらごめんなさいという気持ちだが、大きくなれば、庭先で山椒摘みができるようになるし、楊枝も自前で作ることができる。

    客が帰った後、暖かくなったので庭で夕食をとった。するとばさっという音がしてムササビが木から木へ飛び移って、高いところに駆け上がった。一瞬びっくりしたが、やっと出会えたと感激もした。野鳥以外の生き物に出会わないなと思っていたが、冬眠からさめたばかりのでかくて真っ黒なガマガエルも見たし、モグラの死骸も見つけた。うれしいやら怖いやらの複雑な気持ちになったせいか、我が家の同居人は自分で踏みつけた枯れ枝の動きに驚いて悲鳴を上げた。蛇がまとわりついてきたと思ったようだ。その声は山にこだまするほどに大きくて、僕はその声にどきっとしてしまった。

    「森の生活」はH.D.ソローの作品だが、僕は今、毎日の生活を楽しみながら、ソローを読み直して、現代版の「森の生活」を考え、記録してみたいと思い始めている。早ければ夏休み前から、このHPで連載をスタートできるかもしれない。乞うご期待。

    2000年5月8日月曜日

    最近聴いたCD


    Buena Vista Social Club
    Force Vomit"The Furniture goes up"
    猪頭2000
    Fiona Apple"When The Pawn"

    magic-stone.jpeg・『ストリートの歌』(鈴木裕之)を読んでアフリカのレゲーに興味を持ったが、その後も、関心は世界中を飛び回っている。台湾、シンガポール、インドネシア、そしてキューバ。けっして伝統的な民族音楽に目覚めたわけではない。国や民族や文化の違いを超えて、素直にいいとか、おもしろいと思える音楽に出会っているからだ。とはいえ、自分で見つけだしたわけでもない。学生に教えてもらったもの、集めてもらったものが最近続けて手に入ったのである。
    ・はじめは「猪頭2000」。大学院の留学生に貸してもらったが、台湾では有名なバンドのようだ。僕は依然に本から仕入れた「黒名単工作室」を聴いて、台湾の音楽状況のおもしろさを知ったが、今一番影響力のあるグループだという「猪頭」も、聴いていていくつか共通点を感じた。一つはあらゆる音楽が入っていること。悪く言えばごった煮だが、ありあまるエネルギーが発散されていて、けっして悪い感じはしなかった。台湾は総統選挙などで揺れているし、人々の関心も強くて熱くなっているが。ことばがわからなくて残念だが、そんな様子がサウンドからもよくわかる気がした。

    force.jpeg・もう一つはシンガポールの音楽。これは短期間のフィールド・ワークに出かけた院生がおみやげにもってきてくれた。楽しみにしていたのだが、音楽ではなく寸劇や語りで英語だから今ひとつよくわからなかった。かなり政治的な内容のようだし、ボブ・ディランの"Mr. Tambourine Man"をもじったような"Mr. Trampoline Man"といった題名の作品もあるのだが歌詞カードがないから、これももう一つよくわからなかった。シンガポールは英語が公用語だが、Singlishと呼ばれるような独特のものだという。ひょっとしたら歌詞がわかっても理解できなかったかもしれない。彼からはインドネシアの反体制的なロック・バンド "Slunk"のテープももらった。このグループはテレビでも取り上げられていて、日本でコンサートもやったようだ。社会が近代化に向けて変容する過程には、必ず「アイデンティティ」を問うおもしろい音楽が生まれる。僕の持論を確認することの出来たバンドである。

    buena.jpeg・"Buena Vista Social Club"はキューバの音楽である。それをRy Cooderが集めてCDにした。今もキューバで生きつづけている音楽を集めてレコードにすること。ライ・クーダーはそれを宝探しだという。キューバでは音楽は川のように流れていて、それがさまざまに人びとと関わりあっている。そのことを記録するためにこのCDをつくったようだ。僕はキューバの音楽には関心がなかったし、興味もなかったが、明るさの中に哀愁があってなかなかいいと思った。と同時にどこかでくり返し聴いたような懐かしさも感じた。戦後の歌謡曲によくあった〜ブルースという題名の曲である。日本人にととってブルースとはアメリカの黒人の音楽ではなく、カリブ海だったのだということをあらためて確認した気がした。ちなみに、このCDに参加したミュージシャンも近々日本の各地でコンサート・ツアをやるようだ。

    fiona2.jpeg・最後はアメリカの白人女性シンガー・ソング・ライターのFiona Apple。"When The Pawn"は彼女の二枚目のアルバムである。僕はそのデビュー盤"Tidal"で歌い方も曲も歌詞もアラニス・モリセットに似ていて、その独自性をこれからどうやって出していくかが問題だと書いた。それほど変わったとも思わないが、彼女の世界が一層はっきりしたように感じられた。ちなみに彼女も日本でコンサートをやるようだ。しかしアラニスで懲りているから僕は行かない。