2001年11月26日月曜日

マルコヴィッチの穴

 

・“穴” というのは不思議な場所だ。閉じた空間にできた裂け目、あるいは未知の世界への通路。どんな穴でも、ふとそんなことを連想させる。家の近くに「風穴」とか「氷穴」と呼ばれる洞窟がある。富士山が噴火したときにできた大きな穴で、一年中冷たかったり、逆に暖かかったりする。地中深くの穴で風を感じるということは、どこかにつながっているということ。一説では、相模湾に通じるなどといわれるから100km近い長さがあるということになる。そんな話を聞いただけで、穴の奥の闇、あるいはその向こうにつながる世界に、想像をかき立てられてしまう。


・村上春樹の小説には、そんな不思議が、装置としてしばしば登場する。壁の穴、エレベーター、井戸、あるいはダンキン・ドーナツ。それらが必ず異世界への通路になって、二つの世界を行き来する物語を可能にさせている。世界には、そして人の心には、明るい自明の世界のほかに、暗い闇の部分がある。あるいはだれでも、今ここではない、もう一つの「生きられる世界」の可能性を信じたり、夢想したりするが、そこへ通じるはずの道はまた、ブラックホールのようにも感じられる。

・テレビの番組欄で『マルコヴィッチの穴』という奇妙な題名を見た。“穴”と聞いただけで、もう見ずにはいられない。Wowowでの放映時間が待ち遠しかった。
・主人公は操り人形使い師。大道芸をやっているがなかなか思うようにはいかない。自分のやりたいものと客の望むもののズレに悩んでいる。同居している女性はペット・ショップをやっていて、家にも何種類もの動物がいる。二人の関係は今ひとつしっくりいっていない。


・彼は新聞で見つけた求人広告をたよりに出かけてみる。そこはビルの7階半にあって、天井の高さも半分しかない。エレベーターもちょうど 7階と8階のあいだで緊急停止させてバールでこじ開けなければならない。何とも奇妙な場所で、よく分からない仕事をはじめる。ちょっと気になる女性。そしてたいへん気になる穴の発見。それは書類棚の後ろにあって、先が見えないほど暗くて深い。彼が思いきって先に進むと、扉が閉まって、急に真っ逆さまに落ちていく。底についたら、目の前に視野が広がっていた。

・新聞を読む、珈琲を飲む、シャワーを浴びる、鏡の前で身繕いをする。どうやら誰かの中に侵入したようだ。俳優でマルコヴィッチというらしい。他人の中に入って、その世界を感覚するという奇妙な経験。しかし15分たったらニュージャージーのターンパイク近くの土手に落とされた。


・彼はそのことを気になる女性に話す。彼女はそれを商売にしようと考える。「一瞬だけ他人になれる経験をしてみませんか」というわけだ。入り口には長蛇の列。彼はそのことを同居人にも喋る。彼女は男の中に入ることで、すっかり意識変革してしまう。入っているときにちょうど、マルコヴィッチは気になる女性とセックスをはじめたのだ。彼女は、自分は実は男で、女性が好きだったのだと思ってしまう。


・彼は彼で何度かくりかえすうちにマルコヴィッチを制御する術を見つけだす。入っている時間もだんだん長くなる。そしてマルコヴィッチに俳優を辞めて操り人形使い師になると宣言させる。それはたちまち話題になって、引っ張りだこになる。人形を操るのはマルコヴィッチだが、その技術は主人公のもので、彼はマルコヴィッチ自身をも人形のように操ってしまう。

・わたしたちは他人の経験を直接経験することはできないし、私の経験を他人に直接経験させることもできない。だからそれをコミュニケーションで理解させたり、想像力で補ったりする。しかし、なかなか他人のことは分からないし、自分のことを他人に分かってももらいにくい。だから、たがいがその経験を直接共有できるというのは人間関係の究極の形だといえる。理想にも、夢のようにも思えるが、しかしそれはまた、たがいが直接コントロールしあえたり、自他の境界をなくさせたりすることにもなるから、必ずしも幸せなこととはかぎらない。


・そう考えると、わたしたちの経験はたがいに閉ざされている方が気楽だということになる。ただ、たがいのあいだに時に通じあう穴、つまり通路がなければ、人は本当にバラバラな存在になってしまう。まるで一緒になっても生きられないし、バラバラでも生きられない。そんなことを考えると、穴の魅力と恐ろしさの意味が納得できるような気になってくる。

2001年11月19日月曜日

秋深し、隣は………

 

forest12-2.jpeg・最低気温が零下になった。欅は一本が完全に落葉し、もう一本も黄色になった。庭が茶色の絨毯のようで、それをかき集めると山になった。近くで咲いていた向日葵やコスモスの種を大量に収穫したから、来年はそれを庭に植えて、花畑をつくろうと思っている。落ち葉はその堆肥にするつもりだが、うまくいくかどうか………。



forest12-4.jpeg・秋深し、隣は………。ムササビは繁殖期になったのか、しばらく帰ってこない。恋の季節にはやっぱり外泊なのかもしれない。もちろん、帰ってきたとしても、落ち着くのは屋根裏であって、ぼくが作った巣箱ではない。空き家の巣箱は葉が散ってしまうと、余計に寂しそうに見える。ストーブ用に薪は家をぐるりとするほどで、備えは万全だ。

・しばらくぶりにカヤックにのった。雨上がりの快晴。富士山はもうすっかり雪化粧。ここのところ忙しくて、家に持ち帰る仕事も多い。翻訳も気になっているから、外に出ることもままならなかったのだが、出ればやっぱり、ほっとした気持ちになる。

forest12-5.jpeg・渡り鳥が何種類も、北からやってきている。年中居着いているものと区別がつきにくいが、頭が緑色の鴨は新しい。ほかに白や灰色の大きな鳥。カヤックで近づいて写そうと思うのだが、決まった距離まで近づくと逃げてしまう。で、後を追ってやっとものにした。鷺かな?



forest12-10.jpeg・今年も紅葉はきれいだ。赤と黄色と緑、それに空の青と湖の藍色。それが縞模様になって、絶妙の色合いを描きだしている。観光船もそんな景色の前では一休み。日差しが強いからまだ寒くはないが、カヤックのゴム底一枚で接する水は冷たい。これからは足に寝袋でも巻いてのることになりそうだ。(2001.11.19)

2001年11月12日月曜日

T.ギトリン『アメリカの文化戦争』(彩流社)

  • トッド・ギトリンはぼくと同世代で、60年代にはアメリカの学生運動組織であるSDSのリーダーだった。その後、ニュー・レフトを代表する社会学者として精力的に仕事をしてきている。『アメリカの文化戦争』(原題は"The Twilight of Common Dreams")はヴェトナム戦争以後のアメリカの文化や政治の状況をふりかえって見つめ直すといった内容で、前作の"Years of Hope, Years of Rage"(邦訳は『60年代アメリカ』<彩流社>)の続編といった内容である。
  • 『60年代アメリカ』は、自らの学生運動の経験や少年から青年に至る成長のプロセスをドキュメントのように、あるいは物語のようにつづっていて、ぼくは日米のちがいを越えて、共有する経験の多さに喜んだり、そのラディカルな言動に驚いたり、あるいは、時代や社会状況をふりかえって見つめる目の確かさに感心しながら読んだ。アメリカでは10年刻みで時代をひとくくりにしてまとめるのが一般的で、それぞれいくつもの本が出ているが、『60年代アメリカ』はD.ハルバースタムの『ザ・フィフティーズ』(新潮社)と並んで、その種の本の最良のものだと思う。
  • 『アメリカの文化戦争』は『60年代アメリカ』のように、読みながら興奮を覚えるといったものではない。それはしかし、ギトリンのせいではなく、アメリカの変容が原因である。アメリカが世界でもっとも豊かな世界になったのは50年代だが、60年代には、はやくもその栄光が揺らぎはじめる。ギトリンによれば70年代以降のアメリカは、特に白人にとっては、かつての栄光とそれにつづく衰退のプロセス、あるいは理想や正義の形骸化と、それでもそこにしがみつこうとする意識のズレに悩まされた時代だった。なぜアメリカは、それが独りよがりであることが明白であるにもかかわらず、なお理想や夢、あるいは善なるもの、正義や正直さに執着するのか。これはなにより、貿易センタービル破壊に対する国を挙げての報復行為とその意味づけについて、アメリカ人以外の人たちが持つ違和感だと思う。
    国家を「夢」といった実体のないものと同一視することは全く例外的なことである。夢は何ものかを喚起し、照らし出し、美しく、恐ろしくもある。しかし夢は既成事実では決してありえない。証明すべき実体をもたない。ただ修正だけがきく。もともと曖昧なものであるがゆえに、いろいろに解釈されるようにできている。夢とはあらゆる経験の中で、もっとも個人的で不可視なものである。
  • ギトリンは、それをアメリカが「自由な人間が平等に生きるという理念」をもって生まれ、世界中にそのような期待をいだかせ、またそれを実現しして見せることを運命づけられた国だからだという。それは「国家というよりは一つの世界」「一つの生き方」といったものである。アメリカは誰もが夢を持てる国、もたなければならない国。アメリカの魅力は何よりそこにあるが、しかしまた、アメリカ人が抱える不幸やアメリカの怖さもおなじところから生まれる。夢は基本的には個人的なものだから、他人とは違う夢、異なる価値として持たなければならないが、それは他者を尊重しないという方向にも働く。
  • アメリカはその栄光が揺らぎはじめた70年代から、人種的なマイノリティや女たちが自らの声を出し始めた。夢を持つのが白人の男の特権ではないことが主張されるようになった。そのような傾向は80年代、90年代、そして21世紀へとますます強くなっている。ギトリンは音楽やスポーツに顕著なほどには、マイノリティの持つ夢は実現していないという。しかし、アメリカ人であれば誰でも、何らかの夢を持って生きること、その権利が当然視される時代になったことはまちがいない。
  • けれども、それは同時に、たがいがそれぞれ勝手に生きるバラバラな社会が到来したことを意味する。アメリカ人とは一体何者なのか?アメリカのアイデンティティはどこにあるのか?それがこれほど不確かになった時代は未だかつてなかったとギトリンはいう。
  • この本を読みながら、ぼくは今現在のアメリカの精神状態に気がついた。アメリカを襲う大きな危機、それがもたらす不安と憎悪。それによってバラバラな人たちが、アメリカという国、アメリカ人としてのアイデンティティを自覚する。テロの被害者、それに立ち向かう正義の戦士。それは一方でアメリカ人の心を一つにする働きをする。けれども、その心は同時に、アメリカ以外の国や人びとの思いに対する想像力を遮断し、彼らの生きる権利やその主張を無視する結果ももたらす。
  • その心の偏狭さに気づくのが、アフガニスタンで数万、数十万、あるいは数百万の犠牲者が出た後になるのだとしたら、それは恐ろしい悪夢だとしかいいようがない。
  • 2001年11月5日月曜日

    シンポジウム「ビートルズ現象」

    11月2日に大津の龍谷大学社会学部で「ビートルズ現象」というタイトルのシンポジウムがあった。ぼくはパネリストの一人として出席するために、前日に車で河口湖を出た。快晴、紅葉、雪をかぶった富士山、と気持ちよく出発したのだが東名に乗ったとたんにしまったと思った。10月22日から11月2日まで集中工事。さっそく清水から静岡までの20kmたらずで1時間以上も渋滞したから、もうお先真っ暗である。確か中央高速は11月5日から集中工事だとあちこちに掲示がされていた。確認しておけばよかったと悔やんでも、もう遅いし、今さら中央高速に乗り換えるわけにもいかない。


    シンポジウムは翌日だからその心配はないのだが、追手門学院大学で同僚だった田中滋さんと琵琶湖でカヤックをやる約束をしていたのだ。出発したのは9時半。予定では4時間、余裕を見ても5時間あれば十分と思っていた。ところが、1時近くになってもまだ浜松。しかも掲示板には、岡崎まで2時間で名古屋は空白になっている。おもいきって浜松で降りて浜名バイパスと1号線を使う。再度岡崎から東名に乗って名古屋をすぎたのが3時。カヤックをする約束の時間である。しかし、着いたのは4時半で、せっかく積んでいったカヤックはやらずじまいだった。


    がっかりしたし、ついていないとも思ったが、今回の目的はシンポジウムである。目的を公私混同してはいけない。それに、久しぶりに田中さんと会って、ワインを飲みながら楽しく話した。琵琶湖畔のいいホテルに泊まって疲れもとれた。午前中に一人でカヤック、と思ったが、話すことをメモを取りながら確認して時間を過ごした。
    シンポジウムの仕掛け人は亀山佳明さん。今年は何かと彼と一緒に仕事をすることが多い。3月には「スポーツ社会学会」のシンポジウムに一緒に出たし、夏休みは井上俊さんの退官記念論集の原稿を書いた。そして「ビートルズ現象」。彼は最近、いろいろな企画の仕掛け人になっている。それからもう一つ、桐田さんの葬式でも一緒になった。

    シンポジウムは、ぼくが、ビートルズの登場した時代のイギリスについて、その社会背景を話した。それから、東芝EMIの水越文明さん。彼は昨年出して300万枚の大ヒットになった「ビートルズ1」の宣伝担当の責任者で、その戦略を披露した。そして最後は和久井光司さん。彼もまた昨年暮れに『ビートルズ』(講談社メチエ)を出している。ミュージシャンでもあることは知っていたが、ギターをもってきて歌うということを聞いて驚いた。ビートルズの話を歌いながらしたし、ロックミュージシャンらしく、おとなしい学生をあおったりもしたから、ただ話すだけのぼくは全然かなわないなと思った。しかし、シンポジウム自体は、なかなかおもしろいものになった。

    ビートルズに代表されるポピュラー音楽が20世紀後半の文化を代表することは明らかだ。ぼくはそのことを『アイデンティティの音楽』に書いた。その意味で、ロックはすでに歴史の対象になったといってもいいのだが、今でも若い人たちが一番好む文化であることはまちがいない。ところが今の音楽状況は、一方でミリオンセラーを連発するミュージシャンが多数出て活発なようにも見えるが、レコード会社やメディアによってつくりだされる傾向が強い。他方で、40年も前の音楽がもてはやされたりする。「既成の枠組みや固定観念を破るのがロックで、それをなくした音楽はだめ(和久井)」「メジャーが状況を支配する時期は音楽にとっては沈滞期(渡辺)」「いい音楽が生まれてくるためにも、インディーズにがんばってほしい(水越)」と、それぞれ立場は違いながら、音楽の現状にたいしては批判的な見方で一致した。


    それにしても、どこの大学に行っても、学生たちの目に輝きを感じない。希望に溢れるわけでもなく、不満に怒りを爆発させるわけでもない。管理が行き届きすぎたのか、幸せになりすぎたのか。教師としては面倒がなくて楽だが、かなり物足りない。

    2001年10月29日月曜日

    坂本龍一"Zero Landmine"


    sakamoto1.jpeg・アメリカによるアフガニスタン空爆がまだつづいている。今朝読んだ新聞には「破壊を破壊する」ということばがあって、まさにその通りと思うと同時に、たまらなく憂鬱になった。一方で、アメリカ国内では「炭疽菌」騒ぎが恐慌をおこしている。憎しみや妬みが怨念となって世界中に漂っていく。それとは対照的に日本では、恥をかくまいという一心で自衛隊を派遣しようとする法改正に賢明だし、片栗粉を封筒に入れた愉快犯が続出しているという。多くの人は対岸の火事とほとんど無関心のようにも思えるが、狂牛病と合わせて、不安感が充満していることは確かなようだ。
    ・ただただ爆撃だけがくりかえされる現状を見ていると、一体どこに、アメリカがアフガニスタンを空爆する正当な理由があるのだろうか、とあらためて考えてしまう。それで結局どうしようというのだろうか。どうなるのだろうか。どう考えても、暴力が暴力をひきおこし、憎しみが憎しみをつのらせるだけ、そして結局、破壊が破壊を生み、破壊を破壊と際限なくつづくだけなのに………。

    ・BSi(TBS)で坂本龍一がつくった、地雷廃絶のためのキャンペーンCD"Zero Landmine"の製作過程のドキュメントを見た。このCDは4月に発売されていて、一時ちょっとだけ話題になったが、後はほとんど注目されていないものだ。

    ・ぼくが地雷の問題に関心をもったのは、そんなに前のことじゃない。生前、ダイアナ妃がアンゴラまで出かけて、対人地雷廃絶を訴えていたのは何となく知っていた。ICBLという組織がインターネットで活動を拡大し、ノーベル平和賞を授与されたことも知っていた。しかし、この地雷の問題に深く動かされることになったきっかけは、某TV番組だった。それは、地雷撤去中に片手と片足を失った白人の男が、地雷の問題について自分の母校で、子供たちに教授するというものだった。その中で、白人の男は義手義足でフルマラソンを走っていた。ぼくはそれを見ながら、この白人男性の不屈の精神に感嘆した。(坂本龍一)

    sakamoto2.jpeg・坂本龍一はこのCDをつくるためにモザンビークに行き、地雷の被害にあっている国の人たち、とりわけ音楽家とコンタクトをとった。あるいは彼の友人に参加を呼びかけた。そうやってできたのが"Zero Landmine"で、45分ほどの作品になっている。「イヌイットの少女の素朴な歌から始まり、………朝鮮半島を通り、カンボジア、インド、チベットを抜け、ボスニアでヨーロッパをかすめ、アフリカのアンゴラに行き、人類発生の地、東アフリカに位置する「大地溝帯」の南端、モザンビークに達する『音楽の旅』」。登場して歌い演奏し、話す人たちは数多い。その中でくりかえされる歌は次のように訴える。


    ここがわたしの家 / おかあさんに育てられ
    懐かしい兄や妹と / 遊んだところ
    あなたにも見える? / 地面には木が根を下ろしている
    暴力はもうたくさんだ / この地にもう一度平和を
    ここはわたしたちみんなの世界で
    わたしたちみんなの救いがある
    だから、国も、国境も、関係がない
    (「地雷のない世界」デビッド・シルヴィアン、村上龍訳)

    ・ジャケットには何種類もの地雷が並んでいる。形やデザインなどを見ていると、まるでブローチのようで、これが足や手を吹き飛ばす爆弾だとはとても思えない。人は、こんな残酷な兵器にさえも、デザインの工夫をしようとするのか、と思うと、何ともむなしい気がしてくる。もっとも、戦闘機や戦艦、あるいは鉄砲や刀も、形だけ見れば格好良かったり、美しかったりする。「殺しの美学」などという言い方もある。その道具としての野蛮さとの対照は、ひょっとしたら人間の本性を映しだしているのかもしれない。
    # 美と醜、善と悪、真と偽、あるいは正と邪。人は価値を対照によって意識する。なによりこわいのは、価値の意識にはそれぞれ強い感情が伴うことだ。醜いものは消えてしまえ。悪いものは退治せよ。きわめて人間的な発想がおそろしく非人間的な心根をもたらす。だからこそ、地雷を踏んで手足をもがれる人、アフガニスタンで空爆される人から目を離さないことが大事だ。彼や彼女らは、そんな価値意識とは関係なく生きていて、不当に傷つけられたり殺されたりする普通の人間なのである。

    2001年10月22日月曜日

    喜寿からのインターネット

  • 僕の父は今年喜寿を迎えた。母ともにそろって、いたって元気だ。それぞれに、趣味をもっていて、書道、水泳、太極拳、鎌倉彫、人形作りなどをやっている。都営の交通機関が無料ということもあって、よく都心にも出かける。元気で何よりだが、年寄り夫婦の二人暮らしはやっぱり、ちょっと心配でもある。
  • 実は去年の暮れに、父は近所で、自転車同士でぶつかって大腿骨を骨折した。3週間ほど入院して、一時は大騒ぎだったが、リハビリも順調にこなして、今は依然と変わらないほど元気になった。
  • 退院直後に誕生日を迎えたこともあって、僕はそのお祝いにパソコンをプレゼントしようと思った。以前ほどには気楽に外出できなくなるかもしれないから、家で過ごす時間が増えるだろう。何かやれるものが必要になる。そんなふうに考えたからだ。
  • 最初は、気乗り薄の返事だったが、3カ月ほどたって、やってみる気になりはじめた。外出もしはじめるようになったから、それに慣れることもかねて、新宿までパソコン教室に通うか、と言った。僕は、気が変わらないうちにと、すぐにiMacとプリンターをプレゼントした。
  • 父は以前にワープロを使っていたこともあったから、全くの初心者というわけではない。しかし、インターネットやメールをやるならと、ローマ字変換を勧めた。だからマウスはもちろん、キイボードの扱いも最初はひどく面倒のようで、見るからにぎこちないものだった。戦中に学校に行った世代は、アルファベットは苦手のようだ。「か」は何? 「ka」だよ。「きゃ」は? 「kya」。ちいさい「っ」は?………。70歳というか80前の手習いである。一緒に母もはじめることにしたから、たまに行くと質問責めでたいへんだった。しかも、説明してもなかなかわかってもらえない。
  • そんなふうにして最初は文字の打ち込みの練習がつづいた。パソコン教室で習ってきたことの復習でも、かなりの時間が必要だったようだ。で、教室が終わって、いよいよネット・デビューということになった。
  • プロバイダーはケーブル・テレビを勧めた。月6000円とちょっと値段は高かったが、つなぎっぱなしのブロードバンドで、遅いだの繋がらないだのといったトラブルが少ないと思ったからだ。うまくつかえれば、ぼくのところよりもずっといい環境になるはずだ。実際やってみると、早い早い。大学でやるよりもサクサクといく。
  • で、とりあえず興味関心がありそうなサイトを見つけてブックマークをつけてやる。近所のバスの時刻表から天気予報、新聞社やテレビ局、さらには小泉首相のページまで、いろいろとアクセスして、便利なこと、おもしろいことを説明した。そのあとは、メール。
  • ソフトの概観の説明から始まって、メールの打ち方、出し方、来たメールの読み方、そして、整理の仕方。もちろんいっぺんに話したって、すぐにはわからない。とりあえずは自分のメール・アドレスを登録して、自分宛に出してみる。次は父と母がそれぞれ相手宛に、そしてぼく宛のメール。
  • そんなところまでで、僕は夏休み。東京に出かけることもなくなったから、お互い連絡することがあれば、メールで伝えることにした。「出したけど着いてない?」「着いてないよ」といったやりとりを電話で数回。慣れてくると、「〜のアドレスを教えてくれ」と言い始めた。僕の息子(孫)や親戚でメールをやっている人たちを教えたが、出したって、すぐに返事があるわけではない。つなぎっぱなしのブロードバンドだから、しょっちゅうメールチェックをするのだが、どこからも届いていない。使いこなせるようになると、今度はそれを試す相手が必要になる。
  • ここまではもっぱら父がリードをしていたが、ここからは母の舞台。日頃から電話をつかうのはもっぱら彼女で、相手はほとんどが友達だ。父は用事がなければほとんど使わない。これはぼくのところでも同じで、おしゃべり相手と日常的に接触するのは、どこでも女性の方が活発のようだ。だから、母は友達とのメールのやりとりをはじめたが、父にはそれをする相手がいない。何とかと思うが、こればっかりは自分で探してもらうしかない。
  • と、こんなわけで、父と母は新しいコミュニケーション手段を使い始めた。若い学生たちとはちがって歩みはのろいが、そのうちにホームページの作り方でも教えようと思っている。「インターネット」「メール」「ホームページ」「IT」などといったことばを耳にしながら、自分では何のことやらよくわからない。そう感じると、自分が世の中からひどく遅れてしまっているのでは、と不安になってしまう。そうならないための、あるいはボケ防止のための手習い。動機づけがうまくいって、やれやれといったところだ。
  • 2001年10月15日月曜日

    BSディジタル放送について

  • 何度も書いているが、山間部のわが家ではテレビの地上波の映りがきわめて悪い。アホくさいバラエティや遊戯会のようなドラマは見る気もないから、ケーブルも契約しないままだ。それで十分と思っていたのだが、新聞に載るBS放送欄が気になってもいた。時折興味のある番組が載っていて、見たいな、と思うことがあったからだ。
  • 実はBSディジタル放送がはじまったときにチューナーを買おうかなと思った。しかし、値段が高いし、たいした番組もなさそうなのでもう少し待つことにしたのだ。それから一年、電気屋でたまたま見かけたら、チューナーが6万円台になっていた。パラボラ・アンテナは今のままでいいというし、Wowowが3チャンネルに増えて、視聴料はあまり変わらないという。夏休みの後半にはいったところで、家でテレビをつける時間が多いのに、見たいものがないと感じていた時期だった。
  • ところが、買ってすぐに見たのがニューヨークの貿易センタービルへの旅客機突撃だった。夜中のニュースはBSでも、民放の地上波と同じものを流していた。新しいリモコンを片手に、ぼくは明け方まで見続けてしまった。そのあとも、ニュースを中心によく見たから4、5日すると目が痛くなった。
  • BSデジタルは電話回線を使った双方向のやりとりをうたい文句にしている。クイズ番組への参加や通販程度のもので、各チャンネルに登録しなければならないから、今のところやる気はない。ラジオやデータ放送などのチャンネルもかなりあって、充実していけば、インターネットと同じような使い方ができる可能性をもっているようだが、これも可能性であって、今のところはほとんど役に立ちそうにない。民放はそれぞれ3チャンネルずつ確保しているのだが、聴取料を取るNHKとWowow以外にはそれぞれ別番組をやっているところもほとんどない。
  • 思ったように普及しないから、あまり力を入れない。中味が貧弱だから、いつまでたっても注目されない。そんな停滞状態のように思えるが、番組の中にはおもしろいもの、意欲的な試みもある。たとえば長時間のインタビュー番組や地味だけどじっくり時間をかけて作ったドキュメンタリー番組、あるいは、昔の番組の再放送などがある。しかし、全体としていえば、何をしたらいいのかわからない感じだし、それほど本気で取り組んでいるふうでもない。
  • 一方、衛星放送にはCS放送もあって、こちらはたくさんあるチャンネルに一つひとつ視聴料が必要だ。各チャンネルは専門特化していて、ニュース、映画、音楽、スポーツ、アダルトと盛りだくさんのようだ。もっとも、経営的にはスカイ・パーフェクトがほとんど独占状態で、ぼくはマードックが好きではないからこれからも見るつもりはない。
  • BSは現在アナログとディジタルの二本立ての放送をしている。数年後にアナログが廃止されれば、さらにディジタル・チャンネルは増えるだろうと思う。そうなると、BSとCSあわせて、見ることができるチャンネルは数百にもなるし、地上波がディジタル化されれば、さらに多くなる。一体誰がどんな理由で、一つひとつのチャンネルを選択するのだろうか。
  • 多くの人にとってテレビは、見たいから見るよりは、生活習慣の一部としてとか、日常会話の材料として見るという意識の方が強いようだ。だからチャンネルが増えても、相変わらず、20%とか30%といった数の人たちが同じ時間に同じ番組を見る。この習慣や指向は頑なで、なかなか変わりそうにない気がする。
  • 衛星放送は今のところ、技術的な進化だけが目立っている。中味、つまりソフトの開発はまだまだ手探り状態といったところだ。だから、衛星放送がテレビの主体になれるかどうかは、視聴者の視聴行動を変えるかどうかにかかっている。けれどもそれはまた、魅力のある内容を先行させなければどうしようもないことでもある。
  • 課題はいろいろあると思う。お金もそうだが、知恵を絞ったり、若い素材や新鮮なアイデアを工夫する必要がある。何より、実験の場として考える発想が大事だろう。そんな意識をもって見ると、残念ながら、あまり期待できそうにない気もする。とはいえ、わが家では、きれいな画面で見られるチャンネルが増えたから、しばらくはそれだけでも十分である。