2001年3月19日月曜日

スポーツの本を数冊

  3月26日から28日まで、筑波大学で「日本スポーツ社会学会」がある。ぼくはそこで、「20世紀のメディアとスポーツ」について話さなければならない。スポーツについてのぼくの仕事はほんのわずかで、その専門家を前にして話しをするのはおそれ多いのだが、ピンチ・ヒッターを頼まれて断ることができなかった。そもそもぼくは、筑波は中途半端な距離で面白いところも少なそうだから、今回は行かんとこと思っていたのだが、そういうわけにいかなくなってしまった。 本当は1カ月前にレジュメを提出することになっていたらしい。しかしそんな連絡を受けたように思わなかったから、レジュメの催促が来てから重い腰を上げた。しかしレジュメは10日前になった今でもできあがっていないから、当日持っていくしかない。100部?あるいは200?コピーをとるのも面倒なことだがこれは仕方がない。と、愚痴はともかく、いくつか本を読み直してみた。で、「スポーツはメディアによって文化になった」という話しをしようかという気になっている。

文化についての理解は規範的な理解からますます記述的な理解になっていった。文化は今や大演劇、一流コンサートやオペラや美術展覧会、良質な文学だけではなくなっている。文化は存在するものを記述する。(オモー・グルーペ『文化としてのスポーツ』ベースボール・マガジン社)
芸術や文学をさす狭い意味での文化には「高級」と「低俗」とか、「純粋」と「大衆」といった分け方があって、価値とか意味の重要性、あるいは享受する人間の階級などで区別がつけられてきた。グルーペはそれを「規範的な理解」と呼ぶのだが、現代の文化はその規範を無化させる方向に流れていて、どんなものも横並びに記述されるような性格になってきているというのだ。彼によればヨーロッパでスポーツが文化としてみなされはじめたのは最近のことのようである。
その文化でさえなかったスポーツは今や誰にとっても欠かせないものとして位置づけられている。それはテレビ番組の大きな柱であり、広告やさまざまな商品と結びついたものである。私たちはすることはもちろん、見ること、聞くこと、読むことなどあらゆる形でスポーツを楽しんでいる。 このようなスポーツの変化は何よりアメリカで発展したものだ。そして、その発展には新聞に始まってラジオ、映画、そしてテレビといったメディアの力が大きかった。野球、アメリカン・フットボール、バスケットボール、そしてアイスホッケー………。もちろん、メディア自体の発達も、スポーツに夢中になった大衆の誕生も、それを可能にしたのはアメリカの急速な産業化と資本主義化だった。スポーツのビジネス化とレジャーにお金と暇を消費する人びとがアメリカで発生したことは、その意味ではきわめて自然な現象だった。ベンジャミン・G・レイダーの『スペクテイター・スポーツ』(大修館書店)はそのあたりの歴史をきわめて面白くまとめてある。彼にはもう一冊、テレビとスポーツの関係について書いた"In It's Own Game"という好著があるのだが、残念ながら、これは翻訳されていない。 レイダーの本でもそうだが、アメリカのスポーツをテーマにした本はなぜ、こんなに面白いのだろうといつも思ってしまう。宇佐見陽の『大リーグと都市の物語』(平凡社新書)も読み始めたら止まらないといった内容だった。アメリカのプロ・スポーツはメディアによって発展したと書いたが、同時にそれを積極的に指示した人びとがいたことを指摘しなければ、事実の半面だけをとらえたことになってしまう。ゲームの観戦を楽しむというだけでなく、自分の街、あるいは自分自身を支えるものとしてスポーツ、というより一つのチームを考える。『大リーグと都市の物語』にはそんなプロセスや現状がうまく描かれていて、新聞やテレビで巨人一辺倒のいびつな形になってしまっている日本のプロ野球との違いがよくわかる。
  • ところで、学会での発表だが、ぼくは音楽と比較しながら話そうかと思っている。ロックンロール以降のポピュラー音楽には、ある意味でスポーツと似た形で発展したところがある。
  • ラジオやテレビ、そして最近のインターネットなど、20世紀に生まれて巨大化したメディアは、その内容を埋め、売り物にするために音楽とスポーツを必要とした。そこのところには、大きな共通性がある。メディアを利用し、またメディアに利用される関係。そのプロセスはけっして一様ではないが、その結果として、ともに現在を代表するポピュラー文化になったことはまちがいない。
  • 実はこのような視点で考えた本がすでにある。David Rowの"Popular Culture : Rock Music, Sports and Politics of Pleasure"。ロウはロック音楽とスポーツの共通性を、他に、「身体性」に見つけている。彼によればそれらは、身体に関わる文化産業の柱になるものである。「スポーツと身体」については同じシンポジウムで別の人が話すもう一つのテーマだから、ぼくは話題にしないが、たとえば、身体とセクシャリティ、若さ、あるいは健康志向とドラッグ(ドーピング)など興味深い問題がいくつもある。
  • と、書いてきたが、どんな話しをするのかなかなか具体的にならない。レジュメはいったいいつになったらできるのか。困ったなー………。
  • 2001年3月12日月曜日

    U2 "All that you can't leave behind"


    ・今年のグラミー賞でU2は3つの主要な賞にノミネートされて、そのすべてをとった。去年の主役はサンタナだったし、その前はディランやクラプトンと、ベテランばかりがとる傾向は21世紀になっても変わらないようだ。若い人が出てこない、新しい流れがおこらない。あるいは、世紀の変わり目で、功労賞的な性格を持たせている。理由はいろいろ考えられるが、授賞式自体が年々大がかりになるのとは反対に、新鮮みがないという印象が何年もつづいている。

    ・ベテランといえば、マドンナは、毎年いくつもノミネートとされながら今年も無冠。ぼくは、80年代以降の音楽の流れを変えたのは誰よりマドンナだと思っているから、今年は彼女の番だろうと思っていた。アカデミーをなかなかとれなかったスピルバーグのようだが、理由もやっぱり似ているのかもしれない。要するに、賞に価する品格がないという認識が根強く残っている気がするのだ。

    ・マドンナはロックをポップにした張本人で、社会派のロック・グループとして脚光を浴びたU2とは対照的だが、しかし、女性に自信を持たせたということで言えばまた、彼女の右に出る者はない。90年代の女性シンガー・ソング・ライターの続出はマドンナの存在なしには考えられないと言ってもいいだろう。

    ・それを意識したわけではないだろうが、U2は90年代にはいると路線を変更して派手な活動を展開した。その頂点が前作の"Pop"。ぼくは"The Joshua Tree"(1987)に大感激して、日本でのライブも見に行っていたから、彼らの変身には今ひとつなじめない気持ちを持ちつづけてきた。で"All that you can leave behind"である。

    ・ボノの声は歳のせいか艶っぽさが薄れて枯れた感じがするが、エネルギッシュなところは変わらない。サウンドは昔に帰ったようなシンプルさがある。そういえば、CDのジャケットに映っているボノは厚化粧ではなく素顔だ。どこかの空港で時間待ちといった写真も、まるで使い捨てカメラで撮ったスナップのように、凝ったところがまるでない。
    ・グラミーで取り上げられたのは1曲目の"Beautiful Day"だが、ぼくが一番気に入っているのは6曲目の"In a Little While"。エッジのギターが印象深いし、ボノの声がせつない。内容はラブ・ソングだが、歌詞もなかなかいい。

    もうすぐ、君はぼくのものになる
    もうすぐ、ぼくはそこに行く
    もうすぐ、この傷も傷でなくなる
    君のいる家に帰るのだから

    心臓の鼓動を落ち着かせよう
    男は空を飛ぶ夢を見て
    空にロケットで飛び出した
    夜には死にかかる星に住んだが
    光の拡散する中、跡をたどって帰ってきた
    明かりをつけよう、明かりを、ぼくの明かりは君がつけて
    "In a Little While"

    ・どこかに行って、そして今帰ってくる。この曲は今のU2の心境を象徴しているのだろうか。アルバムタイトルは「捨てられないもの」で、ジャケットは空港の待合所。これからどこかに帰るところ、それとも帰ってきたところ?捨てかけたものの大切さに気がついたのか。憧れたものに飽きた、あるいは失望したのか。とにかく初心に帰ろうというメッセージがサウンドにも歌詞にも、そしてジャケットにも強く読みとれる。

    ・悪いことではないと思うが、「じゃーこの10年、いったい何がしたかったの?」と尋ねたくなってしまう。"The Joshua Tree"でたどり着いてしまったゴールから新たな試行錯誤をして、結局元に戻った。それでは今ひとつおもしろくない気もするが、今のところ、ぼくにはそれ以上のメッセージを読みとることができない。

    2001年3月5日月曜日

    スネイル・メールで「ほんやら洞通信」

  • 勤務先の東経大から国分寺駅に行く途中に「ほんやら洞」という喫茶店がある。フォーク・シンガーの中山ラビがやっている店で、ぼくは彼女とは高校時代からの友人である。電車で通勤していないからめったに行かないが、60年代のサブ・カルチャーの雰囲気そのままに、客層も個性的な人が多い。東経大の教員にも常連がいるようだ。
  • 「ほんやら洞」は最初京都に作られた。もう30年近く前のことだ。御所の北側で同志社大学の並び。近くには出町という古い商店街があり、加茂川と高野川が合流して鴨川になるところには三角州もある。ここに広島県岩国市の米軍基地前に反戦喫茶「ほびっと」を作った連中が、自分たちのたまり場として喫茶店を作った。詩の朗読会やフォーク・ソングのコンサート、あるいは政治的な問題をテーマにした集会などが開かれたが、ここはぼくにとっても大学院生の頃の行きつけの店だった。
  • 最初からのメンバーで長いことマスターをやっていた甲斐さんは、持ち前のだらしなさを理由にここを追い出され、木屋町に「八文字屋」という飲み屋を開いた。こっちはこれまた持ち前のプレイボーイと有名人好きが幸いして、話題の店として紹介されたり、常連が数多くついたりして、意外にもつぶれることなく繁盛してきたようだ。そんな力量が見直されたのか「ほんやら洞」の経営が難しくなって、甲斐さんがマスターとして戻ることになった。
  • ぼくは去年から勤務先が変わって、今年は引っ越しもしたから、「ほんやら洞」についてのそんな話は風の噂に聞いた程度だった。「ほんやら洞」にはもう10年以上も行ったことがなかったし、外で酒を飲むことは好きではないから、「八文字屋」にも開店当初以来、顔を出すこともなかった。そんなご無沙汰状態だったが、「ほんやら洞通信007」が郵便(スネイル・メール)で送られてきた。
  • 内容は80頁もあって、15人ほどの人が原稿を寄せている。ほとんどが連載で、やっぱり有名人や一風変わった人が多い。それぞれおもしろいが、ぼくにはやっぱり甲斐さんの日記「カイ日乗」がおもしろかったし、昔をふりかえる「ほんやら洞・思い出すまま」が懐かしかった。というよりも、日記の中に懐かしい名前が次々でて、いまだにそんなつきあいしているんだ、と思ってしまった。もうほとんど忘れかけた世界が目の前に再現される感じ………。
    最後の最後に、今日2度目の早川正洋さん、マサヨさんとくる。例にバカ話。なぜ我々がカイさんをカイさんと呼び、尊敬に似た気分をもっているかと。ちょっと、となりの客に絡むというか、小声で、バカ呼ばわりというか、バトウしていた。変わらぬご仁だ。
  • 早川さん!! 懐かしいね。生きてたのか。でもぼくは会いたくないね。彼は京都「ほんやら洞」の初代店長で、やめた後に国分寺「ほんやら洞」を作った人だが、そんな名前がほかにもずらずら。やっぱり、これからも「八文字屋」や「ほんやら洞」に行くのはやめとこう。でも「ほんやら洞通信」を読むのはなかなかおもしろい。二つの店の掛け持ちで甲斐さんは大奮闘のようだ。「二兎を追うものは一兎も得ず」というから心配だが、どうか体をこわさずにうまくやってほしいと願うばかりである。
  • ついでにもう一つ、どういうわけか京都のフォーク・シンガー古川豪が10月に東京の国立でコンサートをやるらしい。その誘いの通知が手紙で届いた。その他にもEmailでは中川五郎がコンサートのお知らせを送ってくれている。ぼくは河口湖に住んで田舎暮らしをしているから、一人でいることの心地よさを感じるようになって、ますます出不精になってしまった。だから東京に出かけてはいても、コンサートに行く時間はとりにくいし、とる気にならない。つくづく、毎日数十人、あるいは百人を超える人と会っている甲斐さんとは対照的な生活だな、と感じた。
  • 「ほんやら洞通信」は一部400円。興味のある方は(〒602-0832京都市上京区寺町西入ル大原口町229ほんやら洞)にお問い合わせください。
  • 2001年2月26日月曜日

    2000年度卒論集『意外とイイ』

     

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    「アメリカの死刑制度」井原通仁
    「アメリカの対抗文化の始まりとビートニクについて」木倉正美
    「現代日本の『化粧』」佐々木理恵
    「吉本ばなな論〜克服から成長へ〜」丸田幸一
    「読売巨人軍を暴け〜さようなら巨人軍〜」堀舞里子
    「外国映画、字幕で見るか、吹き替えで見るか」岡澤好江
    「ウェールズ音楽論」楠見学
    「変わりゆく人間関係」徳井一仁
    「『三国志』と日本における人気の秘密」石見大介
    「メディアに見る少年法・少年犯罪とその危うさ」椚正嘉

    「ポピュラー音楽におけるメディアの役割」角知洋
    「新宿の時代〜60,70年代日本のユースカルチャー〜」平本芙美
    「リカちゃん人形から見る日本の社会」島田理沙
    「ガゼルパンチ」井上理恵
    「地上波デジタル放送」坂巻哲也
    「社会における笑いの効用〜お笑い論〜」間野杏梨
    「クラシック論−歴史と現代コンサートホール−」松本容子
    「グリム童話について 3つの時代背景と子供に与える影響」村上理恵

    2001年2月19日月曜日

    H.D.ソロー『ウォルデン』その5、青い雪と氷の花火



    ・家のまわりの雪は相変わらず30cm以上積もっている。日に照らされて溶けてはいるのだが、冷たい風にさらされた水はすぐに凍って大きなつららになる。それが地面に落ちて、下を氷面にする。1月27日のような大雪はないが、何度か雪も降った。そんなわけで、もう1カ月半以上、あたりは銀世界のままだ。
    ・最初は、精出して雪かきをし、ソリ滑りやカマクラづくり、あるいは雪だるまなどもやったが、もう雪が当たり前になると、地面が懐かしくなる。何より薪割りができないのがつらい。割るべき木は雪の下だし、掘り出してきても、しっかり凍っている。割ろうとしても刃が立たないのだ。周囲に湿気があるから過ごしやすいのだが、割った木が乾いてくれない。で、そろそろ、ストーブ用の槇が心細くなってきた。春が待ち遠しい。こんな気分になったのは久しぶりのことだ。 ・とはいえ、雪の世界にも何気ないところで驚くような発見がある。1mも積もった雪かきをしながら、思わず見とれてしまったのだが、積もった雪に穴をあけると、底が青い。カマクラを作って中にはいると、日中は光が微かに青く感じられる。この青さの秘密はわかるのだが、積もった雪を掘るとなぜ青いのか考え込んでしまった。

    ・雪がいつにもまして深いとき、街道からわが家へ帰りつくのに使っていた半マイルぐらいの小道は、間隔を大きくあけて点がくねくねとつづいて行く点線で表せないこともない。おだやかな天候が一週間もつづくと、毎日ぼくはぼく自身がつけた深い足あとをゆっくりと、分割コンパスもどきの正確さで踏みしめながら、きちんと同じ歩数と歩幅でたどったが、こんなきまりきった繰り返しも冬ならばどうしようもなく、それでもぼくの足あとは多くの場合天空そのものの青をいっぱいに湛えていた。(399頁)


    ・ソローもこの青に気づいたのか、と思ったらうれしくなったが、やっぱり空の色なのだろうか。

    ・雪が積もってはいても仕事には出かなければならないし、買い物にも行かなければならない。それに120リットルの灯油を週一回、ガソリンスタンドに買いに行く。だから、毎日のように湖畔の道路を車で一周している。今年は10年ぶりぐらいで湖面が全面結氷した。石を投げても割れないからかなりの厚さになったと思う。固めた雪を投げると、氷にあたった瞬間に割れて周囲に飛び散っていく。その様子が花火に似ていて何度も投げた。四方に飛び散った雪は信じられないほど遠くまで滑っていく。大げさではなく、対岸に届くのではないかと思うほどだった。そんなことをしていると、ちょっと氷の上に乗ってみたい気になる。 ・誰もがそう思うのか、拡声機で毎日やる地域の放送では、ここのところ、「湖面の氷は薄いから絶対乗らないように」と繰り返している。子どもたちなら、誘惑に勝てずに、つい一歩を踏み出してしまうかもしれない。どうせなら、歩けるほど凍ったらいいのにと思っていたら『ウォルデン』にまた次のような描写を見つけた。

    池は固く氷が張ってしまうと、いろいろなところへ行くための新しい近道になってくれたばかりか、まわりの見慣れた風景も氷の上で見ると新しいものに見えるようにしてくれるた。(410頁)

     
    ・湖の真ん中へはボートでなら行けるけれども、氷の上を歩いていったら、確かに風景はまるで違って見えるだろう。第一、普段は自動車でぐるっと回っている対岸が、すぐ歩いて行けるところになってしまっているのだから。いつもと同じ場所がいつもとはまったく違う風景になる。季節とはそういうものなのだということを、この一年で身をもって体験した。

    ・そういえば、子どもの頃は田圃に水を張るとしっかり凍って、そこでスケートをよくやったことを思い出した。つけていたのは下駄スケートで、足袋を履いてひもで縛りつけるものだった。今はどこを探しても見かけないが、足の大きさにあまり関係なく使えたから、すぐに足が大きくなる子どもには便利な道具だった。今は子どもたちは靴のスケートを履いて、スケートリンクに出かけている。親にとってはバカにならない出費だろう。隣の山中湖では23年ぶりで氷の上でのワカサギ釣りができるそうだ。今年の寒さはそのくらいなのかとあらためて知らされた。おなかにいっぱいタマゴが入ったワカサギはフライにするとおいしい。これも、子どもの頃に経験しただけだが、たまらなく食べたくなってしまった。

     ・それはともかく、仕事のために東京とのあいだを往復していると、都市が季節を排除することで成り立っていることがよくわかる。いつもの場所がいつもと同じでなくなるのは、人が何かを壊したり、作ったりしたときで、暑さ寒さは感じても、一年中ほとんど同じ景色に見える。大学のある国分寺周辺はまだ、緑が多いからましだが、新宿や渋谷に行ったら、もうだめだ。 ・雪に飽きたら、それが溶けて土が顔を出すのじっと待つ。やがて森が緑に包まれて、そして紅葉して枯れる。そしてまた雪。思わず、泉谷しげるの「季節のない街に生まれ、風のない丘に育ち、夢のない家を出て、愛のない人にあう」を口ずさんでしまった。 (2001.02.19)

    2001年2月12日月曜日

    "The Best of Broadside 1962-1988"


    broadside1.jpeg・『Broadside』はモダン・フォークが華やかだった頃に出ていたリトル・マガジンで、レコード・デビューする以前のフォーク・シンガーが自作の歌を投稿する場だった。無名のシンガーたちはニューヨークのライブ・ハウスで歌うチャンスを見つけ、"Broadside"に歌が掲載されることを目指した。その雑誌は88年まで発行され続けたが、今回紹介するのは、その代表的な記事や歌を収めて出版されたものである。


    『ブロードサイド』を支えていたのはすばらしい歌と記事、それに加えてしんどい仕事に耐える人たち。紙面の中には多くの笑顔をもあり、怒りの表情も見える。しかし、みんながこれに託していたのは、歌がこのちっぽけなページにとどまるのではなく、いつまでも歌われ続けて欲しいという願いだった。

    ・たとえば、ボブ・ディランの代表作である「風に吹かれて」はアルバム『フリー・ホイーリン』のなかの1曲として1963年にコロンビア・レコードから発表されたが、『ブロードサイド』にはその前年の62年に掲載されて、レコードもThe New World Singersというバンドによるもののほうが早かった。またヒットしたのはよりポピュラーなグループだったPPM(ピーター・ポール&マリー)の歌ったものである。
    ・『ブロードサイド』は当時の注目曲の発信源だった。しかし、そんな注目の雑誌も、スタイルはタイプライターで打ったものを切り張りして、簡易印刷するといったシンプルなもので、創刊号はわずか35セントで部数は300だった。売られたのはニューヨークのグリニジヴィレッジ周辺に限られた。発行者はシス・カニンガムとゴードン・フライセン。50年代から左翼的な活動をしてきた人で、ウッディ・ガスリーやピート・シーガーとつながりが深かった。
    ・「ブロードサイド」という名は1世紀前のロンドンで出されていた街頭売りの新聞の総称で、事件や問題、あるいはこまごまとした話題を多くの人びとに伝える役割を果たしたメディアだった。新聞はその後急成長して、大発行部数を誇るようになり、映画やラジオ、そしてテレビと新しいメディアが次々登場して急激に大規模化していった。だから『ブロードサイド』という名前には、ジャーナリズムの初心に帰って、大切なものをできるだけシンプルにという意味が込められた。
    ・フォーク・ソングは60年代の前半を代表するポピュラー・ソングになり、社会や政治を批判する内容がヒットするという現象を作りだしたが、後半になるとロックンロールと一緒になって生まれた新しいサウンドの影に隠れるようになる。さらに、新人はレコード会社が直接見つけだしたり、自らインディーズ・レーベルでレコード化するようになった。それにつれて『ブロードサイド』の役割は影に隠れるようになるが、しかし、フェミニズムや人種差別などの問題に沿って、地味な歌を掲載し続けてきた。
    ・"The Best of Broadside 1962-1988"にはそんな30年近い歴史が、何人かによって回顧され、掲載された主な歌が5枚のCDに89曲収められている。歌っているのはディランやフィル・オークス、アーロ・ガスリー、ピート・シーガー、トム・パクストン、ジャニス・イアン、エリック・アンダーソン他多数。
    ・このようなものを手にするたびに思うのは、アメリカ人の持続する志と歩いた道筋をたどって記録にとどめ、評価し直そうとする姿勢。それとは対照的な日本人の気まぐれさと忘れっぽさである。懐メロとしてノスタルジーに浸るのではない回顧という作業がもっとされてもいいのではと思うが、そんな気配は日本のどこにも見かけられない。

    2001年2月5日月曜日

    D.A.ノーマン『パソコンを隠せ、アナログ発想でいこう』(新曜社)


    ・この本でノーマンが力説しているのは、けっして反コンピュータではない。逆にもっともっと使いやすいものになるべきだという主張である。「IT 」ということばが時代を象徴するものであるかのように使われているし、「ハイテク」なることばも相変わらず顕在だ。しかし彼は「ハイテク」は未熟なテクノロジーの別名だという。

    ・新しいテクノロジーは最初、その目新しさ、あるいは希少価値によって注目され、人の欲望を駆り立てる。高価でけっして使いやすいわけではない。というよりは使い道さえはっきりしているわけではない。初期のパソコンがまさにそれだった。しかし、「テクノロジーが基本的なニーズを充たす地点まで達したとき、テクノロジーの進歩は魅力を失う。」つまり、機械や道具はそれがハイテクと思われているうちは不完全なもので、成熟すれば、そのテクノロジーの存在は自覚されなくなるというのだ。

    ・考えてみればあたりまえだが、読んでいて目から鱗という感じがちょっとした。テクノロジーは何か便利な道具の裏に隠れて、何ら存在感を主張しないで機能する。ぼくはパソコンを主にワープロとして使っているが、同じ筆記用具である鉛筆や万年筆やボールペンをテクノロジーだとは思わない。手に持った感触や書き味、字の太さなどで道具を選ぶことはあるが、処理スピードだとか、記憶容量だとかいったテクノロジーの能力そのものなどまったく関係がない。相変わらずそのあたりが商品価値として喧伝されているパソコンの状況は、それが依然として幼稚な段階にあることを証明しているというわけだ。

    ・ノーマンは性能を売り物にする傾向を「なしくずしの機能追加主義」とか「蔓延する機能追加主義」と呼ぶ。それはまさに病だが、パソコンには、クロック・スピードがギガヘルツになったとか言って驚く風潮が顕在で、誰も、それが病気の症状などとは思っていない。ぼくはマックを使い始めて12 年になるが、その間に次々と8台ほどを購入した。理由はもちろん、CPUの能力や記憶容量で、買い換えなければ、必要な作業ができなくなるという不安におそわれたためだ。

    ・しかしこれはおかしな話で、まずまず満足がいく仕事をしてくれるパソコンは壊れないかぎりは、仕事をさぼることはない。能力が落ちるのはソフトをバージョンアップするからで、ハードとソフトは、絶えず買い換えさせるために、共謀して、いたちごっこを繰り返している。ぼくらは、その罠にまんまとはまりこんでしまっているのである。ぼくがこれまでソフトとハードに使った金額はたぶん500万円を超えているだろう。何しろ最初のMac SE30だけで100万したし、ソフトや周辺機器をあわせると150万円以上も使ったのだから………。

    ・ノーマンは「MSワード」が1992年に311のコマンド(機能)をもっていたことを、それでも多かったと言ったあとで、97年には 1033になったと指摘している。コマンドの多さは能力の向上を示すが、実際に使ってみれば、かえって煩雑で使いにくい。ぼくは数年前から文章を書くのは単機能のエディターにしてワープロ・ソフトは捨ててしまったが、学生からのレポートがワードのままで送られてくるから、仕方なしにMS Officeを買い直した。しかし、ワードはほとんど使っていない。ぼくは文章を書きたいのであって、パソコンの操作を楽しみたいわけではないのである。

    ・この本の原題は"Invisible Computer"と名づけられている。つまり、コンピュータをやめてアナログ的な道具で行こうというのではなく、コンピュータであること意識せずまるで鉛筆や筆のような感覚で使えるコンピュータを望む、という主張なのだ。

    ・前回書いたが、ぼくは大雪でえらい目にあった。雪道の運転は怖いが、それは同時に4つのタイヤの微妙な動きを意識させてくれる瞬間でもある。ぼくの乗っている車は4駆でABSやVDCといった機能がついている。メーカーのCMにはよく登場する文字で何となくよさそうだ、とか高機能で格好いいといった感じだが、それは雪道のようなところ以外では自覚できるものではない。たとえば、タイヤの一つがスリップをし始めると、コンピュータ制御された動力部分はスリップしたタイヤに送る力(トルク)を減らしてスリップをやめさせるようにする。ようするにスリップし始めても。車自体がそれを回避してくれる。長時間の運転のなかでくりかえしそれが働いて、ぼくはすっかり感心してしまったが、その機能は普段はまったく働かないか、働いてもドライバーに自覚されることはない。

    ・これはもちろん車に積まれたハイテクだが、パソコンにくらべたらその自己主張は謙虚で、しかも確実だと思った。逆に言えば、パソコンは何の役に立つのかわからないハイテクで飾られすぎているということになる。